テラーノベル
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坑道の奥から、冷え切った空気が絶え間なく吹き上げてくる。
魔石灯の淡い光が届く範囲はわずかで、その先には濃密な闇が沈んでいた。汗と土埃、かすかな鉄錆の匂いが入り混じり、吸い込むたびに喉の奥へざらついた感触を残していく。岩壁を這う無数の影が、灯りの揺れに合わせて生き物のように蠢いていた。
十二年。この稼業に注ぎ込んできた歳月は、掌の皮を幾重にも厚くし、闇の中でも脈の位置をおおよそ嗅ぎ分けられるようにしてくれていた。鶴嘴が岩盤に食い込むたびに、ゴッ、ゴッという鈍い音が反響する。振動は柄を伝って掌へ、そして肩の奥にまで届いてきた。
(もう少しだ……もう少しで、脈が顔を出す……!)
目の前の岩肌に、かすかな銀色の筋が走っている。長年の勘が、はっきりと「ここだ」と告げていた。息を詰め、渾身の一撃を鶴嘴の切っ先に込めて振り下ろす。
その瞬間だった。
右肩の奥で、何かが焼けるように弾けた。
「――っ!?」
握力が、柄を握ったまま一瞬で抜け落ちる。狙いを外れた切っ先が岩盤の上を滑るように弾かれ、火花とともに鋭い破片が幾つも顔の近くまで飛び散った。頬を掠めた熱を、傷ではなく破片によるものだと理解したのは、跳ね上がった心臓が少し落ち着いてからのことだった。
「おいグレタ、大丈夫か!?」
近くで作業していた同僚が、血相を変えて駆け寄ってくる。
あたしは咄嗟に、笑ってみせた。
「あ、ああ! ちょっと手元が狂っただけだ、なんてことねえよ」
そう言いながら鶴嘴を握り直そうとするが、指先までじんわりと痺れが残っていて、思うように力が入らない。
……嘘だ。
これで、三度目だ。この一ヶ月で。
握力が唐突に抜け落ちる、あの感覚。最初は、疲れが溜まっているだけだと思っていた。二度目は、寝違えたせいだと無理やり自分を納得させた。だが、三度目ともなれば、もう誤魔化しようがない。
もし今の一撃が、あと少しでも支保工へ逸れていたら――。
考えかけて、無理やり思考を打ち切った。十二年、この稼業でやってきたんだ。これしきの違和感、気合いでどうにかなる。そう自分に言い聞かせながらも、拭いきれない不安だけが、胸の奥にざらりとした感触を残していった。
○
その日の午後、あたしはいつも通りの調子を装いながら、「隠れ家防具店トウヤ」の扉を潜った。
職人街の喧騒から一歩入っただけで、店の中は驚くほど静かだった。整然と並べられた工具、糸の匂い、そして絶え間なく続く裁断の音。坑道の重苦しい空気とはまるで違う、張り詰めた静けさが漂っている。
カラン、と乾いた音を立ててベルが鳴る。
「よお、トウヤ! 待たせたな。今月は当たり鉱脈を引き当ててよ、サービスで上物の魔鉱石を多めに持ってきてやったぜ。感謝しな!」
肩に担いだ麻袋を景気よく叩きながら、カウンターへと声を張った。
「いつもありがとうございます。荷はそちらへ」
顔も上げずに応じるトウヤ。カウンターの奥で、相変わらず涼しい顔をして手元の布地を裁っている。その所作には、一切の無駄がなかった。
「相変わらず愛想のねえ野郎だな……。そういや先月言ってた通り、とうとう鎧を新調したぜ。前のは十年選手で、いい加減あちこちガタがきてたからな」
肩を回しながら、あたしは軽い調子で言った。今朝の一件など、なかったことにするつもりで。
「そうですか」
軽く相槌を打つその声色に、変わったところは何もない。だが、このときあたしはまだ気づいていなかった。トウヤの視線が、いつの間にかあたしの一挙一動を静かに追い始めていたことに。
「ギルド支給の量産品だが、頑丈さだけは折り紙付きだ。よっと……」
床に置いていた二袋目の麻袋を担ぎ上げようとした、その瞬間。
「グレタさん。今、荷を持ち上げる直前に、右足を半歩引きましたね」
手が止まった。
「あ? なんだよ急に。荷運びなんざ、いちいち意識してねえよ」
「意識していないから問題なんです。……おそらくその新しい鎧に替えてから、でしょうね」
胸の奥で、今朝の火花がふと蘇る。手のひらに、まだ微かな痺れが残っている気がした。
「あ? いや、まだひと月かそこらだぞ。そんなにすぐ分かるもんなのか」
トウヤはようやく手元の作業から顔を上げ、椅子から立ち上がった。レザーエプロンの上で、首から下げたメジャーが小さく揺れる。その動きだけで、なぜか背筋が伸びるような気がした。
「利き腕側の三角筋が、既にわずかに萎縮し始めています。それに、右のブーツの踵の削れ方が、先月までとは明らかに変わっている」
「は? なんだよ、いきなり」
「新しい採掘鎧の肩当てのカーブが、あなたの骨格に対して2センチほどズレているんですよ。荷を担ぐたび、無意識に身体を左へ逃がしている」
「な……たかが2センチで、そんなことになるかよ」
「たかが2センチでも、一日に何百回と繰り返せば、話は別です。このペースであと半年、一年と使い続ければ、右肩の腱を痛め、鶴嘴を持ち上げることすら満足にできなくなりますよ」
――今朝の、あれか。もう少しで、あの破片が顔に来てた。
背筋に冷たいものが走った。淡々と紡がれる言葉の一つ一つが、今朝の光景と正確に重なっていく。
「……お、おいおい、大げさだろ。あたしはガキの頃からこの稼業だぜ。多少の無理くらい慣れっこだ」
「今のはまだ『慣れ』で誤魔化せる段階です。……ですが、放っておけば、来月にはもう誤魔化せなくなりますよ」
淡々とした声だった。だが、その平坦さがかえって、得体のしれない重みを持っていた。
「うるせえな……。じゃあなんだよ、あたしにどうしろってんだ」
「見せてください。今すぐ、正確な数値を取ります」
「は……ちょ、待て待て! あたしは荷を届けに来ただけだぞ! 採寸なんて頼んでねえ!」
「頼まれてする仕事ではありません。私が、必要だと判断しただけです」
「く……お前、昔からそういうとこ強引なんだよ……」
言い返す言葉が、それ以上出てこなかった。
○
観念したあたしは、舌打ち一つを残し、トウヤの後についてフィッティングルームへと向かった。
厚い布で仕切られただけの、狭い空間。外の喧騒が嘘のように遠のき、ランプの淡い光だけが、剥き出しの木の床を照らし出している。
……正直に言えば。
今朝のことを、誰にも言えずに一人で抱え込んでいた。仲間に要らぬ心配をかけたくない。ギルドに知られれば、下手をすれば現場を外される。そう思うと、誰にも相談できずにいたのだ。
だから――こうして無理やりにでも見抜かれたことに、心のどこかでほんの少しだけ、ホッとしている自分がいる。認めたくは、ないが。
「じ、じゃあ上だけでいいんだろ? さっさと済ませちまってくれ」
虚勢を張るように腕まくりをし、フィッティングルームの中央で仁王立ちに待ち構える。
こちとら十二年、鶴嘴一本で岩盤と渡り合ってきた身体だ。多少の採寸如きで臆する道理はない。
そのはずだった。
脱いだ上着を無造作に椅子へ放り、詰め襟のシャツにも手をかける。日焼けと土埃に染まった首筋から、鎖骨、そして肩へと続く肌が、ランプの光の下に晒されていく。長年の労働で刻まれた、薄く白い傷跡が幾つか。硬く盛り上がった三角筋の稜線が、女にしては、と誰もが二度見するような逞しさを物語っていた。
だが――その逞しさとは裏腹に、いざシャツを肩から滑り落とした瞬間、あたしは柄にもなく、無意識に片腕で身体の前を庇うように動いていた。
(……なんだ、この感覚)
魔物と対峙することにも、崩落の危険と隣り合わせで岩を穿つことにも、恐れなど微塵も抱いたことはない。それなのに、たかが着替え一つで、こんなにも落ち着かない気持ちになるとは。
トウヤが、無言で首から下げていたメジャーを外す。
迷いのない、まっすぐな足取りで距離を詰めてくる。
その気迫にあてられ、屈強なはずの身体が思わず一歩、後ずさってしまった。
「……っ、ま、待て。近い、近いって!」
「動かないでください。正確な数値が取れません」
「そ、そうは言ってもよぉ……」
トウヤの指先が、あたしの肩甲骨の輪郭をなぞるように、そっと触れた。
冷たい指先が肌に触れた瞬間、ぞわりとした感覚が背筋を駆け上がる。
「ひゃっ……!?」
指先が肩甲骨の輪郭をなぞった、その瞬間。
自分の喉から飛び出した声に、誰よりもあたし自身が驚いていた。
(な、なんだ今の声……! あたしゃこんな声、出したことねえぞ……!)
落盤に巻き込まれかけたことも、坑道の奥で魔物と鉢合わせたことも、一度や二度じゃない。数えきれないほどの修羅場をくぐり抜けてきたこの身体が、たかが指先一本の感触にこれほど動揺するとは思ってもみなかった。
顔から火が出るとはこのことだ。耳の先まで、燃えるように熱くなっていくのがわかる。冷たいはずの指先が触れたあとに、なぜか肌の奥がじんわりと熱を持つ。汗ばんだ首筋を、夜風とは違う何かがすっと撫でていくような、落ち着かない感覚だった。
だが、目の前の男は、そんなあたしの羞恥になどまるで頓着していなかった。
「動かないでください。……肩甲骨の可動域、右は左より約15%低下していますね。それに、僧帽筋の張り方が左右非対称だ」
淡々と数値を読み上げていく声。指先は迷いなく背中を這い、肩甲骨の縁をなぞり、肩口の筋の張りを確かめるように押していく。その一つ一つの動きに、腕を庇っていた身体がびくりと反応してしまう。
「な……なんでそんな細けえとこまで分かるんだよ……っ。て、つうか、そんなジロジロ見んな! 照れるだろうが!」
「見ているのは数値だけです。それの何が恥ずかしいんですか」
「そういう問題じゃねえんだよ……! 鉱山の連中にだって、こんな細かく身体触られたことなんて、一度もねえっつうの……」
言葉にするごとに、自分でも呆れるほど声が小さくなっていく。剥き出しの肩に感じる室内の空気の冷たさすら、今はやけに意識させられた。
「……この2センチのズレを放置していれば、半年後にはあなたの右半身を確実に蝕んでいたところです」
その一言で、頭の芯がすっと冷えた。
――今朝の、あれか。あと少しで、あの破片が顔に来てた。
火花が飛び散った瞬間の光景が、鮮明に蘇る。もしあの一撃が、もう少し逸れていたら。
「……ああ。分かってるよ、分かってるけどよぉ……」
急に大人しくなったあたしに、トウヤは眉一つ動かさない。指先は変わらず肩甲骨の周りを丁寧に辿り、時折、押した箇所の反応を確かめるように少し力を込める。そのたびに、なぜか息が詰まった。
「肩の力を抜いてください。このままでは正確な僧帽筋の測定ができません」
「わ、分かってるって……」
力を抜こうとするたびに、指先の冷たい感触ばかりが意識されて、うまく抜けなかった。剥き出しの背に、彼の吐息の気配すら近く感じてしまう。恥ずかしさを押し隠すように、あたしはきつく唇を噛んだ。
○
一通りの採寸を終えると、トウヤは作業台に向き直った。
よく見かける、透き通ったゼリーのような伸縮糸や繊細なスライム繊維に手を伸ばすことはない。代わりに選び出したのは、頑丈な革素材と、鈍い光沢を放つ弾力のある魔繊維。女性らしい曲線を強調する意匠など欠片もない、ひたすらに「重みを支え、分散させる」ことだけを目的とした武骨な生地だった。
カーテンの外で所在なく待つ間、あたしは上着を羽織り直すこともせず、しばらく自分の肩を見下ろしていた。
さっきまで指が這っていた場所に、まだ微かな熱の残滓がある気がする。日に焼けた肌にくっきりと浮かぶ、鶴嘴を長年振るってきた証のような筋肉の輪郭。それを、あんなにも丹念に、まるで宝物でも扱うように観察されたのは、初めての経験だった。
(……とんでもねえ目をしてやがる)
坑道の暗闇で十二年培ってきた己の勘よりも、よほど鋭い何かを、この男は持っている。悔しさより先に、妙な感嘆が込み上げてきた。
程なくして、トウヤがカーテンの向こうから戻ってくる。手にしていたのは、肩から脇腹、背中の中央にかけてをぐるりと覆う、一見すると地味な革製のインナーだった。
「着けてみてください」
差し出されたそれに袖を通し、背中の留め具を締める。露わになっていた背中が、ふわりとした生地に包まれていく感触に、思わず小さく息を漏らした。
その瞬間。
「……お、おお?」
思わず、間の抜けた声が漏れた。
「どうです」
「い、いや、待て。……何も感じねえぞ? 着けてる感じがしねえっていうか……」
肩に、重みがまるでない。それでいて、身体の芯にはしっかりとした支えの感触がある。今まで感じたことのない、不思議な軽さだった。
「それでいいんです。試しに、そこの荷袋を持ち上げてみてください」
言われるがまま、傍らの麻袋へと手を伸ばす。いつもの癖で無意識に右肩を庇いながら、ぐっと持ち上げた。
――来ない。
今朝あれほど恐れていた、あの握力の抜ける感覚が、一切、来ない。
「……は? なんだこれ……。今朝みたいに、握力が抜ける感じが……一切、来ねえ……」
麻袋を担いだまま、あたしはその場に立ち尽くした。
「重量を肩の一点で受け止めるのではなく、背中の広背筋全体に分散させる構造にしました。……新しい鎧に、身体の方を壊される前に、間に合わせただけです」
事もなげに言い放つトウヤ。
あたしは信じられない思いで、何度も肩を回してみる。軋みも、痛みも、あの焼けるような感覚も、もうどこにもなかった。
「嘘だろ……。今朝のあの一瞬、正直、ちっと怖かったんだ。……こんなにあっさり、消えちまうもんなのか」
誰にも言えずに一人で抱え込んでいた恐怖が、こんなにもあっけなく消えていく。その事実に、胸の奥が熱くなった。
「あと十年は、鶴嘴を振れますよ」
その一言に、不覚にも視界が滲みそうになる。
慌てて誤魔化すように、あたしは豪快に笑ってみせた。
「は、はっ! 大げさなんだよ、お前は!……だが、まあ……悪くねえ」
〇
数日後。
薄暗い坑道の奥、いつもの持ち場。魔石灯の淡い光の中、目の前の岩壁には見覚えのある銀色の脈が走っていた。
今日は、不安がない。
鶴嘴を構え、狙いを定める。渾身の一撃を、迷いなく振り下ろす。
――来ない。
あの焼けるような痛みも、握力の抜ける感覚も、微塵も来ない。
一振り、また一振り。鶴嘴の刃先が、吸い込まれるように岩壁へと突き刺さっていく。いつもなら痛みを庇って無意識に加減してしまう振りが、今日は最後まで鈍ることなく続いていく。
額に浮かぶ汗は、疲労のものではなかった。久方ぶりに己の全力を出し切っているという、忘れかけていた高揚感からくるものだった。
「おい、グレタ! お前、今日どうしたんだよ。もう三時間も休憩なしじゃねえか」
あの日、心配して駆け寄ってきた同僚が、異様な勢いに気づいて声をかけてくる。
「あ? 言われてみりゃそうだな。……いつもならとっくに肩が悲鳴上げてる頃合いだが」
そう言いながら、自分でも驚くほど身体が軽いことに、今更ながら気づかされる。
「そういや、この前ヒヤッとしてただろ。あれから大丈夫なのか」
「ああ、あれか。……なに、いい防具屋を見つけたから大丈夫だ」
軽く肩を回し、あたしはにやりと笑ってみせた。
「よし、もう一往復いくか」
普段の倍近いペースで麻袋を次々と担ぎ上げ、運び出していく。その様子を、通りかかったギルドマスターが目を丸くして見つめていた。
○
数週間後。定期納品の日。
いつもより一回り大きな荷馬車を引いて、あたしは意気揚々と店の扉を潜った。足取りは軽く、担ぎ上げる麻袋の数も以前とは比べ物にならないほど増えている。
カウンターに荷を下ろすなり、堪えきれずに口を開いた。
「おいトウヤ、聞いてくれ! 先月の採掘量、組合創設以来の個人記録更新しちまったよ!」
「それは何より」
顔も上げずに応じるトウヤ。だが、そのわずかな口元には、確かな満足の色が浮かんでいるように見えた。
「ギルドマスターの奴、記録見て二度見してやがった。”お前、裏で何かやってんじゃねえだろうな”って真顔で聞いてきやがってよ!」
「正直に答えたんですか」
「言えるかよそんなこと! ”腕が上がってきただけだ”って誤魔化しといた」
荷を下ろしながら、あたしは上機嫌に肩を回してみせる。
「いやー、それにしても効くもんだな、あの下地着。もう手放せねえよ」
「それは何よりです。……ちなみに、着用から数週間経ちましたが、締め付けに変化はありませんか? 念のため、再採寸を」
ピタリと、あたしの動きが止まった。
耳の先まで、再び熱が集まってくる。肩甲骨に触れられた、あの日の感触が、なぜか鮮明に蘇ってしまう。
「……っ、そ、それはまた今度でいい! 今日はただの納品だ、納品!」
そそくさと荷だけを置き、逃げるようにして店を後にする。
その背中を、トウヤは特に気にする様子もなく見送り、静かに裁断の作業へと戻っていった。
コメント
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わあ、グレタさんの内面の揺れ動きがめちゃくちゃ丁寧に描かれていて、読んでてグッと来ました…!採寸のあのシーン、屈強なベテラン坑夫がまさかあんなに慌てるなんて思わなくて、思わず声出して笑っちゃいました(笑)"ひゃっ"は反則ですよ〜。そのギャップがすごく可愛くて、トウヤさんの静かなプロフェッショナルっぷりとの対比が絶妙でした。インナーひとつで身体の不調が消えるあの解決も、無理のない専門性で痛快だったし、何よりグレタさんがまた坑道に元気に戻っていくラストが清々しかったです。続き、すごく気になります…!