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深冬芽以
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数年の月日が流れた。
海沿いの小さな町にある郵便ポストに、一冊の分厚い封筒が投函される。
差出人の名は、かつての呪われた苗字ではなく、母方の姓を継いだ「佐伯 栞」。
かつて世界を震撼させ
国家の根幹を揺るがした「パンドラ事件」は、今や風化しつつある過去の記憶となっていた。
政府の監視の目は消え、私たちはただの住人として、この青い風景に溶け込んでいる。
「お姉ちゃん、初版が届いたよ!」
大学生になり、少し大人びた蓮が、嬉しそうに一冊の本を掲げて部屋に飛び込んできた。
真っ白な装丁に、銀色の文字で刻まれたタイトル。
『パンドラの女』—— 佐伯 栞 著
それは、声を持たない私が、数年をかけて指先から紡ぎ出した「魂の記録」だった。
あの日、地下ドームで見た母の涙。
ミチルが抱えていた絶望。
美波との確執と和解、結衣が描いたシナリオ。
そして……どんな時も私の手を離さなかった、ある人のこと。
私は本を手に取り、その重みを噛みしめる。
ページをめくれば、インクの香りと共に、あの日々の激動が静かな言葉となって語りかけてくる。
(……届くといいな。どこかで、孤独に震えている誰かに)
夕暮れ時
私は九条さんと共に、約束の浜辺を歩いていた。
九条さんは眼帯を外し、少し不自由になった右目を細めて、水平線に沈みゆく夕日を見つめている。
「……栞さん。君の書いた本、さっき全部読んだよ」
九条さんは立ち止まり、私に向き直った。
「最後のページ……あの一文。あれが、君が本当に伝えたかったことなんだね」
私は微笑んで、頷いた。
声は出ない。
けれど、私の心は今、かつてないほど自由に、高らかに歌っている。
九条さんは私の手を握り、引き寄せた。
10年前、声を失い、世界を恨んでいた私に、もし教えられるなら教えてあげたい。
絶望の先には、こんなにも優しく、穏やかな「静寂」が待っているのだと。
私は九条さんの胸に耳を当て、彼の一定な鼓動を聞く。
かつて私の武器だった心拍音は、今はただ、愛おしい人の存在を確かめるためのリズム。
私は砂浜に、流木を使って最後の一文を記した。
それは、本には書ききれなかった、今の私自身の本当の声。
【声がなくても、世界はこんなに愛で満ちている】
波が寄せ、その文字を優しく消し去っていく。
けれど、その言葉は消えない。
私の指先に、彼の記憶に、そしてこの物語を読んでくれた、すべての人の心の中に。
パンドラの箱の底に残っていたのは
災厄ではなく、いつだって「希望」だったのだから。
私たちは、手を取り合ったまま、夜の帳が下りる海辺を歩き続けた。
どこまでも続く、静かで、美しい、光の道へと。