コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
知性を憎む獣と理性を軽んじる魔性の領域たる鉄色の森の際に、簡素な宿営地が築かれた。知性と理性を携え、手ずから暗い森を切り開かんと都市国家花冠が乗り出したのだった。
時折、夜空が失われたかのように嘆き悲しむ狼の遠吠えが響き渡り、湿った土と葉の濃い匂いの空気を震わせる。不遜なる雲が厚みを増し、月も星々もその祝福も覆い隠し、何か悪事をするならばまたとない機会となる深い夜のこと。多くの篝火が焚かれ、火影が森の暗闇を圧し、煙が方々に示威する。侵略者に対するのと同様に警戒を怠らない歩哨が不埒な森を監視している。
心に刻むという男がいた。宿営地の勇敢な戦士たちと無関係であることはその恰好から明白である。昼であれば行商か何かと誤魔化せるかもしれないが、その色濃い衣服は夜に紛れるのに役に立っている。
宿営地に新たな一団がやってきた。ヒエロの目当てはそれだった。一台の堅牢な馬車と精鋭たる護衛の騎兵たちが宿営地の一角を占める。堅固な宿営地の中に敷かれたさらに強固な陣の如くだ。
ヒエロは大胆にも、しかし家守のように静かに宿営地に忍び込み、歩哨の死角に潜むと更に夜が更けるのを身動き一つせず忍耐強く待つ。鋭い目線の歩哨や強い眼力の騎兵たちのいくらかが夜の夢の栄えある戦地に出陣すると、ヒエロは数の減った視線を潜り抜けて馬車の裏手へと近づく。扉を僅かにそっと開き、するりと忍び込む。片手には脅し用の短剣。しかしそれを振るう必要はなかった。
誰もいない。いや、正確には一体の人形があるだけだった。女児が好むような薔薇色の衣装を身に着けた人形の硝子の目と目が合う。
手に入れていた情報によると森の奥に潜むという怪物を退治するありがたい力を持つ少女がいるとのことだった。物々しい騎兵も防備を固めた宿営地も、全ては怪物以外の全てから少女を守るためのもの、であるはずだった。しかし人形の他には誰もいない。
「あなた誰? 知らない人」と人形が喋り、ヒエロは叫ぶのを堪える。
ヒエロはすぐに冷静さを取り戻す。
「私はこの宿営地での召使いです。どうぞよろしくお願いいたします」
人形が何者にせよ、それは騎士たちに護衛される重大な存在であり、さらう価値があるに違いない。かつ、その精神がまだ幼いことは今の一言で察せられる。ならば手玉だ。
「なんだ。そうだったんだ。てっきり泥棒か何かかと。ぼくは手懐ける者。よろしくね。そうだ。他の皆には挨拶した?」
人形が立ち上がり、馬車の扉を開こうとするので慌てて押し留める。
「ええ、ええ、挨拶ならばもう済ませましたよ。ご心配いただきありがとうございます。どうぞ、座っていてください」
「そうなんだね。ならいいんだけど。でも、いつもなら隊長から紹介されるのにね。ねえ!? 隊長いる!?」
「お静かに!」ヒエロは手振りでティターゼを押し留め、かつ自分の口も噤む。外の様子に変化がないことを確認してから口を開く。「皆が疲れています。交代で休んでいますので」
「ああ、そっか。ごめんね。仕事は夜明けを待って、で良いんだよね? いつも通り。怪物を手懐けて国に連れ帰って躾ける」
ヒエロは自然に、予定外でありながら何も不審な点はないかのように、否む。
「いえ、少々作戦が変更されました。今すぐにでも怪物を手懐けていただきます」
それでもティターゼは不審を示す。
「聞いてないよ」表情は変わらないが、声色は鋭くなった。「こっちにも色々あるんだからさ。隊長いる!?」
「寝てます! 隊長は寝てますのでお静かに!」
「そうなんだね。副隊長!?」
「副隊長も!」
人形の表情は変わらないが、いささか憮然としているように見える。
「みんな寝てるんだね。まあ、その方がぼくも都合がいいかな」
その時、不意に馬車の扉が開き、ヒエロは飛び上がる。
「貴様! 何者だ!?」
なんて間抜けな事態だ。激烈な誰何の問いにヒエロは冷や汗を垂らしつつ、短剣を袖に隠し、ゆっくりと振り返る。
目の前には馬を降りた数人の騎士が剣を構えて立っている。武骨な兜に鎖帷子は歴戦の傷跡を残している。逃げ場はない。
「いや、私は……」
騙し慣れているヒエロだが上手い言葉が出てこない。言い訳が通じるような状況ではない。いつもならばただ短剣で脅し、連れ去るだけの仕事なのに、思わぬ存在に出遭ったために調子が狂ってしまった。頭が上手く働かない。切り抜ける手立てが思いつかない。
「ああ、ティターゼ様ですか」と騎士の一人がため息混じりに呟き、剣を鞘に納める。「仕事前にあまり騒がないでください」
「え? ああ、その……」
騎士の思わぬ反応にヒエロは余計に頭が麻痺してしまった。見間違い? 人形と大の男を?
訳が分からないでいると騎士に降車を促される。
「事情が変わりました、ティターゼ様。どうやら奴には咬みつかれた人間を同族に変え、支配下に置く力を持っているそうなのです。奴自身はこの森の洞穴に封じ込められていますが、既に幾人かの犠牲者が森の外で新たな被害を生み出しているそうです。一刻も早く奴を手懐け、支配を解かなくてはなりません」
「いや、だが、私は――」
「さあ、お早く!」
ヒエロは力自慢の騎士二人に両腕を抑えられ、あえなく連行される。何とか振り返って馬車の中を見るも、例の人形は力無く転がっていた。
「いいですか。ティターゼ様。懐に短剣を持っているようですが」まさか騎士隊長に見抜かれているとは思っておらず、ヒエロは震えあがる。「怪物を殺すのは最後の手段です。殺してしまって、もしも支配が解けなければ、やはり被害者たちも殺さねばなりませんので」
ナホアの森の奥、元々怪物の巣だったという封印された洞穴の入り口の前で徒歩の騎士たちに囲まれながら、ヒエロは黙って暗い穴を見つめる。
ここに至る道中、散々怪物の恐ろしさを聞かされていた。怪物はもはや滅んだ古の国の魔術によって生み出されたとされているそうだ。虎のような姿をしているが、直立していて、しかし四足歩行なのだという。ある程度の知性があるらしく、人間の武器や防具を盗み、武装しているとの話だ。しかし得物は爪と牙であり、犠牲者のほとんどは支配などされず喰い殺されている。最近になって己の中の支配の力に気づいたのだろう、と騎士隊長は説明した。
「さあ、松明です。中はさぞ暗いでしょうから、足元にお気を付けください」
「待ってくれ! 違うんだ!」ヒエロは振り返り、松明を拒み、騎士たちの兜に憐れみを乞う。「私はティターゼ様ではないんだ」
騎士たちがつまらなそうに笑う。
「任務の際に御冗談を言うとは珍しい。申し訳ありませんが事態は急を要しているのです。議会からもせっつかれ、市民の不満は高まっています。さあ、お早く」
「本当だ! 本当に違うんだ! 私は、その、こそ泥みたいなもので――」
「わがままを言うのも珍しいですね。何かご不満があるならいつでも仰ってください。我々が全力で対応させていただきます、これまで通り。ただし、それはきちんと国のために働けばこそ、ですよ」
ヒエロは必死に言葉を繰り出す。議会から信任を受けているティターゼにとってはただの任務でもけちなこそ泥にとっては罪に見合わない残酷な処刑と同じだ。
「いや、ティターゼはあの人形だろう? どうして私と間違えるというんだ!?」
騎士隊長は関心を示すように頷き、思案するように息をつく。
「もしも本当に貴方様がティターゼ様でないというのなら、手懐ける力を持たぬただの人間だというのなら洞穴に入れるわけにはいきませんね」
ようやく話が通じたようでヒエロはほっとする。しかし騎士隊長はおもむろに抜刀する。
「処分するにしても、奴の眷属を増やすわけにはいきません。ここで殺す必要があります。それで……、貴方は何者なのですか?」
ヒエロは覚悟を決める。懐に忍んでいる短剣の重さを実感する。相手は精鋭五人。無傷で逃げおおせるのは難しいだろう。
「ぼく、ティターゼ」
「よろしい。では、どうぞ」
松明を受け取り、騎士に促され、ヒエロは洞穴へと入っていく。何か重苦しい見えない幕のようなものをくぐるような感覚があった。きっと鼠返しのような封印の魔法なのだろう。
そうでなくても騎士たちが見張っている。戻ることはできない。かといって人の血の味を知る怪物に遭遇するわけにもいかない。生き延びられる僅かな可能性があるとすれば他の出口を見つけることだ。しかしそんな洞穴に怪物を封印するわけがない。
入り口の近くでじっとしていれば何か好機が巡ってくるだろうか。分からないが、ヒエロはじっとしていられなかった。
松明を暗闇に差し出すように腕を伸ばし、じりじりと洞穴を進む。どこまで歩いてもずっとずっと洞穴は続く。分かれ道もなく、ひたすらに怪物の巣の奥へと突き進むことになる。不思議と恐怖は薄れていく。怪物など噂に過ぎないのかもしれない。
ふと松明ではない光に気づき、ヒエロは少し歩を早めた。少しばかり広い空間に出る。天井にぽっかりと穴が開いていて、どうやら夜空が晴れて月光が差し込んでいるらしい。湧き水か溜まり水か分からないが、小さな泉があり、植物が繁茂している。真っ暗でじめじめしている洞穴に比べれば開放感があり、ずっと居心地が良さそうだ。あるいは怪物にとってもそうかもしれない。
ヒエロは辺りを確認しながらゆっくりと洞室へと入る。怪物はいない。さらに三本の道が続いていることにも気づく。
何とか壁を這い上がって天井から出ていくことはできないだろうか。ヒエロが壁に近づこうとした時、泉で何かが動いたことに気づく。魚でもいるのだろうか。ヒエロがゆっくりと泉を覗き込むと、虎の顔が覗き返していた。
半狂乱。
ヒエロは、ヒエロだった怪物は叫び声と唸り声をあげて逃げ惑うように走り出す。何が起こったのか分からない。怪物に遭遇したのではなく、怪物になっていた。咬みつかれてもいないのに、姿かたちが変わっていた。ならば半狂乱している今の事態は怪物の支配のせいなのだろうか。心なしか洞穴が狭く、天井が低くなったように感じる。あるいは体が大きくなったのだ。変容した体をあちこちにぶつけながら、走って走って走って、とうとう行き止まりに行きついてしまった。
どうやら来た道を戻っていたわけではないと気づき、ヒエロは冷静さを取り戻す。いつの間にか松明もなくしていたが、洞穴の中が良く見える。単に、目が慣れたのか、怪物になったせいかは分からない。
ヒエロは仕事をする前のように息を整え、何とか心を落ち着かせ、再び狭い洞穴の来た道を戻る。一度あの洞室に戻ろう。あそこで変わってしまったのだ。元に戻る方法がないはずもない。虎の怪物に咬まれたわけではないのだから、別の原因があるはずだ。
洞室に戻り、ヒエロは己の不運を嘆く暇もなく恐怖に凍り付く。騎士隊長の話に聞いた通りの怪物が待ち受けていた。虎に似ているが、長い胴には六本の足があり、後ろの四本で歩いて背をそらし、前の二本は浮いている。確かに武装しているが、人間の武具ではない。怪物自身の体にぴったりと合っている。それでいて得物は牙と爪のようだ
ヒエロの姿を認めると怪物は威嚇するように唸り声をあげる。とてもヒエロを眷属と見なしている様子ではない。
「なあんだ。同族じゃないみたいだね」とヒエロは口走って、自ら口を塞ぐ。自分の意思とは無関係に言葉が出てくる。「虎の怪物って聞いてたから、もしかしたらって思ったんだけど」
ヒエロは改めて変容した自分の体を見下ろす。確かに虎に似ているが、洞穴の怪物とはまた違う姿だ。虎の頭だが、胴は人間の女のようで、流麗な細工を施した鎧を身に着けている。手足も人間のそれだが、腕が六本あり、虎の尾が三十六本、腰の周りに垂れ下がっていた。
「一体なんだ? お前は誰だ?」とヒエロは自分に尋ねる。
「ぼく、ティターゼ」とヒエロはからかうような調子で名乗る。「もしかしたら仲間がいるかもしれないと思ってね。だとすれば手懐けられないかもしれないし、殺させるわけにもいかないし。どうやって隊長たちを出し抜こうかと悩んでいた時に君が来て助かったよ」
ヒエロの頭は追い付かず、しかしもはや体はティターゼに支配され、自らの意思で動かせないことにも気づく。
「というわけでいつもの仕事だね。君はどっちが好きかな?」
洞穴の虎が地獄の罪人も竦み上がらせるような唸り声をあげ、牙と爪を剥いて飛び掛かってきた。ヒエロの体は予期していたように無駄なく華麗に身をかわす。
「まあ、怪物呼ばわりされる奴は皆大体こっちだよね」
ティターゼが腕を振り上げ、勢いよく振り下ろすといつの間にか握っていた鞭がしなり、空気を切り裂き、洞穴の虎を激しく打ち据える。虎は恐ろしい悲鳴をあげ、鞭から逃れようと洞室を飛び跳ねるが、一度としてかわすことができない。まるでよく訓練された蛇のように、鞭は獲物を打ち据え続ける。とうとう虎は身をかわす意思も体力も失い、洞室の壁の近くでうずくまってただただ耐え忍ぶばかりになった。
それでもティターゼは鞭を振るうのをやめない。洞穴の虎がまるで動かなくなり、唸り声も出さなくなるとようやくティターゼは鞭を下ろす。そして洞穴の虎の傍に寄ると籠手に覆われた右手で恐ろしい頭を撫でながら、さっきまで鞭を持っていた左手を近づける。既にそこに鞭は無く、赤黒い塊が鎮座していた。
「君の好物は人肉かあ。定番だね。さあ、お食べ。君を苦しめられるのは僕で、君を喜ばせられるのも僕だ」
洞穴の虎は恐る恐るティターゼの左手の人肉を舐め、ついで貪った。まるで左手ごと食べそうな勢いだ。
いつの間に気を失ったのか分からない。ヒエロは獣臭の充満した薄暗い部屋に倒れていた。
どうやら命は助かったらしい。が、牢屋に入れられてしまったのだと気づく。無機質な鉄格子が鈍く光っている。
この国で、ティターゼをさらおうとしたことはどれほどの罪として裁かれるのだろう。あらゆる怪物を手懐けられる力は強大な軍事力だ。きっとただでは済まないはずだ。
ヒエロは何とか身を起こし、息をつき、床を支える手が毛に覆われていることに気づく。