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今は仕事が一年で最も立て込む季節だった。
その中で、机に向かいながら露骨に不機嫌さを滲ませている男が一人いる。
「あ゛ーーーーー……仕事が終わらない……」
(早く猫猫に会いたいのに……)
書類を睨みつけたまま唸る壬氏を、高順は呆れたように見つめていた。
しかしふと、何かを思いついたように小さく息をつくと、静かに部屋を出て行く。
「高順。どこへ行く」
「……少し、小猫のところへ」
「なら俺も行く」
壬氏はそう言うなり、仕事を放り出す勢いで身を乗り出した。
「駄目です。壬氏様は仕事が山ほど残っているでしょう?」
「……っ」
図星を突かれ、壬氏は悔しそうに口を閉ざす。
しばらくして、肩を落としたまま再び書類へと向かった。
数分後。
扉が開き、高順が戻ってくる。
その後ろに立っていたのは――猫猫だった。
壬氏は一瞬目を見開き、次の瞬間には席を立っていた。
「高順! 外へ出ていろ」
そうして部屋には、壬氏と猫猫、二人だけが残された。
壬氏は一度、言葉を探すように視線を逸らした。
そして意を決したように、猫猫へと向き直る。
「なぁ、猫猫」
「なんですか、壬氏様」
いつもよりも柔らかな声音に、猫猫はわずかに目を瞬かせた。
だが壬氏は、その反応に気づかないふりをして続ける。
「……お前は、俺のことが嫌いか?」
一瞬の沈黙。
猫猫は首をかしげ、少し考えるような仕草を見せてから答えた。
「いいえ。嫌いではありません」
そう前置きして、穏やかに微笑む。
「壬氏様は、私にとって特別な存在ですから」
前は「私にとって壬氏様は壬氏様です」と言っていたのに、その思いはいつの間にか変わっていた。
「……今、なんて言った?」
思わず聞き返した壬氏の声は、わずかに上ずっていた。
驚きと喜びが入り混じり、どちらの感情が強いのか自分でも分からない。
「はぁ……」
猫猫は小さくため息を吐く。
「もう言いませんからね。
壬氏様は、私にとって大切な存在なのです」
呆れたような口調だったが、視線は一瞬だけ泳いだ。
その様子は、ほんのわずかに照れているようにも見える。
「……なぜ、そんな質問を?」
猫猫は壬氏と視線を合わせ、静かに問いかけた。
「お前がいつも、俺のことを毛虫を見るような目で見るからだろ」
半ば冗談めかして言いながらも、その声には少しだけ本音が滲んでいた。
「見てませんっ!」
猫猫は珍しく即座に否定し、少し強めの口調で言い返す。
「見てただろ!」
壬氏は思わず声を荒げた。
「見てないって言ってるでしょう?」
猫猫は疲れたように、そして呆れたように言い返す。
「……じゃあ、そうだと信じるよ」
壬氏は一度、深くため息を吐いた。
本当はそのような目で見ていたが本人の前なので嘘をついた。
「……お前は、俺のことをどう思っている?」
問い返された猫猫は、少し考え込む。
だがその表情には、迷いはあっても感情の自覚はなかった。
「私は……特に、何とも思っていません」
その言葉に、壬氏は言葉を失った。
視線が伏せられ、口元に浮かんだ笑みは、どこか弱々しい。
(……どうすれば、俺を見てくれる)
壬氏はそっと猫猫の左手を取った。
一瞬だけためらい、それでも離さずに――
手の甲に、静かに唇を落とす。
「……っ」
猫猫は驚き、ぱっと手を引こうとしたが間に合わなかった。
顔が一気に熱くなり、ぷいとそっぽを向く。
「きゅ、急に何をするんですか!!」
「……お前に、この気持ちに気づいてほしくて」
照れたように視線を逸らしながらも、
壬氏はもう一度、猫猫の目を真っ直ぐに見つめていた。
その言葉をきっかけに、猫猫はようやく自分の感情に気づいた。
壬氏と同じ気持ちであること。
けれど――そうであったとしても。
この皇弟と、自分の身分。
その身分の差はあまりにも大きく、結ばれる未来など考えるまでもない。
猫猫は唇を噛み、悔しさを滲ませた表情のまま壬氏を見た。
「……私も、壬氏様と同じ気持ちです」
その言葉に、壬氏の表情が一瞬明るくなる。
だが、続いた言葉がそれを打ち消した。
「ですが、私は壬氏様の期待に応えることができません」
「なぜだ!」
感情を抑えきれず、壬氏は声を荒げた。
「……身分の差ですよ」
静かな一言だった。
だが、それは現実を突きつけるには十分すぎるほど重い。
壬氏は何かを言いかけたまま、言葉を失う。
その沈黙を破るように、扉が開いた。
「壬氏様。お話はこれくらいにして、仕事をなさってください」
高順の現実的な声が、二人の間に割って入る。
「……では、この話はまた次に」
猫猫はそう言い残すと、逃げるように部屋を後にした。
残された壬氏は、しばらくその背中を見つめていたが、
やがてぶすくれた表情のまま、再び仕事へと戻っていった。
しかしその胸には、
決して簡単には消えそうもない感情だけが残っていた。
──二人が結ばれるまで、 前編・完