テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
#極道
鷹槻れん

14,295
月詠 涼
903
#シングルマザー
水羽凛
311
鷹槻れん

33,297
第5節 桐生百合香『見送るだけの場所』―2―
『パパ、今度の週末あいてる?』
『百香ね、行きたいところがあるの』
全文を読んだわけじゃない。それに対して雄二がどんな返信をしたのかも知らない。
でも、それだけで十分だった。
あのとき百合香は、雄二の横顔を見てはいけない気がして、思わず視線をそらした――。
「……雄ちゃんの子、もうあんなおしゃまなことを言う年になったんだ……」
ぽつりとつぶやく。
百合香の中で雄二の娘の映像は、生まれてすぐのころのままで止まっている。
それ以降は写真を見せられることがなかったから。
――百香。
その名前を、頭の中で思い浮かべる。
その響きをなぞるだけで、わずかに胸がざわついた。
知るべきではなかった。
知らないままで、よかったのかもしれない。
けれど、知ってしまった。
その子の名前に込められたものを。
それが、自分と無関係ではないことを。
(……困るよ、ほんと)
自嘲するように、笑う。
奪うつもりなんて、ない。
そんな資格がないことも分かっている。
でも――。
百合香は望めなかった、愛する人との子供。
その存在を目の当たりにして……その子の名前を自分の名から取ったと言われた時の衝撃を思い出す。
あの子は百合香ではない別の女性が産んだ子で、愛しい人の子どもではあるけれど、自分とは無関係だと思いたかった。なのに、雄二がそれを許してくれなかった。
その曖昧な距離が、どうしようもなく居心地が悪かった。
けれど。
(百の、香り……)
心の中で、そっとなぞる。
(雄ちゃんは私の名前から取ったって言ったけど……)
それはきっと、彼の奥さんにとって、そうじゃない。
百の花々の香り。
たくさんの花が咲いて、そのすべてを束ねたような名前。
――百香。
それに対して自分は、百合の花の香り。
たった一輪の花の名を、そのまま持っているだけ。
きっと、違う。
重なるはずなんて、ない。
彼の正妻が呼ぶ〝百香〟という名前に、自分はにじんでいない。
私はあの子とは無関係――。
――そう、思うことでしか、雄二の妻……もっと言えばその名を背負わされてしまったお嬢さんに対して、申し訳なくて自分の立っている場所を保てない。
百合香は、ゆっくりと背もたれに身を預ける。
天井を見上げると、そこには何もない。
ただ、静かな夜だけが広がっていた。
――ここは、見送るだけの場所。
ふと……腕の中で、柔らかな気配が動いた。
「……しろ」
呼びかけると、小さな影がゴロゴロと喉を鳴らした。
その音も、昔より少しだけおとなしくなった気がする。
腕の中の身体は、軽くなったのに――どこか頼るように預けられる重みだけが、前よりもはっきりと伝わってきた。
(しろも、歳を取ったんだね)
そう思うと、不思議と胸の奥がじんわりと温かくなる。
変わっていくものもある。
それでも――こうして傍にいてくれるものが、ちゃんとある。
百合香はそっと手を伸ばして、しろのあごを優しくくすぐった。
指先に伝わる柔らかさ。
規則正しい呼吸。
そこにあるのは、嘘のない体温だった。
「……ありがと」
誰に向けたのかも分からないまま、ぽつりとつぶやく。
しろはただ、ゴロゴロと心地よさそうに喉を鳴らし続けている。
何も変わらない。
ここは、見送るだけの場所のまま。
それでも――。
ほんの少しだけ。
しろのおかげでこの静けさが、やわらいだ気がした。
コメント
2件
白が心の拠り所だね。 でも、しろが年齢を重ねてきているのが気になる🥺
うわあ…このエピソード、胸がぎゅーってなるね😭💕 百合香さんの“見送るだけの場所”っていう立ち位置がすごく伝わってきて…。雄二の娘・百香の名前の意味を知った時の衝撃とか、「自分は無関係」と思いたいのに知ってしまったもどかしさが切なすぎるよ…。最後のしろちゃんとの温かい時間で少し救われた気がした。歳取った猫の重みとか、ゴロゴロいう音…もう泣ける🥺✨ このままでいいのかなって揺れる気持ち、すごく共感しちゃった!