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#不倫
#離婚
四畳半の壁に染み付いたカビの臭いと、薄い壁越しに絶え間なく聞こえる隣人の汚い咳払い。
俺は、ひび割れたスマホの画面を凝視しながら、暗い部屋で一人震えていた。
「……なんだよ、この飯。これが500円もするのかよ」
目の前にあるのは、コンビニの見切り品ですらない
半額シールさえ貼られないまま放置されたような冷え切った安弁当。
かつて俺が「汚い飯」「手抜きだ」と吐き捨てた
美咲が作っていたあの具沢山の豚汁や焼き魚が、今では手の届かない贅沢品にさえ思える。
手元に残る金は、飯場の男たちにギャンブルや酒で毟り取られた後の、わずか数千円。
「美咲……美咲さえいれば、こんなことには……」
極限の空腹と孤独は、俺の脳を狂わせた。
俺は、作業現場の事務所からこっそり盗み出した古い名簿と、唯一解約されずに残っていた───
今思えば、あいつが俺を監視するために
あえて残した餌だったんであろうSNSのアカウントを使い、禁断の行動に出ることにした。
「……そうだ。あいつ、女性専用マンションの経営をしてるんだろ?だったら、そこに『俺が元夫だ』ってバラしてやる。あいつの化けの皮を剥いで、泥を塗って、金をむしり取ってやるんだ」
俺は、美咲が運営するマンションの住所を特定し、夜陰に乗じて這い出した。
ボロボロの作業着に、伸び放題の不潔な髭。
かつての「エリート課長代理」の面影は微塵もなく、鏡に映る自分は、ただの不審者そのものだった。
だが、今の俺にはそれすら武器に思えた。
俺はマンションの裏口に張り込み、美咲が現れるのをじっと待った。
数時間後、エントランスから一台の高級車が現れる。
中から降りてきたのは、凛とした表情でスタッフと談笑する
見違えるほど美しく、輝いている美咲だった。
「……美咲ッ!!」
俺は獣のような声を上げ、植え込みから飛び出した。
「お前、いいご身分だな! 俺をこんな目に遭わせて、自分だけ幸せになれると思うなよ!金をよこせ!従わないからここが不倫女の隠れ家だって言い触らして、ぶち壊してやる!」
美咲は驚くこともなく、静かに俺を見つめた。
その瞳には、怒りすらなく、ただ深い「蔑み」だけが宿っていた。
ゴミを見るよりも冷たい、絶対的な拒絶。
「……透さん。あなた、まだ自分がどこにいるか分かっていないのね」
「あ? 何を言って──」
俺が美咲の細い腕を掴もうとした瞬間
周囲に潜んでいた私服警備員たちが、背後から一斉に俺を取り押さえた。
アスファルトに顔を叩きつけられ、砂利の味が口に広がる。
「無駄よ。あなたの行動は、飯場を出た時からすべて把握されていたわ。……不法侵入、およびストーカー規制法違反」
「それに、現場から備品を盗み出したわね? 管理人さんからすでに連絡が来ているわよ」
「な……!?お前、俺をハメたのか!」
「いいえ。あなたが勝手に、自分の『身の丈』以下の行動を取っただけ。…透さん、これであなたは『月5万』の生活さえ、手放すことになるわね」
遠くから、警察車両のサイレンが近づいてくる。
俺は地面に顔を押し付けられながら、美咲の磨き上げられた靴を見上げた。
かつて自分が「跪いて感謝しろ」と命じた妻が
今は手の届かない高みから、俺を害虫のように見下ろしている。
「待ってくれ! 美咲! 俺が悪かった!やり直そう、月何万でもいい!やりくりするから、お願いだ!」
無様な叫びは、冷たい夜の街に虚しく消えた。
再犯、そして執行猶予中の犯行。俺を待っているのは
前回の比ではない、さらに過酷な「収容生活」だという現実が、冷たく脳裏をかすめる。
連行されるパトカーの窓越しに、美咲が誰かと電話をしているのが見えた。
その表情は、もう俺のことなど一秒も考えていない、晴れやかなものだった。