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年の終わりを迎えようとする頃、思いがけない来客があった。
ふわりと鼻をくすぐる匂いを追うようにして、ひときわ目立つ天女のような美貌を持つ男が姿を現す。
絹のような衣を揺らしながら、興味深そうに辺りを見回していた。
「……なんだか、いい匂いがするな」
「蜜柑ですよ」
「おぉ、蜜柑か!」
壬氏は途端に目を輝かせ、こちらへ身を乗り出してくる。その視線が少々鬱陶しい。
猫猫は蜜柑の皮を剥き、房を壬氏に差し出した。
嬉しそうに受け取って食べ始める姿を見て、内心ため息をつく。
(そんな高そうな服で食べるなよ……汁が飛んだらどうするんだ)
剥いた皮は竹編みのザルに並べていく。
「猫猫、それは何をしているんだ?」
「陳皮です。蜜柑の皮を干したもので、食欲不振などに使う漢方薬になります。ただし、一年以上乾燥させないと陳皮とは呼べませんが」
「相変わらず、薬の話になると饒舌だな」
壬氏は微笑みながらそう言った。
猫猫が作業を続けていると、背後から小さな声が聞こえた。
「あっ」
(……嫌な予感)
振り返ると、壬氏の衣に蜜柑の汁が飛んでいた。
「はぁ……何をやっているんですか」
布巾を取り、猫猫は淡々と汁を叩くように拭き取る。
「い、いや、もういい!すまないな!」
壬氏は慌てた様子で一歩下がり、そのまま距離を取った。
(まだ落ちきってないのに……。シミになったら水連様に怒られるのは私じゃないか)
そのとき、猫猫の脳裏にひらめきが走る。
「壬氏様。
また汁が飛ぶといけませんので、私が食べさせる、というのはどうでしょう?」
壬氏は目に見えてあたふたし始めた。
その様子を眺め、猫猫は深くため息をつく。
「……食べないなら結構です。私が食べますので、そこで大人しく座っていてください」
そう言って蜜柑を引っ込めると、壬氏はしょんぼりした顔でこちらを見上げてきた。
(食べたいのか、食べたくないのか……どっちなんだ)
「このまま全部食べますよ。いいんですか?」
「だ、だめだ!食べさせろ!」
壬氏は慌てて猫猫の手首を掴み、ぐいっと自分の方へ引き寄せる。その勢いのまま、蜜柑を口に含んだ。
(力が強すぎる……もう少し加減というものを覚えろ)
「……もっとだ。もっとくれ」
不機嫌そうにそう言う壬氏に、猫猫は呆れながらも次の房を差し出す。
そのとき、ふと指先が壬氏の唇に触れた。
一瞬の感触。
それだけで、猫猫の脳裏にあの時の光景がよみがえる。
妓楼での短期就労中、偶然再会し、指が触れ、そして――。
「……っ」
猫猫は思わず顔を赤らめ、ぷいとそっぽを向いた。
「どうした、猫猫。具合でも悪いのか?」
「い、いえ!問題ありません!ただ……思い出してしまっただけです!」
「思い出した?何をだ?」
(しまった……)
「な、なんでもありません!」
「なんでもないと言われると気になるだろう」
壬氏は距離を詰め、じっと猫猫を見つめてくる。
猫猫は観念したように小さく息を吐いた。
「……私が、短期就労していた頃のことです」
「それで、あんな顔をしていたのか」
壬氏は驚いたように目を見開いた。
耐えきれなくなった猫猫は、半ばやけくそで蜜柑を壬氏の口に押し込む。
「もう、黙って食べてください」
「……なぁ、猫猫」
蜜柑を咀嚼し終えた壬氏が、低い声で呼びかける。
「今、接吻してもいいか?」
「なっ……急に何を言い出すんですか!」
「急じゃない」
壬氏は真剣な目で、感情を抑えきれないまま言った。
「お前が、そんな顔をするからだ」
猫猫は視線を逸らし、小さく呟く。
「……壬氏様が、どうしてもと言うなら……」
「どうしても、したい」
そして、猫猫と壬氏の唇がそっと触れ合った。
一瞬。
舌も息も絡まない、ただ重なっただけの接吻。
それでも、口の中には甘酸っぱい蜜柑の味が広がる。
猫猫は初めての感触に戸惑い、思わず瞬きを繰り返した。
一方、壬氏は平静を装っているものの、頬はわずかに熱を帯び、喜びが隠しきれていない。
「あの……壬氏様」
猫猫が、どこか物足りなさそうに呼びかける。
「何だ――って、なんだその顔は!」
壬氏は思わず声を荒げた。
「? そんなに変な顔をしてますか?」
「……っ、そういう意味じゃない!」
「では、どういう意味です?」
きょとんと首を傾げる猫猫に、壬氏は息を詰めた。
「お前が……物欲しそうな目で見るからだろ。
これ以上見つめられたら、我慢できなくなる」
「私、そんな顔してませんよ」
「してたんだ!」
完全に余裕を失っている。
(……仕方ない)
猫猫は一歩近づき、もう一度壬氏の唇に軽く口づけた。
「もう、これで最後ですからね」
そう言って何事もなかったように蜜柑を剥き始める。
――その直後。
「……っ」
壬氏は顔を真っ赤にしたまま、その場に崩れ落ちた。
嬉しさと衝撃に耐えきれず、見事に気絶していた。
猫猫は蜜柑を手にしたまま、ため息をつく。
「……大げさなんですよ、本当に」