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#フライギ
にもあえ
229
葉菜
26
人間軍の先遣隊は谷を抜けると進路を北東へ変え、そのまま街道を外れて森の奥へ入り始めた。
俺達も十分な距離を保ちながら後を追う。
先頭を歩く大和は一度も足を止めない。
足跡を消し、風下を選び、木々の陰だけを繋ぐように進むその動きには無駄がなく、後ろを歩く俺達も自然と同じ呼吸になっていた。
人間軍はまだこちらへ気付いていない。
少なくともそう見えた。
「……あの黒い奴じゃ」
前方を窺っていた千代が小さく呟く。
視線の先では、最後尾を歩いていた黒衣の人物が兵士達から少しだけ距離を取り、何かを紙へ書き込んでいる。
護衛は二人。
他の兵士達より一歩外側を歩いているだけで、大した警戒もしていないように見えた。
千代の肩が僅かに沈む。
踏み込む前の姿勢だった。
「待て」
小声で制止する。
「まだ早い」
「今なら届く」
千代は前だけを見たまま答える。
その声には焦りが混じっていた。
北方森林群を焼かれた怒り。
夜哭きの森を奪われた悔しさ。
その全てが目の前の黒衣へ向けられているのだろう。
「千代」
大和も低く呼び掛ける。
「戻れ」
ほんの一瞬だけだった。
千代の動きが止まる。
止まったように見えた。
次の瞬間には地面を蹴っていた。
黒い影が木々の間を一直線に駆け抜ける。
速い。
半魔の中でも群を抜いて速い。
一息で数十歩を詰め、腰の刀へ手を掛けたまま黒衣へ斬り掛かる。
誰もが間に合わないと思った。
黒衣の人物は振り返りもしない。
代わりに護衛の一人が半歩だけ前へ出る。
それだけだった。
甲高い金属音が森へ響く。
千代の刀が止められている。
片手だった。
男は片腕だけで刃を受け止め、もう一方の拳を迷いなく千代の腹へ叩き込む。
鈍い音が響く。
千代の身体が宙へ浮いた。
そのまま何本もの木を折りながら吹き飛び、最後は岩へ叩き付けられる。
「千代!」
思わず叫ぶ。
速過ぎた。
力も異常だった。
半魔を真正面から殴り飛ばす人間など見たことがない。
護衛は追撃へ移る。
迷いがない。
倒れた相手へ確実に止めを刺すためだけの動きだった。
岩を砕く勢いで振り下ろされた剣が千代へ届く寸前、一陣の黒い靄が森を駆け抜ける。
轟音。
地面が抉れる。
護衛の身体が横へ吹き飛び、何本もの巨木を薙ぎ倒しながら谷底へ消えていった。
その中心に立っていたのは大和だった。
袖の広い羽織が風を受けて揺れている。
右腕から溢れた黒い靄は蛇のように蠢きながら周囲を這い、残った護衛へ静かに牙を向けていた。
「下がれ」
短い声だった。
怒鳴った訳ではない。
それでも森の空気が一変する。
残っていた護衛が初めて表情を変えた。
驚き。
いや。
警戒だった。
「千代」
大和は視線を前から外さないまま静かに言う。
「立てるか」
返事はない。
岩陰で咳き込みながら身体を起こした千代は、自分ではなく大和だけを見つめていた。
黒い靄が少しずつ濃くなる。
普段の大和なら使わない力だった。
仲間を守る時しか見せない、本気に近い魔力。
千代は知っている。
あの力は強い。
強い代わりに消耗も激しい。
昔、大和が自分を守るために同じ力を使い、何日も意識を失ったことがあった。
その記憶が鮮明に蘇る。
「長……」
思わず零れた声は震えていた。
護衛はゆっくり剣を構え直す。
谷の向こうでは黒衣の人物もようやく足を止め、初めてこちらへ身体を向けていた。
戦いが始まる。
その予感は誰よりも千代の胸を締め付ける。
今まで大和は必ず前に立ってくれた。
だから安心して戦えた。
だが今回は違う。
目の前にいる敵は、今までとは明らかに格が違う。
もし。
本当にもし、この戦いで大和を失ったら。
その考えが頭を過った瞬間、千代の身体からすっと血の気が引いていく。
北方森林群を失った時よりも。
夜哭きの森を追われた時よりも。
初めて心の底から恐ろしいと思った。
失いたくない。
その想いを自覚した瞬間、胸の奥で何かが静かに崩れ落ちたような感覚がした。
目の前では大和と護衛が互いの間合いを測るように向き合い、一歩も動かないまま相手の呼吸を探っている。
剣はまだ交わっていない。
それでも張り詰めた空気は肌を刺し、谷を吹き抜ける風さえ重く感じられるほどだった。
大和の右腕へ絡み付く黒い靄は以前より遥かに細く、それでいて圧倒的な密度を持っている。
無駄に膨れ上がることなく腕へ沿って静かに収束し、まるで生き物のようにゆっくりと蠢くその姿を見た瞬間、俺は以前との違いに気付いた。
魔力そのものは抑えられている。
にもかかわらず漂う圧力だけは比べ物にならないほど増していた。
「あやつも随分変わったものじゃ」
すぐ隣から聞こえた声に視線を向ける。
ミズキは和傘を肩へ担いだまま前方を見つめ、その赤い瞳へどこか懐かしそうな色を浮かべていた。
「昔はもっと力任せだった。黒い靄を辺り一面へ撒き散らしては敵を薙ぎ倒し、自分も立っておれぬほど魔力を使い果たすことが何度もあった」
谷の向こうでは護衛も構えを崩さない。
黒衣の人物も静かにこちらを眺めたまま動こうとはせず、まるでこの場にいる全員の力量を見極めようとしているようだった。
「じゃが、あやつは何百年も掛けて少しずつ戦い方を変えていった。魔力を削り、流れを整え、必要な瞬間だけ最大の力を引き出せるよう身体へ叩き込み続けたんじゃ」
ミズキは小さく息を吐く。
その声音には戦友を語る者だけが持つ重みが滲んでいた。
「誰に命じられた訳でもない。ただ仲間を生きて帰らせたい。その一心だけでの」
千代は何も答えない。
ただ大和の背中だけを見つめている。
その背中は昔と何一つ変わらない。
夜哭きの森で暮らしていた頃も。
北方森林群の救援へ向かった時も。
故郷を失い、この街を築き始めてからも。
危険な場所では必ず一番前へ立ち、仲間達が追い付くまで一歩も退かなかった。
千代はそれを長として当然の姿なのだと思っていた。
「……長は昔からそうじゃ」
震えるような声が漏れる。
ミズキは静かに頷いた。
「そうじゃな。じゃが、一つだけ昔と違うことがある」
千代がゆっくり顔を向ける。
ミズキはその視線を真っ直ぐ受け止めると、穏やかに微笑んだ。
「あやつが魔力の消耗を減らそうと思うた理由じゃ」
その一言だけで千代の呼吸が止まる。
「最初は仲間全員のためじゃった。じゃが、お主と出会ってからは少し変わった」
谷を渡る風が二人の間を静かに吹き抜ける。
「あやつは、お主が無茶をする度に考えた。もっと速く動ければ助けられる。もっと少ない消耗で戦えれば、お主を守ったあとも皆を守れる。そんなことばかり考えて、何百年も自分を鍛え続けてきた」
千代の瞳がゆっくりと見開かれていく。
思い返せば心当たりはいくらでもあった。
自分が傷付けば必ず隣へ来た。
無茶をすれば誰よりも厳しく叱った。
危険な場所へ向かえば、何も言わず自分より一歩前へ立った。
長だからだと思っていた。
仲間だからだと思っていた。
違った。
「あやつは本当に、お主のことが好きじゃな」
茶化すような口調ではなかった。
何百年も大和を見続けてきた友人だからこそ断言できる、静かな事実だった。
千代は何も言い返せない。
目の前では今も大和が一人で敵と向き合い、この場にいる誰一人として傷付けさせまいと立ち続けている。
もし、この戦いであの背中が失われたら。
その想像だけで胸が締め付けられ、呼吸をすることさえ苦しくなる。
北方森林群を失った時とも違う。
夜哭きの森を追われた時とも違う。
今まで感じたことのない恐怖だった。
その時ようやく千代は、自分が守りたいと思っている相手は、ずっと前から自分を守り続けてくれていたのだと痛いほど理解していた。
コメント
1件
ああ、第45話読んだわ。もうね、胸が熱くなったよ…。 千代が「失いたくない」って気付くシーン、すごく良かった。今まで長だと思ってた背中に、全然違う意味があったって気付かされるのがね。ミズキの「あやつは本当に、お主のことが好きじゃな」って言葉がもう…!ずっと側で見てきた人だからこそ言える重みがあったわ。 護衛の一撃で千代が吹き飛ばされるシーンも、大和の黒い靄が唸る場面も、緊張感が画面越しに伝わってきた。この2人の関係性がどう動くのか、続きが気になりすぎる🔥