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#ご本人様とは一切関係ありません
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あんにんどう腐(ゆ腐)
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#ご本人様とは一切関係ありません
さくら(皇千ト君最推し)
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夜の部屋に、クローゼットの扉が開く音が小さく響いた。
ルイはしばらく、ハンガーに並んだ服を黙って見ていた。
前回とは違う。
それは、最初に思ったことだった。
この前は、自然でいいと思った。
気取らず、構えすぎず。
“また会う”こと自体がまだ不安定だったから、少しでもタイキの気持ちが重くならない方を選びたかった。
でも今回は、少し違う。
無理に飾りたいわけじゃない。
見せつけたいわけでもない。
ただ、前よりもう少しだけ、自分の温度を乗せたいと思った。
ルイは指先で何着かの服をずらしていく。
落ち着いた色ばかりが並ぶ中で、今日の気分に一番近いものを探す。
最終的に手に取ったのは、柔らかい黒のジャケットと、少しゆるさのあるダークトーンのトップスだった。
下は細すぎないパンツ。
全体に線は綺麗だけど、気張りすぎてはいない。
“落ち着いた大人な感じ”
鏡の前に当ててみて、ルイは小さく息を吐く。
「……これか」
前回より少しだけ、ルイらしい。
でも、前みたいに自分の好きなものを全部乗せた感じではない。
ルイはそこで、アクセサリーケースを開く。
リング。
ネックレス。
ブレスレット。
いつもの自分なら、ここで迷わず手に取るものがある。
でも今回は、その中から本当に控えめなものを選んだ。
ほんの少しだけ。
何もないわけじゃない。
でも、主張しすぎない。
その塩梅を、自分でも少し不思議に思う。
「……前より、余裕あんのか」
独り言みたいに漏らしてから、少しだけ首を振る。
余裕なんか、あるわけがない。
タイキからの「また行かない?」のLINEを見た夜から、ずっと少しだけ浮ついている。
胸の奥は静かじゃない。
でも、前回みたいな必死さだけでもない。
一回目のデートは、“壊さないこと”に必死だった。
二回目の今回は、少しだけ“続くこと”を信じてみたい自分がいる。
そこが、たぶん違う。
ルイはベッドの上に服を並べて、腕を組んだ。
タイキは何を着てくるんだろう、と思う。
ラフな格好か。
少しだけ気を遣ってくるのか。
それとも、そういうことを考えてない顔をしながら、実はちゃんと迷ってたりするのか。
そこまで考えて、ルイは少しだけ口元を緩める。
「……やば」
でもその声は、前ほど苦くなかった。
好きなやつが何着てくるかを想像して、少しだけ楽しみにしてる。
そんな自分を、もう前みたいに否定しなかった。
ルイはスマホを手に取って、待ち合わせ時間をもう一度確認する。
同じ場所。
前回と同じ、駅前のレコード店の前。
それだけなのに、前より少しだけ意味が違って見える。
“また”がある。
“続き”がある。
それが、今夜のルイを静かに落ち着かなくさせていた。
⸻
タイキの部屋でも、同じようにクローゼットの扉が開いていた。
ベッドの上には何着か服が投げ出されていて、その前でタイキが腕を組んで立っている。
「……いや、何でこんな迷ってんだよ」
誰に言うでもなく呟く。
ただレコード店に行くだけだ。
しかも二回目。
前より少しは落ち着いててもいいはずなのに、むしろ今日の方が服が決まらない。
ルイのことを思い出す。
前回の格好。
アクセサリーもつけてなくて、妙に自然だった。
でも自然なだけじゃなくて、ちゃんと落ち着いていて、変に気取ってないのに、やっぱりルイだった。
(あの感じ、よかったよな……)
タイキはふとそう思って、すぐに少しだけ眉を寄せる。
よかった、って何だよ。
服の話だろ。
ただの服だろ。
でも、ああいうところまでちゃんと考えてるのが見えたから、余計に気になったのかもしれない。
タイキは服を一枚ずつ見ていく。
落ち着いた色もある。
でも今日は、そこまで寄せたくない気もした。
結局、手に取ったのは白のオーバーニットだった。
やわらかい素材。
少しゆるめ。
合わせるのは、緩めのデニムパンツ。
着てみると、頑張りすぎてない。
でも、適当すぎる感じもしない。
「……これでいいか」
鏡の前で少しだけ身体をひねる。
そのまま髪を軽くかき上げて、ふと思う。
(……メガネ……)
別に視力が悪いわけじゃない。
でも、たまに気分でかけることがある。
今日の格好に合わせると、少しだけ柔らかく見える気がした。
タイキは鏡越しにそれをかけた自分を見る。
「……いや」
一回外す。
またかける。
「……どうなんだこれ」
でも、嫌じゃない。
むしろ少しだけ、今日の自分には合っている気がした。
前回のルイの“落ち着いてた感じ”を思い返して、タイキは小さく息を吐く。
たぶん、自分も少しだけその空気に寄せようとしてる。
それが悔しいような、自然なような。
どっちとも言いきれない。
「……ま、いいか」
メガネをかけたまま、タイキはベッドに腰を下ろす。
二回目。
その響きが、やっぱり少しだけくすぐったい。
一回目は、確かめるみたいな時間だった。
まだぎこちなくて、でも思ったよりちゃんと話せて。
帰り道には“嫌じゃなかった”と自分の口で言ってしまった。
二回目の今日は、何が変わるんだろうと思う。
変わってほしいような。
変わりすぎるのは怖いような。
タイキはメガネを少し上げながら、スマホを見た。
ルイからの連絡はもう確認済みだ。
時間も場所も、前回と同じ。
それだけで少し安心する自分がいる。
同じ場所で会う。
でも、前とは少し違う格好で。
前とは少し違う空気で。
その“少し違う”を、たぶん二人とも感じるんだろうな、とタイキは思った。
⸻
二回目のレコード店当日。
待ち合わせの駅前は、前回より少しだけ風がやわらかかった。
昼の光。
人の流れ。
レコード店の看板。
見慣れたはずの景色なのに、二回目になるだけで少し違って見える。
ルイは今回も少し早く着いていた。
ジャケット姿。
落ち着いた色味。
控えめなアクセサリーが、近づけば分かる程度にだけ光を拾っている。
前回より少しだけ大人っぽい。
でも、気取りすぎてはいない。
ルイはスマホを見たあと、ふと顔を上げる。
人の流れの中に、タイキが見えた。
白のオーバーニット。
緩めのデニム。
そして――メガネ。
ルイの呼吸が、ほんの少しだけ止まる。
(……は?)
一瞬、本気でそう思った。
似合ってる。
思っていた以上に。
柔らかく見えるのに、ちゃんとタイキのままで。
しかもその格好が“少しだけ考えてきた”感じなのが、余計に刺さる。
タイキも、先に立っているルイを見つける。
今日はアクセサリーを少しだけつけてる。
前回より少しだけルイらしい。
でも、前みたいな過剰な飾り方じゃない。
それがまた、妙に良かった。
二人とも、一瞬だけ歩く速度が少しだけ変わる。
でも止まらない。
そのまま距離を詰めていく。
先に口を開いたのはタイキだった。
「……また早い」
ルイは少しだけ目を細める。
「お前もな」
前回と似た会話。
でも、声の温度が少し違う。
タイキはそこで、ルイの首元を一瞬だけ見た。
細いチェーン。
本当に控えめで、でもちゃんと似合ってる。
ルイは逆に、タイキのメガネから目が離せずにいた。
「何」
タイキが少しだけ眉を上げる。
ルイは一拍置いてから、ようやく言った。
「……いや」
でも、その“いや”のあとにちゃんと続ける。
「似合ってる」
メガネに視線を向けたまま。
タイキはその瞬間、耳が少しだけ熱くなるのを感じた。
「……は?」
思わずそんな返しになる。
ルイは少しだけ口元を緩めた。
「メガネ」
短く言う。
「いい」
その言い方が、やけに素直で。
タイキは目を逸らした。
「……たまたまだし」
「そうかよ」
「そうだよ」
ぶっきらぼうに返す。
でも完全に嫌がってる声ではない。
そのやり取りのあとに、少しだけ沈黙が落ちる。
でも、前回みたいな張りつめた沈黙じゃなかった。
ちゃんと相手を見て、ちゃんと何かが刺さったあとの沈黙。
ルイが言う。
「行くか」
タイキが頷く。
「うん」
二人はまた、同じレコード店へ向かって歩き出す。
前回と同じ場所。
でも、前回より少しだけ近い空気。
二回目のデートは、そうやって静かに始まった。
レコード店の奥。
二回目の視聴スペース。
前と同じようでいて、空気は少し違っていた。
一回目は、思い出に触れながら距離を測る時間だった。
でも今日は、最初から互いに少しだけ相手を意識している。
いつも好きなものを気にせず身につけるふたりが、 どちらも“少しだけ考えてきた”感じがして、そこが余計に落ち着かなかった。
「これ、聞く?」
タイキが棚から一枚抜いて見せる。
ルイはジャケットを見て、少しだけ目を細めた。
「懐かしいな」
「だろ」
「お前、これのラストの曲好きだったよな」
タイキが少しだけ笑う。
「ルイが先にハマってた」
「俺は途中から」
「嘘つけ」
そうやって少し笑って。
でも、その笑いの奥ではちゃんと緊張している。
視聴機の前に立つ。
イヤホンは変わらず一組ひとつしかない。
もう前みたいに戸惑いを隠す必要はなかった。
でも慣れたわけでもない。
ルイがイヤホンを持ち上げる。
タイキが自然にそちらへ寄る。
片方をルイが、片方をタイキが耳に当てる。
やっぱり近い。
前より少しだけ自然に並べている。
でも、その“自然”が前よりずっと意識されている。
ルイの肩口。
タイキの髪の柔らかい匂い。
視界の端にずっとある横顔。
ルイはイヤホンを耳に当てながら、心の中で小さく息を吐く。
(落ち着け)
またそれだ、と思う。
でも前回よりは、少しだけマシだった。
前より近いのに。
前より意識してるのに。
それでも、こうして二回目のこの距離に立てていること自体が、少しだけ嬉しい。
再生ボタンを押す。
音楽が流れ始める。
低いイントロ。
少し遅れて入るドラム。
ギターの余白。
二人の間の空気が、また少し変わる。
音が入ると、呼吸が合う。
さっきまでうるさかった神経が、少しだけ音楽に持っていかれる。
タイキは小さく目を伏せた。
この感覚、好きだった。
ただ隣に立って、同じ曲を聞いてるだけ。
何かを決めるわけでも、白黒つけるわけでもない。
その曖昧さの中で、音楽だけが二人の間に静かに流れている感じ。
前の自分たちも、こういう時間を持っていた。
でも、あの頃とは違う。
今は、隣にいること自体が少しだけ特別だ。
ルイの肩が、ほんの少しだけ近い。
触れてはいない。
でも、意識すればすぐわかる距離にある。
タイキはそれを感じながら、少しだけルイの方へ重心を預けた。
無意識だった。
音をもっとちゃんと聞こうとするみたいに。
イヤホンの位置を合わせるためみたいに。
ほんの少しだけ。
その小さな変化に、ルイの鼓動がまた強く鳴る。
どくん、と。
でも今度は前みたいに慌てない。
慌てたくない、と思えた。
音楽の中で、ただ隣にいる。
それだけを壊したくなかった。
サビが流れる。
二人とも何も言わない。
でも、さっきから何度も何かを言いかけては飲み込んでいるような沈黙だった。
それは苦しい沈黙じゃない。
むしろ、音楽の上に乗った“会話の手前”みたいな沈黙。
曲が終わりに近づく。
最後のフレーズ。
少し余韻を残すみたいに音が薄くなっていく。
そして、音楽が終わる。
でも。
二人ともすぐにはイヤホンを外さなかった。
余韻が、まだそこにある。
というより、外したらそこで今の空気まで切れてしまいそうで、どちらも少しだけ動けなかった。
視聴スペースの小さな沈黙。
その中で、タイキが先に口を開く。
「ルイ」
ほんの少し低い声。
ルイが顔は向けないまま返す。
「ん?」
タイキは前を見たまま言った。
「前さ」
少し間。
「俺のこと好きって言った時」
そこで、空気が少しだけ変わる。
重くなるわけじゃない。
でも、もうごまかせない場所へ静かに入っていく感じ。
ルイはそこでようやく、少しだけタイキの方を見た。
タイキはまだイヤホンを外していない。
視線も完全には合わない。
でも、その横顔がちゃんと真面目だった。
「……あれ、本気?」
タイキが聞く。
声は静かだった。
責めてもいない。
でも、冗談でもない。
ルイは一瞬だけ息を止めた。
この問いに対して、今さら迷うことはなかった。
「本気」
すぐに言う。
短く。
でも、はっきりと。
タイキの喉が、小さく動いた。
ルイは続けなかった。
本気だ、のあとに余計な言葉を足すと、逆に軽くなる気がしたから。
本気。
それだけでいい。
タイキはその一言を、しばらく黙って受け止めていた。
やがて、ゆっくりとイヤホンを外す。
ルイも少し遅れて外す。
距離はまだ近い。
音楽が切れたぶん、その近さがさっきよりはっきりする。
タイキがふと、ルイを見る。
それから、また試すみたいに言う。
「ルイさ」
「ん」
「最近、本当に」
少しだけ目を細める。
「距離詰めてこないな」
その言葉に、ルイの動きが一瞬止まった。
視線だけが、わずかに揺れる。
その揺れを、タイキは見ている。
試している。
前なら、どうした。
前ならきっと、もっと簡単に近づいてきた。
簡単に肩を抱いて、手首を掴んで、自分の間合いに持ち込んだ。
でも今は違う。
違うからこそ、聞きたくなった。
ルイは少しだけ息を吐く。
「……怒るだろ」
低い声。
それは言い訳じゃなく、本音だった。
タイキはその返しを聞いて、小さく首を傾げる。
「怒らないかも」
ルイの胸の奥が、また強く鳴る。
その一言はずるかった。
ずるいくらい、恋だった。
怒らないかも。
それは許すとも、触れていいとも言っていない。
でも、完全には拒んでいない。
ルイはそこで、ほんの少しだけ視線を外した。
タイキを見ていたら、たぶんいらない顔まで出る。
少しだけ下を見る。
呼吸を整える。
そして、小さく言った。
「とりあえず今は……」
そこで言葉を切る。
タイキが待つ。
ルイはそのまま、静かに続けた。
「それ、聞けただけで充分」
タイキの目が、わずかに揺れる。
ルイは視線を戻さないまま、少しだけ苦く笑った。
「前なら、そんなこと言われると思ってなかった」
「……」
「今は、触れていいかじゃなくて」
「お前が、そう言うとこまで来たんだなって」
少し間。
「それで、充分」
その言葉は、自分でも驚くくらい素直だった。
欲を押し込めているとか。
我慢してるとか。
そういう響きじゃない。
本当に、そう思った。
触れたい。
それはずっとある。
でも今のルイにとって、それ以上に大きいのは、タイキが“触れてこないな”と口にしたことだった。
それはつまり、見ているということだ。
前の自分との違いを。
今の自分の止まり方を。
そして、そこに少しでも意味を感じているということだ。
それが嬉しかった。
嬉しいと思えてしまう自分に、少しだけ苦笑する。
タイキは何も言えなかった。
胸の奥が、静かに熱くなる。
さっきまで、自分はまたルイを試していたつもりだった。
止まるかどうか。
困るかどうか。
少しでも欲を見せるかどうか。
でも返ってきたのは、“我慢してる”でも“怖い”でもなく、
それ、聞けただけで充分
という言葉だった。
それが、思っていた以上に刺さる。
ルイは今、本当に違うところに立っているのかもしれない。
前みたいに、欲しいから触れるんじゃなくて。
触れないことごと、自分との関係の中で受け止めている。
タイキはそのことに、少しだけ息を詰めた。
「……何だよ、それ」
やっと出た声は、少しだけ掠れていた。
ルイがそこでようやく、少しだけ目を上げてタイキを見る。
「そのままだよ」
タイキの胸が、また静かに鳴る。
ずるい。
そう思う。
でもその“ずるい”は、もう前みたいな苛立ちだけじゃなかった。
こんなふうに受け取られたら、試した自分の方が少しだけ照れくさくなる。
少しだけ、ルイの方へ引っ張られる。
ヘッドホンの余韻がまだ耳の奥に残っていた。
視聴スペースの狭い空間。
近い距離。
今さら少しだけ遅れてくる鼓動。
タイキは視線を少しだけ逸らした。
「……ルイ」
「ん」
「そういうとこ」
少し間。
「ほんと、ずるい」
ルイはその言葉を聞いて、ほんの少しだけ口元を緩めた。
でも笑いきらない。
たぶん、それも今の二人にはちょうどよかった。
二回目のレコード店。
そして二回目だからこそ落ちた、本音。
それは、前より少しだけ静かで。
前よりずっと深く、二人の間に残っていた。
⸻
店を出る頃になっても、タイキの胸の奥にはさっきの言葉が残っていた。
それ、聞けただけで充分。
何だよ、それ、と思う。
でも、思い返すたびに胸のどこかがあたたかくなる。
自分は、たぶんまた試した。
ルイが止まるかどうか。
触れたがるかどうか。
欲を優先するかどうか。
でもルイは、そこを越えてきた。
触れたいとか、我慢してるとか、そういう話じゃなくて。
自分が“触れてこない”ことにちゃんと気づいていて、その上で、今の距離を嬉しいって受け取っている。
それが、予想外だった。
予想外だったからこそ、刺さった。
ルイは変わった。
いや、たぶん今も変わり続けてる。
そのことを、タイキはまた少しだけ信じたくなっていた。
レコード店を出ると、外は思っていたより人が多かった。
夕方前の街。
駅へ向かう流れと、買い物帰りの人たちがちょうどぶつかる時間帯で、歩道はゆるく混み合っている。
店の中の静けさから一気に現実へ戻されたみたいで、ルイは少しだけ呼吸を整えた。
さっきまでの視聴スペース。
近い距離。
イヤホンの共有。
タイキの「最近、本当に、俺に触れてこないな」という声。
「それ、聞けただけで充分」と答えた自分。
全部がまだ身体の中に残っている。
ルイはタイキの少し後ろを歩きながら、混雑の流れを目で追った。
人と人の肩がぶつかる。
横から急ぎ足の学生が抜けていく。
このままだとタイキとはぐれるかもしれない、と思った、その時だった。
タイキがふいに振り返る。
「ルイ」
短く呼んで、すぐにまた前を見る。
それから。
ルイの袖を、軽く引いた。
「こっち」
それだけ。
本当に、それだけだった。
でも、ルイの足は一瞬止まりそうになる。
タイキの指先が、ジャケットの袖をかすめる程度に引いただけ。
強くでもない。
甘くでもない。
ただ、人混みを避けるための自然な動作。
なのに。
(……今)
ルイの胸の奥が、遅れて強く鳴る。
視線を落とせば、もうその手は離れている。
タイキは何事もなかったみたいに少し前を歩き、混んでいない方へルイを導いただけだ。
でも、その「だけ」が、今のルイには信じられないくらい効いた。
前なら、自分が先に触れていた。
肩を抱いて。
手首を掴んで。
逃がさないように、考える暇を与えないように。
自分が欲しいから触れる。
自分が離されたくないから近づく。
そういう触れ方ばかりだった。
それを、ルイはよく覚えている。
タイキに触れていた時。
あれがどれだけ一方的だったかを。
タイキが何を思ってるか、見ていなかったわけじゃない。
見えていた。
見えていたくせに、自分の欲を優先して、見ないふりをしていた。
好きだと気づいてから、ルイの中にはそれとは違う気持ちが芽生えていた。
俺が触りたいから触れるんじゃなくて。
タイキが選んで、触れてほしい。
自分から近づくんじゃなくて。
タイキが「いい」と思った時にだけ、その距離が縮まる方を待ちたい。
そう思うようになっていた。
だから、触れない。
触れたいのに、触れない。
それまでは、我慢だ。
自分にだけ課したそれは。
いわゆる罰だった。
今まで一方的に奪ってきた分、今度は自分が止まる番だ。
タイキが選ぶまでは、勝手に伸ばさない。
欲しいからって、また自分のタイミングで触れたら意味がない。
その我慢の真ん中で、今、タイキの方から袖を引かれた。
たったそれだけで、こんなにどうしようもなくなるなんて、思っていなかった。
ルイは小さく息を吐いて、タイキの隣まで歩幅を合わせた。
人混みを抜けて、少し静かな通りへ出る。
騒がしさが一段落して、二人の間に夕方の風が通る。
タイキは前を見たまま歩いていた。
でも、その横顔はほんの少しだけ考え込んでいるように見える。
ルイは何も言わない。
今のことを言ったら、たぶん台無しになる。
「触った」とか、「今のは何だ」とか、そんなことを言いたいわけじゃない。
ただ、もう一度だけ胸の中で反芻する。
それだけで、十分すぎるほどだった。
しばらく無言で歩く。
沈黙は重くない。
でも静かすぎて、互いの呼吸が少しだけ近く感じられる。
やがて、タイキがぽつりと口を開いた。
「ルイ」
「ん」
ルイの視線が、少しだけ横へ向く。
「お前さ…
「俺に近付くの、 我慢してんの?」
タイキはまだ前を見たままだった。
その一言に、ルイの歩幅がごくわずかに乱れる。
風が吹いて、タイキの前髪が少し揺れた。
でもタイキは視線を逸らしたまま、続けない。
ただ、答えを待っている。
ルイはそこで、少しだけ目を伏せた。
言い訳はいくらでもできる。
怒ると思った。
嫌がられると思った。
前みたいにしたくない。
そういう答えも全部本当だ。
でも、今この瞬間に一番近い言葉は、たぶんそれじゃない。
ルイは小さく息を吐いた。
「罰だから」
タイキの足が、ほんの少しだけ止まりかける。
ルイはそのまま前を見ていた。
「……は?」
タイキがようやく顔を向ける。
ルイは苦く笑いそうになって、それを堪える。
「俺が勝手に決めてるだけ」
低い声。
「これまでのこと…」
「俺がお前に」
「どう接してたか覚えてるから」
タイキは何も言えない。
ルイは続ける。
「欲しい時に呼んで」
「離したくない時に引っ張って」
「お前がどう思ってるか、ちゃんと見ないで」
少し間。
「だから、俺からは近づきすぎない」
タイキの喉が小さく動く。
ルイの声は静かだった。
責めてもいない。
格好つけてもいない。
ただ、事実をそのまま置いているだけの声。
「お前が選ぶまでは」
ルイはそこで初めて、少しだけタイキを見る。
「俺から勝手に距離詰めるのは、 やめようって決めてる」
その目は、前みたいな余裕のある顔じゃなかった。
でも、情けなくもない。
ただ、本気でそう思ってる顔だった。
タイキはその視線を受け止めたまま、しばらく言葉が出なかった。
“罰だから”。
そんな言葉が返ってくるなんて、思っていなかった。
もっと軽く流されると思っていた。
怒るだろ、で済まされるか。
あるいは、我慢してるみたいな顔で終わるか。
でも違った。
罰。
それは、自分がしてきたことを、自分の中でちゃんと数えている人間の言葉だった。
タイキの胸の奥が、じわっと熱を持つ。
自分は、何度もルイを試してきた。
止まるか。
待てるか。
欲より自分を選ぶか。
そのたびにルイが見せてきた変化は、言葉だけじゃなくて、こういうところにもちゃんと現れていたんだと、今さら気づく。
「……ずる…」
小さく漏れる。
ルイが少しだけ眉を寄せる。
「何が」
タイキは視線を逸らした。
うまく言葉にできない。
でも、胸の中にはちゃんとある。
自分は今、ルイが“触れない”ことに少し安心していた。
前みたいに勝手に踏み込まれないことに。
その一方で、“ほんと触れてこないな”とわざわざ自分で言った。
それはつまり、触れてこないことをちゃんと気にしていたってことだ。
そこまで含めて見抜かれた気がして、少し悔しい。
でもそれ以上に。
ルイがそこまで考えて、自分に課している“罰”が、タイキにはちゃんと刺さった。
二人はまた歩き出す。
今度はさっきより、少しだけ歩幅が揃っていた。
夕方の光が長く落ちる道で、タイキはしばらく前を見たまま考える。
ルイばかり責めていた自分。
でも、責めているだけじゃなくなっている自分。
“許す”じゃなくて、“見極める”と決めた自分。
その全部の先で、今また新しいものを見せられている。
ルイは、本当に変わろうとしている。
しかもその変化は、わかりやすい優しさとか、綺麗な言葉だけじゃない。
こういう、自分にしかわからない不自由さの中にもある。
タイキはふと、自分の指先を見た。
さっき、袖を引いた。
無意識だった。
でも、触れたのは確かに自分だった。
ルイはそのたった一瞬を、あんなふうに受け取った。
それが妙に愛しくて、困る。
「ルイ」
「ん」
「その罰」
ルイが少しだけ目を向ける。
タイキは少し考えてから、言った。
「ずっと続けるつもり?」
ルイは一瞬だけ黙る。
それから、小さく息を吐いた。
「お前が、もういいって思うまで」
その返しに、タイキの胸の奥がまた静かに鳴った。
そこまで言うのか、と思う。
そこまで待つつもりなのか、と。
本当に面倒な男だ。
でも、今はその面倒さが少しだけ、嫌じゃなかった。
帰り道の風が、また二人の間を抜けていく。
どちらも、もう前みたいには戻れない。
でも、だからこそ見えてくるものがある。
タイキはそのことを、歩きながら静かに噛みしめていた。
ルイは一旦考えるみたいに黙ってから、ふいに足を止めた。
夕方の風が、二人の間を静かに通り抜ける。
タイキも少し遅れて足を止める。
数歩ぶん前に出ていた距離が、そこでまた縮まる。
ルイはタイキを見た。
まっすぐ、でも少しだけ迷いを含んだ目だった。
「あと……」
低い声。
その一言のあとに、少しだけ間ができる。
「俺はタイキが好きだって伝えたけど」
言ってから、ルイはまた少しだけ視線を落とした。
頭の後ろに手をやって、軽く摩る。
照れ隠しみたいな、でも誤魔化しきれていない仕草。
「タイキも同じ気持ちかは、わからないだろ」
タイキの喉が、わずかに鳴る。
ルイはそのまま続ける。
「だから、さっきみたいに怒らないかもって言われても」
少し間。
「罰もあるけど……違うかなって」
そこで、ルイは少し困ったようにふっと笑った。
「自分の中で勝手に変換したくない」
その言葉が落ちた瞬間、夕方の空気がまた少しだけ静かになる。
ルイは視線を戻さない。
でも、逃げているわけでもない。
ただ、本当にそう思ってるから、そのまま口にした顔だった。
「お前がそう言ったのは、嬉しかった」
小さく続ける。
「でも、そこを俺の都合いい方に取りたいわけじゃない」
タイキは何も言えない。
ルイは今、たぶんいちばん臆病なことを言っている。
でもそれは、逃げの臆病さじゃない。
ちゃんとタイキを見てるからこその、臆病さだ。
「……だから」
ルイがもう一度、小さく息を吐く。
「今は違うかなって思った」
それだけ言って、ようやく顔を上げた。
その目は静かだった。
欲を押し殺してる目じゃなくて、ちゃんと選んで止まってる目。
その言葉を聞いたあとのタイキの胸の中は、妙に静かだった。
さっきまでみたいな、ざわざわした熱だけじゃない。
もっと深いところに、じわっと何かが落ちていく感じ。
ルイは、本当に変わってきてるんだと思う。
ただ触れないだけじゃない。
ただ我慢してるだけでもない。
“自分がどうしたいか”より、“それをタイキがどう受け取るか”を先に考えてる。
前のルイなら、そんなふうに止まらなかった。
“怒らないかも”
その一言に、自分の都合のいい意味を乗せて、きっともっと簡単に踏み込んでいた。
でも今は違う。
同じ言葉を聞いても、勝手に触れていい理由にはしない。
好きだと言った相手から、同じ気持ちかどうかわからないまま近づくことを、ちゃんと怖がってる。
その怖がり方が、タイキには痛いほど伝わった。
(……なんだよ、それ)
思う。
そんなふうに言われたら。
そんなふうに、自分の気持ちをまだわからない側のものとして丁寧に置かれたら。
責める方にも、試す方にも、少しだけ行き場がなくなる。
自分は今まで、ルイを見極めようとしてきた。
止まるか。
待てるか。
欲より自分を選べるか。
その答えが、今また一つ、目の前にある。
しかもそれは、思っていたよりずっと静かで、ずっと本気だった。
タイキは小さく息を吐いた。
言葉が、うまく出てこない。
たぶん何を言っても、少し足りない。
「そうなんだ」と返すのも違う。
「わかった」と言うのも軽い。
「俺も」と言うには、まだそこまで綺麗に整理できていない。
でも。
何も返さないまま立ってるのも違う気がした。
ルイは今、たぶん勇気を出してそこに立っている。
だったら、自分も何か返したい。
言葉じゃなくてもいいから。
タイキは一度だけ視線を落として、それからゆっくり顔を上げた。
ルイはまだ少しだけ緊張した目でこちらを見ている。
その顔を見た瞬間、タイキの中で何かが静かに決まる。
言葉じゃなくて、行動で返す。
タイキは一歩だけ近づいた。
ルイの目が、わずかに揺れる。
でも動かない。
タイキはそのまま、ルイのジャケットの袖口に手を伸ばした。
さっき人混みの中で軽く引いた、その同じ場所。
今度は逃がさないようにじゃない。
確かめるみたいに。
でも、ちゃんと自分の意思で。
指先で、そっと袖をつまむ。
強くじゃない。
ほんの少しだけ。
でも、確かに触れる。
ルイの呼吸が止まるのがわかった。
タイキはそのまま、顔を上げる。
視線が合う。
何も言わない。
言わないまま、指先だけでルイの袖を軽く引いた。
ほんの少しだけ。
自分の方へ。
それは、“来い”じゃない。
“触れていい”とも違う。
でも、少なくとも拒絶じゃない。
そして、ルイにだけはちゃんと伝わる動きだった。
――今は、これでいい。
タイキのその無言の返事を、ルイはたぶん一瞬で理解した。
目が見開く。
それから遅れて、胸の奥から何かが込み上げるみたいに、呼吸が浅くなる。
さっきの袖を引いた時より、今の方がずっとはっきりしている。
人混みを避けるためじゃない。
流れでもない。
タイキが、自分の意思で選んで掴んだ。
その事実が、ルイの胸の奥を強く打つ。
タイキはまだ何も言わない。
でもその指先は、すぐには離れなかった。
夕方の光の中。
通りを歩く人たちの足音が遠くで交差する中。
二人だけが、その場に少しだけ静かに立ち止まっていた。
ルイはようやく、かすれた声で小さく言う。
「……ずるいのはどっちだよ」
タイキの口元が、ほんの少しだけ動く。
「お前が言うな」
小さく返す。
でもその声は、前よりやわらかかった。
タイキの指先が、そこでようやく離れる。
離れる直前、親指がジャケットの布をわずかに撫でた気がして、ルイはまた胸の奥が鳴るのを止められなかった。
言葉じゃなくて行動で返された。
そのことが、今のルイには何よりも効いていた。
タイキも、たぶんわかってる。
だからこそ、言わなかった。
好きだとか。
同じだとか。
そういう決定的な言葉じゃなく。
ただ、自分で選んで、触れた。
それだけで十分だった。
少なくとも今は。
夕方の風がもう一度だけ吹く。
二人はまた歩き出す。
でもさっきまでとは少し違う。
沈黙の温度も、距離の意味も。
タイキは前を向いたまま、小さく息を吐く。
まだ全部は言えない。
でも、少なくとも今の自分がどういう気持ちでいるのか、それを少しだけ行動に変えることはできた。
ルイは隣でその余韻を抱えたまま、静かに歩いている。
袖に残る指先の感触が、まだ消えない。
それが、どうしようもなく嬉しかった。
タイキの指が離れたあと。
ほんの少しだけ、二人の間に静かな余韻が残った。
さっきまであった袖の感触。
選んで触れた、という事実。
それがまだちゃんとそこにある。
ルイはその余韻を抱えたまま、隣を歩くタイキを見そうになって、でも見すぎないように視線を前へ戻した。
夕方の光は少しずつやわらかくなっている。
人の流れも、さっきの駅前よりは少し落ち着いていた。
その沈黙の中で、タイキがぽつりと口を開く。
「別に……」
声は小さかった。
ルイが顔を向ける。
タイキは前を向いたまま、少しだけ目を伏せている。
「こういうのは嫌じゃない……」
その言葉が、夕方の空気に静かに落ちる。
ルイの喉が、小さく動いた。
タイキは続ける。
「だから」
少し間。
「そんなに、考えなくてもいい……」
それは、投げるような言い方じゃなかった。
ぶっきらぼうでもない。
むしろ、かなり慎重に置かれた言葉だった。
ルイはその声を聞いた瞬間にわかった。
きっとタイキなりに、ちゃんと考えて言ってくれたんだと。
衝動でも、流れでもなく。
今の自分に返せる精一杯として、置いてくれた言葉。
正直、嬉しい。
それは本音だ。
嫌じゃない。
そんなに考えなくていい。
その二つの言葉だけで、胸の奥がじわっとあたたかくなる。
でも。
(考えなくてもいい、と言われてもな…)
ルイは内心で小さく息を吐く。
嬉しい。
本当に、ちゃんと嬉しい。
けれどその一方で、怖さも消えない。
また、元に戻るのが俺は怖い。
そこが、今のルイの本音だった。
“嫌じゃない”を都合よく拡大して。
“考えなくてもいい”を勝手に解釈して。
前みたいに、自分の欲しい方へ踏み込んでしまうこと。
それが何より怖い。
だからルイは、すぐには笑わなかった。
軽く「そっか」って返して終わらせるのも違う気がした。
少しだけ視線を落としてから、静かに言う。
「……嬉しいよ」
タイキの目が、わずかに揺れる。
ルイはそのまま続ける。
「ちゃんと考えて言ってくれたの、わかるし」
少し間。
「でも、俺はたぶん、考える」
タイキが少しだけ眉を寄せる。
ルイは苦く笑うみたいに口元を動かした。
「考えないと、前の俺に戻りそうで怖い」
その言い方は、自分に向けたものだった。
タイキはそれを聞いて、何も言わなかった。
でも、その沈黙の中で自分の言葉を反芻しているのがわかる。
(今更……)
タイキは心の中でそう思う。
実際、そうだ。
今更、袖を引くくらい。
軽く触れるくらい。
そんなの、大したことじゃないはずだった。
なのに自分はさっき、それをわざわざ選んでやった。
しかも今、“嫌じゃない”なんて口にした。
俺、何言ってんだろ。
タイキは小さく息を詰める。
あんだけしんどかったのに。
あんなに一方的だったのに。
ずっと苦しんでいたはずなのに。
今、自分はその“触れる”を全部ひとまとめにはできなくなっている。
前のルイは嫌だった。
苦しかった。
ちゃんと。
でも今、自分が選んで返した触れ方は違う。
ルイが止まった上で、その先を自分に任せているから。
そこに選ぶ余地があるから。
それに気づいた瞬間、タイキの胸の奥で何かが静かに形を変える。
“触れられたこと”全部がしんどかったわけじゃない。
“選べなかったこと”がしんどかったんだ。
その違いに、今さら気づく。
(……そう…)
自分でも聞こえないくらい小さく、タイキは心の中で呟いた。
ルイがちらりと横目で見る。
「何」
「何でもない」
タイキはすぐに返す。
でも、その横顔はさっきより少しだけ静かだった。
⸻
通りを少し歩いた先に、小さな公園があった。
住宅街の途中にあるような、広すぎない公園。
夕方で、子どもの姿ももうほとんどない。
ベンチが二つ。
少し色の落ちた遊具。
木の影が長く伸びている。
タイキが足を止める。
「……ちょっと座る?」
ルイが目を向ける。
「うん」
二人は並んでベンチに座った。
少しだけ距離を空けて。
でも、遠くはない。
夕方の公園は静かだった。
遠くで車の音。
近くで葉が揺れる音。
誰かの家から夕飯の匂いが薄く流れてくる。
そんな何でもない静けさの中で、二人はしばらく何も言わなかった。
沈黙は、店の中とも帰り道とも少し違う。
向かい合わなくていい。
でも、ちゃんと隣にいる。
その感じが、今はちょうどよかった。
タイキが先に、小さく息を吐く。
「……こういうの、久しぶりだな」
ルイが前を見たまま返す。
「うん」
「何もないとこで、ただ座るの」
「高校の時、たまにあったな」
その言葉に、タイキの口元が少しだけ緩む。
「ルイが急に座るんだよ」
「お前が喋りすぎて疲れるから」
「は?」
「ほんとにずっと喋ってただろ」
「今思えば、ルイが聞いてたの奇跡だな」
「聞いてなかった半分くらい」
「ひど」
そのやり取りに、少しだけ笑いが混ざる。
笑ったあと、また静かになる。
でも今度の静けさは、前より少しだけあたたかい。
タイキはベンチに座ったまま、自分の手元を見る。
さっき袖を引いたこと。
“嫌じゃない”と言ったこと。
ルイが“考える”って返したこと。
全部がまだ胸に残っている。
ルイは隣で、少しだけ肩の力を抜いていた。
でも完全には抜けていない。
嬉しさと怖さを一緒に抱えてる顔だった。
タイキはその横顔を見て、ふと思う。
前なら、今みたいな空気で黙っていられなかったかもしれない。
もっと何か言っていた。
もっと近づいていた。
もっと、自分の欲しい形に持っていこうとしていた。
でも今は違う。
黙って座ってる。
自分が選ぶまで、待つみたいに。
その変化が、少しだけ愛しかった。
タイキはそこで、自分でも意識しないうちに少しだけ身じろぎをした。
ベンチの木の板が、わずかに軋む。
ルイがその音に反応して、少しだけこちらを見る。
目が合う。
数秒。
何も言わないまま、タイキの胸が静かに鳴る。
それから、また自分の方から動いた。
今度は袖じゃなく。
ベンチの上に置かれたルイの手の近くへ、自分の指先をゆっくりと置く。
触れてはいない。
でも、あと少しで触れる。
ルイの呼吸が、そこで少しだけ浅くなる。
タイキはそのまま、小さく言った。
「……ルイ」
「ん」
「今は、これくらいでいい」
その一言に、ルイはしばらく何も返せなかった。
“これくらい”。
それは触れていない距離。
でも、完全に遠くもない距離。
互いに選んで近づける場所。
たぶんタイキは、今の二人にちょうどいい位置を、自分なりに示してくれている。
ルイは小さく息を吐いた。
「……うん」
それだけ返す。
でも、その一言にいろんなものが乗ってしまって、自分でも少し情けなかった。
夕方の光はさらに色を深くしていく。
公園の影が、ゆっくり長くなる。
しばらくして、二人は同時みたいに立ち上がった。
ベンチから腰を上げる。
その瞬間、距離感が変わる。
座っていた時より少し近い。
ルイが体勢を変えた拍子に、手の甲がタイキの指先にかすめる。
ほんの一瞬。
でも、その瞬間は妙に長く感じられた。
どちらもすぐには離れない。
触れた。
今、ちゃんと。
ルイは呼吸を止める。
タイキも、わずかに目を伏せる。
今度は偶然だった。
でも、その偶然を二人ともすぐには“ただの偶然”に戻せない。
先に動いたのはタイキだった。
ほんの少しだけ指先をずらして、今度は自分の意思でルイの指に軽く触れる。
一瞬だけ。
でも、はっきり。
それから、何事もなかったように手を引いた。
自分でもただ、確かめたかったみたいに。
ルイはその動きを、ただ見ていた。
何も言えない。
でも、胸の奥はうるさいくらいだった。
「……帰るか」
タイキが言う。
「うん」
二人はまた歩き出す。
公園を出て、住宅街の道へ戻る。
さっきまでより静かで、でもどこか少しだけ甘い空気が残っている。
⸻
家までの帰り道は、前より少しだけゆっくりだった。
会話は多くない。
でも、沈黙にさっきまでの触れた感触が混ざっていて、前みたいな張りつめ方はしていない。
「……メガネ、似合ってた」
不意にルイが言う。
タイキが少しだけ目を上げる。
「今さら?」
「今言いたくなった」
「何それ」
「本音」
短い会話。
でも、それだけでまた胸が少し鳴る。
タイキは少しだけ視線を逸らした。
「……ルイも」
「ん?」
「今日の感じ、よかった」
ルイの喉がわずかに動く。
「服」
タイキが少しだけぶっきらぼうに付け足す。
「前より、なんか」
「……落ち着いてた」
その言葉に、ルイはすぐに返せなかった。
褒められたこと自体じゃない。
タイキが、そこをちゃんと見ていたことに胸が熱くなる。
「……ありがとう」
ようやくそう返すと、タイキは「別に」と小さく言った。
でもその声は、どこかやわらかかった。
角を何度か曲がって、タイキの家が近づいてくる。
さっきまで続いていた会話も、また少しずつ薄くなる。
終わりが近づいてくる空気。
でも前みたいな“ここで切れる”感じじゃなかった。
ちゃんと次があることを、どこかで二人とも知っている。
タイキのマンションが見えるところで、足が止まる。
「ここでいい」
タイキが言う。
ルイは頷く。
「うん」
少しだけ沈黙。
別れ際の空気が、やけに濃い。
ルイは本当は、何か言いたかった。
今日のこと。
公園のこと。
袖を引かれたこと。
触れたこと。
でも、ここで言葉を重ねるのは違う気がした。
タイキもたぶん同じだった。
だから、少しだけ迷ったあとで、タイキが言ったのはすごく短い言葉だった。
「……また」
ルイの胸の奥が、そこで静かに鳴る。
「うん」
それだけで十分だと思って、ルイも短く返す。
でもタイキは、そこでほんの少しだけ迷ってから、もう一度続けた。
「今度は」
「もう少し、ちゃんと考えて決める」
ルイは一瞬だけ目を止める。
“何を”とは言わない。
次の場所なのか。
距離なのか。
触れることなのか。
でも、全部を含んでいる気がした。
ルイは小さく頷く。
「待ってる」
その言葉に、タイキはほんの少しだけ目を細めた。
それから背を向けて、マンションの方へ歩き出す。
数歩進んだところで、また振り返る。
ルイはまだそこにいた。
前みたいに追ってこない。
でも、ちゃんと見ている。
タイキは小さく息を吐いた。
今日一日で、また少しだけ進んだ気がする。
でも、それは急ぎすぎた進み方じゃなかった。
ルイはその背中が見えなくなるまで、静かに立っていた。
夕方の最後の光が、だんだん夜に変わっていく。
袖を引かれたこと。
ベンチでの距離。
指先の一瞬。
“嫌じゃない”と言われたこと。
その全部が、今夜のルイには十分すぎるほど残っていた。
コメント
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お互いの想いをまだ確信しきれなくて、もどかしいような、でも一番楽しい時期のやつ…! もうなんか良すぎて、読みながら何度もみぞおちにグッときました、、最高です😭👏
うわあ……この第12話、めちゃくちゃ良かったです。二人がデートに向けて服を選ぶところから、もう胸がぎゅっとなりました。ルイが「前より余裕あんのか」って自分に言い聞かせるシーン、わかるなあ。でも本当は余裕なんてなくて、“続くこと”を信じてみたいだけ。その繊細さがすごく伝わってきました。 そして「最近、本当に距離詰めてこないな」ってタイキが口にする瞬間! あそこでルイが「怒るだろ」じゃなくて「それ、聞けただけで充分」って返すの、めちゃくちゃ刺さりました。過去の自分を罰するように触れないことを選んでいたルイが、タイキの袖を引かれて「ずるいのはどっちだよ」って呟くところ……もう、泣きそうになりました。 ベンチで指を触れるシーンと「今はこれくらいでいい」のバランスも絶妙で、二人が少しずつ新しい関係を築いているのが伝わってきます。続きが楽しみです!