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特別編
第三章 「わかんない」が一番つらい
カタン。
小さな物音を聞いた千景と遥は、急いで二階へ向かった。
「ちーちゃん。」
コンコン、と優しくドアを叩く。
返事はない。
「入るね。」
静かにドアを開けると、部屋の明かりは消えたまま。
月明かりだけが、ベッドを淡く照らしていた。
「……。」
千弥は眠っていた。
けれど。
ぎゅっと布団を握りしめ、小さく眉を寄せている。
「苦しい夢を見てるのかな……。」
遥が小さな声で呟く。
千景はベッドのそばへしゃがみ込み、額へそっと手を当てた。
熱はない。
呼吸も落ち着いている。
それでも、寝顔はどこか苦しそうだった。
「……にぃに。」
寝言だった。
千景は優しく手を握る。
「ここにいるよ。」
その声が届いたのか、千弥の表情が少しだけ和らぐ。
「……。」
ぎゅっ。
眠ったまま、千景の手を握り返した。
「大丈夫。」
「僕もいるよ。」
遥も反対側へ座り、千弥の頭をそっと撫でる。
その夜は二人でしばらく様子を見守り、千弥が穏やかな寝息へ戻ったことを確認してから部屋を後にした。
翌朝。
いつもなら七時には起きる千弥。
しかし時計は八時を回っていた。
「起こそうか。」
「……ううん。」
千景は首を横に振る。
「今日は休みって決めたから。」
「自然に起きるまで寝かせてあげよう。」
遥も頷く。
「大学には僕から連絡しておくね。」
「お願い。」
千景はスマートフォンを取り出し、会社へ休みの連絡を入れた。
すぐに返信が返ってくる。
『ちーちゃんを最優先してください。』
『会社は心配しないでください。』
『社長も遥さんも、今日はゆっくりちーちゃんのそばにいてあげてください。』
社員たちらしい、温かな言葉だった。
「みんな……。」
千景は少しだけ目を細める。
「本当に優しいね。」
午前九時過ぎ。
「……ん。」
二階から小さな声が聞こえた。
「起きた。」
千景と遥はほぼ同時に立ち上がる。
部屋へ入ると、千弥はベッドの上でぼんやり座っていた。
「おはよう。」
千景が笑いかける。
「……おはよぉ。」
「よく眠れた?」
「うん。」
でも。
やっぱり笑顔は少ない。
千景は隣へ座る。
「今日は大学お休み。」
「……。」
「お家でゆっくりしよう。」
千弥は少し驚いたように目を丸くした。
「いいの?」
「もちろん。」
「にぃにも?」
「今日は会社もお休み。」
「はるにぃも?」
「僕もお休み。」
その言葉を聞いた千弥は、小さく、小さく笑った。
「みんな、おやすみ。」
「そうだよ。」
遥も優しく微笑んだ。
朝食は、おかゆと温かいスープ。
「少しだけ食べようか。」
「うん。」
ゆっくり、ゆっくり。
全部ではないけれど、昨日よりは食べられている。
食後。
リビングのソファへ移動する。
千弥はくぅちゃんを抱いたまま、窓の外を眺めていた。
「ちーちゃん。」
「ん?」
千景は急かさないように、穏やかな声で話しかける。
「昨日、『わかんない』って言ってたよね。」
「……うん。」
「今も?」
千弥は少しだけ考えた。
「うん。」
「かなしい?」
「……わかんない。」
「つらい?」
「……わかんない。」
「苦しい?」
「……。」
しばらく黙っていた千弥は、小さく頷いた。
「ちょっとだけ。」
その一言に、千景は胸が締めつけられた。
遥も静かに見守っている。
「にぃに。」
「なあに。」
「ちぃね。」
「うん。」
「げんきなの。」
「うん。」
「でも。」
千弥は自分の胸へ手を当てる。
「ここが。」
「……。」
「なんか、もやもやする。」
「どうしてか、わかんない。」
「たのしいことしてても。」
「ごはんたべても。」
「くぅちゃんといても。」
「なんか。」
「ずっと、もやもや。」
そう言うと、千弥は困ったように笑った。
「へんなの。」
その笑顔は、笑おうとしているだけの笑顔だった。
千景はそっと千弥を抱き寄せる。
「変じゃないよ。」
「え?」
「そういう時もある。」
「……ほんと?」
「うん。」
遥も優しく続ける。
「ちーちゃんは、一人じゃないからね。」
「もやもやが消えない時は、一緒に考えよう。」
「答えが見つからなくても、一緒にいるよ。」
千弥は二人の顔を見上げた。
少しだけ目が潤んでいる。
「……いいの?」
「もちろん。」
千景は迷いなく答えた。
「ちーちゃんが笑えない日は、僕たちが隣にいる。」
「無理に笑わなくていい。」
「泣きたくなったら泣いてもいい。」
「話せなくてもいい。」
「ただ、そばにいてくれたら、それで十分。」
その言葉を聞いた瞬間。
ぽろっ。
千弥の瞳から、一粒だけ涙がこぼれた。
「……ごめんなさい。」
「謝らなくていい。」
千景は優しく頭を撫でる。
「泣けたね。」
「うん……。」
遥もティッシュを差し出しながら微笑んだ。
「少しだけ、楽になった?」
千弥は涙を拭いて、小さく頷く。
「ちょっとだけ。」
それは昨日より、ほんの少し前へ進めた証だった。
けれど、二人はまだ安心していなかった。
この状態が続くなら、約束どおり病院へ連れて行こう。
その考えは変わらない。
千景と遥は視線を交わし、静かに頷き合った。
今日一日、そして明日も。
焦らず、急がず、千弥の心に寄り添っていこう。
二人はそう心に決めた。
特別編 第三章おわり。
特別編 第四章へ続く。
#愛され
𝐀𝐘𝐀_

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コメント
1件
第三章、読ませていただきました。「わかんない」という言葉に込められた千弥の苦しみがすごく伝わってきて、胸が締め付けられました。特に「無理に笑わなくていい」「泣けたね」という千景の寄り添い方が優しくて、自分のことのようにほっとしました。設定や構造に注目しがちな自分ですが、今回は純粋に「そばにいる」という静かな愛情に心が温かくなりました。続きが気になります。