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目が覚めたのか、ずっと目覚めていたのかも分からないが、いつもの場所へと戻ってきたという実感がわく。狩人の娘であり、魔法使いの娘であり、家出娘の娘であり、魔法少女でもある。ラミスカであり、ユカリでもあり、そして……。
思い浮かびかけていた想念が季節の過ぎ去った花のように散ると、ようやくソラマリアの不安そうな顔がこちらを見つめていることにユカリは気づく。珍しい表情だ。レモニカを見つめていたり、レモニカのことを考えている時のような、精妙な複雑さとは無縁な不安や恐怖の感情がはっきりとした表情だ。
「おはようございます」という言葉が、かけるべき言葉として最初に思い浮かんだ言葉だった。
「寝ていた、のか?」
ユカリの挨拶にソラマリアはより不安そうな顔になってしまう。
「えっと……」
ソラマリアにそのような表情をさせたくなくてユカリは言葉を選ぶが、頭の内は乾きかけた泥濘のようになっていて選ぶほどの語彙が浮かんでこない。
手をつかまれて初めて、ジニもまたそばにいることに気づいた。ジニのなすがまま合掌する。
「自分の手を感じて、自分の手をよく見て、何かを考えようとしないで思いついたことをそのまま口にしな」とジニの言葉が耳元で響く。「それが自分を留める錨になる。あるいは楔に」
「思いついたこと。……えっと、あいかわらず若い娘の姿だ」とユカリはジニの方をちらと見ながら呟いた。「何を考えてそんな格好をしているのか気になるけど、同時に知りたくない気持ちもある。何だか私の中の義母さん像が壊れてしまいそうな気がする。私にもエイカにも似てない。当たり前だけど。後ろの壁。灰色。灰色の壁。罅割れてる。どこ? 砦? 新カードロアの、砦のどこか? ソラマリアさん。怪我はない? ソラマリアさんのお陰で助かりました。命の恩人です。おあいこですね。私は、爆発して。じゃない。私は爆発してなくて。パジオさんが。刃物の怪人が。爆発して。パジオさんの、変身を解こうと。解こうとしたら、無理に解こうとしたから爆発して。私。そうとは知らなくて」
春を迎えた冬解け水のように止めどなく涙が零れ出る。後悔を意味する黒い塊が腹の奥で重みを増す。
ユカリの言葉が途切れるとジニはその両手でこの両手を包み込み、淡々と話す。「あんたが思ってるよりは死んでないよ」
ソラマリアが何か言いたげにジニと目線を交わすが何も言うことなく言い含められる。
「あたしが結構な人数を助けた。死んだ人数よりは多いはず。まだ確認は取れていないけど十には満たない。あんたも含めてあたしたちの活躍が多くの命を救った。だがあんたは後悔してるんだろうね。もっと良い方法があったかもしれない。変身を解こうと? 思った判断は間違ってたのかもしれない。あたしも可能性までは否定できないね。だけどあたしが思うに――」
ユカリは手をあげてジニの言葉を止めさせる。
「それ以上言わなくていいです。言いたいことは分かりますし、気持ちはありがたいですけど、私は私の考え方で物事に対処します。後悔もするし、反省もする。でも自分の得た分で失った分を慰めようとは思いません。魔導書が奪う命よりも多くを救うと心に決めているけど、人の命は数じゃない。それは勝つための覚悟ではなく、私が戦いに挑み続けるための覚悟ですから」
「――助けようという思いが大事なんだ。結果はまた別」とジニは最後まで言い切る。
「言わなくていいって言いましたよね」とユカリの声は強張る。
「あたしは誰かの命令でおしゃべりをやめたりしないんだよ」と返すジニの言葉も力強い。
「ともかくだ」ソラマリアは睨み合う親子を牽制するように口を出す。「呪いは解かれ、こうして魔導書も手に入れたんだ。一件落着と言っていいだろう」
ソラマリアの視線を追って、ユカリは慌てて自分の体を検める。そして体を検める指の感触に異物を感じる。
指輪だ。海を封じ込めたような深い青の蒼玉だ。最早弓弦の感触を覚えているのか疑わしいユカリの右手の中指にすっぽりと収まっている。ユカリにぴったりの寸法だ。首飾りや耳飾りのように別の人間が使えるのかどうか、別の問題が浮上する。場合によっては少し悲しい気持ちになるかもしれない、とユカリは覚悟した。
ユカリは空気の流れに気づき、振り返るとそちらには壁がなく、いくつかの机や椅子として利用されていたのだと分かる瓦礫が並んでいた。商店のように機能していた一角を借りているのだと気づく。
そして星々の輝きのような沢山の人々の好奇の目が遠くからユカリを見つめていた。過去にも見覚えのある熱い眼差しだ。今にも駆け寄ってきそうな熱量を感じたが、屋根の下には入って来ない。
「立てるかい?」とジニは気遣いつつもユカリが答える前に立たせようとする。「見せたいものと話したいことがあるんだよ」
ジニに連れられ、ユカリとソラマリアは瓦礫の商店から出る。風で髪がばたつき、塵が目に飛び込んでくる。ますます嵐が近づいているのだ。しかし嵐がやって来る前に呪いを解けたのは幸いだ。呪われた刃が飛び交えば誰も助からなかっただろう。
人々はユカリが消えてしまうのを恐れるように見張り、一定の距離を保って近づいてくる。
ジニに連れられ、やってきたのは再び神殿だ。巨剣ヒーガスの残骸のある中庭の奥の建物は塔というほどでもないがこの瓦礫の街の物見櫓の中でも最も高い。
「ここからならよく見える。見張り台として使われていたのさ。もはや歩く死者はいないけどね」
ソラマリアは気遣ってくれたようで、「下にいる」と言ってユカリとジニを見送った。
見張り台の頂上から見える景色は、ケドル領は一変していた。それはカードロアの都だった。地平線の彼方まで建物に覆い尽くされている。塔は半壊し、いくつかの城壁が崩れ、多くの建物が焼け焦げているが、往時の有様が再現されている。
「どうしてこんなことに? 荒野だったのに。いや、良いことなんでしょうけど。呪災の解呪と関係が?」
ジニは手すりにもたれかかり、少しだけ首を傾げる。「推測の域は出ない。けど考えられるとしたらこれが呪いをかけられる前の光景。つまり大王国か機構かどちらもか知らないけど、そいつらが破壊し、撤退する直前の街の光景だね。言っちゃあ何だがこの程度さ。戦争で、これだけの建物が砂に還って、これだけの街が荒野に変わるわけがない。何もかもが消え失せたのは残された呪いとそれを強化した魔導書によるものなんだろうさ」
「なるほど。でも納得できます」
「と考えるのが普通だろう」
「ひっかけ!? 真面目な話じゃないんですか!?」
「言ったろう? 推測の域は出ないんだ。魔導書の他に破壊的な魔法を知ってんのかい?」
「それは、でも、うーん。そうですね」
たとえば魔導書なしに魔導書の魔法を再現した神童ともいえる少女、天に輝く月とその悪意ある眷属、この世のものとは思えない禍々しい姿に変身したクオル、海そのもの、そして魔導書などなくても大海嘯を引き起こせたという聖女アルメノン、そして人工魔導書。消え失せさせた、という点では謎の闇が最も近いかもしれない。
それらは、ユカリには魔導書に匹敵する存在に思えた。しかしどれも約四十年前にこの街を破壊した存在とは思えない。
そして何よりジニに一つ一つ説明する気にはなれなかった。
風が強まってきた。遠目にも黒雲から降る滝のような雨がよく見える。復活したカードロアが端から力強い水に洗われる。
「神様とか」とユカリは適当なことを言う。
「神様が地上に手出しする時は世界が滅ぶ時であり、信仰が失われた時だって相場が決まってるよ。そして、問題はその信仰だ」
そう言うジニの視線はユカリの紫の瞳を真っ直ぐに見つめている。
「え? 私は別に救済機構に魂を売ったりしてないですよ」
「そんなこと疑っちゃいないよ。そうじゃなくて、あんたが今集めている魔導書の鍵は信仰なんじゃないかと睨んでる。あんたに聞いたこと、ここでの出来事、それらを聞いての推察さ」
ユカリは微笑む。鼻で笑うのを堪えたのだった。「信仰? 土地神様を信仰したら魔導書を貰えるとかですか?」
ジニが鼻で笑う。「むしろ逆だね。あの合掌茸の生息域で最も信仰を集めた者に力が与えられるんじゃないかい?」
ユカリはこれまでのクヴラフワでの冒険を思い返す。
「つまり私が信仰対象になっていたってことですか? 信仰された覚えなんてないですけど」
「じゃあもう少し具体的に考えてみな。驚かせたとか、怖がらせたとか、喜ばせたとか」
ユカリはメグネイル、ジェムリー、カードロアで起こった出来事を順に思い返す。確かに心当たりがあった。何より多くの人を助けた、とユカリは自負している。確かに感謝され、少し大げさに感じたこともあった。
「だからといって、信仰、します?」
「するさ」とジニは軽々と断言する。「特に四十年間苦しめられた呪いから救ってくれた相手にならね」
それはそうかもしれない、そういうこともあるかもしれない、とユカリはひとまず納得する。
「そうだとして、一体何の為に? 魔導書はなんでそんなことを?」
「今までの魔導書に力を振るう理由や動機があったのかい?」
「ないですよ。だってそもそも魔導書は力が秘められているだけで、所有者に力を貸すだけで、自ら力を振るったりは――」
「それだよ。今回のこれだってそうじゃないか。信仰される者に力を貸す。今までは、確かにそうだったのだろう。所持する者に誰であれ力を貸すってのが魔導書の良い所であり、悪い所でもある。だが今回のこれは気に入った相手にしか力を貸さないってわけさ」
ユカリは嫌な気分を精一杯示すために眉を寄せ、唇を尖らせる。「知らなきゃよかったです。別に知らなくても、これから各地を巡って呪いを解くつもりで、結果感謝されて、信仰、されたりして魔導書を手に入れられたのに。もう知ってしまった以上、私はいんちき教祖みたいなものです」
ジニは柔らかい子供を手に入れた魔女のように大いに笑うのだった。
笑いごとじゃない、とユカリは言いかけた。客観的に見れば笑いごとかもしれない、とも思った。
代わりにうんざりしたことを示すため溜息をつくことにした。
「どうあれケドル領とはお別れです。私たちはグレームル領のビアーミナ市に戻ります。拠点にしてるんです。住むところを借りて」
「ビアーミナだって?」ジニは呆れた様子で微笑む。「今はいつにもまして厄介な土地になってるって聞いたんだけどね」
「機構と大王国それぞれの調査団が出入りしてますね。私たちはシシュミス教団の客人扱いです」
「にしては自由にさせてもらってるんだねえ。まあ、今やあんたはどこにいるか分からない時の方が恐れられる存在だもんね」
まるでそれは神様みたいだ、とユカリは思ったが何とか考えないようにする。
「少なくとも救済機構は私を恐れてる様子はないですけど。嘲りか憎しみか何かですね」
「まさか。おそらく機構の上層部は最たる教敵、魔法少女に対する信徒の恐れと侮りの均衡を保つのに苦労してるよ。魔法少女は強い。機構はもっと強い。魔法少女はずる賢い。だが機構はその上をいく賢さだ。ってな感じにね」
とても下らなくて大変な仕事に従事させられている人々がいるということだ。
「それで、義母さんはどうするんです? 家に帰って義父さんを探しに行きそうにはないですね」
「いずれはね。そうさね。じゃあお邪魔させてもらおうか。レモニカに挨拶したいし、ベルニージュも戻ってきているかもしれない」
「そうだと良いんですが」雨粒混じりの一際強い風が吹き、ユカリはたなびく髪を手で抑える。楽しい内容ではなかったがお喋りに夢中になっていた。「そろそろ降りましょうか。嵐も近づいて来てます。黒雲が生き物みたいにうねってる」
ジニが先に立って階段を降り、後に続こうとしたユカリの足が止まる。唸り声が聞こえた。獣のような、それでいて幼子のような声だ。
ユカリは振り返る。ほとんど同時に新カードロア砦の頭上を黒雲が覆い、重い雨粒が瓦礫の街を叩く。
「まだ【話しかけて】ないのに、喋った?」
カードロアに降りしきる激しい雨音は耳を塞ぎ、ユカリ自身の発した声さえ聞こえなくなる。
猛獣を打つ鞭のように雷が閃いて遠くの塔の頂に落ちる。幸い人もいなければ燃えるものもない。塔は白い煙を立てるだけだった。
「ねえ、どこかで【話した】? もう一度喋ってみて」
ユカリの心は下手に希望にすがらないようにしていたが、新たに吹きつけた風、その声で確信を持つ。
「グリュエー!? グリュエーなの!?」ユカリは咆哮の如き雨風に負けないように声を張り上げる。
しかし聞こえるのは唸り声だけだ。それでも今では確信をもってグリュエーの声だと断言できる。
「ねえ! グリュエー! 何があったの!?」
ユカリの叫び声は強い風と獰猛な嵐のグリュエーの雄叫びに掻き消される。