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りつ
3,004
まだ、ここにいる
「莉犬、今日の外来終わった?」
「うん。あとカルテまとめたら終わり」
大学病院の小児科医局。
時計の針は、もう夜の八時を回っていた。
パソコンの画面を見つめながら、莉犬は小さく息を吐く。
「お前、今日朝からずっと働いてない?」
向かいの椅子に座っていたさとみが、呆れたように言った。
「そうだっけ?」
「そうだよ。朝の七時にはいたろ」
「……まあ、忙しかったし」
「だからって限度あるだろ」
さとみはそう言いながら、莉犬の机の横に置かれていた紙袋を指差した。
「飯は?」
「食べた」
「何を?」
「……パン」
「それ飯に入れていいと思ってんの?」
「いいじゃん、パン」
「よくない」
そのやり取りを聞いていたころんが、隣から口を挟んだ。
「え、莉犬くん今日パンだけなの。僕でももうちょっと食べるよ」
「ころちゃんは食べすぎ」
「なんで僕だけ」
「だって夜勤前にラーメン食べてたじゃん」
「それは必要なエネルギー補給」
「言い訳が雑すぎる」
るぅとがくすっと笑った。
「まあまあ。莉犬も何か食べたほうがいいよ。最近忙しいから」
「るぅとくんまで……」
「僕たち、莉犬のこと心配してるんですよ」
「……分かってるって」
莉犬は笑った。
いつも通りの笑顔だった。
三人も、それ以上は何も言わなかった。
この四人でいると、昔からこんな感じだった。
さとみとは幼稚園からずっと一緒だった。
小さい頃から何度も病院に通っていた莉犬のことも、さとみはずっと知っている。
莉犬には、生まれつきの心臓病があった。
病名はファロー四徴症。
幼い頃に手術を受け、その後も定期的な検査を続けてきた。
子どもの頃は何度も入院した。
走ることも、激しい運動も、周りの子たちと同じようにはできなかった。
それでも、少しずつ状態は落ち着いていった。
高校生になる頃には、日常生活で大きな制限もなくなっていた。
医師を目指すことを決めたのも、その頃だった。
そして今。
二十六歳。
莉犬は医師になっていた。
自分と同じように病気を抱える子どもたちを助けたい。
それが、莉犬の昔からの夢だった。
「じゃあ僕、そろそろ救急行くね」
ころんが立ち上がる。
「僕も内科戻ります」
「俺も行く」
三人が帰り支度を始める中、莉犬もパソコンを閉じた。
立ち上がった瞬間。
――どくん。
心臓が、大きく跳ねた。
「……っ」
一瞬、息が止まる。
胸の奥が嫌な感じにざわついた。
莉犬は机に手をついた。
「莉犬?」
さとみが振り返る。
「……ん?」
「今、何かした?」
「いや?」
莉犬は笑った。
「ちょっと立ちくらみしただけ」
「大丈夫?」
るぅとが心配そうに近づいてくる。
「大丈夫、大丈夫」
いつもの言葉。
その場では、三人もそれ以上追及しなかった。
ただ、さとみだけは莉犬を見ていた。
その日の夜。
帰宅した莉犬は、玄関を閉めた途端、その場にしゃがみ込んだ。
「……はぁ」
息が苦しい。
胸が重い。
心臓が、普段より速く動いている。
しばらくすると、少しずつ落ち着いてきた。
莉犬は胸元を押さえた。
「……また、か」
以前にもあった。
数週間前から、少しずつ増えている。
階段を上ったときの息切れ。
仕事中の動悸。
以前なら何ともなかった距離を歩くだけで、妙に疲れる。
そして最近では、夜になると胸が苦しくなることもあった。
医師として考えれば、思い当たることはいくつもある。
ファロー四徴症の術後。
長期的な合併症。
肺動脈弁逆流。
右心系への負担。
不整脈。
そして――心不全。
「……違う」
莉犬は首を振った。
「まだ大丈夫」
そう言い聞かせる。
自分の身体のことなのだから、本当は分かっていた。
分かっているからこそ、認めたくなかった。
再発しているかもしれない。
いや。
もしかしたら、もうかなり悪くなっているかもしれない。
それでも莉犬は、翌朝も病院へ向かった。
医師である以上、患者を置いて休むわけにはいかない。
そう思っていた。
それから数日。
莉犬はいつも通り働いた。
ただ、少しずつ変化が増えていった。
階段を避けるようになった。
病棟まで歩く途中で、一度立ち止まるようになった。
外来が終わると、誰もいない診察室で数分だけ目を閉じるようになった。
そして、それを誰にも言わなかった。
「莉犬」
ある日の昼休み。
医局で一人、書類を見ていた莉犬に、さとみが声をかけた。
「ん?」
「最近、体調悪いだろ」
「……え?」
「とぼけんな」
さとみの声は静かだった。
「顔色悪いし、息切れしてる。今日も病棟から戻ってきたとき、壁に手ついてただろ」
「見てたの?」
「見てた」
莉犬は目を逸らした。
「……ちょっと疲れてるだけだよ」
「莉犬」
「本当に大丈夫」
「心臓は?」
その言葉に、莉犬の動きが止まった。
「……何が?」
「最近、動悸あるだろ」
「……」
「胸も苦しいんじゃない?」
莉犬は答えなかった。
さとみは幼稚園の頃から莉犬を知っている。
だから分かる。
この沈黙が、答えだった。
「検査しよう」
「嫌だ」
即答だった。
「なんで」
「仕事あるから」
「仕事と身体、どっちが大事なんだよ」
「……患者さんが待ってるから」
「お前が倒れたら、その患者さんはどうなる?」
「……」
「莉犬」
さとみが少しだけ声を落とす。
「俺に隠すなよ」
莉犬は唇を噛んだ。
「……再発したかもしれない」
「やっぱり」
「でも、まだ大丈夫だから」
「大丈夫じゃないから言ってるんだろ」
「本当にまだ大丈夫」
「検査だけでも――」
「さとみくん」
莉犬は無理に笑った。
「俺、自分のことくらい分かってるから」
その言葉に、さとみは何も言えなくなった。
莉犬はそのまま席を立った。
「午後の外来あるから」
「莉犬」
「大丈夫だよ」
また、その言葉。
さとみは追いかけなかった。
けれど、嫌な予感だけが残った。
その日の午後。
莉犬はいつも通り診察をしていた。
子どもの話を聞いて。
家族に説明をして。
笑って。
「また次の診察でね」
そう言って見送った。
診察室を出た莉犬は、廊下を歩いた。
少し息が苦しい。
大丈夫。
まだ歩ける。
そう思った。
数歩進んだところで。
――どくん。
心臓が大きく乱れた。
「……っ」
視界が揺れる。
壁に手をつく。
息が入らない。
「……は、ぁ……」
胸が痛い。
冷たい汗が背中を伝う。
それでも莉犬は立とうとした。
「……大丈夫……」
一歩。
踏み出そうとした。
その瞬間、目の前が真っ暗になった。
身体から力が抜ける。
廊下に倒れた。
「先生!?」
誰かの声が聞こえた。
「誰か救急呼んで!」
「意識ない!」
「モニター持ってきて!」
騒がしい声が遠ざかっていく。
莉犬は目を開けられなかった。
ただ、ぼんやりと考えていた。
――やっぱり。
隠せなかった。
*
「莉犬くん!」
救急外来に運ばれてきた莉犬を見て、ころんが駆け寄った。
「莉犬!」
るぅとも後ろから続く。
そして、その少し後ろからさとみが走ってきた。
「意識は?」
「今は戻ってます。でも血圧が低い」
「心電図は?」
「不整脈出てます」
さとみは画面を見た。
循環器内科医としての頭が、必死に状況を整理する。
けれど。
そこにいるのは患者ではなかった。
幼稚園の頃から知っている、幼なじみだった。
「……莉犬」
ベッドの上で、莉犬が薄く目を開けた。
「……さとみくん」
「喋るな」
「仕事……」
「今仕事の話すんな!」
思わず声が大きくなった。
莉犬が少し驚いた顔をする。
さとみは拳を握った。
「……頼むから」
声が震えた。
「今は自分のこと考えろよ」
莉犬は目を閉じた。
検査の結果。
莉犬の心臓は、思っていた以上に悪化していた。
幼少期に受けた手術の影響もあり、長年の肺動脈弁逆流によって右心室に負担がかかっていた。
心機能も低下している。
さらに不整脈も確認された。
医師として見れば、決して軽い状態ではなかった。
「……俺、こんなに悪かったんだ」
結果を聞いた莉犬が、ぽつりと言った。
さとみは答えなかった。
「いつから?」
「……ちょっと前から」
「どれくらい?」
「……数週間」
「なんで言わなかった」
「……」
「莉犬」
「怖かった」
その一言に、三人が黙った。
「また、病気の俺に戻るのが怖かった」
莉犬は天井を見つめた。
「やっと普通にできるようになったと思ってた」
「……」
「医者にもなれたし」
声が少し震える。
「なのに、また病気になったら……俺、何のために頑張ってきたんだろうって」
るぅとが静かに言った。
「莉犬」
「……うん」
「病気になったからって、今まで頑張ってきたことがなくなるわけじゃないよ」
莉犬は答えなかった。
ころんがベッドの横で俯いた。
「僕たち、莉犬くんが病気だから仲良くしてるんじゃないよ」
「……ころちゃん」
「莉犬くんだから一緒にいるんだよ」
*
そのまま莉犬は入院することになった。
最初の数日は、治療と検査が続いた。
モニターには常に心拍数が表示されている。
点滴につながれ、ベッドの上で過ごす時間が増えた。
莉犬にとって、それは苦痛だった。
医師として働いていた自分が、今はベッドの上にいる。
ナースコールを押す側。
治療を受ける側。
誰かに体調を確認される側。
「今日、病棟どうなってるかな……」
「知らない」
ベッドの横に座るさとみが即答する。
「教えてよ」
「教えない」
「さとみくん」
「お前が気にすることじゃない」
「でも俺の患者……」
「今のお前の患者は自分自身」
莉犬は黙った。
その言葉が、少しだけ胸に刺さった。
「……自分のことなんて、診たくない」
ぽつりと呟く。
「何?」
「何でもない」
さとみはそれ以上聞かなかった。
けれど、その夜。
莉犬はなかなか眠れなかった。
身体が苦しいわけではない。
それ以上に、頭の中がうるさかった。
仕事。
患者。
復職。
病気。
これから。
考えれば考えるほど、不安が大きくなっていく。
「……俺、戻れるのかな」
誰もいない病室で呟いた。
「……小児科、戻りたい」
目を閉じる。
診察室で笑っていた子どもたちの顔が浮かぶ。
「……会いたいな」
その瞬間、胸が締め付けられた。
「……っ」
莉犬は胸元を押さえた。
モニターの心拍が少し速くなる。
「……は、ぁ……」
ナースコールに手を伸ばしかけて。
止めた。
「……大丈夫」
また同じ言葉だった。
*
入院から五日目。
朝から莉犬の体調が悪かった。
身体が重い。
少し寒気がする。
「莉犬、熱あるよ」
るぅとが体温計を見て言った。
「……何度?」
「三十八度一分」
「熱か……」
「先生呼んできますね」
「いいよ」
「よくないです」
るぅとは穏やかなまま、しかし譲らなかった。
「今の莉犬には必要なことだから」
医師が診察し、検査が追加された。
感染症などの可能性を調べながら、心臓への負担も注意深く確認していく。
昼頃になっても熱は下がらなかった。
莉犬はベッドの上でぼんやりしていた。
「……暑い」
額には汗が浮かんでいる。
「水飲めそう?」
ころんがペットボトルを差し出した。
「……うん」
莉犬は少しだけ口をつけた。
その直後。
「……っ」
顔をしかめた。
「どうした?」
「……気持ち悪い」
莉犬は口元を押さえた。
「……う、っ」
「莉犬くん?」
莉犬は慌てて身体を起こそうとした。
けれど、力が入らない。
「……っ、待って」
ころんがすぐに容器を取る。
「大丈夫。ここに吐いていいよ」
「……ごめ……」
次の瞬間。
「……っ、う゛……」
莉犬が嘔吐した。
苦しそうに身体を丸める。
「……ごほっ、……はぁ……」
何度か吐いたあと、莉犬はぐったりとベッドに戻った。
「……ごめん」
「謝らなくていい」
ころんが背中をさする。
「僕たち医者なんだから、こういうときのためにいるんだよ」
「……でも」
「でもじゃない」
るぅともタオルを渡した。
「莉犬、少し休もう」
「……うん」
その日の夜。
熱は三十九度近くまで上がった。
身体が熱いのに、寒い。
莉犬は布団の中で震えていた。
「……寒い」
「今、追加で診てもらってるから」
さとみが手を握る。
「……さとみくん」
「ん?」
「俺、また迷惑かけてる」
「何言ってんだよ」
「みんな仕事あるのに……」
「それは今考えることじゃない」
「でも……」
「莉犬」
さとみの声が少し強くなる。
「お前が病気になったことは、迷惑じゃない」
莉犬は目を閉じた。
熱で頭がぼんやりする。
「……ほんと?」
「ああ」
「……俺、ちゃんと治療受けたら……戻れるかな」
さとみはすぐには答えなかった。
「今は、戻ることを考えなくていい」
「……でも」
「まず治療」
莉犬は小さく頷いた。
*
翌朝。
熱は少し下がった。
三十七度台。
「下がってきたね」
るぅとが微笑む。
「……よかった」
莉犬も少しだけ笑った。
昨日より身体が軽い。
久しぶりに安心できた。
「今日なら少し起きられるかも」
「まだ無理しないで」
「分かってる」
莉犬はゆっくり上体を起こした。
そのとき。
――どくん。
「……っ」
心臓が跳ねた。
「莉犬?」
「……大丈夫」
もう一度。
――どくっ、どくん。
心拍が乱れる。
「……い”っ……」
胸に鋭い痛みが走った。
「莉犬!」
さとみが立ち上がる。
「……っ、は……ぁ……」
息が吸えない。
モニターの数値が変化する。
「不整脈!」
さとみがナースコールを押す。
「莉犬、横になれ」
「……さとみ、くん……」
「大丈夫だから」
「……怖い」
その一言に、さとみの表情が固まった。
莉犬の身体が震えている。
「……っ、はぁ……は……」
苦しそうに息を繰り返す。
るぅとが莉犬の手を握った。
「莉犬、大丈夫。僕たちここにいるよ」
ころんも反対側から声をかける。
「ゆっくりでいいから。僕の声聞いて」
「……ころ、ちゃん……」
「うん」
「……俺、死ぬのかな」
「そんなこと言わない」
ころんの声が震えた。
「今は治療する。それだけ考えよう」
医療スタッフが集まり、処置が進む。
数分。
それが、何十分にも感じられた。
ようやく心拍が落ち着いた頃。
莉犬は疲れ切ったように目を閉じた。
「……怖かった」
るぅとが手を握ったまま言う。
「うん」
「……俺、もう嫌だ」
「……」
「また入院して、また発作起きて……」
莉犬の目から涙が落ちた。
「俺、いつまでこうなの」
誰も答えられなかった。
*
それからの入院生活は、良くなったり悪くなったりの繰り返しだった。
熱が下がったと思えば、また微熱が出る。
少し歩けるようになったと思えば、動悸が強くなる。
食事を取れる日もあれば、吐き気でほとんど食べられない日もあった。
一度、夜中に突然胸の苦しさで目が覚めたこともあった。
「……っ、はぁ……」
胸を押さえる。
息が苦しい。
ナースコールを押そうとした手が震える。
「……やだ……」
怖かった。
何度も経験してきたはずの病院なのに。
今は怖い。
「……誰か……」
声が震えた。
ナースコールを押す。
しばらくして看護師が来て、すぐに状態を確認する。
「大丈夫ですよ。ゆっくり呼吸してください」
「……は、ぁ……」
その後、さとみたちにも連絡がいった。
深夜にもかかわらず、さとみが病室に来た。
「莉犬」
「……さとみくん」
「また苦しくなった?」
莉犬は頷いた。
「……ごめん」
「だから謝るなって」
さとみはベッドの横に座る。
「怖かった?」
「……うん」
「そっか」
それだけ言って、さとみは何も聞かなかった。
莉犬はしばらく黙っていた。
「……俺さ」
「ん?」
「病院って、こんなに怖い場所だったんだね」
さとみは胸が痛くなった。
昔。
莉犬が子どもの頃、何度もこの場所にいた。
その頃は、さとみもただ隣にいることしかできなかった。
「……昔のお前も、こんな気持ちだったのかな」
莉犬が小さく笑った。
「たぶん」
「……」
「でも、昔はよく分かってなかったから」
「今は分かるから怖いんだな」
「うん」
莉犬は天井を見る。
「知識があるって、こういうとき嫌だね」
さとみは答えられなかった。
*
入院から三週間。
莉犬の状態はようやく安定してきた。
検査結果も少しずつ落ち着いている。
医師から退院の話が出た。
「……退院?」
莉犬が聞き返す。
「状態が安定すれば、近日中に退院できます」
その言葉を聞いて、莉犬は少し嬉しそうにした。
「じゃあ、仕事……」
「それは別の話」
さとみが即座に言う。
「……分かってる」
「本当に?」
「……分かってるって」
けれど。
退院が近づくにつれて、莉犬は別の不安を抱えるようになった。
家に帰ったら。
何をすればいいのだろう。
仕事がない。
病院にも行かない。
患者もいない。
自分には何が残るのだろう。
「……帰りたくない」
ある夜、莉犬が呟いた。
「家に帰ったら、俺、本当に何もなくなる気がする」
るぅとが静かに答える。
「なくならないよ」
「でも、医者じゃない」
「莉犬は莉犬ですよ」
「……」
「医師じゃない莉犬を、僕たちはずっと知ってます」
莉犬の目から涙が落ちた。
「……そうだった」
ころんが小さく笑う。
「高校生の頃なんて、医者どころか何にもなってなかったじゃん」
「ころちゃん、それ慰めてる?」
「慰めてる」
「なんか微妙」
「ひどいな」
莉犬が笑う。
その笑顔を見て、三人も笑った。
*
入院から一か月。
ようやく退院の日が来た。
病室の荷物をまとめながら、莉犬は窓の外を見た。
長かった。
本当に長かった。
何度も怖くなった。
何度も泣いた。
自分を責めた。
医師に戻れないかもしれないと思った。
それでも。
ここまで来た。
「莉犬」
さとみが声をかける。
「行くぞ」
「うん」
莉犬は最後に病室を見た。
「……ありがとう」
「誰に言ってんの?」
ころんが聞く。
「この部屋」
「部屋に?」
「なんとなく」
「莉犬らしい」
るぅとが笑った。
四人で病院を出た。
莉犬はゆっくり歩いた。
以前なら当たり前だった距離。
今は三人が自然に歩幅を合わせてくれている。
*
退院してからの最初の一週間。
莉犬は何もしなかった。
正確には、何もできなかった。
少し歩くだけで疲れる。
階段は避ける。
外出も必要最低限。
薬を飲んで、決められた時間に休む。
そんな生活だった。
最初は、それでいいと思っていた。
けれど、一週間が二週間になると。
焦りが出てきた。
「……暇だ」
机の上には、読みかけの医学書。
病院から持ち帰ったものだった。
莉犬はページを開く。
数行読んだところで、集中できなくなった。
スマートフォンを見る。
病院の連絡。
同僚からのメッセージ。
患者のこと。
莉犬は画面を閉じた。
「……俺、何してるんだろ」
医師なのに。
働けない。
患者を診られない。
何もできない。
「……役に立たないな、俺」
その言葉を、ちょうど玄関から入ってきたさとみが聞いた。
「莉犬」
「……さとみくん」
「今なんて言った?」
「何も」
「嘘つけ」
さとみは莉犬の隣に座った。
「俺さ」
「ん?」
「お前が休職してること、何とも思ってないから」
「……え?」
「むしろ、ちゃんと休んでるの見て安心してる」
「でも俺……」
「医者じゃない莉犬に価値がないとでも思ってんの?」
莉犬は黙った。
「……だって」
「だってじゃない」
さとみは莉犬の頭を軽く撫でた。
「幼稚園の頃からずっと見てきたけど、お前は昔から何でも頑張りすぎなんだよ」
「……」
「もう少し、自分のこと大事にしろ」
莉犬は俯いた。
「……難しい」
「知ってる」
「俺、自分のこと好きじゃないから」
「それも知ってる」
「……」
「だから俺たちが大事にする」
莉犬の目が潤んだ。
「……ずるいよ」
「何が」
「そんなこと言われたら……泣くじゃん」
「泣けばいいだろ」
その夜。
莉犬は久しぶりに、誰かの前で思い切り泣いた。
*
療養生活は続いた。
一か月。
二か月。
三か月。
体調が良くなる日もあれば、悪くなる日もあった。
薬の調整。
定期検査。
心電図。
心エコー。
そして、何より大切なのは無理をしないことだった。
最初の頃は、少し歩くだけでも不安だった。
けれど、少しずつ。
家の周りを歩けるようになった。
最初は五分。
次は十分。
ある日、十五分歩けた。
帰宅した莉犬は、少し嬉しそうに笑った。
「今日、十五分歩けた」
「すごいじゃん」
ころんが大げさに拍手した。
「そんなに?」
「そんなにだよ」
るぅとも笑う。
「ちゃんと前より良くなってますね」
「うん」
さとみは黙って莉犬を見ていた。
以前なら、十五分歩いた程度で喜ぶことなんてなかった。
でも今は違う。
一歩ずつ。
ゆっくり。
莉犬は自分の身体と向き合っていた。
ある日の午後。
莉犬は久しぶりに医学書を開いた。
以前なら当たり前だったページ。
今は少しだけ怖かった。
心臓病について書かれた章。
しばらく見つめたあと、莉犬は本を閉じた。
「……やっぱり怖いな」
それでも。
翌日、もう一度開いた。
三人には何も言わなかった。
少しずつでいい。
知ることから逃げない。
自分の病気を、患者としてではなく、一人の人間として受け入れる。
それができるようになるまで、長い時間がかかった。
*
半年が過ぎた。
莉犬はまだ休職していた。
体調は以前より安定している。
けれど、復職の目処は立っていなかった。
「……病院、行きたいな」
ある日、莉犬がぽつりと言った。
「行けば?」
ころんが言う。
「患者としてじゃなくて」
「……」
「働く場所として、また見たいんじゃない?」
莉犬は頷いた。
その週末。
四人で病院の近くまで行った。
莉犬は建物を見上げた。
「……久しぶり」
「入る?」
さとみが聞く。
莉犬は少し迷ってから首を振った。
「今日はいいや」
「そっか」
「まだ、ちょっと怖い」
るぅとが言った。
「それでいいと思いますよ」
「……うん」
四人で歩き出す。
ころんが突然言った。
「じゃあ今日は何食べる?」
「急だな」
「僕、お腹空いた」
「さっき食べたじゃん」
「別腹」
「何の別腹だよ」
莉犬が笑う。
さとみも笑う。
るぅとも笑う。
病院から離れていく。
莉犬は一度だけ振り返った。
まだ、自分は医師ではない。
少なくとも、今は。
いつ戻れるのかも分からない。
もしかしたら、戻れないかもしれない。
それでも。
「……ねえ」
三人が振り返る。
「俺さ」
「ん?」
「また、医者になれるかな」
さとみは少しだけ考えてから言った。
「なれるかどうかは、今決めなくていい」
「……」
「戻りたくなったら、そのとき考えればいい」
るぅとが続ける。
「今はちゃんと生きることが仕事です」
「るぅとくん……」
ころんが莉犬の肩を叩く。
「それにさ」
「何?」
「戻れなくても、僕たちがいるじゃん」
「……」
「だから一人で勝手に未来決めないでよ」
莉犬は三人を見た。
胸の奥が、少しだけ温かくなる。
病気は消えていない。
これからも検査は必要だ。
薬も必要だ。
いつかまた状態が悪くなる可能性だってある。
医師に戻れるかどうかも、分からない。
それでも。
昔のように、「病気だから何もできない」と思うことは、少しずつ減っていた。
自分が休むことを許してもいい。
誰かに頼ってもいい。
無理をしなくてもいい。
そう思えるようになった。
「……ありがとう」
莉犬が笑う。
「何、急に」
「なんとなく」
「変なの」
ころんが笑った。
四人で歩く。
ゆっくり。
莉犬の歩幅に合わせて。
誰も先に行かない。
誰も置いていかない。
まだ、莉犬は休職中。
復職の日は決まっていない。
それでも。
今日もちゃんと、生きている。
それだけでいいと。
少しずつ、思えるようになっていた。
コメント
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うわっ、めっちゃ刺さった……。莉犬くんの「医者としての自分」と「病気の自分」の間で揺れる感じ、リアルすぎて胸が苦しくなったわ。特にさとみが「だから俺たちが大事にする」って言ったシーン、ここで泣きそうになった。医療描写の細かさもすごくて、ちゃんと知識ある人が書いてるんだなって伝わってくる。続き、莉犬くんが少しずつ自分を許せるようになっていく過程を見たい。更新楽しみにしてる🔥