テラーノベル
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月明かりに照らされた王都の屋根の上を、私は音もなく跳躍していた。
関節のバネと体幹の柔らかさを利用した『無音の跳躍(ゼロ・ステップ)』。さらに呼吸と心拍数を極限まで抑え、私は夜の闇そのものと同化する。
「影」の異名を持つ黒猫族の暗殺者、シオン・シャドウクロウ。
それが私だ。今夜は同業者の追手から逃れるため、屋根から屋根へと身を翻していた。
本来の私なら、あのような連中など容易く振り切れるはずなのだが。
(……っ!)
だが、今日は違った。着地するたび、太ももの内側に焼け付くような激痛が走る。
理由は明白だ。防御力と動きやすさを妥協して選んだ、硬い革製のタイトな戦闘用ズボン。それが動くたびに素肌と絶えず擦れ、ついに皮が剥けてしまったのである。『重度の股擦れ』だ。
暗殺者にとって「スピードの低下」は即ち死を意味する。
痛みに耐えきれず、瓦屋根の上でわずかに体勢を崩した瞬間。
ヒュッ、と風を切る鋭い音が響き、追手の放ったクロスボウの矢が私の肩を薄く掠めた。
「……っ!」
完全にバランスを崩した私は、夜の闇に紛れるように、路地裏の奥へと転がり落ちた。
受け身を取りながら転がり込んだ先は、営業を終えた隠れ家のような防具店だった。
カウンターの奥では、シックなレザーエプロンを身につけた男が一人で型紙を広げている。
男が目を向けるより早く、私は音もなく背後に回り込み、その首筋に冷たい短剣の刃を突きつけた。
「……声を出せば、殺すぞ。追っ手をやり過ごすまで、ここで大人しくしているのだ」
感情を一切交えない、プロフェッショナルな声。
緊迫した空気が流れる。普通の人間なら、刃の冷たさに震え上がり、悲鳴を上げるか命乞いをする場面だ。
しかし、その男は微塵も動揺することなく、ただ深々とため息を一つ吐いた。
「床に血が落ちていますよ。特殊な木材なので、染み込むと厄介なんです」
「は……?」
あまりにも場違いな男の言葉に、思わず毒気を抜かれる。
男は首元の刃を気にする素振りすら見せず、クルリと振り返った。そして、鋭い瞳で、私の『下半身』をジッと観察し始めたのだ。
「な、なにを見ているのだ……っ!」
慌てて身構える私に対し、男は、ただの物を分析するような、目つきで告げた。
「足音は消せていても、硬い革ズボンの『擦れる音』は消せていませんよ。耳のいい獣人なら、そのノイズだけであなたの位置を特定できる」
「……!」
さらに、男の視線は私の太ももの内側から滲み出た血のシミを正確に捉えた。
「それに……痛むでしょう、太ももの内側。摩擦を無視したその安物の装備が、あなたの命を削っている」
「なぜそれを……!」
自分の最大の弱点であり、誰にも言えなかった恥ずかしい悩み。それを一瞬で見抜かれた動揺で、私は思わず手から短剣を取り落としてしまった。
カラン、と乾いた音が床に響く。
男は落ちた短剣を足でそっと退けながら、自身の首から下げていたメジャーをスッと取り出した。
「人間用の量産品を無理に穿くからそうなる。獣人と人間では、骨盤の傾きも、股関節の可動域も違うというのに……仕立て屋に対する冒涜ですね」
男は私の太ももを指差し、容赦ない真顔で言い放った。
「明日も死なずに飛び回りたいなら、そのズボンを脱いで下半身の採寸をさせてください。私が、あなたの『重心』を矯正します」
「なっ……!?」
初めて会った人間に、いきなりズボンを脱げと言われた。
顔がカッと熱を帯びるのが自分でもわかる。お尻のあたりから生えた黒猫の尻尾が、ボンッ!と極限まで逆立ってしまっていた。
〇
「舐めるな、誰が脱ぐというのだ!」
私が牙を剥いて威嚇しても、鋭く理知的な黒い瞳をしたその男は全く動じなかった。
「なら、そのまま痛みに耐えて死になさい」
平坦な響きの中に、一切の反論を許さない狂気を孕んだ声だった。
……裏社会で生きてきたからこそわかる。他者の命にも、己の命にすらも頓着しない、こういう目をする人間にだけは決して逆らってはいけないのだと。
明日も生き延びて標的を仕留めるというプロの誇りと、太ももの内側を焼く激痛。その二つに抗いきれず、私は屈辱に唇を噛みながら、硬い革ズボンを脱ぎ捨てた。
「ヒップ八十八、大腿囲四十八……内股関節に重度の擦過傷」
無防備に晒された私の肌に対し、男は一切の劣情を抱くことなく、冷たい手とメジャーを這わせていく。得体の知れない羞恥心に煽られ、私はたまらず身悶えした。
「……へ、変な処を触るな! 殺すぞ!」
「殺すのは後でもできますが、大臀筋のサイズは今しか測れません。力を抜いて。……ひどい股擦れだ、よくこれで走れましたね」
私の殺気など初めから存在しないかのように、男の冷たい指先が私の『尻尾の付け根』へと触れる。
「ひんっ!?」
「人間用のズボンに適当な穴を開けただけですか。……獣人の尻尾は飾りじゃない、空中の姿勢制御を司る重要なバランサーだ。それをこんな窮屈な穴で締め付ければ、骨盤が歪むのは当然です」
「な……!? お前、人間なのに、なぜ獣人の身体の構造がわかるのだ……!」
私が驚愕の声を上げても、男は顔色一つ変えなかった。彼は無言のまま、氷結蚕の糸とスライム繊維を取り出し、淀みない手つきで仕立て始めた。
完成したのは、身体にぴったりと密着する奇妙な短い下着だった。
促されるままに穿いた瞬間、私は息を呑んだ。
太ももの内側に布が触れても全く痛くない。それどころか、腰回りがぴたりと支えられ、尻尾がどこにも引っかからずに自由に動かせる。理屈はわからないが、丹田のあたりに、自然と底知れぬ力が漲ってくるのを感じたのだ。
「尻尾の付け根(仙骨)を基準に、骨盤を黄金比の角度でホールドしました。摩擦係数は限りなくゼロです」
「嘘……。何も穿いてないみたいに軽いのに、下っ腹にすごい力が入る……! 尻尾も、自由なのだ……!」
私がその変化に震えている、まさにその時だった。
ガシャン! という甲高い音と共に店の窓ガラスが砕け散り、私を追ってきた敵対ギルドの暗殺者たちが雪崩れ込んできた。
「見つけたぞ、黒猫!」「逃げ場はないぞ!」
私の手元には、脱いだ硬い革ズボンが握られている。
「着替える時間はありませんよ」
男が背後で冷静に告げるが、私はそのズボンをぽいと投げ捨てた。
私は太ももが剥き出しになった短い下着に、上着だけを羽織っただけの姿で、二丁の短剣を構えた。腰回りが安定し、体幹のブレが消え去った今の私に、恐れるものは何もない。
眼前の獲物を睨み据え、本能のままに獰猛な笑みを深く刻む。
「なっ……なんだその格好は! 狂ったか!」
追っ手の一人が、私の姿を見て狼狽の声を上げた。
「……ズボン? そんな窮屈な『呪い』、もう二度と穿くものか。……これだけで十分なのだ!」
〇
床を蹴った瞬間、世界が置き去りにされた。
(は、速いのだ……!?)
驚愕したのは、他でもない私自身だった。太ももの内側を焼いていた激痛も、関節の可動域を狭めていた分厚い革の抵抗もない。ただ下半身の輪郭にぴったりと密着した短い下着だけが、私の身体を支えている。
関節のバネと体幹の柔らかさを利用した超高速の三次元機動『無音の跳躍(ゼロ・ステップ)』。そのエネルギーの全てが、一切の無駄なく十全の推力となって私を虚空へと射出した。
空中で敵の首筋へと毒刃を叩き込もうとした瞬間、背後の男の言葉が脳裏をよぎる。
『特殊な木材なので、染み込むと厄介なんです』
私は空中で手首を返し、逆手に持っていた短剣を刃から柄へと反転させる。
「……貴様らの汚い血で、この床を汚すわけにはいかないのだ」
夜の闇を切り裂く一閃。柄の底が先頭の男の鳩尾を完璧に打ち抜き、悲鳴を上げる間も与えずにその意識を深淵へと沈めた。
「なっ――!?」
「どこへ消え――がっ!?」
残りの男たちが狼狽の声を上げる。彼らの濁った視線は、私がとうに蹴り去った虚空を間抜けに彷徨うばかりだ。
床に降り立つことなく、私は壁や柱を蹴り、放たれた礫(つぶて)のように室内を乱反射して加速する。
二人目。背後に回り込み、延髄へ手刀を一閃。
三人目。頭上から落下するように死角から接近し、こめかみを柄で打ち抜く。
……遅い。彼らの動きが、まるで止まって見える。これが摩擦と痛みのない、私の本当のスピードなのか。
瞬きをする間に三人を沈め、そのまま床へ着地した私の視界の端。
仲間が瞬く間に蹂躙されたというのに、残る一人の男の口元には不敵な笑みがへばりついていた。
男は構えを低く落とし、双眸をぎらつかせる。
「狂った格好だと思えば……いい動きを見せるじゃねえか、黒猫。だが、いつまでその足が保つ?」
「……貴様の心臓が、次の鼓動を打つまでだ」
「抜かせッ!」
床板が軋む音。男が踏み込んでくる。
私も再び壁を蹴った。視界が急速に狭まり、世界が二人の輪郭だけを切り取る。
刃と刃が交錯する。暗闇の中で火花が弾け、鼓膜を劈く金属音が連続して爆ぜた。
一撃、二撃、三撃。男の連撃は重く鋭い。切っ先が私の鼻先を、眼球を、喉元をミリ単位で掠めていく。
首筋を冷たい汗が伝い落ちる。しかし、私の肺はかつてないほどに深く、静かな呼吸を繰り返していた。
(速い。だが――見える)
男の呼気がわずかに乱れた瞬間、私は関節のバネを極限まで圧縮した。
最速の『無音の跳躍(ゼロ・ステップ)』
狙うは奴の死角、頭上の虚空。
しかし。
「そこだッ!!」
男の口元の笑みが、さらに深く裂けた。
奴は私の動きを初めから誘導していたのだ。着地点に向けて、不可避の刃を突き出してくる。
鼓動が跳ね上がる。全身の毛穴が粟立ち、視界がぐにゃりと歪む。時間の流れが泥のように遅くなった。
切っ先が、私の喉仏まで一寸に迫る。
空中に放り出された無防備な肉体。あの窮屈な革ズボンのままなら、空中で体勢を変えることができず、刃に肉を貫かれる鈍い感触を味わっていただろう。
だが。
今の私の太ももには何の摩擦もない。腰には無限の力が漲り、丹田から指先までが一本の線のように繋がっている。
そして何より、あの忌まわしい「尻尾穴」から解放された私の尻尾が、空中で完璧な舵として機能していた。
今ならできる。
空中で、筋肉の連鎖が爆発する。
摩擦という世界からの完全に解き放たれた、究極の歩法。
【絶死領域(ゼロ・フリクション)】
「なっ……消え、た……!?」
男の刃が空を切る。
私自身ですら己の輪郭を見失うほどの加速で刃をすり抜け、私は奴の死角へと回り込んだ。そのまま流れるような連撃で手刀を叩き込む。
男の白眼が剥き出しになり、糸の切れた操り人形のように崩れ落ちていく。
ドサリ、と鈍い音だけが店内に響き渡った。
床には一滴の血も落ちていない。静寂を取り戻した空間に、私は音もなく着地した。
太ももの内側は全く擦れていない。激しい機動の後でも心音は一定のリズムを刻み続けている。
私は自身の両手を見つめる。指先が、微かな熱を帯びて震えていた。
ゆっくりと視線を下げ、薄く柔らかな下着にそっと触れる。
「嘘だ……本当に、これが私なのか……?」
「お見事。床への配慮も感謝します」
背後から、感情の起伏がない平坦な声が響く。振り返ると、私の全てを見透かしてくるような瞳をした男が、ゆっくりと歩み寄ってくるところだった。
〇
数日後
静まり返った店内。トウヤはカウンター越しに深いため息をつき、頭上の梁を見上げた。
「用は済んだはずです。いつまでそこにいるつもりですか」
梁の上に鎮座するシオンは不満げに鼻を鳴らす。
「心外だな。私は護衛をしているのだ」
「頼んだ覚えはありませんがね」
「……ギルドの報復を舐めるな」
シオンの表情から、熱が消えた。
「腕利きの四人が戻らなかった場所だ。ギルドは既に、この店とお前をマークしている。近いうちに必ず探りを入れてくるのだ」
彼女の冷たい瞳が、トウヤを真っ直ぐに射抜く。
「ただの仕立て屋であるお前が生き残れる確率は、ゼロだ。私は恩人を危険な目に遭わせるつもりはない。お前の命は、私が責任を持って守る」
「……やれやれ。勝手な理屈を」
トウヤは視線をカウンターの上の布地へと落とし、日常の裁断作業へと戻っていく。
こうして『隠れ家防具店トウヤ』に、奇妙な居候が居つくことになった。
コメント
1件
おお、これは新しい感覚のバトルファンタジーだね。股擦れという超地味な悩みから始まるのに、そこから装備の理屈が緻密に組み立てられて、戦闘スタイルが劇的に変わる流れがめちゃくちゃ爽快だった。トウヤが「獣人の骨盤の傾きも股関節の可動域も違う」って言い切るあたり、世界観の設計が丁寧に考えられてて好きだな。シオンの「窮屈な呪い、もう二度と穿くものか」って台詞に思わずニヤリ。続きが気になるー!