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雨が好きだった
何万、何億もの水滴が地を叩き、流れるノイズは自分の音全てを掻き消し、自分そのものをちっぽけに感じさせる。
どうしようもないこの都市へ流す涙の様に止め処なく溢れる雨粒は、誰よりも慈愛に満ちている気がして。
体中を滴る悲しみを、ただ受け止めて居たかった
傘を開き、会社から出る
灰の空から堕ちる雨粒が、布1枚を隔て跳ねる音が心地良い。
一つの水溜まりの中、ぐちゃぐちゃと窮屈そうに群がる波紋へ視線を移す。自然と下がる視界に気が付いたが、自分は普段からこうだった事を思い出した。
…深い夜を吸い込み、浅く吐き出す
吐き切れない胸のわだかまりを、漠然とした渇きを潤す様に、押し流す様に
誰かの涙が降る。
ありふれた巣の、ありふれた会社。
ありふれた上下関係
暴言にも似た顧客の質疑応答を、毎日何百と対応する作業。
その内九割が弊社の商品に対するモノであったが、あくまで俺の仕事は解決では無く対応。商品に対する専門的な知識も無ければ見解も無く、弊社の名誉に傷がつかないよう当たり障りのない対話でその矛先を自分へ向け続ける。
そこに自分の意思は無く、何重にも重ねた嘘で見繕った人間モドキが居るだけ。
『■■■■■〜〜■■■■■■■??』
「いえ、そちらは当支部では対応しておらず…■■■社■■支部に…」
『■■■■■!!!!!』
不満という本音を吐き出し終わった電話の先からガチャンと大きい音が鳴る
…もはや何を言っているのかも分からない獣との対話。それは相手が獣なのか、自分がそれらに感化され獣以下となったのか
私には分からなかった。
あと十数分で今日が終わる頃
ちっぽけなエントランスから見えた外の世界はおびただしい数の雨粒で覆われており、気が狂いそうな程のノイズで満たされていた。今朝覗いていた輝かしい太陽は嘘の様に消え去り、私は一度貴重品を水に晒さぬ様腹に抱え傘を忘れてしまった事を憂いながら走り出す。
…雨粒が私を伝う
ゆっくりと熱を奪い、俺を覆う何重もの嘘が流れていく。誰かの慈しみを帯びた涙が俺の本心を晒す。
…それを酷く恐れていた筈が、今はこの身を委ねたくなった。
立ち止まる
抱えていた荷物が雨で悲惨な事となるが、この足を更に踏み出す気にはならなかった。
俺の頬に雨が伝う
「………こんな仕事、辞めてやりたかった。」
口を開く
この言葉が会社の奴らに聞かれでもすれば面倒臭い事となるのは明白だったが…今この瞬間だけは、このノイズが隠してくれる。
「巣で暮らして、会社に入って、働いて…それがどれだけ幸せな事なんて嫌と云うほど分かっていて、聞かされて、言い聞かせてきた。
………それでも、」
毎日毎日不満ばかりが積もり
上っ面の嘘で押し流して
濾されたドス黒い本心を底に、更に底へ
…そんな自分が、掃き溜めにしか思えなかった。
瞳から雨が降る
この感情を、胸の穴を…俺自身を。いっそ全部洗い流してくれたら良かったのに。
…帰ろう。
これ以上は駄目だ。
明日を生きる理由が無くなってしまう
走る事を辞め、雨を受け止めながら…ゆっくりと帰路へ足を運んでいると目線の先、ある一人の人物が見えた。
全身が黒い服装で覆われており、特徴的な金色の模様は…同じ様なスーツを来た巣の人間共とは異なっていた
異質。
そう表すのは服装からか、立ち振舞いからか、この大雨の中一滴も濡れぬその姿からかなんぞ分かりもしないが、気づけば私の足はピクリとも動かなくなっていた。
…目が、合う。
しかしその眼差しには何も込められておらず、ふと水溜まりを覗いた時水面に写る自らの視線を彷彿とさせた。その無気力な眼に充てられた全身の筋肉は凍りついたかのように動かなくなり、数秒程見つめ合う形となる…が、やがて彼女の視線から私が追い出される。
ぴちゃぴちゃと水溜まりを踏み潰しながら立ち去る彼女に、私はただ立ち尽くし雨粒に埋もれる事しか出来なかった。
次の日。私の住んでいる8区の翼が手折れた。
雨上がり特有のじめじめとした空気に粘ついた血の匂いが、そこら中から聞こえる悲鳴が、目の前にある上司の亡骸が、その全てが。私の日常を壊してしまった気がした
…手折れた翼に住む住人の末路など、総じて悲惨な物だ。他の巣への移住権を持たない人間は裏路地へ追いやられ、温室育ちの巣の住人なんてすぐに殺される。金さえあればフィクサーやその他組織に保護を依頼する事も出来るが…生憎私には他の巣への移住権も金も無い。
没落した翼の巣は新しい翼が現れるまで様々な組織が挨拶し、活気づく無法地帯となる為早急に立ち去らなければならない。
「………」
くたばっている上司の顔面を2度蹴り飛ばした後、俺は足早に裏路地へ駆けたのだった。
…巣でのうのうと生きていた人間へ、どうして裏路地にて生き残れると言えましょうか。
つい昨日まで不満を重ねながら人に使われ、何も考えず従ってきた人間へ、どう立ち上がれと云うのだろうか。
薄汚い裏路地にて。建物間の狭い隙間で背を預ける俺は、どれだけ惨めな格好をしていただろうか。血飛沫に埃まみれのくしゃくしゃになったスーツに、屈強なネズミから逃げる時潰れてしまった煙草が一本だけだ。
正確な時刻は分からないが、空が闇に覆われてから大分時間は経っている。そしてやけに人通りが少なく、見渡すだけで一人二人はいたネズミ共はかれこれ十数分程見掛けていない。
…裏路地の、夜。
粉が溢れる煙草をふかそうとポケットを弄る。…が何処にもライターは無く、貫通した自らの手が見えるだけ。ずるずると寄りかかっていた背が落ちてゆき、やがて座り込む形となる。この現状を煙で溶かすことも出来ず、空腹が故に冴え切った脳みそは…何故か昨日の彼女を浮かべていた。
「……………。」
溜め込んだ不満が、詰め込まれた本音が、胸の内から取り出せずいた。そんな時の、彼女のあの視線。
俺のこれまでは、そんな程度の物なのだろうか。
どれだけ耐えようが、どれだけ溜め込もうが…所詮、そこら中にある水溜まりの一つ。
誰も興味を持たず、誰にも知られる事無く、ただ消えてゆくだけだ。
俺の溜め込み続けて来た物も…誰にも知られず蓋をされ、埋められ、掘り起こされること無く…
……雨が降る。
“……■■”
…美しい声が、聞こえた気がした。
“■■■■■■■■■”
今の俺の全てを受け入れて、救ってくれる様な、優しい声。
“■■■■■”
俺の底にある全てを溶かしてくれる様な、そんな素敵な声。
“■■■”
…………でも
「黙れ」
“………”
誰の言葉も。
嘘も、本心も、何も聞きたくは無かった。
俺の底にあるモノ共は、どれだけクソッタレた物でもアイデンティティの一つ足り得るから。
…水滴が地を叩き、流れる残響は周りの全てに響き、自分そのものをちっぽけに感じさせる。
どうしようもないこの都市へ流す涙は止め処なく溢れ、誰よりも慈愛を嫌厭していた。
雲一つない深夜の裏路地の中、ただ俺一人にだけ雨が降っていた。
……この雨音に紛れて、消えてしまえたら。