テラーノベル
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野営地の中央へ刻まれた紋様を前に、誰もすぐには口を開かなかった。
焚き火はまだ熱を残し、鍋の中には食べかけのスープが入ったまま湯気さえ微かに立ち昇っている。木箱の蓋も開いたままで、荷物だけを見ればほんの数分前まで兵士達が生活していたことは疑いようがない。それにもかかわらず争った形跡はどこにも見当たらず、血痕も倒れた者も存在しないという異様な光景は、戦場を知る半魔達でさえ警戒心を隠せないほど不気味だった。
榊は剣の柄へ静かに手を添えたまま周囲へ視線を巡らせ、千代は野営地の外周を歩いて足跡や草木の乱れを一つずつ確かめ、大和も不用意に中央へ近付くことなく全体を俯瞰しながら状況を整理している。
誰も口にはしない。
それでも全員が同じ結論へ辿り着いていた。
ここは何かがおかしい。
俺は紋様の縁へしゃがみ込み、地面へ指先を滑らせながら慎重に刻まれた溝を観察する。
思っていたより浅い。
刃物で削ったというより、一瞬だけ地面そのものが熱で溶け、そのまま冷え固まったような奇妙な質感だった。
術式ならもっと濃い魔力が残る。
煌魔学なら流れに必ず癖が現れる。
だが目の前にある紋様はそのどちらにも当てはまらず、何かを起動した痕跡だけを残して中心部だけが綺麗に空白になっていた。
「……消えている」
無意識に漏れた声へ、隣へしゃがみ込んだしゆらが不思議そうに首を傾げる。
「何がですか?」
「魔力の流れだ」
地面へ触れたまま答える。
「普通なら術式を使えば周囲へ魔力が染み込む。でもこれは違う。ここだけ綺麗に抜け落ちてる」
説明しながら自分でも違和感が強くなっていく。
理屈として成立しない。
魔力は熱や水と同じで、使えば必ず周囲へ広がる性質を持っている。
完全に消えることなどあり得ない。
まるで何者かが意図的に吸い上げたような、不自然な空白だけがそこには残されていた。
その時、不意に大和が片手を静かに上げる。
その合図だけで全員の動きが止まり、風が谷を吹き抜ける音だけが耳へ届いた。
次の瞬間、谷の奥から微かに金属の擦れる音と荷車の軋み、それに人の話し声が重なって流れてくる。
距離はまだある。
それでも確かに人間軍だった。
千代は音もなく岩壁を駆け上がり、半魔ならではの身軽さで尾根へ到達すると身を伏せて谷の先を窺い、やがてこちらへ向かって静かに手を振る。
上へ来い。
それだけで十分だった。
俺達も一人ずつ岩場を登り始め、人間なら命綱が欲しくなるような急斜面を慎重に進んでいく。
俺としゆらだけは足場を選びながら登ることになったが、途中で千代が手を差し伸べてくれたおかげで、どうにか尾根の上まで辿り着くことができた。
俺達は尾根へ身を伏せたまま息を殺し、岩肌の陰から谷を進む人間軍の様子を静かに窺っていた。
距離にして二百歩ほどだろうか。
こちらへ気付いた様子はまだない。
隊列は谷の細い街道を崩すことなく一定の速度で進み、先頭には斥候らしき兵士、その後方には荷車と技術兵、更に護衛部隊が続いている。先遣隊という話だったが、装備だけを見れば小規模な調査隊とは思えないほど充実しており、特に後方を進む荷車には黒い布で覆われた大型の資材が何台も積み込まれていた。
「……資材が多過ぎるな」
俺が小さく呟くと、榊も僅かに頷く。
「あれだけ運ぶなら野営では済まぬ。橋か砦でも築くつもりか」
「それだけではありません」
隣でしゆらが視線を細める。
「荷車の数に対して食料が少な過ぎます。普通ならもっと保存食や水樽が積まれているはずです」
その一言で俺も違和感の正体へ気付いた。
確かにおかしい。
二百人近い部隊なら数日分の食料だけでも相当な量になる。
ところが目に見える荷のほとんどは木箱や金属製の筒で、水樽や食料袋は最低限しか積まれていない。
補給地点が近いのか。
それとも別働隊が運んでいるのか。
どちらにしても不自然だった。
そんな疑問を抱きながら隊列を観察していると、一人の兵士が突然足を止める。
何事かと思った次の瞬間、その兵士は何の前触れもなく膝から崩れ落ち、その場へ倒れ込んだ。
周囲の兵士達が慌てる様子はない。
助け起こそうとする者もいない。
ただ一人の技術兵らしき男が歩み寄ると、小さな箱を取り出して兵士の首筋へ押し当てる。
淡い光が一瞬だけ走った。
倒れていた兵士がゆっくり立ち上がる。
何事もなかったかのように。
表情一つ変えず。
そのまま再び列へ戻って歩き始めた。
誰も声を掛けない。
誰も心配しない。
まるで最初から決められた手順をこなしているだけだった。
「……見たか」
榊の声は僅かに低くなる。
俺は返事をしない。
視線を離せなかった。
あれは治療ではない。
少なくとも俺が知る医学でも煌魔学でも説明が付かない。
兵士自身も自分が倒れたことなど忘れたような顔をしている。
「予紬さん」
しゆらが小声で呼ぶ。
「顔色が……」
言われて初めて自分でも気付く。
指先が冷えていた。
あの光景には見覚えがある。
いや。
正確には、似た発想を知っている。
研究所で何度も議論された禁忌。
魔力によって身体機能を強制的に維持する理論。
倫理面から全て凍結され、実験にすら移されなかった計画。
「あれは……」
喉まで言葉が出かかったところで飲み込む。
違う。
まだ断定できない。
だが胸の奥では警鐘が鳴り続けていた。
誰かが研究所の理論へ辿り着いている。
しかも俺達より先に。
その考えを打ち消すように視線を前へ戻した瞬間、隊列の最後尾を歩いていた黒衣の人物が不意に立ち止まる。
兵士ではない。
指揮官とも違う。
全身を外套で覆い、顔さえ深く被った頭巾で隠している。
その人物は谷の上──俺達が身を潜めている尾根をゆっくり見上げた。
距離がある。
表情など見えるはずがない。
それでも目が合った。
そんな錯覚では済まされない悪寒が背筋を駆け抜ける。
俺が息を呑んだ直後、黒衣の人物は何もなかったように再び歩き始め、人間軍の隊列は谷の奥へ吸い込まれるように消えていった。
誰も動かなかった。
風だけが尾根を吹き抜ける。
長い沈黙の末、大和は谷の向こうから視線を外さないまま静かに口を開いた。
「追う」
その一言だけで全員が頷く。
ここから先は偵察では終わらない。
俺達は、人間軍の背後で蠢く”何か”の正体へ、一歩ずつ近付き始めていた。
#フライギ
にもあえ
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葉菜
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コメント
1件
「消えている」——あの地面に刻まれた紋様の違和感、すごく好きです。魔力の痕跡が綺麗に抜け落ちてるっていう表現、何者かが意図的に“吸い上げた”ような空白って発想がゾワッとしました。それに、倒れた兵士を何でもない顔で立ち直らせるあの描写……研究所で凍結された理論と似てるって予紬が気づくまでの静かな緊張感、本当に良かった。黒衣の人物に尾根越しに見られた瞬間の悪寒、たまらなかったです。