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「やっと寝たよ、絵本を読めばすぐ寝ると思ってたけど、そうじゃなかった。なかなか手強いな」
「そうだよ、こっちの都合は考えてくれないからね……ってか今頃そんなこと言う?圭太を寝かしつけるなんて、したことなかったってことだよね」
耳が痛いセリフだが、これまでは圭太のことは全部杏奈に任せっきりだった。
専業主婦なんだからとそれが当たり前だと思い上がりがあった気がする。
「そうだな、俺は何にも見てなかったってことだ。父親なのにな」
「え、あ、まぁ、これから見てくれればいいよ」
「そうするよ。で、そのことなんだけど」
杏奈が記入していた離婚届に、俺も全て記入した。
これを提出すれば、離婚成立。
「書いてくれたんだね」
「うん、いますぐに圭太と2人でここを出て行くと言うのならちょっと待ってって止めたけどね。昨日言ってた杏奈の提案に乗らせてもらうなら、暮らしとしては何も変わらないから、それならせめて杏奈の気持ちが軽くなるように、届けはきちんとしておこうと思ったんだ」
「うん」
杏奈は離婚届をじっと見つめている。
「これを役所に持っていけば、法律上は夫婦じゃなくなる。でもその前に約束ごとを決めておくべきじゃないかな?」
「うん、そうだね。その方がいいね。あ、お茶を淹れるからちょっと待ってて
。熱いのがいい?冷たいのもあるよ、烏龍茶だけど」
「じゃ、あったかいの、頼むよ」
お茶が入ったマグカップが、テーブルに置かれた。
「あれから俺も考えたんだ。杏奈にも嫌な思いをさせて、圭太には怪我までさせた……ひどいヤツだよ、俺は。調子に乗ってたんだろうな。これからは、家族としての役目をきちんと果たそうと思う。入院した時に杏奈と圭太が駆けつけてくれたこと、たいしたことがないとわかって“よかった”と言ってくれたこと、うれしかったよ。俺はなんてバカなことをしたんだって情けなくて申し訳なくてさ……」
俺の話を聞きながら、杏奈はゆっくりとお茶を飲んでいる。
「私もね、雅史なんかいなくても圭太さえいればいいと思ってたんだけど、雅史が倒れたと連絡があったときは、どうしていいかわからなかった。で、たいしたことないとわかったときは、本心からよかったと思ったんだよ、不思議だよね」
_____杏奈は俺のことなどどうなってもいいと思ってるはずだと、俺は思い込んでいた
だから“不思議だよね”、と言う杏奈の気持ちがわかる。
「俺さぁ、杏奈に甘えていたんだろうな、というか甘えたかったのかもしれないな、圭太みたいにさ」
照れ臭いけれど、本心からそう思っていた。
「え?何言ってるの?」
びっくりしたような顔をして、その後クスクスと笑い出した。
「おかしいよな、大の大人のくせに。杏奈に俺のことを構ってほしかったのかもしれない。だからって浮気は許されることじゃないけど」
「私ももっと頼りたかったよ、雅史の仕事が忙しいのはわかってたつもりだったけど、ワンオペは余裕なんてなかったし」
もっと早く、こんなふうにきちんと向き合っていたら、杏奈の気持ちを理解しようとしていたら、不倫なんかしなかっただろうし離婚にはならなかったかもしれない。
すべては、思い上がった俺の浅はかさが招いたことだ。
「それでさ、離婚はするけど本当にこのままの生活でいいかな?このままここに住んでも?」
杏奈がもう一度確認してきた。
「それは俺が訊きたい、ホントは俺の顔なんか見たくもないんじゃないのか?慰謝料さえ出せれば、出て行きたいんだろ?」
「それも考えた、でも、それは無理。圭太にも離婚のことをうまく説明できないし、圭太にはお父さんが必要なんだよ。それにね、働こうと目星をつけてるところがここから近いの、新しく部屋を探す時間もお金も節約したいから」
「え?働くのか?」
いつのまにそんなことまで準備したのだろうか。
「そうよ、離婚したら正社員になれるところを探すつもり。でも、このまま暮らして、雅史が父親としていてくれたら私はすごく助かる」
「それはもちろん!できる限りのことはするよ、保育園の送迎とかさ、家事も手伝うし」
「じゃあ、決まり!それから姓は変えないから、それでいい?」
「いいけど、それじゃ離婚の意味が……」
「意味?私の気持ちの問題だから。あなたの妻ではない、その保証みたいなものが欲しいだけかも」
杏奈が言っていることを、もう一度自分の中でまとめてみる。
離婚届は提出するから、法律上は夫婦ではない。
でも、生活は今までと変わらないから、慌てて何かをする必要もない。
今の俺の仕事の状況だと、杏奈の提案はとても助かる。
圭太を育てるために、父と母として暮らしていくということなのだろう。
「夫婦じゃないけど、家族ってことだね」
「そう、三人家族で暮らしていきたい」
「わかった。じゃあ、約束してくれ。もしもどちらかにその……再婚してもいい人が現れたら、その時は……」
「“その時”は、別々に暮らしましょう」
杏奈だって自由に生きる権利がある。
もしもそんな時がきたら、気持ちよく見送ろう。
そのためには、早く慰謝料や養育費を渡せるように頑張るしかないな、と決意した。