「ねーえ。広坂さん」
呼ばれた途端、からん、とタンブラーを落としていた。あら大丈夫? と声をかけられたが正直――大丈夫ではない。
「怪我がなくてよかった」タンブラーを拾い、髪を耳にかけて上体を起こす彼女は、目を合わせると広坂に笑いかけ、「これ、便利だね。ビール飲んでも水滴がつかないし、落としても割れないし……てああ」
床に傷なんかついてないよね? と腰を折って床のコンディションを確かめる彼女を、広坂は直視出来ない。なんだったのだ……昨日のきみは。
そう聞きたいのはやまやまなのに、あくまで男として主導権を握りたいという自分が、それを阻止する。閉所恐怖症の発作を抑え込むときの自分を意識して呼吸を整え、
「ありがとう」
「……うん」
夏妃の顔を見ると、どきん……! とおそろしいほどの痛みが胸を走る。咄嗟に胸を押さえると夏妃が「大丈夫?」と広坂を気遣う。
「呼吸も荒いし、顔も赤いし、たぶん脈も速い。ねーえ。あなたすこし横になってきたら? あとのことはわたしがしておくから、ね?」
夏妃の申し出に素直に広坂は従った。「……ありがとう」
ベッドに寝転がる広坂は、見慣れた天井を見ながら考えようとする。
――おれは、おかしい。
どうしてしまったのか……。
あの女王様が焼き付いて、離れない。
――舐めなさいよ。舐めたくて舐めたくてたまらないんでしょう? さーあ。
――そう。オナニーするの。あたしの目の前で。だってあなたさっき、散々あたしのおまんこを舐めて、やーらしい気持ちになってたんでしょう? 我慢出来る? 出来ないなら出来ないって言いなさいよ。
――なにさまだと思っているの? ねえほんと、なにさま? あなたに、あたしのからだを舐める権利があるだなんて誰が言ったの? 女王様の御肌を舐めさせてください……そう懇願するのが筋でしょう?
――あーあ、いっちゃった。寸止めにしろってあたし、言ったわよね。言うことの聞けない野良犬はあたし嫌いよ。従順な犬がいい……あたしに尽くしてくれる従順な犬に成り下がりなさいよ。ねえあなた。
――ああ、まーたいっちゃった。この性欲狂いのマゾヒストが。そうよ、あなたマゾよ。自分ではどSだと思い込んでるみたいだけど、とんだ勘違い野郎ね。二発抜いてそれでも足蹴にされたがっている、この、マゾヒストが。あんたがどMだってことは、これからあたしがたっぷり――教え込んであげる。骨の髄に染み渡るまでね。
まさか、あのような一面が隠れていようとは。『アンテナ』の影響か? 読破したことは伝えていた……夏妃がいないあいだに貪り読んだから。孤独に耐えられず。あのナオミ女王様が、主人公をののしるシーンには笑ってしまったが。田口ランディはコメディを狙ったわけではなさそうだが、センスがあると思う。実をいうと、あのシーンにはそそられた。いつか自分も夏妃にあのように言われたいと思ったくらいだ。まさかその願望が叶えられるとは……。
快楽とすれすれの罵倒、だが実際あの言葉の数々があったからこそ、広坂はいままでとは違う種類の絶頂へと導かれた。事実、自分が主導権を握るセックスは最高なのだが、服従する側のそれはそれで。思い返すたびにペニスが熱くなる。また、……会いたい。あの女王様に。
「――大丈夫ぅ? 広坂さん。体温計持ってきたよぉ?」
夏妃の声に、はっとする。「ううん平気」とふるえた声で答える。――駄目だ、顔がまともに見られない……。彼女の気配を感じるだけで鼓動は高まり、頬が熱を持ち、胸の奥が異様に苦しくなる……完全に、恋だ。おれはあの女王様に恋をしている……。
『それは、……恋だよ』
果たして人間とは、多面的動物である。かつて彼女が生理的反応を打ち明けたときの彼女が蘇る。あのとき、広坂は断言したのだ。あの経験を照らし合わせるに、いまの自分はまさに、恋をしている状況。こんな自分を夏妃はどう思うだろうか……そのことが心配でならない。
かたつむりのように背を向けたまま寝そべる広坂。すると彼女の重みで、ベッドが沈む。
「ひょっとしたら、『あのこと』……?」
どきん、とまたあの痛みが広坂の胸を走る。がその彼の当惑知らず、彼女は、
「そっかそっかぁ」と広坂の口癖を繰り返す。口癖は無意識に模倣するものである。そう、恋をしている相手の。「確かに、……ショックだったかもしれないけれど、でもそういうことってあるわよ? 誰にでも。だから気にすることなんか、ないんじゃないかしら……まあ悩んでる人間に『悩むな!』って言うのも、無茶かもしれないけれど……でも、そういうことって誰にでもあるわよ」
「……夏妃」
彼はからだを起こした。うん? と微笑みかけてくれる夏妃は、いつもの女神であった。目を潤ませた広坂は、
「分かって……くれるのか?」
「勿論よ」笑って彼女は広坂の頭を撫でる。「いろんな……広坂さんがいるのね。わたしの知らない広坂さんが。これからはもっと、弱いあなたも強いあなたも、いろんなあなたを……見せてくれると嬉しいな?」
「ありがとう夏妃……!」涙ながらに広坂は抱きついた。「おれ、あんなになるきみが、大好きなんだ! まさかきみがあんな女王様を隠し持っているだなんて、おれ、知らなくって……自分の観察眼が足らないってつくづく思い知らされたよ……ごめん、おれは、彼女にも惚れている……いや普段の清廉潔白なきみも、大好きなんだけれど。それからあの、感じやすくていきやすい……きみのことも」
夏妃のからだが固まった。その反応に、うん? と広坂は彼女の目を覗き込む。すると彼女は驚きに目を見開かせ、
「……あなたの言っていたのって、昨日、うっかり無糖炭酸水を高い店で買っちゃったって……そのことじゃなかったの……?」
人間にはつくづく言葉が必要だと思われる。
「なぁんだ。言ってくれればよかったのに。別にわたし、抵抗感なんてないわよ。それよりかは、『あたし』のあの行動で、広坂さんが幻滅してないか……そっちのほうが心配だったわよ」
ほうれん草のおひたしに手を伸ばし、彼女は咀嚼する。ああ美味しい……! と。食べる都度彼女はこうなのだから、いかに会社で自分を押し殺していたということか。理解を深める広坂は、「おれのほうこそ、幻滅されるかと思った。ところで、……どこで思いついたの? あーいう言葉遣いってか口調だよね。普段のきみとはまるきし違うじゃない……?」
「あーなんでだろう」『アンテナ』を読んだのは昔の話なのでディテールは記憶にないらしい。彼女は、「前に……広坂さん、『ぼく』と『おれ』使い分けているって言ったでしょう? ならね、『わたし』は『わたし』だけれど、もし『あたし』口調の女の子がいたらどんなんだろ……て思ったら、あんなふうになったの。
そんなに、――よかった?」
女王様と生き写しの彼女。違う、『彼女』は『彼女』なのだ。
「ああ……」感嘆の息を広坂は漏らす。「そうだね……きみはきみで大好きなんだけど、同じ人物内にあれを内包するって設定がたまんないね……例えば、大概、小説ってワンパーソンワンパーソナリティだろ? あれね、ぼく的にはちょっと物足りないなあって思ってたんだ……森博嗣は別として。
小説の感想なんか見てみると、違う一面を見せようものならすぐに、『思っていたのと違った』……すぐ、叩かれる。
でもね。人間てそんな単純なもんかなあ? こうすればあーする……フローチャートみたく簡単に流れていくんだったら誰も苦労しないよ……虐待される子どもの三分の一が、親になったときに歯を食いしばって虐待の連鎖を食い止めるんだ。経験は、行動原理にはなりうるけれども、理由にはならない。そのことを実感させてくれる小説がなかなか見っかんないのが、悩みどころでもあるのさ……」
「ストレス解消」味噌汁を飲んだ彼女は、「いろいろと溜め込んでるのね広坂さん。ごめんなさい全然気づいてあげられなくって。……よし。
ハードミドルダブルどれがいい?」
かつての彼を模倣する彼女に、広坂は笑った。「……ダブル。欲張りなもんで」
「よしきた!」彼女は、たん、とお茶碗をからにすると、「なら、いろいろと準備しないとぉ! あー腕が鳴るわぁ! 広坂さん、あたしちょっと忙しくなるから……でーあと宅急便でなにか届いても、開けないでね? 楽しみはとっておいたほうがいいでしょう?」
期待に興奮する彼女も美しかった。否、相手は自分のこころを映す鏡。興奮しているのは広坂とて同じだ。
いったい、なにを彼女は狙っているのか……なにを仕込むつもりなのか。
答えが出るまで一週間。女王様を潜伏させた彼女を抱きながら、広坂はじっと待っていた。サンタクロースを心待ちにする無垢な少年のように。
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