コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
裕子の厳しい指摘に百子はひゅっと息を呑み、小さく申し訳ありませんとだけ口にする。彼女の方角からため息も聞こえてきたため、さらに百子は体を小さくした。
「本当に無茶をする方ね。大怪我にならなかったから良かったものの、入院になったらどうするつもりだったのですか。貴女が傷つくと悲しむ人がいるのをお忘れなの? 貴女の体は貴女だけのものじゃないのですよ」
「……仰るとおりです。申し訳ありません。私が浅はかでした」
「母さんに同意するのも癪だが俺もそう思う。今聞いて心臓が止まるかと思ったぞ。しかもあの時に何で言わなかったんだよ。俺はてっきり電車の遅延だけが取引先の会社に遅れそうになった原因だと思ってたのに……」
「ご、ごめんなさい……」
裕子どころか陽翔にも正論をぶつけられて百子は再び謝罪を口にした。肩に置かれた陽翔の手にも力が入る。百子は今になって自分のやらかしたことが無謀だと理解した。悪いことはしていないとはいえ、二人の心配ももっともだ。百子だって逆の立場なら同じ言葉を掛けていただろう。とはいえ、裕子の態度が最初よりも軟化したのは少しだけホッとしたのだが。
「でも誰かを助けるのは立派なことです。その気持ちを持つことそのものが尊いのです。行動に移すのはさらに尊い。しかしそれは自分の力量の範囲内でやるべきですよ。何をするにしても、自分の力量以上の決断はしてはなりません。そんなことをしたら貴女は助けたい人も助けられず、自分自身も助けられなくなりますよ」
かつてないほど柔らかい声に、百子は思わず頭を上げて裕子の瞳と自分の瞳を交錯させた。先程の彫像のように固かった彼女の表情がまるで微笑んでいるように見えて、胸の奥がほんのりと温まった。
「あの時の百子さんはまるで太一や結城会長を思わせたよ。困った人をほっとけないところはね。でも百子さんは自分が女の子だってことを忘れちゃだめだよ? 流石に僕もヒヤヒヤしたからね」
健二からも小言を言われて百子は首を竦め、心得たと返事をしたが、自身の母の旧姓を耳にして目を見開く。
「あの、祖父をご存知なのですか?」
裕子がさっと健二の方を向いた。どうやら驚いたのは百子だけではないらしい。
「うん、知ってるよ。ユウキフーズの会長でしょ? 今はユウキホールディングスか。十何年かくらい前に引退なさってるけど、お元気になさってる?」
祖父の会社は上場企業でも何でも無いのに、そこまで内情がバレているとは百子の考慮の外だった。しかも急に祖父のことを振られてしまい、彼女はあわあわと口にした。
「は、はい……元気にしてますよ。最近私が忙しくて会えてませんが」
かれこれ祖父とは一年単位で顔を見ていなかった。祖父が嫌いな訳では無いが、自分の母を虐めたのも同然な祖父とはなるべく顔を合わせたくないのである。百子には相変わらず優しいおじいちゃんなのだが、母の千鶴には風当たりが強く、それを目撃するのは心地の良いものでもなかった。
「そっか……それじゃあ陽翔と早く結婚して、花嫁姿を見せてあげないとね」
そんな百子の内心を知らない健二はニコニコとしていたが、裕子は眉間に皺を寄せて首を振った。
「健二さん。私はまだ百子さんのことを認めた訳では無いですよ! 百子さんの勇気と真っ直ぐな気性は好ましいですが、それとこれとは別です! 失礼ながら百子さんと|東雲家《うち》は同格の家ではないはず。価値観の違いできっと苦労するわ。結婚は育った家が違い過ぎると長続きしないしお互いが不幸になるのよ! だから手を切ってと言ったのに……!」
(え……?)
百子は健二に向かって厳しい口調で主張するのを聞いて目を丸くしたが、隣の陽翔の言葉でそちらに注意を向けた。
「いや、価値観なら俺達は似てる。何なら育った家も似てるぞ。百子は絵画やクラシック音楽、華道や茶道にバレエへの造詣が深い。百子のお母様は社長令嬢だからその娘である百子だって教養があっても何ら不思議じゃないぞ。大学の時だって、俺がふっかけた芸術系の話に食いついた女は百子だけだった。マナーも作法も百子は完璧だし」
陽翔が褒めちぎるので、百子は動悸がしてきて思わず胸に手を当てる。人生でこんなに褒められたことは片手で数えられるため、褒められ慣れていないのもあるが、いくら何でも褒め過ぎではないだろうか。
「それに……俺は百子と一緒に暮らして、百子となら共に歩めるって思った。家事も役割分担してやってるし、俺が婚約破棄したって話も、その時傷ついた気持ちも全部聞いて受け入れて、俺に寄り添ってくれたんだ。俺には百子しかいない。一生大事にして百子の見る未来を一緒に見たいんだ」
百子は先程とは別の意味で回れ右をしたくなった。陽翔の双眸は真剣そのもので裕子を射抜いており、はきはきとしたその声も相まって嘘を言っているとも思えない。しかし裕子はなお不満気である。
「お互いが同じ傷を持っているから、それだけで一緒に暮らそうと言うの? それは傷の舐めあいではなくて? たかだか同棲を2ヶ月ほどしただけじゃないの」
ここで健二が同じ傷とはどういうことかと訝しんで質問したので、百子は自身の元彼が同棲していた家に浮気相手を連れ込まれ、飛び出した先で陽翔に匿われた話を詳細に伝えた。
「なんと……! 酷すぎる話じゃないか! 百子さんも辛かったね……その後に陽翔に出会ったのも何かの運命かもしれないな。僕は二人の結婚は賛成する。同じように裏切られて傷ついた君達なら、互いが互いを裏切る真似はしないと思うし、何よりも百子さんの気性が素晴らしいよ。ちょっと無茶してるとは思うけども」
健二は元彼の話をしてうつむいた百子に、悲痛な面持ちで言葉を紡ぐ。裕子はこの話を聞くのは二度目だが、流石にそこまで百子が悲惨な目に遭っていたとは思わずに盛大に眉を顰めて額を押さえた。
「想像しただけでも不愉快だわ……。辛かったですね、百子さん……私なら人間不信になりそうだわ……」
百子は打って変わって裕子が沈んだ声を出しているのを聞いて狼狽して口をわななかせる。裕子が嫌っているはずの百子に共感するなんて想像すらしていなかったのだ。
「裕子ちゃん、この二人を信じようよ。裏切られても百子さんは真っ直ぐに陽翔のことを見ているし、陽翔だって同じだと思うよ。家のことだって陽翔が言うなら申し分ないだろうし。陽翔がここまで女の子に首ったけになってるのは初めてだ。本気なのは痛いほど伝わってくるよ」
健二が二人ににっこりと笑いかけると、陽翔は少々胸を張った。
「当たり前だ。俺は百子のことが大学時代からずっと好きだった。俺が社長の息子だって打ち明けても、百子はその当時と変わらないで俺を見てくれて、一人の人間としての俺を尊重してくれた。だから俺も百子を一人の人間として尊重したい。百子が嬉しい時は一緒に笑って、悲しい時はそれを分かち合いたい。二人で幸せな未来を築いて行きたいんだ」
陽翔の真っ直ぐな告白に、裕子はゆるく息を吐いた。
「……本当にしょうがない息子ね。私が持ってきた縁談には見向きもしなかったのに」
どこか悲しげな光が彼女の瞳に宿ったが、百子と目を合わせた時にはそれは幻のように消えてなくなっていた。
「百子さん、さっきは失礼な振る舞いをしてごめんなさい。貴女の事情も知らず、刺々しい物言いしかできずに申し訳なく思ってるわ。貴女の家を見下したような発言もしてごめんなさい……婚約破棄の件で私だけが焦っていたけど、それは貴女には関係のない話だったもの……八つ当たりしてごめんなさい」