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第5話 雨宿りと、忘れられない温もり
六月の終わり。
空は朝からどんよりとしていた。
『……傘、忘れた。』
講義を終えた啓悟は、大学の玄関で立ち尽くしていた。
天気予報では曇りだったはずなのに、外は土砂降りだ。
『参ったなぁ……。』
スマホを見ても、雨雲はしばらく動きそうにない。
『……とりあえず。』
行き先は決まっていた。
◇◇◇
カラン。
「いらっしゃ――」
燈矢は顔を上げて、眉をひそめた。
「……何だその状態。」
『こんにちは。』
「質問に答えろ。」
啓悟の肩はびしょ濡れだった。
大学から走ってきたのだろう。
髪からもぽたぽたと雫が落ちている。
『傘忘れちゃって。』
「馬鹿か。」
『否定できない。』
燈矢はため息をついた。
「そこ座ってろ。」
『え?』
「風邪引くぞ。」
奥へ引っ込んだかと思うと、戻ってきた燈矢の手にはタオルがあった。
「ほら。」
『……貸してくれるんですか?』
「返せよ。」
『ありがとうございます。』
啓悟がタオルを受け取る。
その顔は、少しだけ嬉しそうだった。
「……何だよ。」
『いや。』
啓悟は柔らかく笑った。
『優しいなって。』
「違ぇよ。」
『そういうところですよ。』
「うるせぇ。」
燈矢はそっぽを向いた。
耳が少し赤い。
「……ホットココア。」
『え?』
「風邪引きたくねぇなら飲め。」
『サービス?』
「代金は取る。」
『ですよね。』
それでも、啓悟は嬉しそうだった。
湯気の立つカップを両手で包む。
『美味しい。』
「そう。」
『燈矢さんって、何でも作れるんですね。』
「カフェだからな。」
『でも、好きなんですよね。』
「……。」
『コーヒーとか、お菓子作るの。』
沈黙。
しばらくして。
「……嫌いじゃねぇ。」
小さな声だった。
「客が美味そうに食ってるの見るのも。」
『……。』
「悪くねぇし。」
啓悟は目を見開く。
「……何だよ。」
『いえ。』
「だから何だ。」
『そういう話、初めてしてくれたなって。』
燈矢は舌打ちした。
「聞かれたから答えただけだ。」
『でも、嬉しい。』
「……。」
『俺のことも、少しは知ってほしいし。』
「……別に。」
『燈矢さん。』
「何。」
『大学卒業したら、旅行したいんです。』
「急だな。」
『色んなところ行ってみたくて。』
「一人で?」
『誰かと。』
「ふーん。」
『燈矢さんは?』
「……。」
窓の外を眺める。
降り続く雨。
「……考えたことねぇ。」
『じゃあ、今考えてください。』
「は?」
『行きたい場所。』
「何で。」
『聞きたいから。』
「……。」
面倒くさそうな顔。
だけど。
「……海。」
『え?』
「静かなとこ。」
啓悟は目を細めた。
『いいですね。』
「別に。」
「俺も行きたいな。」
「……。」
『燈矢さんと。』
「は?」
燈矢が振り返る。
「何で俺。」
『だって、一緒に行ったら楽しそう。』
「意味分かんねぇ。」
『じゃあ、卒業旅行の候補ってことで。』
「勝手に決めんな。」
『はは。』
「笑うな。」
だけど。
不思議と嫌ではなかった。
むしろ。
「……馬鹿。」
そう呟きながら。
頭の中には、知らない景色が浮かんでいた。
青い海。
隣に立つ誰か。
風に揺れる赤い羽根。
「……っ。」
ズキリ。
『燈矢さん?』
「……何でもねぇ。」
最近、増えた。
夢。
知らない記憶。
そして。
啓悟といると、胸が騒ぐ。
「……なぁ。」
『はい?』
「お前。」
『?』
「本当に、俺と初対面か。」
啓悟の呼吸が止まる。
『どうして?』
「……分かんねぇ。」
燈矢は目を伏せた。
「でも、お前といると。」
言葉を探すように、ゆっくりと。
「懐かしい。」
啓悟の手が震えた。
『……。』
「何か、大事なもんを忘れてる気がする。」
『……。』
「それが、お前に関係してる気がする。」
静かな店内。
雨音だけが響く。
「……啓悟。」
名前を呼ばれる。
それだけで。
泣きそうになった。
『……今は。』
震える声で。
『今は、それで十分ですよ。』
「……。」
『無理に思い出さなくても。』
啓悟は笑った。
『こうして話せるだけで、嬉しいから。』
燈矢は何も言わなかった。
だけど。
「……。」
そっと。
カウンター越しに、小さな包みを差し出した。
『え?』
「クッキー。」
「……。」
「昨日焼きすぎた。」
『……嘘。』
「は?」
『俺の分ですよね。』
「違ぇ。」
『ありがとうございます。』
啓悟は笑った。
心から嬉しそうに。
「……。」
燈矢は視線を逸らした。
「……明日も来るのか。」
『来ます。』
即答だった。
『燈矢さんが嫌って言っても。』
「……。」
『だって、俺。』
啓悟はクッキーを大事そうに握る。
『燈矢さんといるの、好きだから。』
「……っ。」
一瞬。
胸が締め付けられた。
ーー(『……好きだよ。』)
誰かの声。
泣きそうな笑顔。
『……燈矢さん?』
「……帰れ。」
『えぇ!?』
「今日はもう閉店。」
『まだ一時間ありますよ!?』
「うるせぇ!」
顔を隠すように背を向ける燈矢。
耳は真っ赤だった。
『……また来ますね。』
「……好きにしろ。」
その声は。
少しだけ、柔らかかった。
カラン。
ドアベルが鳴る。
店を出た啓悟は、小さく笑った。
『……少しずつ、だね。』
前世では叶わなかった時間。
穏やかで。
温かい日常。
この幸せが続けばいい。
そう願いながら、空を見上げた。
いつの間にか、雨は止んでいた。
第6話へ続く
「『ただの常連』じゃ、いられなくなる日。」
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有難うございます😊
コメント
1件
あーもう、この回めっちゃ良かった……!雨宿りから始まる距離感の縮め方が自然で、燈矢のツンデレ具合がたまらんわ。「嫌いじゃねぇ」ってポロッと本音が出たとことか、クッキーを「焼きすぎた」って渡すとことか、全部優しさじゃん。啓悟が「燈矢さんといるの好き」って言った時の燈矢の反応、胸がギュッてなった。少しずつ記憶が戻りかけてる伏線も気になるし、この温かい日常がずっと続いてほしいって思わせる回だったわ。続き楽しみ!