バツンッ!
細く乾いた音が
沈黙していた空間に突然鳴り響いた。
瞬間
レイチェルの全身に鈍い衝撃が走る。
身体が宙に浮くような感覚
そして首に巻かれた何かが喉を圧迫し
息が詰まりそうになる。
「っ⋯⋯!」
喉から短い悲鳴を漏らしながら
彼女は目を開けた。
視界が揺れる。
意識が急激に覚醒し
強烈な違和感と痛みが体中を駆け巡る。
(なに⋯っ、⋯⋯ここ、何処⋯⋯?)
記憶の中に浮かんだのは
銃口を向けてきた男と
すぐ傍で
殴られて倒れるソーレンの姿。
「ソーレン⋯⋯っ!」
思わず叫び
前へと身体を動かそうとした
その瞬間──
カクリ、と片脚が外れる。
「うっ⋯⋯!」
足元に感じていた支えが外れ
首に掛けられていたチョーカーに
張られたワイヤーが容赦なく引かれる。
喉に食い込む圧迫感。
視界が白くなりかけるのを
必死にこらえて体勢を立て直す。
ぎりぎりのところで
もう片方の足がかろうじて支えとなり
ワイヤーの引きを緩めた。
浅く、短く、空気を吸い込む。
肺が焼けるように痛んだ。
見下ろすと
そこには小さなブリキ製のバケツ。
それが
今の彼女を支える唯一の足場だった。
ぐらつくそれに
少しでも体重のバランスを誤れば──
即座に
ワイヤーが首を締め上げて
命を刈り取る構造。
しかもその傍には
既に焼き切れて落ちた
ロープが落ちていた。
さっきまで
身体を吊るしていたであろうそのロープは
蝋燭か何かで
ゆっくりと焼き切られたに違いない。
ワイヤーが
首を裂くように引き寄せられる直前で
目覚めたのは
ただの偶然⋯⋯
あるいは、見えない誰かの加護か。
「ソ、ソーレン⋯⋯?」
掠れた声で呼びかける。
誰も答えない。
どこにも、ソーレンの気配はない。
静まり返った空間。
(こんな時こそ、落ち着けって⋯⋯
言われてたな⋯⋯)
ソーレンの声が脳裏に蘇る。
強く、鋭く
それでいて優しかったあの声。
彼の言葉を胸に
レイチェルは心の中で自分を叱咤する。
(しっかり立って⋯⋯ワイヤーを緩めて
深呼吸して⋯⋯落ち着いて。
私は⋯大丈夫⋯⋯っ!)
ゆっくりと、バケツの上で重心を整える。
脚を震わせながらも
喉への負荷を最小限に抑え
僅かに息を整える。
すると──
キィ⋯⋯キィ⋯⋯と
部屋の奥から
かすかな音が聞こえた。
まるで何かが軋むような
古びた家具の軋みのような音。
レイチェルは
首をほんの僅かに回して視線を動かす。
何も見逃さぬように、神経を尖らせる。
其処に──
揺れていた。
古びた揺り椅子が
規則的に前後へと緩やかに揺れている。
その上に
優雅な姿勢で腰掛ける一人の男。
長く、美しく編まれた黒髪が
揺り椅子の動きに合わせて
静かに波打っている。
華奢でありながら
ただならぬ気配を纏い
表情には微笑の形を浮かべていた。
目は伏せられたまま
何も語らぬように見えながら
その存在感は異常なほど濃かった。
「おはよう。プリンセス・レイチェル」
その声は柔らかく、甘く
絹を撫でるような響き。
けれど、どこか──
蛇が耳元で囁くような
不快な粘りがあった。
レイチェルは息を呑み
喉の奥を震わせながら
ゆっくりと男の顔を見据えた。
「⋯⋯あなたは、誰なの?」
その問いに応えるように
男は目を開いた。
ゆっくりと
下から上へと
持ち上がるように開かれた双眸──
その瞳は、冷えきったアースブルー。
どこまでも透明でありながら
何ひとつ通さぬ氷のような色彩だった。
美しく
そして底知れぬ不気味さを宿した光。
ゆらり──
と、男が立ち上がる。
その動作は一切の無駄がなく
あまりにも滑らかだった。
長く纏められた黒髪がふわりと揺れ
その動きに続くように
彼の背から鈍い音を引いて
大太刀が持ち上がる。
下げられた刃の背が床を擦るたび
ギィ⋯⋯と
金属と石の摩擦音が空間を軋ませ
まるでその刃が
今にも血を求めて呻いているかのように
聞こえる。
彼はそれを意図的に引き摺る。
自らが持つ〝力〟と〝死〟の象徴を
相手にこれでもかと見せつけるかのように。
エメラルドグリーンのレイチェルの瞳と
男の冷ややかなアースブルーが交錯する。
一瞬の火花が、空気の温度すら変えた。
「こんなしがない男の名前なんて
キミは憶えなくても良いんだよ」
男の声は滑らかで
甘やかすように柔らかい。
だが、その奥に潜むものは──
蛇のような毒気。
「⋯⋯あら、残念ね」
レイチェルは小さく鼻を鳴らし
唇の端に皮肉な笑みを浮かべた。
「ねえ?私の王子様は何処にいるの?
派手に私の姿で殴ってくれてたけど⋯⋯」
その目に宿る怒りの光は
隠すことなく燃え上がる。
怯えも、恐怖も無い。
あるのは
愛しい人を踏み躙られた怒りと
反撃の意志だけ。
「キミの王子様なら⋯⋯
もう少しでボクらの
仲間入りするんじゃないかな?」
男の言葉には嘲りが滲む。
けれど
レイチェルは一歩も引かず
真っ直ぐに視線を返す。
「──あんな暴走機関車
あんた達が制御するなんて無理よ。
私でも手を焼くのに」
その言葉に、男の目が一瞬細まる。
アースブルーの双眸に
冷気のような何かが宿った。
「だから
キミにも仲間になってもらいたくて
ご招待させていただいた訳だよ」
「ふーん。それも無理だと思うけど⋯⋯」
レイチェルは
あくまで余裕の笑みを崩さず
冷ややかに問い返した。
「何をしたくて、仲間を集めてるの?」
男は肩を竦めてみせる。
芝居がかった動きは
どこか不自然な滑稽さを伴っている。
「キミ達が護っている⋯⋯
アリアを狩る為だよ」
その言葉に
レイチェルの表情が一瞬だけ鋭くなる。
けれど、すぐに
「やっぱりね」とでも
言いたげな薄ら笑いが浮かぶ。
「無理よ。
あなた達にアリアさんは狩れないわ。
あの人はとてつもなく強いの。
私達に負けるようじゃ、到底無理!」
その言葉に、男の眉がピクリと動いた。
瞬間、張り詰めた空気が鋭さを増す。
「負ける?
囚われのお姫様が
何を言ってるのやら⋯⋯」
男の声は低く
氷のような響きに変わっていた。
「少し⋯⋯
身の程を知った方が良いよ、キミ?」
ゆっくりと
大太刀の刃先が
レイチェルのスカートへと滑り込む。
布地にわずかな圧がかかり
チリ⋯⋯という音と共に
細い切れ目が入る。
「ちょっと!
このスカート、お気に入りなんだけど!」
怒りの混じった声を上げるレイチェルに
男は愉快そうにくすくすと笑った。
その声音は
まるで子どもの玩具に飽きる前の
最後の遊びのようだ。
「キミみたいなお姫様が
こんな男共の巣窟にいたら⋯⋯
どんな怖い目に遭うと思う?」
わざとらしく首を傾げながら
男はにやけた笑みを浮かべた。
「考えを改めるのは⋯⋯今の内だよ?」
その時──
ゾロ⋯⋯ゾロ⋯⋯と
またしても、背後から響く足音。
同じテンポ、同じ重さの音。
暗闇の奥から現れたのは
さらに五人の男。
レイチェルの目が大きく見開かれた。
「⋯⋯どうなってるの?
全員⋯同じ顔⋯⋯っ」
六人の男達の顔は、寸分違わぬ同一。
冷たいアースブルーの瞳が
揃ってレイチェルに向けられている。
その瞳は、人間のものではない。
理性も、感情も、魂すら感じられない。
ただ、機械的な狂気だけが
そこにはあった。
六対の視線が
まるで標的を絞った獣の群れのように
じりじりと
レイチェルの心を削るように──
彼女を見据えていた。
コメント
1件
血塗られた空間で、少女は静かに裁きを下す。 怒りと誇りを胸に、誰よりも強く、美しく── 恐れも哀れみも捨てた瞳が、敵を焼き尽くす。 ただ、愛しい人へ辿り着くために。