テラーノベル
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#お仕事
#秘密
俺は、俺の足で走るために、この競技を始めたはずだ。
「お前ごときに、俺の命を支配されてたまるかあっ!」
走りながら文字盤を叩く。
液晶が割れ、鋭い感触が指先に刺さる。それでも叩く。
バンドを力任せに引きちぎる。
固いシリコンが皮膚を削り、血が滲んだ。
皮膚の下を流れていた光の筋が、バンドが外れた瞬間に弾けた。
手首に鋭い痛みが走る。
本物の痛みだった。久しぶりの、生身の痛みだった。
手首から剥ぎ取ったスマートウォッチを、全力で谷底へ投げ捨てた。
その瞬間。
頭の中で、何かの接続が切れたような感覚があった。
世界を覆っていた霧が、一瞬で消える。死者たちの足音がかき消える。
翼は1人、夜の山の斜面に立っていた。
月明かりの下、本物の登山道が白く細い筋となって続いていた。
折れた枝。踏み固められた土。木の根が浮き上がった段差。
全部、現実の触感を持っていた。
死者の集団も、前方のランナーも、消えていた。
残っているのは、月夜の山の静けさと、遠くで鳴く生き物の声と、自分の荒い呼吸だけだった。
「あぁぁぁぁっ!!」
凄まじい痛みが、遅れて全身を貫いた。
怪異に飲まれていた間、感じなかった痛みが一気に押し寄せる。
限界を超えて動き続けた両足が、乾いた音を立てた。
アキレス腱が切れる音を、翼は生まれて初めて聞いた。
斜面に叩きつけられ、泥と砂利の上をのたうちまわった。
転がった先の地面に頬をつけ、ぬかるんだ土の冷たさを感じながら、意識を手放すまいとした。
死にたくない。ただそれだけを思いながら、救助を求めて叫び続けた。
声が枯れても、叫んだ。
谷底に落ちたスマートウォッチから、か細い電子音が這い上がってくるのを、意識を失う間際に聞いた。
数ヶ月後。
翼は薄暗い自宅の寝室にいた。
あの日、声を聞きつけた登山客が通報し、救助隊に発見されて命は取り留めた。
しかし代償は大きかった。
両足のアキレス腱は完全断裂。
再建手術を経てもなお、山を走ることはおろか、坂道をまともに歩くことも難しい体になっていた。
競技人生は、静かに、そして完全に終わった。
リハビリの日々は、奇妙な静けさの中に過ぎていった。
デバイスがない。数値がない。毎朝のVO2Maxアラートもない。
最初の1週間は、それだけで不安で仕方がなかった。
手首が軽すぎて、何かを忘れているような感覚が抜けなかった。
しかし1ヶ月が経ち、2ヶ月が経つうちに、気づいた。
自分の体の感覚が、少しずつ戻ってきている。
今日は脚が重い。肩が凝っている。よく眠れた。
そういう当たり前のことを、数字ではなく、体そのものが教えてくれるようになっていた。
自分は何年もかけて、体の声を聞く力を失っていたのだと、静かに思った。
スマートウォッチはもう持っていない。フィットネスアプリも、全部消した。
深夜2時。
枕元のスマートフォンが、聞き覚えのある電子音を鳴らした。
「ピピッ」
画面が点灯する。
それは、かつて使っていたフィットネスアプリからの通知だった。
退会処理は済ませたはずだった。アプリも削除したはずだった。
なのに、その通知は確かに、翼のスマートフォンの画面に浮かんでいた。
『近隣にいるワークアウト中の友だち:1名』
心臓が嫌な跳ね方をした。
友だちは全員解除した。退会処理もした。なのにこの通知が、深夜2時に来た。
震える指で画面をタップし、マップを開く。
そこには、翼の自宅のGPSピンに向かって、恐ろしいほどのハイペースで直進してくる、もう1つの「青いドット」が映し出されていた。
迷いがない。ブレがない。
ずっと前から目的地を知っていたかのように、一直線に。
そのドットには名前がなかった。アイコンもなかった。
ただ「青い点」だけが、画面の上を動いていた。
計測されているペースが、目に入った。
時速15キロ。
あの夜、霧の中の背中を追ったときと、まったく同じ速度だった。
『あなたとの距離:あと300メートル』
静まり返った深夜の住宅街に、規則正しい足音が響き始める。
アスファルトを踏む音とは微妙に違う。もっと乾いていて、もっと軽い。
まるで何かを「模倣している」かのような音。
リズムは完璧だった。乱れがなかった。疲れる様子がなかった。
生き物の走り方ではなかった。
『あなたとの距離:あと30メートル』
足音が、自宅の真下で止まった。
翼はベッドの中で動けなかった。
立ち上がりたかった。カーテンを閉めたかった。もう一度、その画面を消したかった。
だが、ベッドの中で身体がまったく言うことを聞かなかった。
沈黙。
スマートフォンが、最後の通知を弾き出した。
『ターゲットを検知しました。ペーシングを開始します。残り ∞ キロ』
ベランダの壁を、「トン」と叩く音がした。
1度。
正確な間を置いて、2度。
それは完璧な、時速15キロのピッチだった。
翼はただ、次の音が来るのを、静かに待った。
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