冬を迎える頃には、彼は魔界に帰らず、朝になっても教会に残る事が増えていた。
正装だと過ごしづらいから、と教会のシャツやスキニーパンツを貸してやると、「ボロ布」と言いつつも一日中それを着ている。
「あー、…つまんねぇ」
暇なら魔界の実家に戻ることも出来るくせに、しっかりと教会に居候しているところが彼らしい。
手持ち無沙汰に椅子にふんぞり返っているサーシャに微笑みかける。
「サーシャ、チェスはどうでしょう」
僕らが教会にいた頃からあった、誰のものかわからない古いチェス盤。
暇潰しに1人で昔はよく指していたが、やがて相手もいないことに嫌気が差してやめてしまった。1人で指すチェスなど哀しいだけだと。それがまさか、こんな形で役に立つとは思わなかった。
最初は食わず嫌いのサーシャは顔を顰めた。
が、今となっては。
「叶ぇ、チェスしようぜ」と、ことあるごとに向こうから誘って来ては、一枚上手の叶が勝つ、というのが恒例になっていた。
そして、「くぅううう!どうしてだよお!!」「あ〜!もっかい!!」と全力で悔しがりながらリベンジを挑んで来る。競い合い相手がいるのが堪らなく楽しい。叶は微笑んで言うのだった。
「もちろん」
笑い合い、競い合い、時々ロトが混ざって、サーシャとロト火花を散らす。
そんなふうに、白百合の季節が何度か過ぎていった。
そんなある日。
久しぶりに魔界に帰って戻ってきたサーシャは、暗い表情をしていた。
最初から叶は、この日常は長くは続かないと思っていた。彼が教会の人間に入り浸っている、などと魔界で噂が立ってしまえば、彼が家族に咎められるやも知れぬ。その時が来たのだと。
急いで来たのか息を切らしたサーシャは、案の定焦った様子で短く言った。
「叶、まずいことになった」
父上に魔界の仕事を押し付けられて、どうしても外せない。何日かかるか分からない。いいか、おれが居ない間、絶対に魔物狩りに行こうとするな。ここは魔界との境界が不安定だからな。おれが居なくなった反動で、強い奴がうじゃうじゃ来る。夜間、何があっても外に出るな。定期的に夜は戻ってきておれが狩る。お前はここでじっとしてろ。
一度に早口でそう告げたサーシャは、確かめるように目を細めた。
「いいな?」
「…でも、サーシャが戻る日は、私も」
「だめだ」
いくら弱くたって。肩を並べて。
「私たちだって戦えます。」
「おい、」
無意識に力が入っていたようだった。サーシャの眉間にシワが寄る。
何か、言わなければ。
「それに、長期間魔物がうろつくようになっては私たちは食べ物に困る。頼みます。ロトと僕を_」
「叶!」
礼拝堂に響く神父の声が、強い声音で遮られる。サーシャの声、表情全てに、必死のものがあった。
頼む。お前じゃ敵わないんだよ。
叶わない、と。
そう云う彼は、今にも泣き出しそうな顔をしていて、それだけで僕のことを想って言っているのがわかった。
何か言おうとして、呑み込んだ。黙って頷くと、彼は走って消えた。
夜、冷たい布団に1人包まって、ギュッと目を瞑る。こうして寝るのは久しぶりで、これからはしばらく我慢しなければならないのか、と思うと怖くなった。いつからこんなに弱くなったんだろう、と1人考える。
洗濯をして、食事をとって、それから____
あれ。1人のとき、僕はそれから何をしていたんだっけ。
今日は朝から雷が酷い。ごおごおと、風の音か雷の音に、建物が軋む。彼が居なくなって何日たっただろう。はじめて淋しさを感じた教会の中。ぽつりと膝の上に感じる温もりに、いつもと変わらないロトのおかげで、少し心が救われる。
「早く戻って来てよ」
ロトを抱き寄せようとして、左の手が鋭く痛んだ。見ると、先程巻き直したばかりの包帯に、血が滲む。
昨日、言いつけを破って森へ入った。長年染み着いた習慣がそうさせた。
数日ぶりにその形でロトを握ると、やっぱり僕にはこれしかないと思ってしまう。弾を放ち、身を躱す。彼が言っていた通り、普通に生きていれば出会うことのない強さの魔物だった。彼らは神父の見せた隙を見逃すことはなく、その左手を傷つけた。
魔物を斃し、自分の手から溢れる血に気付いたとき、はじめてサーシャの言いつけを思い出して後悔した。
しょうがない。そういう人間なのだ、と言い聞かせる。
それでもきっと、僕は今日も行ってしまう。身の程知らずな僕は、今日の夜も、自分を諭しきれる自身がなかった。
夜、異変は起こった。
ちょうどロトを捕まえ、森に出ようとしていたとき。
突然、音が二つなった。どちらも耳を刺すような轟音。
そのうちの一つは、けたたましい魔物の咆哮。
今までに感じたことのない禍々しい気配が唐突に生まれ、空気がビリビリと揺れる。
もう一つは、上から。
ぶつかるような轟音が建物の上から聞こえた。一拍子遅れて、衝撃のせいか天井から埃が降りてくる。そして、聞き覚えのある声。
「ぃってぇ!」
思わず声が出た。自分でも信じられないくらいの声量で。
「サーシャ!?」
言うと同時に、教会の扉を叩き破るほどの勢いで飛び出した。建物の外に出る。
「サ、サーシャ!」
響きの悪い夜の中に、僕の声が沈んでいく。がさ、と、何処かで影が揺れた。
黒い影が、動きを止める。ゆっくりと近づいてきた影は、途端に輪郭を見せた。
「…叶!?お前、叶か?」
そこには、何があったのか、困惑するサーシャの姿が。
「私です!…サーシャっ…!」
「あぁ、ならここは教会か……あいつ…っ!…やばい、そしたらまずいことに……」
サーシャは、説明する余裕もない、といった様子で独りごつ。
「サーシャ、あの音は?」
とにかく時間があるわけでは無さそうなので、速やかに事情を聞くべきだ。尋ねると、ようやく彼は顔を上げた。
「…ああ、」
「叶、悪い…あっちから焦って窓作ろうとしたらミスった。屋根ちょっと壊れたかも」
「…?えぇと…サーシャ、あの音は」
「っ、とにかく!!」
更に問い詰めようとする僕を、サーシャは遮った。とにかく焦った様子で、「時間がない」というのを全身で表現している。
「魔物が迷い込んだ。それも普段は魔界にいるやつが」
ひゅっと息を呑むのが、自分でもわかった。
魔界にしか本来存在出来ないような魔物が。迷い込んだ。
サーシャがこれから言うことが、嫌でも理解出来てしまう。
「その現在地が、この森だ。」
ほら、やっぱり。
「お前はここにいろ。それでも危なくなったときは___」
現実を受け入れたくないのに、頭で納得出来てしまう自分が悔しかった。
わかっていた。彼が僕のことを思って言っているのも。緊急事態に頭が混乱する。
(言わないで__)
その先の言葉は、言わないで。
「____逃げろ」
サーシャは言った。それは彼が僕を突き離すには十分な言葉だった。
嗚呼、また僕はサーシャにとって足手まといになるのか。
とても、肩を並べることは叶わない。
「待って。サーシャ」
無意識に声が出ていた。
「は?」
「サーシャ、待って。僕も行く!」
目を真っ直ぐ見据えて言う。途端に、サーシャの顔の肉が重力に負けた。
「…めだ」
「だめだ。お前はここにいろ。」
「し、しかし」
「おれだけで十分だ。お前じゃ敵わないんだよ。叶」
サーシャの瞳は凪いでいた。
きっぱりと断じる彼の言葉に迷いはなく、それだけで彼が考え抜いて放った言葉だとわかる。
その瞳の色に、気付く。
サーシャの方がよっぽど周りが見えていた。それを何も考えずに、僕は、何と言ったか。
見ないようにしてきたものがあった。
抑えなければいけないものがあった。
僕がどうしようが、彼をここに留め置くことは出来まい。
目を瞑って、天を仰いだ。
目を開ける。
しょうがない。
「行きなさい、サーシャ。あなたの気持ちは解りました」
「神に誓って」
僕の負けだ。
しっかりと僕の言葉を受け取った彼は、黙って頷く。
地面を蹴って背中を見せたサーシャの姿は、瞬く間に見えなくなった。
ごめんね、サーシャ。嘘をついて。
サーシャの意志は固かった。恐らく、僕が何を言っても考えを曲げることはない。こうなれば、一度嘘をついてでも頷いて、共に闘うのみ。一度森に入ってしまえば、彼も僕を追い出すことは出来ないだろう。それこそ、命を捨てる覚悟が無ければ。
彼の背中が消えていった森を睨む。隠しきれない魔力。ここまで気配を隠すことに頓着していないのであれば知力はないのは明白だが、油断は出来ない。
サーシャが言うほどである。魔界から流れ込んだという魔物の強さは相当だ。加えて、森全体から感じるの魔力の上昇。恐らく、今日本命の魔物とぶつかれば、僕は返り討ちにされる。となれば、僕がやるべきことは1つ。
サーシャが対峙する魔物とは距離をとりつつ、後方の獣を狩る。
ごめんね、サーシャ。嘘をついて。
本当に焦っていたのだろう。彼は既に僕がロトを携えているのも、左手の包帯にも気付かなかった。
強く地面を蹴り上げ、森に飛び込む。
神父は微笑んだ。いつから、自分のなかで彼はこんなに大きくなっていたのだろう。自分の中で、理性や理屈を飛び越えて、突き動く何かがあった。訳のわからない力に引きずられて走った。魔物の叫びが響く。
神父は、祈る。こんな境遇に生まれて、はじめて心から祈る。今だけは、神父だった。
最初で。そしてきっと、最後の祈りを____
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