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ゴクリと生唾を飲み込んだペトラは、神々しいほどの照りを放つ亀肉を前に、これ以上なくヤキモキしていた。怪しげな黒の液体を塗りたくって焼き上げられた肉は、香ばしく、かつ芳醇で暴力的な香りを撒き散らし、空腹の鼻孔をこれでもかと刺激した。
隣で子供らしく『ぐぅっ』と腹を鳴らしたフレアは、さもそれは靴底が擦れる音ですよとばかりに誤魔化した
「まさかこの黒い謎の液体と、あの甘い謎の液体を混ぜた汁を塗って焼いただけで、これほど美味そうな香りを生み出すとは……。犬男、この黒い液体はなんなんだ?」
思いがけずロディアが聞いた。
イチルは「醤油とみりん(もどき)」と答えた。しかしそれが何かを詳しく説明したところで無駄なため、それ以上伝えなかった。もともと異世界にないものを説明したところで、話がややこしくなるだけなのだから――
「それにしても、これほど簡単で美味しそうなものができるとは想像もしませんでした。オーナーさんは、この料理をどこでお召し上がりに?」
前世とも言えず、我が一族に伝わる秘伝料理だと誤魔化したイチルは、焼き鳥に見立てて串に刺した亀の肉を一本拝借し、味見した。
恐ろしく重厚な弾力はアゴを押し返すほどジューシーで、それなのに歯切れよくホロホロとほぐれていく肉質はサシの入った高級肉を思わせるほどだった。その上、高温の種火で焼かれた皮のパリパリ感に、濃すぎるほどの旨味が加われば、口の中は溢れるほどの幸福感で満たされた。
甘辛いタレを吸った上質すぎる肉は、亀だけに噛めば噛むほど味を変え、食する者に至福のひとときを与えた。
らしくもなくほっぺたを支えたイチルは、「うんめぇ」と溢した。いよいよ我慢できなくなった他の面々も、我先にと串を握った。
「美味しい。なんですか、この旨味。あれだけ大きな亀なのに、お肉はとっても繊細でジューシー!」
「ウメェ、俺こんな美味いもん食ったことねぇ。なんだよこれ、マジで美味い!」
口々に美味いの声が上がる中、離れて眺めていたムザイは、ふんと小さなため息をついた。その様子に気付いたフレアは、焼きたての串を一本手に取り、「はい」と手渡した。
「これはアナタが取ったものなんだから、アナタが一番楽しまなきゃ」
串を差し出すフレアを皆が見つめており、ムザイは伸ばしかけた指先を躊躇した。自分の存在を認めていない者がいることを自覚していた彼女は、「私はいい」と口を噤んだ。
「何言ってるのよ。これはアナタが働いた成果なの。みんなだってちゃんと知ってるよ。アナタには、これを食べる権利がある!」
「しかし……」と言いかけたムザイに、それ以上黙っていられずムッとしたロディアは、カツカツ踵を鳴らして近付き、「いいこと?」と指を立てた。
「確かに、私たちはみんな、アナタのことが好きなわけじゃない。面と向かってあれだけの暴言を吐いたんですもの、当然よね。だけど一緒に働くことになった以上、私たちだっていつまでも文句は言ってられないの。同じ立場で働く仲間でもある以上、余計な遠慮はやめてもらえるかしら。それに――」
真面目な雰囲気を無視して肉を貪るウィルとペトラの頭をコツンと叩いたロディアは、二人の首根っこを掴みながら、「私たち、いつまでも根に持つような性格じゃないの」と笑った。
「しかし……、私がお前たちを殺そうとしたことは紛れもない事実。今さら誤魔化すつもりはない。そんな私が、どんな顔をして」
「別に良いんじゃない、どんな顔でも。それに、亀を前にしたアナタを見ていて気付いたの。私たちも、アナタを片手で捻れるくらい強くならなきゃって」
口の回りにタレを付けたウィルが、格好つけて親指を立てた。「そういうことで良いんじゃね?」と不敵に鼻をすすったペトラは、ウィルのスネを蹴りながらガハハと笑った。
「さぁ面倒な話はこれでおしまい! まずはいっぱい食べて、これからのお仕事に備えましょう。ほらムザイも、一口食べてみてよ」
串を受け取ったムザイは、少しだけ躊躇しながら一切れ肉を口にした。皆が注目する中、コリコリと咀嚼したムザイは、微かに微笑みながら「美味しい」と呟いた。
さてと立ち上がったイチルは、雪解けムードに酔っている面々にパンパンと手を叩いた。そして最悪のタイミングで、注目しろと嫌らしく告げた。
面々の結束力が高まったのは素晴らしい。しかしそれはそれ、これはこれと、ペトラの倍不敵な笑みを浮かべ、淡々と話し始めた。
「盛り上がってるとこ悪いが、さっさと次の工程に進むぞ。まずはフレアとロディア、お前らはこれからギルドと掛け合い、飯を出す許可を取ってこい。言っとくがウチは前のことで奴らと揉めているからな、簡単にいくと思うなよ。どんな手を使ってもいい、とにかく話をまとめてこい。
そしてミア。お前はそのほかの料理の試作を急いで仕上げろ。ペトラは飯とその他の金勘定の整理。ムザイは客が飯を食う場所の確保と飯小屋の準備を。そしてウィル、お前はこれから街を回ってランドの新装オープンを知らせてこい」
一段落ついたところなのにと、気が抜けていた面々の視線がオーナーに集まった。ペトラが悲鳴混じりの声を上げたが、イチルはぶつくさ言ってる場合かと指摘した。
「キミらねぇ、休園期間がいつまでか覚えてるのかね。ウチは明日の朝から再オープンなの。キャッキャウフフ言いながら試食してる暇なんぞないの。さぁさぁ、さっさと準備して取りかかれ。ハイッ、解散!」
最低だコイツという空気をひしひし感じながら、それはそれ、これはこれだと割り切り手を叩く。物事はスピード感が命。客を待たせてしまっては失礼だと尻を叩いた。
「さー走れ走れ、死物狂いで走り回れ。キミらには一秒たりともサボってる時間はないぞ、時間は待ってくれないんだからな!」