前夜から行動を別にするという、念の入れようであった。
『オナニーしちゃだめよ?』と彼女は内緒話をするときのように、唇に指を一本添え、『溜めて溜めて溜めて……その欲動を一気にぐわーっと吐き出すの。きっと、楽しい夜になるはずよ……』
丸一日、彼女がいない事態は、彼女と交際して以来初めてであり、広坂は戸惑いを隠せない。……この部屋のどこにも夏妃がいない。探してもいない。山崎まさよしの歌を口ずさみながらトイレ、風呂場、果てには冷蔵庫まで覗いてしまい、いったいなにをしているのやらと彼自身呆れてしまった。たった一晩、会えないだけだというのに。
約束の期日までの一週間、平常通り、毎日愛の営みは持ったものの、彼女といえばはぐらかすばかりで。やがて、聞くのもやめた。確かに、楽しみは取っておいたほうが得策。サプライズは感動をこじらせるなによりのスパイスだ。
さて。
東京駅に降り立つ広坂は、スーツケースを引き、指定された場所へと向かう。高級ホテルだ。二泊する彼女の経済状況が心配になってしまうが、それを聞くのは野暮というものだろう。なるようになるさ、という、ほんのちょっとのやけっぱちな気持ちと、こころのなかの大部分を占める開放感に任せ、広坂は歩を進めた。
部屋のインターホンを鳴らす。――空いているわよ、と女の声。その艶めいた響きに広坂はぞくりとした。――夏妃なのか? いまのが……。
「……入ります」
――どこだ?
入り口にスーツケースを置き、部屋の鍵をかけると広坂は彼女の姿を探す。鼻孔をつくなにかの香り――麝香か? 香かなにかを焚いており、BGMは、ビョークの映画の曲。妖しい雰囲気に拍車をかける。やがて、奥へ進めば広坂は発見する。――いた。
窓際に、女が、入り口側に背もたれを向けた椅子に座っている。足を広げ、椅子の背もたれに肘をかけ、組み合わせた指に顎を預ける姿勢で、大きく股を広げている。そこから真っ赤なブラジャーとパンティのセットが覗き、足元はハイヒール。目元には仮面舞踏会を思わせるマスクが……!
その姿を認めた瞬間、たちまち広坂は勃起した。その様子に気づいたらしい、いやに赤い唇を歪めた彼女が、
「――いやらしい男。このあたしの姿を見るだけで欲情して」
――『彼女』だ。
パーマをあてたのか。ふんわりウェーブがかった髪が揺れ、彼女の表情を彩る。
「広坂譲。香坂徹。……どっちでもいいわ。来なさい。あなた……このあたしが、欲しくて欲しくてたまらないんでしょう? なら、なにをすればいいのか――分かっているわよね」
「はい、女王様……」広坂は彼女の前に正座をした。この暑い時期にスーツ姿でネクタイも巻いている。お陰で脇の下にじっとりと汗をかいている。しかし、女王様のご指定とあらば、従うほかあるまい。
「――脱ぎな」と彼女。え、と広坂が問いかければ、馬鹿ねあなた、と女王様は呆れたように、「あなた、いったいなんのためにここに来たの? 自分がどうされたいか、あなたが一番よく分かっているでしょう? 脱ぎなさい。ただし、うえだけよ。そしてネクタイを首に巻くの。そしたら四つん這いになって三回回ってワン、と吠えなさい」
――まじか。
という戸惑いすらねじ伏せる彼女の迫力に広坂は圧倒されていた。彼女は、あまりにも妖艶だった。彼の知る夏妃とはなにもかもが違った。発声法、広坂に対するポジショニング、指先に至るまでの動き、そして目つき……。
手始めにネクタイに手をかける。蛇のような目線が絡みつく。敢えて彼女はなにも言わない。広坂が自発的に服従するのを彼女は待っているのだ。股間が痛くなるくらいの欲動を感じながらも、広坂はネクタイをそっと自分の前に置くと、続いてワイシャツに手をかける。やはり、脇の下がソーキングウェット。これを放置するととんでもないことになるのだが、『夏妃』は洗ってくれるのだろうか? いや、自分のことは自分でしなくては……インナーシャツも脱ぎ、自分の最後の後始末をする人間のように丁寧に畳むと、自分の横に置いた。
ネクタイを自分の首に巻く。――と、奇妙な快楽が沸いた。なんだか、犬になった気分だった。勿論、そんな広坂を彼女はじっと見ており、その視線に愛撫されている。
ふるえながら広坂は彼女を見た。目が、物語っていた。言う通りになさい、でないと……。
「――わん!」もう、やけくそだった。一度振り子が振り切れるとどうにでもなるものだ。言われた通り、三回回って吠えると、自分のなかに隠し持つプライドが、消えうせる気がした。
「ふぅん……つっまんないの」ところが、広坂の献身を彼女は踏みにじる。「なにそれ。あなたバカなの? 言われた通りにするしか出来ないってどんな能無しよ。バカ。あなたいったい十六年間の社会人生活でいったいなにを学んできたの。コピー取りもろくに出来ない能無しの新人とおんなじよ。言われたことをそのままやるのではなく鋭意工夫せよ――そんなの、社会人になった人間の八割がたが分かっていることだわ。
残念ね。あなたは残りの二割だったということ――欲しいものを手に入れるために頭を使わない人間にあたしは用はないわ。気分を損ねた。ここから――出て行きなさい」
みるみる広坂の目に涙が溜まる。「そんな、女王様……」
恥ずかしい行為に手を染めた自分を褒めてくれるどころか追い出すなんて。この計画が、台無しだ。広坂の悲しみを知らず彼女がしっしと手で追い払う仕草をする。「消えろ。能無し。あんたになんか、用はないわ」
「……お願いです、女王様……」
「てめえいったいなに聞いてたんだよ。哀願することだけがてめえのすべきことか? 竈門炭治郎の姿からてめえはいったいなにを学んだんだ? ああ?」
――ああ。
女王様が立ち上がる。
「待って、行かないでください……」広坂は彼女の前に回り込み、正座をした。「お願いします。あなたのためならなんでも……しますので」
「――ならば。あたしが喜びそうな、てめえの考えられる限りで最悪の行為を、してみるこった」幸いにして女王様は椅子に戻った。ただしその前に椅子をくるりと回転させ、足を組んで座る。そのときに見たパンティがTバック、丸いお尻が見えたのが、艶めかしかった。
広坂は、ベルトに手をかけ、自身をむき出しにする。この状況下にも関わらず陰茎は天を目指して屹立している。愛が欲しいと空に向かって乞う、彼自身のように。
「見ていて……ください。女王様……」声が、ふるえる。涙が、あふれる。屈辱なのか愛情なのか正体不明のなにかにこころがふるえる。「ぼくは、いまからオナニーをしますから……見ていてください」
「ありきたりでつまんないねえ?」足を組み替える女王様は、足に肘をつき、「……なんか、そそらせる要素ってないの? あたし、暇じゃないんだけど。オリジナリティの欠如。それが、あんたの欠点だ……あーそうだ」彼女は手を合わせ、……用意周到なことに、ネイルが真っ黒に塗られている。「あっちに、いろんなオモチャが入っているから、それ適当に選んで。んであたしを喜ばせな。でないと、てめえにはあたしを――触らせないぜ。指の一本足りともな」
しごきかけた広坂は腰を浮かす。「……あっちとは」
「風呂場ぁー」
風呂場に辿り着いた彼は愕然とした。浴槽にいっぱいに詰められた大人のおもちゃの数々。あれもこれも、……いったいこれをいつ買い揃えたのか? どうやって運び込んだのか。ともあれ、彼女の、女王様として君臨するために準備したアイテムの数々に、底知れぬ彼女の執念を見た気がした。真夜中は純潔。白鳥は水面下でバタ足をするさまを決して見せないという。
……極太のディルド。いったいなにに使うのかは……瞭然だ。ああおれもとうとうデビューしてしまうのかと。嘆かわしい感情を有しつつも魅惑的に感じる自分がいるのも確かだった。いったい、どうなってしまうのだろう。
手でかき分けて、四つのアイテムを手にした彼は女王様の前へと戻った。へーえ、一個じゃないんだ、と目ざとく女王様が気づく。「それで。一発目はどれ、使うつもり……?」
「こちらを」恭しく広坂が差し出す。受け取る女王様は首を傾げる。「あたしにいったいこれでなにをして欲しいの?」
「……わたくしめは前回、過ちを犯しました」殊勝に告げる広坂。「それは、……あなた様の許可が得られていないというのに、何度も射精をし、……寸止めを試みては失敗、致しました。
もし、……わたくしめが射精しようものなら、それでわたくしを、ぶって欲しいのです……」
ひゅう、と鞭を風にしならす女王様は、「へーえ。悪かないね。ベタだけど……あんたが実はいかれポンチ野郎で、女の前でオナニーすることに悦びを見出す変態野郎だってことが証明出来るからね。――いいね。やってみな……?」
「分かりました」
途端、視界が変わる。痛覚が襲う。どうやらさっそく駆使されたらしい。
「『分かりました』じゃない。『かしこまりました』だろが」憮然と言う女王様。「次間違えたらてめえ……後ろから犯すぞ」
女王様の剣幕に驚かされる。何故だろう、夏妃は――怒っている。戸惑いと、やっとこの女王様に出会えたという陶酔感を味わいこみながら、広坂は、自分を追い込むことに、専心した。
*
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!