テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
春になり暖かくなったかと思うと急に冷え込む、そんな日が繰り返す4月初旬の夕刻、帰り支度を始めていた渡研の研究室の一同は、壁掛けテレビのニュース速報に思わず目が釘付けになった。
テレビ画面の中で女性のアナウンサーが、真剣な表情と口調で告げた。
「アメリカ航空宇宙局、NASAの発表によれば、大型の隕石もしくは小惑星と推測される物体が地球に接近しています。日本の宇宙航空研究開発機構、JAXAも目標を補足しており、日本列島の近くに落下する可能性があるとの情報が入っています」
筒井が自分のデスクの上に身を乗り出して画面を見つめて震える声で言う。
「わわわ、まさか地球滅亡? 恐竜絶滅の時の巨大隕石みたいな事になるんですか?」
しばらくニュースの画面に見入っていた渡が言う。
「全長150メートル、幅80メートルか。この程度の大きさなら大気との摩擦で燃え尽きずに地表に落下する可能性はあるが、まあSF映画みたいな事にはならんだろう。人口密集地を直撃すれば厄介ではあるが」
松田が大気圏突入予測時間を見つめながらつぶやいた。
「地球に衝突するとしても、3日後ですね。仮に日本の陸地に落下するとしても、航空自衛隊のパトリオットを展開させる時間の余裕は十分にあります。もちろん、渡先生のおっしゃるように自衛隊の出番など無いに越したことはないですが」
遠山はカバンに持ち物を詰め込む動作を再開しながら松田に訊いた。
「パトリオットって、あの迎撃ミサイルの事かい?」
「はい、弾道ミサイルを撃ち落とすあれです。隕石なら飛来軌道の予測がし易い分、空中で破壊するのは簡単でしょうね」
そして3日後の朝、渡は自宅の居間でテレビのニュースを見ていた。例の隕石は日本列島上空を通り抜け、間もなく太平洋に落下する軌道である事が正式に発表されていた。
「やれやれ、事なきを得たか。では普段通り出勤だな」
電車に揺られ、大学の正門にたどり着いたところで、渡のスマホがポケットの中で着信音を鳴らしながらブルブルと震えた。
渡はスマホの画面を見て、眉をひそめた。そこには一応登録はしたが、今まで掛かって来たことのない番号からの呼び出しが表示されていた。
「内閣官房からの直通電話だと? 一体何事だ?」
とりあえず通話に出る。しばし相手の言う事に耳を傾けていた渡が、たまらず相手の話を遮って言った。
「ちょっと待って下さい。どうしてまた、あの隕石の件で渡研に話が持ちかけられるんですか? それは私の所の担当ではないでしょう」
相手の返事を聞きながら正門をくぐり抜けた。渡は思わず大声を上げた。近くを歩いていた数人の学生が、ビクッとして一瞬振り返るほどの大声だった。
「大気圏突入直前に減速したですと! 落下ではなく降下? 東京の豊島(としま)区に?」
2時間後、研究室に一旦集合した渡研の5人は、パトカーに先導されてバンを走らせ雑司ヶ谷公園という場所に着いた。
坂道が長く続く地形の、丘の上に位置する広大で緑豊かな公園の周囲は、ぐるりと警察の規制線のロープで囲まれ、下方に位置する住宅街から住民が路上に出て、不安そうに公園の方を見つめていた。
背景に遠く池袋の高層ビルが見えているその公園の真ん中に、その物体は立っていた。
高さ150メートル、幅80メートルほどの、人型と思えばそう見えない事もない|歪《いびつ》な人形のような形をしている。
平たい筒状の胴体の様な部分が中心にあり、ベルを逆さにしたような末細りの二対の足のような部分、それが地面に突き立って全体を支えている。
人間で言えば両肩にあたる場所から下に向かって一対の、これもベルを逆さにしたような腕のような部分があり、頭にあたる部分には横に長い楕円が二つ並んでいた。まるで両目の様に見えた。
その目のような部分は滑らかな表面をしており、ちょうど真ん中に真横に線上の真っすぐな窪みがある。もし目だとすれば、閉じている形だった。
頭の上には、複雑な形の高さ10メートルほどの塔のようになっている。その塔はいくつもの細い棒状の物が複雑に絡み合い、まるで軍艦のレーダーの様にも見えた。
全体的に青黒い金属で出来ているようで、中心の胴体のような部分には様々な複雑な幾何学模様が浮かび上がっていた。
公園の中に通された渡たち研究室の面々も、それを見上げて呆然とするしかなかった。
自衛隊の野戦服を着た隊長らしき人物が近寄って来て渡たちに敬礼した。
「ご足労をおかけします。渡先生、あれが今日の朝、大気圏外から飛来した物体です」
渡も軽く一礼してその自衛官に訊いた。
「あれが、例の隕石らしき物の正体だという事ですか?」
「はい、日本各地のレーダーが追跡していましたので、それは間違いありません。大気圏突入直前に急激に減速し、そのままヘリコプター程の速度で飛翔し、あそこへ降下しました」
「では明らかに人工物だな」
渡は考え事をする時のいつもの癖で、あごひげを指でしごきながらつぶやいた。自衛官は自分もその物体を見上げながら渡に訊いた。
「先生、あれは何だとお考えですか?」
渡はため息交じりに答える。
「それはこちらが訊きたい。だが宇宙から飛来した物だとすれば、これから何が起きるか予測すらつかんな。放射線などの危険は大丈夫なんですか?」
「はい、放射線は計測されていません。微生物などの生物学的汚染も検出されていません」
遠山がタブレットのキーを叩きながら眉をしかめてつぶやいた。
「あの形、どうも見覚えがある。あ、出て来た、これだ」
遠山がタブレットの画面を皆に見せる。そこには素焼きの土器が映っていた。その巨大な物体と、確かに形がよく似ていた。
松田、宮下、筒井も一斉に何かを思い出そうとして目を細めた。宮下が言う。
「あたしも昔学校の教科書か何かで見た覚えが……何だったかしら」
渡が画面を一瞥して言った。
「縄文時代の土偶だ。いわゆる遮光器土偶という奴だな。目の部分が、北極圏の先住民族が使っていたスノーゴーグルのように見えるのでそう呼ばれている。だが縄文時代の土偶とそっくりな物が、今回は宇宙から降って来たというのか?」
宮下が自衛官に訊いた。
「何か周囲に被害は出ていますか? あれほど巨大な物が降下して来たわけですから」
自衛官は素早く首を横に振った。
「それが驚くほど何も被害がないんです。まあ、公園内のフェンスが多少破損したようですが。ただあそこに立っているだけで、何ら動きも変化もありません。一応付近の住民には屋内に留まるよう行政から通知はしてもらっていますが、住民が不安がっているという以外には、何も危険な兆候はありません」
その巨大な土偶の様な物体の周囲は、一戸建ての民家が密集しているため自衛隊の拠点を置く事ができず、近くの寺院の住職が敷地の提供を申し出てくれた。
今では東京では珍しくなった都電荒川線という路面電車の線路を挟んで反対側にあるお寺の敷地に大型テントを複数設置し、渡研のメンバーは交代でテントの一つに泊まり込む事になった。
初日の夜は渡、松田、宮下の3人がテントに詰めた。テントと言っても三角屋根の形をした高さ3メートル、縦横それぞれ6メートルはある頑丈な物で、作業用の机とパソコンを運び込んでもなお、3人がゆったり座れるスペースがあった。
松田が折り畳み式の椅子に座り、机の上のパソコンの設定をしながら、床に座ってコーヒーを飲んでいる渡と宮下に言った。
「現場の監視カメラとこのパソコンを接続して直接様子を見られるようにしてあります。安全のため、あの物体の至近距離にはなるべく行かないように、との事です」
あの巨大物体には何ら変化の兆しがなく、とりあえずその夜は早めに寝る事になった。松田が運んで来た自衛隊用の寝袋にくるまって、3人がようやく眠りについた時、バタバタと足音が近づいて来てテントの入り口から大声がした。
「失礼します!」
テントの入り口がめくり上げられ、若い自衛官が入って来る。あわてて寝袋から上半身を出した3人に、その自衛官は敬礼した後告げた。
「お休みのところ申し訳ありません。あの物体に変化が生じました」
3人は飛び起き、松田がパソコンのモニターをオンにした。そこに映し出された土偶のような物体の頭の上にある装飾塔のような部分が光っていた。
光っているというより、赤、緑、青の光の線が複数、その装飾塔のような部分の表面から少し離れた空間を、輪を描きながら飛び交っていると表現した方が正確な様子だった。
けたたましい鳥の声が辺りに響き渡った。犬の狂ったような吠える声がどこか遠くから聞こえて来た。
渡がその若い自衛官に訊く。
「何か周辺に異常は?」
「付近の犬、猫、鳥などの動物が多数、異常に興奮した様子を見せているようです。しかし、それ以外にはこれといって目立った異常は観測されておりません」
その光の乱舞はわずか10分ほどで急に終わった。テントの外へ出て耳をすました渡たちに聞こえる、動物の声も次第に小さくなり消えて行った。
その後30分ほどパソコンのモニター越しに様子を観察したが、あの巨大物体は何も変わった様子を見せず、その場に静かに立っているだけだった。
渡が腕時計の時刻を見て、深夜12時近くになっているのを確かめ、松田と宮下に言った。
「とりあえずもう一度寝るとしよう。いつまた叩き起こされるか分からん。寝られるうちに寝ておこう」
その巨大な土偶の様な物体の周囲は、一戸建ての民家が密集しているため自衛隊の拠点を置く事ができず、近くの寺院の住職が敷地の提供を申し出てくれた。
今では東京では珍しくなった都電荒川線という路面電車の線路を挟んで反対側にあるお寺の敷地に大型テントを複数設置し、渡研のメンバーは交代でテントの一つに泊まり込む事になった。
初日の夜は渡、松田、宮下の3人がテントに詰めた。テントと言っても三角屋根の形をした高さ3メートル、縦横それぞれ6メートルはある頑丈な物で、作業用の机とパソコンを運び込んでもなお、3人がゆったり座れるスペースがあった。
松田が折り畳み式の椅子に座り、机の上のパソコンの設定をしながら、床に座ってコーヒーを飲んでいる渡と宮下に言った。
「現場の監視カメラとこのパソコンを接続して直接様子を見られるようにしてあります。安全のため、あの物体の至近距離にはなるべく行かないように、との事です」
あの巨大物体には何ら変化の兆しがなく、とりあえずその夜は早めに寝る事になった。松田が運んで来た自衛隊用の寝袋にくるまって、3人がようやく眠りについた時、バタバタと足音が近づいて来てテントの入り口から大声がした。
「失礼します!」
テントの入り口がめくり上げられ、若い自衛官が入って来る。あわてて寝袋から上半身を出した3人に、その自衛官は敬礼した後告げた。
「お休みのところ申し訳ありません。あの物体に変化が生じました」
3人は飛び起き、松田がパソコンのモニターをオンにした。そこに映し出された土偶のような物体の頭の上にある装飾塔のような部分が光っていた。
光っているというより、赤、緑、青の光の線が複数、その装飾塔のような部分の表面から少し離れた空間を、輪を描きながら飛び交っていると表現した方が正確な様子だった。
けたたましい鳥の声が辺りに響き渡った。犬の狂ったような吠える声がどこか遠くから聞こえて来た。
渡がその若い自衛官に訊く。
「何か周辺に異常は?」
「付近の犬、猫、鳥などの動物が多数、異常に興奮した様子を見せているようです。しかし、それ以外にはこれといって目立った異常は観測されておりません」
その光の乱舞はわずか10分ほどで急に終わった。テントの外へ出て耳をすました渡たちに聞こえる、動物の声も次第に小さくなり消えて行った。
その後30分ほどパソコンのモニター越しに様子を観察したが、あの巨大物体は何も変わった様子を見せず、その場に静かに立っているだけだった。
渡が腕時計の時刻を見て、深夜12時近くになっているのを確かめ、松田と宮下に言った。
「とりあえずもう一度寝るとしよう。いつまた叩き起こされるか分からん。寝られるうちに寝ておこう」
翌日の早朝、渡は自衛隊の臨時宿営地が設置された寺の境内を、ぶらぶらと歩いていた。
春とは言えまだ冷たい朝の空気の冷ややかさを感じながらあてどもなく歩いていると、寺の本堂らしき木造の建物の前に着いた。
木の大きな階段を数歩登って中をのぞくと大きな仏像が見えた。案内板には「鬼子母神」という文字が見える。
「渡先生!」
背後から大きな声で宮下が呼びかけた。松田も一緒になって小走りで渡の所へやって来た。宮下が息を弾ませながら言う。
「ここにいらしたんですか。起きたら先生の寝袋だけが空だったので、何かあったのかと思って」
渡は苦笑しながら答えた。
「そうか、そりゃすまん。妙に早い時間に目が覚めて、そのまま目が冴えてしまってな。年は取りたくないもんだ。それで朝の散歩をしていたというわけだ」
本堂の奥に視線をやって松田が言う。
「あれがこの寺のご本尊ですか。ええと、ん? オニコ……」
「きしもじん、あるいは、きしぼじんと読むんだ」
渡がそう言うのを聞いて、宮下も仏像をしげしげと見つめた。
「台東区の入谷にあるあれと同じ仏様なんでしょうか?」
渡が答える。
「仏様というより、鬼神の類だな。元はハーリーティという、インドのヒンズー教の神族の一人だ」
宮下が小首を傾げながら言った。
「確か安産祈願の対象だったかしら? どういう謂(いわ)れの信仰なんでしょう?」
渡は木の階段に腰を下ろして語り始めた。
「鬼子母神は一説には千人の子を持つ母神だった。だが、同時に大勢の自分の子どもを養うために、人間の子どもを手当たり次第にさらっては食うという恐ろしい鬼女でもあった」
松田が驚いて言った。
「人食い鬼だったんですか?」
「そうだ。ある時、お釈迦様がその有様を憂いて、鬼子母神の千人の子どもの末っ子一人を隠した。その子がいなくなった事で半狂乱になった鬼子母神は世界中を探し回るが見つからない。とうとうお釈迦様に助けを求めた」
今度は宮下が口をはさんだ。
「仏教に話が変わってますね」
「そうだな。お釈迦様は鬼子母神にこう諭(さと)す。千人もいる子のうちのたった一人を失っただけでそれほどに悲しいのなら、わずか数人の子しか持てない人間の母親が子どもをおまえにさらわれ、食われたら、その悲しみはどれほどの物か考えてみよ、と。それを聞いた鬼子母神は、それまでの自分の行いを反省し,改心した。それを見届けたお釈迦様は、隠していた子どもを返してやり、今後は人間のためになる事をしろと約束させた」
松田が膝をポンと叩いて言う。
「だから今では仏教の仏の一人になっている、という事ですか?」
「仏教は元々インドが発祥の地だ。ヒンズー教の神々が仏教に取り込まれた例は他にもたくさんあるぞ。鬼子母神の場合は、その後人間の子どもたちの守り神になり、安産祈願の対象にもなった。今では鬼子母神を祀った仏教寺院が日本中にいくつもある」
その日は午後になっても、あの巨大な土偶のような物体には何の変化も現れなかった。
その寺の近くの飲食店で朝食と昼食を取っていた渡たちが、夕飯は何にしようかと、テントの中で話し始めた時、昨日の若い自衛官が駆け込んで来た。
「失礼します。警視庁の宮下警部補はいらっしゃいますか?」
宮下が立ち上がって応えた。
「はい、私ですが」
「至急ご協力をお願いします」
渡も立ち上がって訊いた。
「あの物体に何か変化があったのですか?」
自衛官が答える。
「いえ、物体に変化はありません。ただ一人の未成年があの物体に向かって歩いているとの連絡が、警備中の警察からありまして。そして、その様子がどうも尋常ではないと」
宮下がさらに訊く。
「何歳ぐらいですか?」
「見た目は十代半ばから後半、おそらく中学生か高校生の女子です。身柄確保の必要がある場合、女性の方が良いだろうとの上の判断でして」
「分かりました。現場まで案内して下さい」
渡が言う。
「私たちも同行しよう。松田君、君も来てくれ」
3人が自衛官に先導されて住宅地のはずれに着くと、その少女の姿が遠目に見えて来た。モスグリーンのワンピースにスニーカーというありふれた服装のその少女は、宙の一点を見つめている目つきで、しかししっかりした足取りで、あの巨大物体のある小高い丘に向かって足を進めた。
少し離れた場所から男性の制服警官が声をかけた。
「君、どこへ行くんです? この先は通行が規制されています。もしもし、私の声、聞こえてますか?」
だが少女は警官の声には一切反応せず、焦点が定まっていない目で前に歩き続ける。
少女の唇から、まるで読経のようなイントネーションの言葉が放たれた。
「ポータラカ……」
宮下が制服警官の横に駆け寄り、警察手帳を見せて詳細を訊く。
「ここまでの経緯を教えて下さい」
制服警官は敬礼して説明を始めた。
「はい。池袋駅から歩いて来たようです。途中の近隣住民から、明らかに様子のおかしい子どもが歩いているという通報がありまして」
「様子がおかしいとは、たとえば薬物とかですか?」
「いえ、そこまでは何とも。ただ歩いているというだけでは身柄を拘束するわけにもいかず、とりあえず自衛隊の方にお知らせしたという次第です」
「ポータラカ……」
また少女の口から、低くか細い声でその言葉が漏れた。少女はそのままゆるやかな坂道を登り始めた。あの巨大物体の場所に、まっすぐに向かっているのは明らかだった。
少し離れた位置から様子を見つめている渡がつぶやいた。
「何の事だ、あの言葉は? 確かに様子がおかしい。まるで夢遊病患者だ」
渡たちの後ろにバンが停車した。研究室のバンで、遠山と筒井が飛び出して来て渡の側に駆け寄った。遠山が渡に訊く。
「自衛隊から連絡を受けて飛んで来ました。渡先生、何が起きているんですか?」
渡はゆっくり首を横に振りながら答えた。
「現時点では何も分からん。ただ、あの女の子の精神状態が正常でない事だけは見て分かる」
少女は相変わらず、心ここにあらずという様子で、住宅地の間を抜けて坂道を登って行く。
後ろからついて来ていた警官が宮下に耳打ちした。
「あと100メートル進むと規制線が張ってあります。もしあの子が規制線を乗り越えて進もうとしたら、本人の安全確保のために一時的に身柄を拘束する事が可能になります」
宮下は大きくうなずき、少女の背後につき、距離を縮めた。少女の膝が黄色い規制線のテープに触れたのを確認して、制服警官が少女に駆け寄った。その手を後ろからつかもうとしながら、大声で少女に告げた。
「交通規制違反です。近くの交番まで同行していただきます」
そこはもう、あの土偶のような巨大物体が視界のほとんどを占めるほど近い場所だった。
今まで微動だにしなかった巨大物体の両目に突然変化が起こった。ラグビーボールのような形の二つの目が、真ん中の割れ目から上下に同時に開き、開いた両目からまばゆい光が当たり一帯に放たれた。
突然の閃光に誰もが一瞬目がくらんだ。目をこすりながら視界を取り戻した時、少女の腕をつかみかけていた制服警官の目の前に、高さ2メートルほどの茶色い影が出現していた。
それは一見馬のように見えた。だが鼻面は異常に短く、前脚は異様に太く後ろ脚よりずっと長い。前脚の先には鋭い鉤爪が並び、内側に指先を折り曲げ、指の前面を地面につけている。
まるでゴリラが平地を歩く時のような、少し体全体を傾けた姿勢で立っている。その右の前脚が横に素早く振られ、制服警官の体を数メートル先に振り払った。
遠巻きに見守っていた自衛官が数人、小銃を構えて駆け寄ろうとする。だが、少女の体が楯になる位置のせいで発砲が出来ない。
渡が茫然としてつぶやく。
「何だあの生物は? どこから現れた?」
筒井はとっさに大型のデジタルカメラと小型のビデオカメラを両手に一つずつ構え、その状況を撮影し始めた。
その奇怪な生物は少女の背後からその体を覆うようにして、低いうなり声を上げた。少女はまるでその生物に守られるかのように、土偶のような巨大物体に向かってさらに前進する。
奇怪な生物はゆっくり、まるで少女を護衛するかのように後ろからついて行った。
やがて少女は巨大物体の足元にたどり着き、顔を上げて土偶の目のような部分を見つめ、またつぶやいた。
「ポータラカ……」
土偶の両目から金色の光のビームが地面に向けて伸び、少女の体を包み込んだ。唖然として見つめる渡たちの目の前で、少女の体は地面を離れて宙に浮き、ゆっくりと上昇して行く。
その体は土偶型の巨大物体の胴体の中央辺りに吸い寄せられ、一瞬の後、突然ふっと姿が見えなくなった。
土偶の目から出ていた金色の幅の広いビームが消え、再び辺り一帯を包むまばゆい閃光が走った。
その場の一同がまた目をこすりながら視界を取り戻した時、あの奇怪な馬に似た生物の姿もまた掻き消えていた。
土偶の両目が上下から閉じ、真ん中でぴったりと閉じ、周囲はまるで何事も起きなかったかのように、春の昼下がりの静かな風景に戻った。
遠くからかすかに幹線道路を入る車の走行音が聞こえて来る以外、重苦しい静寂が一帯を包み込んだ。
やっと我に返った全員が、まだ自分の目を疑うという表情で、ざわざわと騒ぎ始めた。
あの生物に投げ飛ばされた制服警官は、幸い負傷という程の怪我はしていなかった。
渡は目の前の土偶型の巨大物体を見上げながら、うなるような声でつぶやいた。
「一体これは何なんだ? 何をしに地球に来たんだ?」
その夜9時過ぎ、渡たちが詰めているテントに、巨大物体に吸い込まれるように消えた少女の身元が判明したとの知らせが届いた。
若い自衛官から受け取った書類を渡が一通り読み、筒井と宮下に手渡す。宮下が目をしかめながら言った。
「15歳、高校1年生、住所は神奈川県。なぜこんな所へ?」
机に座ってパソコンを操作している遠山が、フッとため息を漏らしながら皆に言う。
「あった、これだ。どうやら昼間の生物の正体が分かったかもしれませんよ」
渡、松田、宮下、筒井が遠山の背中越しにパソコンのスクリーンをのぞき込んだ。そこには確かに昼間の生物に似た姿のカラーイラストが表示されていた。
渡があごひげをしごきながら言う。
「なるほど、よく似ている。だが遠山君、その説明文からすると、現生種ではないという事だな?」
遠山がイラストを拡大しながら答えた。
「カリコテリウムという絶滅種ですね。約360万年前まで世界各地に生息していたとされる奇蹄目」
筒井が首を傾げて言った。
「キテイモクって何ですか?」
「足の指の数が1あるいは3という奇数になっている地上性哺乳類の総称だ。例えば馬は足の指が1本。そういう意味ではこいつは馬の遠い親戚というところだね。もっとも、カリコテリウムの指先は蹄(ひづめ)ではなく鉤爪なんだが」
松田がしげしげとスクリーンを見つめながら遠山に訊いた。
「宇宙生物ではないのですか? 宇宙からやって来た、あの巨大物体の中から出現したように思えますが」
「その可能性も否定はできないけど、見た目から判断する限り、これが一番近いね。他の惑星の生物だとしたら、そもそも地球の大気の中で生存出来るのかどうか」
再びテントの入り口が開き、さっきとは別の若い自衛官が松田に声をかけた。少しの小声のやり取りの後、自衛官は去り、松田がUSBメモリースティックを手に遠山に言う。
「遠山先生、ちょっとパソコンを代わってもらってよろしいですか? 渡先生、頼まれていた解析結果が出たそうです」
遠山がパソコンの前の椅子から立ち上がり、松田が代わって座る。松田はUSBスティックをパソコンの端子に差し込んで、画面を切り替えた。
日本列島の白地図の上に赤い点がポツポツと表示してある。赤い点は東京に多く集まっていて、茨城県、静岡県あたりまで濃い分布が広がっていた。
筒井がスクリーンをのぞきながら渡に訊いた。
「渡先生、これは何の分布ですか?」
渡は食い入るようにスクリーンを見つめながら答えた。
「昨夜、あの物体の頭の上に妙な発光現象が起きた時、この辺りの犬、猫、鳥などが急に騒ぎだしただろう? あれと同じ現象がよそでも起きていなかったか、自衛隊に調べてもらったんだ。動物が多数、異常に興奮して騒ぐ、それが起きた場所がその赤い点だよ」
宮下もスクリーンをじっと見つめながら言った。
「こんなに遠い場所まで影響を受けていたという事?」
松田が答える。
「はい、牧場、養豚場、養鶏場、動物園、そういった場所で飼育されている動物が一斉に同じ時刻に異常に騒いだ地点です。あくまではっきり確認された事例だけで、これで全てではないでしょうが」
渡が松田に訊いた。
「松田君、もう一つの件はどうだ?」
松田は画面の別のファイルを読み出して、そして首を横に振った。
「空振り三振ですね。渡先生の指示通り、自衛隊の設備だけでなく、観測機器を持っている全国の大学や研究施設にも協力してもらいましたが、普段と異なる電流、電波、磁力線、音波、超音波、そういった物が観測された形跡は全く無いようです」
遠山が怪訝そうな表情で渡に訊いた。
「どういう関係があると思ったんですか、渡先生?」
渡はあごひげをしごきながら松田にさっきの地図をまた表示するように指示した。そしてゆっくりとした口調で言った。
「あの巨大な土偶に吸い込まれた女の子だが、何かに呼び寄せられたとは考えられんかね?」
宮下がはっとして、さっきの少女に関する書類をまた広げた。
「午前中に神奈川県の自宅を出ていますね。確かに何かに呼び寄せられたようにここにたどり着いています。渡先生、あの巨大物体が彼女に何かの合図を送ったという事ですか?」
「そう考えると辻褄は合うんだが、だがそれにしても分布がおかしい」
渡は右手の親指と人差し指を広げてスクリーンの上に置き、人差し指をコンパスのようにぐるりと回した。
「西は浜松市まで、赤い点の分布がある。ここまで届いたというのなら、北の方向では、長野県、群馬県、栃木県、さらに新潟県と福島県の一部にも分布が届いていないとおかしい。電磁波や音波が放出されたのなら、影響された地点は同心円状に広がっていないと不自然だ」
松田がスクリーンの地図を拡大してつぶやいた。
「確かに。赤い点の分布が帯状ですね」
渡は髪をがしがしと掻きながら言った。
「多分、高等動物を呼び寄せる何らかの信号が発せられたはずだ。だが、一体何が使われたんだ?」
その日の深夜、日付が変わろうとする頃、あの土偶のような巨大物体の頭上でまた発光現象が起こった。
テントから飛び出した渡たちが、あの公園の近くまで行くと、既に自衛隊が様々な計測機器を設置して観測を始めていた。
発光現象は30分ほど音もなく続き、あちこちで動物たちが大声を上げて騒ぎ、そして突然止まった。
渡は観測班のリーダーらしき自衛官の所へ駆け寄り訊いた。
「どうです? 何か観測されましたか?」
その自衛官は渡に軽く敬礼し、首を横に振った。
「だめですね。信号になり得るような現象は何も観測されませんでした」
動物の異常興奮状態に関するデータは、自衛隊も既に慣れて、翌日の正午前にはもう渡たちの手元に届いた。
赤い点の分布は今回ははるかに広がっていた。群馬県、栃木県、日本海側の新潟県、東北地方と北海道の全域に赤い点が散らばっていた。
だが渡は指摘した。前回赤い点が観測された、東京の北方にあたる地域は、きれいに避けるように、点が分布している、と。
あの巨大物体に近づこうとする人間が現れる事を予想して、付近には多くの制服警官が配置された。
だが、巨大物体が鎮座している公園は、あまりにも付近の一般住宅に近過ぎて、徹底した通行規制は行えないままだった。
戸建て住宅が密集し、生活道路も狭く、あとこちで折れ曲がり、入り組んでいるその一帯では、住民の生活を全面規制するわけにもいかず、警備はどうしても穴だらけになった。
テントの中では、渡たちがそれぞれのタブレット端末で情報を整理しようとしていた。だが分からない事だらけだった。
渡が、タブレットで何度も検索を繰り返している筒井に訊いた。
「あの『ポータラカ』という言葉について何か分かった事は?」
筒井は顔をしかめて答えた。
「一番多く出て来る検索結果は、サービス付き高齢者向け住宅に関する物ですね」
「うん? ああ、老人ホームの事か」
「まあ、そんな感じです。後は仏教寺院に関する物。どう考えても、今回の件と関係があるとは思えません」
その日の夕方、自衛官がテントの入り口をめくって渡たちに声をかけた。
「渡教授、少年が数人、あの物体に向かって歩いているとの報告が」
「分かった、すぐ行く」
渡たちが都電荒川線の通っている広い道路の脇に着くと、高校生ぐらいの私服の少年4人と2人の制服警官が押し問答をしているところだった。
少年たちは口々に警官に向かって言った。
「なんだよ、道を歩いているだけだろ」
「警察横暴。通せよ」
「俺たち見たいだけなんだからさ、あのUFO」
「別に立ち入り禁止とかじゃないじゃん」
警官は苦い表情で通行規制は一応行われていると説明し、少年たちを追い返そうとしていた。
渡は顔を歪めて舌打ちをした。
「なんだ、ただの野次馬か」
渡と筒井があの巨大物体の様子を見るために公園に向かって歩き出し、他の渡研のメンバーはテントへ戻って行った。
野次馬の少年たちと警官がしつこく押し問答を続けている横を、1台の自転車がすっと走り抜けた。
あまりに自然にそこを走り抜けたため、警官も渡研のメンバーも、誰もそれを不審に思わなかった。
渡たちが、あの巨大な物体がある公園に様子を見に向かうと、途中で見覚えのある自転車が無造作に道路上に横倒しに置いてあるのに気づいた。
「おいおい、なんて停め方してるんだ。通行の邪魔だろう」
渡が自転車の車体を起こしスタンドを地面に付けて、置き直した。だいぶ古びた者だが、若者向けのスポーツタイプの自転車だ。公園の方に視線をやった筒井が甲高い声を上げた。
「渡先生、誰かが公園に使づいてます。規制線も乗り越えてるみたいです」
見ると、公園に続く石段の下に、どちらへ進んでいいか分からないという様子の少年がいた。
渡は周りを見回したが、さっきの野次馬騒ぎで警官は全員その場を離れていた。渡は全速力で少年のいる場所へめがけて走った。
「君、そこに近寄っちゃいかん。戻りなさい」
少年は渡の声が聞こえていないかのように、ふらふらと数歩足を進め、被っていたプラスチック製の先がとがったヘルメットを脱いだ。その下からは、まだあどけなさを残す中学生ぐらいの男の子がのそいた。
その時渡は気づいた。
「さっきすれ違った自転車! あれに乗っていたのか?」
少年はやっと視界に巨大な土偶状の物体が入ったようで、抑揚のない口調でつぶやいた。
「ポータラカ……」
それを聞いた渡はさらに足を速め、全力疾走で少年に駆け寄った。土偶状の物体の両目が開き、閃光を発した。
少年の目の前に突然、巨大な四足獣が出現した。それは毛深い牛のように見えたが、角が真横に水平に伸び、角の左右の端は2メートル以上の距離があった。
渡はとっさに巨獣の尻の方へ回り込み、少年の腕をつかんだ。
「行くな、行っちゃいかん」
土偶状の物体の両目から金色のビームが照射され少年の体を包み込む。渡の体もビームの光の中に呑み込まれた。
少年と、その腕をつかんでいる渡の体は、一緒に重さを失くして風船になったかのように宙に浮いた。そして土偶状の巨大物体の中に吸い込まれて行った。
ほんの数秒だが意識を失っていたらしい。そう思いながら渡が目を開くと、そこには異様な光景が広がっていた。
一見縦長の洞窟のように見える空間だった。だが渡の足は宙に浮いている。まるで宇宙遊泳でもしているかのようだ。
辺り一帯は柔らかな光に照らされていて、渡が目を凝らすとカプセルのような物が多数壁に沿って螺旋状に並んでいるのが見えた。
カプセルは人間一人が楽に入れるほどの大きさで、正面の部分が広く透明になっていた。材質は分からないが、明らかに人工物であり、地球の最先端科学で使われるか、そのレベルを超えた物だという事は、渡にははっきりと分かった。
渡は必死に手足をばたつかせて浮いている空間を移動しようとしたが、思うように動けなかった。
渡りの真後ろのカプセルからシュッという音が聞こえ、渡が必死に首を後ろにひねってその方向に目をやると、さっきの中学生ぐらいの少年の体がそのカプセルに吸い込まれて行くのが見えた。
少年の体が中に納まるとカプセルの透明なドアが閉じた。中の少年は目を閉じて眠っているように見えた。
無駄だろうとは思いつつも渡は少年に向かって声を張り上げた。
「おい君! しっかりしろ! 私の声が聞こえるか?」
皮肉にも大声を上げた事で渡の体に何らかの力が加わり、渡の体は一つ下の段ぐらいの位置にある別のカプセルの前にたどり着いた。
そのカプセルの透明なドア越しにもう一つの人影が見えた。それは最初に土偶状の物体に吸い込まれて行った、先日の少女だった。少女も安らかそうな表情で深く眠っているらしく、渡の呼びかけに一切反応を示さなかった。
「これは一体何だ? やはり地球外知的生命体のしわざか? 宇宙人?」
そうつぶやいた渡の声が辺りの洞窟の壁のような部分に響いた。不意に機械音じみた声が、しかし人間のような口調で、しかも日本語でこう語りかけるのが、どこからともなく聞こえて来た。
「あなたはこれに乗る事はできない。申し訳ないが、年齢制限がある」
渡は怒鳴り返した。
「おまえは何者だ? この子たちをどうするつもりだ?」
次の瞬間、渡の視界に目を開けていられないほどの閃光が飛び込んだ。渡が次に目を開けると、その体は土偶状の物体の外にあり、しかも地面から10メートルほどの高さの空中にあった。
渡の体はそのまま重力の法則に従って落下した。渡が一瞬死を覚悟した時、真下に濃い茶色の巨大な何かが見えた。
渡の体は、さっき見た巨大な牛に似た獣の背中にまっすぐ落ち、ふかふかした毛皮に受け止められた。
その巨獣は全身を斜め前に傾け、渡の体をゆっくりと道路の上に転がした。渡がごろごろと地面を転がって体勢を立て直して起き上がると、また土偶状の物体の両目から一瞬の閃光が走り、その巨獣の姿はフッとかき消えた。
渡は自分の体をあちこち触って怪我をしていない事を確かめた。そしてつぶやいた。
「あの動物は、私を助けたのか?」
デジタルカメラを左肩から下げた筒井が駆け寄って来た。
「渡先生! ご無事ですか? 先生がほんの数分ですけど、消えてしまって……そして突然また現れて」
「ああ、大丈夫だ。怪我はない」
「あの大きな動物は何だったんでしょう? 写真を撮ろうとした瞬間に消えてしまって。遠山先生に説明できるかな、あたし?」
「あのぐらいは遠山君に教わらなくとも私でも分かる。バイソンの一種だな。北米に棲息していたジャイアントバイソンというやつだ。もっとも数万年前に絶滅したはずの種だが」
筒井が遠くから駆け寄って来る警官たちに大きく手を振って渡に言った。
「さっきの男の子はどうなったんでしょう?」
渡はあごひげをしごきながら答えた。
「それについては正式に報告書を書こう。これは思っていた以上に、厄介な話になりそうだぞ」
渡が目撃した、土偶状の巨大物体の内部の様子は、警察、自衛隊のみならず、政府上層部にまで衝撃を与えた。
翌日の渡は朝から夕刻まで政府の様々な部署に呼びつけられ、何度も同じ話を繰り返させられて、物体の内部の情報を口外しないよう誓約書まで書かされた。
午後5時過ぎに渡が大学の研究室に疲れ切った表情で戻って来ると、渡研の他のメンバーが全員待っていた。
渡が自分のデスクに腰を下ろして頭を抱えていると、松田が盆に乗せた湯飲みを運んで来た。熱い日本茶が入った湯飲みを渡の前に置きながら、松田が言った。
「お疲れさまでした、渡先生。だいぶ大変だったみたいですね」
渡は即座に湯飲みを引っつかみ、ごくごくと茶を飲み干してため息交じりに答えた。
「いや、もう疲れたよ。まったく役人というのは、何度同じ事を聞けば気が済むんだ?」
かすかに苦笑の表情を顔に浮かべながら、宮下が渡のデスクに歩み寄った。
「先生、お疲れのところ申し訳ないんですが、報告があります」
渡が黙ってうなずくと、宮下はタブレットの画面をスクロールしながら話し始める。
「あの巨大物体の中に呑み込まれた少女と少年の件です。少女の自宅は神奈川県ですので、あの地点までやって来るのは難しくありません。が、あの自転車でやって来た少年の自宅は北海道です」
「北海道?」
渡が思わず湯飲みを置いて顔を上げた。
「北海道から自転車に乗って来たというのか?」
「いえ、北海道の苫小牧(とまこまい)で深夜発のフェリーに乗船、茨城県の大洗町(おおあらいまち)に到着、そこから自転車で現地へ向かったようです。ただ、ひとつ奇妙な報告が苫小牧の警察署から入っていまして」
「何が奇妙なんだね?」
「フェリー乗り場の職員の証言なんですが。少年から『ポータラカ』という言葉を聞かされて、乗船券を発行してしまったと言っているんです。少年は料金を払っていません」
「何? みすみす無賃乗船を許したという事か?」
「そこが奇妙なんです。その職員は、そうするのが当然という気がしたと。なぜ自分がそんな事をしてしまったのか、自分でも説明できないと地元の警察に証言しているそうです」
渡は遠山を呼んだ。遠山に向かって訊く。
「遠山君、あの物体の頭部が光った時、広域で動物が騒いだと言う現象について何か分かったか?」
遠山は力なく首を横に振りながら答えた。
「影響を受けたのが高等生物、ほとんどが哺乳類だったという以外には何も判明していません」
渡は腕組みをして全員に言う。
「これは秘密事項だ。分かっているとは思うが、渡研のメンバー以外には他言無用だ」
そしていつもの癖であごひげをしごきながら言葉を続けた。
「私があの物体の中に入った時、話しかける声が聞こえた。日本語でだ。宇宙人がなぜ日本語を話せるのか、と思っていたが、精神波という可能性はあるか?」
遠山は呆気にとられた表情になった。
「テレパシーですか? なるほど、辻褄は合います。しかし、それなら現在の人類の科学では解析不能ですね。SF小説の中の概念でしかない」
そして翌日、土偶状の巨大物体がある場所の半径数キロ圏内は早朝から大騒ぎになった。
東西南北あらゆる方向から、合計52人の少年少女がばらばらに例の公園に向かって歩いているという報告が相次いだからだった。
渡たちも現場へ向かい、距離を取ってその少年少女たちを観察した。彼ら彼女らは一様に無表情でうつろな目つきをしており、時々小声で「ポータラカ」とつぶやきながら真っすぐに、あの巨大物体がある公園を目指して歩き続けていた。
宮下のスマホに連絡が入り、通話が終わると宮下は渡たちに向かって小声で告げた。
「警視庁上層部が決断しました。警官隊が実力行使であの子たちの身柄を確保するそうです」
渡が驚いて訊き返す。
「逮捕しようというのか? 何の嫌疑で?」
「いえ、あくまで未成年の身の安全のための一時保護という名目です。まあ、補導という建前でしょうか」
筒井が顔をしかめて言った。
「それだと、また何か怪獣みたいなのが出て来ませんかね?」
公園から坂を下って渡研の面々が大通りに出て様子を見守ってい入ると、背後であの土偶状物体の両目がまた閃光を放った。
次の瞬間、あたりの上空に10体の巨大な何かが現れ、滑空した。その下にいると一瞬太陽の光が遮られるのがはっきり分かるほどの大きさだった。
「鳥か? なんという大きさだ?」
空を舞う巨大な影を見上げて渡がつぶやいた。それは翼の端から端までが6メートルはある薄いグレーの羽毛の鳥の群れだった。
10羽の怪鳥はそれぞれの方向に滑空し、巨大物体に向かっている少年少女たちを力ずくで保護しようとしている制服警官のグループに上から襲いかかった。
渡たちの方にもそのひとつが舞い降りて来た。あわてて全員が物陰に身を隠すと、その怪鳥は羽ばたいて上昇し、警官隊の方へ飛び去った。
松田が物陰から飛び出し、怪鳥が飛び去った方向を見つめながら興奮した口調で言った。
「あれは本当に鳥なんですか? くちばしの奥に歯が生えてましたよ、びっしりと」
遠山がタブレットの画面を素早く操作してイラストを映し出した。それを皆に見せながら言った。
「多分こいつです。オステオドントルニス。新生代・新第三紀まで生息していた、ペリカンの先祖みたいな鳥です」
渡が画面を見つめながら言う。
「つまり、現生種ではないんだな?」
遠山はうなずきながら答えた。
「遅くとも260万年前には絶滅したはずの種です。筒井君の心配が的中したな」
突然巨大な怪鳥に上から襲われた警官隊はパニックに陥った。その中の一人が怪鳥のくちばしに突かれて軽傷を負うに至って、発砲許可が下された。
警官隊は拳銃を抜き、自分たちに向かって来る怪鳥に向けて発砲した。だが、怪鳥の動きは思いのほか素早く、なかなか命中するには至らない。
警官隊が怪鳥と格闘している間に、少年少女たちは公園にたどり着き、一人また一人と、土偶状の巨大物体が発する金色のビームに体を包み込まれ、高く宙に浮き、そしてこつ然と姿を消した。
少年少女たちを追って公園の近くに来ていた渡たちにも、どうする事も出来なかった。最後の少年が巨大物体の中に吸い込まれた時、再び巨大物体の両目から閃光が放射され、上空を飛び回っていた10羽の怪鳥の姿はかき消すように消えた。
渡たちが公園から離れ坂道を降りて行くと、あちこちに軽傷を負った制服警官と、彼らを取り巻く同僚警官の姿が目に入った。出血していた者もいたが、どうやらひっかき傷程度で命に別状はなさそうだった。
渡は坂の下から、あの土偶状の巨大物体を見上げながらつぶやいた。
「子どもたちの邪魔はさせんというわけか。だが、何故あいつは絶滅した地球の動物を操れるんだ?」
渡たちは再び、公園近くの鬼子母神堂のある寺院の境内に設置された自衛隊のテントに詰める事になった。
軽傷とは言え、巨大生物によって警官隊に負傷者が出た事に公園付近の民家の住民が一斉に不安を訴え、東京都は都内各地のホテルの部屋を借り上げて希望する住民の一時避難を行った。
公園の周囲の全住民が避難を希望し、自宅からホテルへ移った。閑静な住宅街は、まるで廃墟のような不気味な静けさに包まれた無人地帯となった。
渡が気を紛らわせるために寺院の境内を歩いていると、その寺の住職とばったり出会った。渡は一礼して住職に話しかけた。
「ご住職は避難はされないのですか?」
袈裟ではなくスーツ姿の住職はツルツルに剃り上げた頭を掻きながら笑顔で答えた。
「いえ、私も同じ宗派の寺に一時避難しております。今日はちょっと書類を取りに戻って来ましてな」
「そうですか。もうずいぶん長くお寺の境内を占領してしまって申し訳ありません」
「いえいえ、こういう時にお役に立つのが坊主と寺の務めでございます。そちらの皆さまこそ、お役目大変でございましょう」
住職が一礼して立ち去ろうとした時、渡はふと思いついて尋ねてみた。
「あの、ご住職、もしご存じであれば教えていただきたい事があるのですが」
「はい、何でしょう?」
「ポータラカ、という言葉について何か知っていらっしゃいますか? 仏教に関する用語なのかもしれませんが、どうにも何の事だか分かりませんで」
それを聞いた住職は、真剣な顔つきになり、近くにあるベンチを指差した。
「では腰かけてお話しましょうか。一言二言で説明するのは難しい事ですので」
うながされるまま渡がベンチに並んで座ると住職は話し始めた。
「極楽浄土というのはご存じですかな?」
「はい、それぐらいは。一応日本人ですから」
「僧侶や仏教研究者とかではない、一般の皆さまが浄土とおっしゃる場合、それは阿弥陀如来(あみだにょらい)がおわします地の事を言います。生きている間、良き生き方をした者は死後、そこへ行けるという」
「はあ、阿弥陀如来でしたか。そこまでは知りませんでした」
「ですが、浄土は一つだけではございません。一般の皆さまにはほとんど知られていないでしょうが、その他の如来、菩薩もそれぞれの浄土を持っていると伝えられているのですよ」
「それも恥ずかしながら初耳です」
「その中で、観音菩薩(かんのんぼさつ)がおわします浄土を、日本では補陀落山(ふだらくせん)と呼びます。仏教発祥の地であるインドの古い言葉であるサンスクリットではこう発音します。ポータラカと」
渡は絶句した。住職は穏やかな笑顔に戻って訊いた。
「お役に立ちましたかな? 今回の騒ぎと何か関係でもあるのでしょうか?」
「それは今のところ秘密事項でして。何かのヒントにはなるかもしれません。いや、お忙しいところをお引止めして失礼しました」
「では、私はこれで。お気をつけて」
去ってゆく住職に深々と一礼し、渡は遠くに見えるあの土偶状の巨大物体を見つめながらつぶやいた。
「観音菩薩の浄土……天国への誘いだとでも言うのか?」
昼近くになって雨が降り始めた。春先特有のシトシトと細い線のような雨粒がしたたり落ちる中、土偶状の巨大物体の両目が開き、今までとは違う青い光が放たれた。
その光はそのまま物体から離れ、青い光る球体になってゆっくりと空中を移動した。光球は地上十数メートルの低い位置を飛び、自衛隊の臨時指揮所が設けてある仏教寺院に向かって静かに飛んだ。
青い光球が近づいて来るのに気づいた自衛官たちは騒然となった。数人が自動小銃を構えて光球の到達点を見守った。
光球は自衛隊の大型テントの上は全て素通りし、鬼子母神堂の入り口からふわりと中へ入って行った。
自動小銃を構えた自衛官たちがおそるおそる堂の中に入ると、青い光りはすっと内向きに収束して消滅した。その場所には、高さ1メートルほどの緑色の像が出現していた。
それは人間、それも年若い女性が胡坐をかいて座っている姿のように見えた。両手は胸の辺りで組んでいて、蓮の花のような真っ白な物体が両手に握られているように見えた。
自衛隊部隊の小隊長が堂に入って来て、座像に慎重に近づいた。その時急に座像から声が響いて来て、自衛官たちは一斉に飛びのいた。
「こちらに攻撃の意図はない。この人型の装置は、あなたたちと交渉を行うために送った物だ」
甲高い、少女のそれのような声が緑色の座像から響いた。落ち着いた口調で日本語で、座像は自衛官たちにさらに呼びかけた。
「あなたたちの代表として、我々と話し合ってもらいたい人物がいる。その人物をここに連れて来てもらえないだろうか?」
小隊長は怯えた表情で自動小銃の銃口を座像に向けている隊員たちに、手振りで銃口を降ろすように告げた。そして数歩座像に歩み寄り、やや腰をかがめて座像に話しかけてみた。
「私の言葉が理解できるか?」
「理解可能。日本語と呼ばれる、この惑星の地域言語には対応できている」
「交渉と言ったな? 何に関する交渉だ?」
「我々の所へ来る事を希望している、人類の若い個体に関してだ。これまでと同じ対応を続ければ、彼らのみならず、彼らを止めようとするあなた方の中にも死傷者が出るかもしれない。それは我々にとっても避けたい事態である」
「こちらの代表となる、ある人物とは誰だ? 名前は分かっているのか?」
「分かっている。あなた方の中で、渡(わたり)劉造(りゅうぞう)教授と呼ばれている人物だ」
小隊長は一瞬絶句して背筋を伸ばして立ち上がり、そしてつぶやいた。
「渡研の……渡先生の事か?」
大学での雑務のために一旦研究室に戻っていた渡は、すぐに現場へ呼び戻された。
小隊長から事の次第を聞いた渡は二つ返事で交渉役を引き受けた。レインコートを着込んで鬼子母神堂へ行き、入り口の階段の前でコートを脱ぎ、堂の板敷に上がる前に靴を脱いだ。
渡が薄暗い堂の中に入ると、正面奥に鬼子母神像があり、その向かって左側の奥に、緑色の座像が鎮座していた。
その表面は雨空から差し込んで来るわずかな明りに照らされて光沢を放っていた。まるで宝石のヒスイのような、すべすべとした見た目で継ぎ目らしき物は一切見えない。
渡は緑色の座像の正面に向かい合って、堂の板敷の床に胡坐をかいて座った。シャツの襟に付けている小型CCDカメラと指先程の大きさの集音機の位置を確かめる。
渡と座像が交わす会話の映像と音声はリアルタイムで境内の自衛隊のテント内の装置に送られ、そのまま記録される仕掛けになっていた。
渡は緊張した面持ちで軽く咳ばらいをし、意を決して緑色の座像に向かって話しかけた。
「私が渡だ。聞こえるか?」
座像からは凛とした少女のような声が返って来た。
「よく来てくれた。申し出を受け入れてくれた事に感謝する」
「まず交渉とやらに関して、基本的な事を確認させてもらおう」
そう言って渡は堂の外に待機している自衛官たちに視線を向けて左胸に付いているカメラとマイクを指差した。自衛官の一人が両腕を上げ頭の上で大きな丸印を作った。通信は良好という合図だ。
「私たちの目的は、子どもたちの保護だ。それをやめろと言うのがそちらの要求か?」
渡がそう訊くと座像は変わらず落ち着いた口調で答えた。
「そういう事になる。だが我々の目的もまた、あの人類の若い個体群の保護である。目的は同じだ」
「では質問を変えよう。君、あるいは君たち、と言うべきか? 君たちのやっている事は未成年の誘拐だ。何のためにそんな事をしている?」
「それは見解の相違である。誘拐という概念は、本人の意思に反して物理的座標を移動させる事を意味するはず。我々は本人の自由意志に基づいて、移住希望者を集めているに過ぎない」
「移住希望者? どこへ移住すると言うんだ?」
「我々の創造主である古代文明がかつて栄えた惑星だ。あなた方の天文単位で言えば、この地球と呼ばれる惑星から、56憶7千万auの距離に位置する恒星系の惑星だ」
「1auは太陽と地球の間の距離。ずいぶん遠い場所だな。どうやってたどり着く?」
「我々の文明は光速を越える速度での恒星間移動を実現している。地球人類の感覚ではわずかな時間だろう」
「何という名の惑星なんだ? 私たち地球人類が知っている天体なら、の話だが」
座像から返って来た答に渡は思わず息を呑んだ。
「名前はある。あなた方地球人類の発声器官では、こう聞こえるはずだ。その惑星の名は、ポータラカ」
渡の額からだらだらと大粒の汗が流れ落ちた。あの土偶状の巨大物体がやって来た宇宙の彼方にある惑星の名はポータラカ。仏教で伝わる観音菩薩が治めるとされる浄土、理想郷の名もポータラカ。これはただの偶然なのか?
渡は心臓がバクバクと高鳴るのを感じながらさらに緑色の座像に向かって質問した。
「あの子どもたちをその惑星へ連れて行って何をさせるつもりだ?」
少女のような澄んだ声が座像から響く。
「その惑星には遠い昔に絶滅した知的生命体が築いた複数の都市がある。そこで暮らしてもらいたいだけだ。その都市はどれも、今も完璧に、あらゆる生命体を快適に生存させる機能を維持している」
「そこで暮らすだけだと? 遊んで暮らせるとでも言うのか?」
「各個体がそれを望むならば可能だ。だが、一定の人数から成るコミュニティが成立すれば、おのずと各個体が果たすべき役割は自然に発生するだろう。どれほど高度なテクノロジーで構成された都市と言えど、そこに住み生活する存在がいなければ荒廃する」
「私はこの前、あの巨大な物体の内部に入り込んだ事がある」
「記録している」
「その時、こんな事を言われた。私はあれに乗る事は出来ない、年齢制限があると。まあ、私はそんな移住など希望しないが」
「この先長期に渡り、その都市で生活を営み、できれば子孫を残す、という事になれば、連れて行けるのは若い個体に限られる」
「その惑星は本当に地球人類が生存可能な場所なのか?」
「自然環境は地球のこの場所と比較するとやや厳しい。だが、大気組成などはほぼ同じであるし、移住者の生命の安全と生活の快適さは、様々なテクノロジーによって保障される」
「君たちがこの惑星、私たちは地球と呼んでいるが、ここへ来たのは初めてか?」
「この恒星系の第3惑星には定期的に訪れていた。我々は知的生命体が存在する、あるいは発生する可能性のある多くの惑星に多数の探査機を送り込んで来た」
「前回いつ地球に来た?」
「この惑星の公転周期にして千回ほど前になる」
「千年前か……」
「今の地球人類はそれを年という単位で呼ぶのか。記録しておこう」
予想もしていなかった話の展開に、渡の頭は混乱しかけていた。渡は必死に頭をフル回転させ、次の質問を紡ぎ出そうとしていた。
「移住希望者がやはり地球に帰りたいと言い出したらどうなる?」
「それは正直困難な要望だ。だから宇宙船に乗り込んだ若い個体たちの移住の意思は、深層心理にまで踏み込んで入念に確認している最中だ。前回の失敗を繰り返さないように」
「前回の失敗? 過去にも地球人類を連れて行った事があるのか?」
「今までに24回移住者を運んでいる。前回、つまり千年ほど前に移住させた地球人の中にひとりだけ、故郷への帰還を望んだ者がいた」
「その時はどう対処した?」
「この恒星系の近くを航行する宇宙船があったので、予定を変更して彼を特別にこの惑星まで運ばせた、と記録にある」
「彼、という事は男か。その彼はどうなった?」
「小型カプセルで地球に戻したが、その後の事は観測していない。ただ、万一に備えて自決用の装置を持たせた」
「自決用? 自殺という意味か?」
「彼が故郷に戻れても、この地球上の時間では百年ほど経過していたはずだ。彼には真相は知らせず、もし故郷での生活に耐えられなくなったら装置の蓋を開けとだけ指示した」
「箱のような物だったわけか。で、開いたらどうなるんだ?」
「地球外文明の痕跡を残さぬよう、彼の服などごと、肉体を劣化させる仕掛けが施されていた。当時の地球人類がもし目撃していたら、瞬間的に老化して生命反応を終えたように見えただろう」
渡の呼吸が早くなった。極楽のような場所から帰って来た若い男。故郷に戻ったら何もかも変わり果てていた。持たされた箱を開けたら、たちまち老人になり……
浦島太郎の伝説!
座像から聞こえる、高く澄んだ少女のような声は渡に問いかけた。
「彼がその後どうなったかは、我々も知りたい。特に自決装置を使ったのかどうかを。何か伝わっていないか?」
渡はしばし考え込んだ後、力なく頭を横に振った。
「いや、知らんな。そんな伝説などは聞いた事がない」
自分でもなぜだか分からなかったが、その昔話の顛末を告げるのはなんとなく気がとがめた。
「そうか」
座像の声はあっさりと言った。
「もし彼が自決を選んでいたとすれば、申し訳のない事をしてしまった。あなた方地球人類の精神構造は、かなり進化しているようだ。だから今回の移住希望者の意思の確認は、前回以上に慎重に行いたい」
渡は1分ほど考え込んだ。衝撃的な内容ではあったが、渡の頭脳をもってすれば理解は出来た。だが、相手の要求を渡ひとりの判断で呑むとも断るとも返事するわけにはいかなかった。
「あの子どもたち、君たちの言い分を信じれば移住希望者だが、どうやって呼び寄せた?」
渡の質問に、緑色の座像からは変わらず落ち着いた口調の声が返って来た。
「あなた方が精神感応波、テレパシーなどと呼んでいる信号を、この列島の全域に送った。それに反応した若い個体が我々の宇宙船に自分の意思でやって来ている」
「どうやって勧誘した? この世の天国にでも行けると吹き込んだのか?」
「彼らには何か精神的、心理的な共通点があると推測される。だが、それが何なのかは、我々には分からない」
「分からないとはどういう事だ?」
「我々は創造主のような知的生命体ではない。創造主によって造られたプログラムに過ぎない。だから知的生命体の思考そのものは共有できない」
「最後の質問だ。何故、私を交渉役に選んだ?」
「渡教授、あなたは何かしらの、今回の移住希望者との共通点を持っている。それが何なのかは我々にも解析不能だが、創造主が残した心理分析装置が同じパターンを検出した。それゆえに、地球人類の側の代表にふさわしいと判断した」
「そちらの言い分は分かった。だが、私だけの判断で是とも非とも返事はできない。もう少し時間が欲しい」
「それは理解している。宇宙船の出発までまだ10日の猶予がある。地球人類の指導的立場にある存在が慎重に結論を出す事を、こちらも希望する」
鬼子母神堂を出ると、渡は軽いめまいに襲われた。駆け付けた自衛官に体を支えられて対策本部のテントにたどり着くと、寺の住職がスクリーンを見つめていた。
そこにはさっきまで渡がやり取りをしていた緑色の座像の映像が映し出されていた。自衛隊の小隊長が住職に訊いた。
「いかがですか? 何か心当たりは?」
住職は首を傾げながら答える。
「強いて言うなら、多羅菩薩(たらぼさつ)に姿は似ておりますな。仏教説話の中でおそらく唯一、女性の肉体のまま悟りを開き仏になったと言われる菩薩です」
小隊長が訊き返した。
「珍しい事なんですか?」
「古い仏教の教えでは、女人は悟りを開く事はできないとされておりましてな。悟りを開きたければ、男に生まれ変わる必要があると。ま、今の時代では女性全員からお叱りを受けそうな話ですが」
「なるほど。いやご足労をおかけしました。ご協力に感謝します」
「いえいえ、お役に立てればいいのですが」
住職はテントの入り口に向かい、その近くに立っている渡に気づくと、深々と頭を下げて、去って行った。
その夜、10時を回った頃に、テントに詰めていた渡のスマホが鳴った。出て見ると、首相官邸の職員と名乗る年配の男性からだった。受け答えをしている渡の声が困惑でどんどん大きくなった。
「はあ、それは構いませんが。は? 有識者会議? ええ、ええ、なるほど……はあ? 私が有識者会議のメンバーに? 一体どういう話になって……ええ、まあ、分かりました。明日の午前9時半に官邸に行けばいいんですな」
翌朝、渡が首相官邸を訪ねると、厳重に警備された会議室に通された。他に集められたのは、渡もテレビで見た事のある、教育評論家など著名人だらけだった。
有識者会議のメンバーは渡を入れて6人いた。全員がそろったところで、首相秘書官と名乗る痩せた年配の男が議長席に座り、事の次第を話し始めた。
「本日はお忙しいところを集まっていただき、ありがとうございます。皆さんには、もうニュースなどでご存じかと思いますが、豊島区に出現した土偶のような形状の巨大物体に関して、ご助言をいただきたく思っております」
メンバーの中の年配の女性が手を挙げて発言を求めた。
「その事件は知ってますが、なぜこのメンバーなんですか?」
議長役の秘書官は答えた。
「これまでにあの物体に近づき内部に連れ去られたのは、年齢が10歳から17歳までの、いわゆる思春期の少年少女だという事が判明しております。そちらの……」
議長は掌で渡を指して言葉を続けた。
「帝都理科大学の渡教授には、自衛隊の対策本部に協力をいただいておりまして、昨日地球外生命体と推測される存在と、交信したとの事です」
渡は、あの緑色の座像のような物体と交わしたやり取りの要点だけを他のメンバーに説明した。
社会学教授の肩書を持つ40前後の女性メンバーが金切り声で言った。
「精神的に不安定な思春期の子どもたちを宇宙人が誘惑しているという話じゃないですか? 何としてでも子どもたちを取り戻さなければ!」
結局その有識者会議の会合は、何ひとつ結論らしき物を出せないまま2時間で散会となった。
一旦大学の研究室へ向かった渡のスマホが鳴り、宮下からの通話に渡は出た。
「私だ。ああ、一度研究室に寄ってから現場へ。え? 私に会いたいと言う人物……何だと! あの巨大物体に吸い込まれた子どもの一人の関係者という事か……児童相談所の職員?」
通話を終えてスマホをポケットに仕舞った渡は、しばらく路上で立ちすくんでいた。そしてつぶやいた。
「私とあの子どもたちの共通点、と言っていたな、あの座像は。それはもしや……」
正午過ぎに渡が大学の研究室に戻ると、既にその人物が部屋に通され、応接スペースのソファにちょこんと座っていた。
松田が渡の分の茶の湯飲みを運んで来てそっと耳打ちする。渡はうなずいて湯飲みを手に持ち、テーブルをはさんで反対側のソファに腰を下ろした。湯飲みをテーブルに置き、相手に名刺を差し出す。
「お待たせしました。私がここの責任者の渡です」
相手は40前後とおぼしきスーツ姿の女性だった。彼女もテーブル越しに名刺を差し出した。
「突然押しかけて申し訳ありません。坂田と申します」
渡は受け取った名刺を見つめ、感心した口調で「ほう!」とつぶやいた。
「児童心理士の上に、臨床心理士の資格までお持ちですか。児相も専門的なんですな、今は」
名刺には中部地方の児童相談所の名前が記されていた。坂田は黒縁の眼鏡をずり上げ、沈痛な面持ちで一枚の写真をテーブルの上に置いた。
そこには高校生ぐらいの年頃の少女のバストショットが印刷されていた。髪は肩のあたりまで無造作に垂れ、表情の暗い、顔色の悪そうな少女がニコリともしていない表情で写っていた。
「私が担当していた児童の一人なのですが、テレビのニュースで見かけまして。あの大きな土偶のような物に入って行った子どもたちの中に、その子が……」
坂田はそう言い、大きく息を吸って渡に訴えかけた。
「警察に相談しましたところ、こちらの研究室を紹介されまして。なんでも、あの大きな土偶の調査をこちらでなさっているとか?」
渡は当たり障りの無さそうな部分だけ説明を始めた。
「まあ、そんなところです。科学的に調査するに値する案件ですのでね。ところで今、坂田さんが担当していたとおっしゃいましたね。児相の専門職員が担当していたとは、何か問題があったわけですか?」
「実はこの子は、家庭で虐待を受けて来た可能性がありまして。最初は未成年の深夜徘徊で警察に補導されて、そういう疑いが出て来たため、私の勤務している児相でカウンセリングを始めたばかりだったのです」
渡が両目を大きく開いて身を乗り出した。
「虐待とは具体的にどのような内容ですか? もちろん他言はいたしません。私の研究室のメンバーは全員、何と言うか、特別な守秘義務を課されている者ばかりですので」
坂田は数秒ためらった後、大きく息を吐いて答えた。
「性的な虐待です。それも実の父親からの」
それぞれのデスクで聞いていた遠山、松田、宮下、筒井が思わず大きく息を呑む音を立てた。
だが渡は全く動じた様子を見せず、質問を続けた。
「もう少し詳しくお聞きできますか?」
坂田は出されていた冷えた茶を一口すすってから、背筋を伸ばして座り直して話を続ける。
「この子はまだ16歳なんですが、どうも中学生の頃から実の父親から性的暴行を繰り返し受けていた可能性があるのです。本人もそれを示唆するような内容を口にしていたので、うちの児相で介入すべきかどうか検討を始めたのですが、その矢先にあの土偶のような物の所へ行ってしまったようで」
「行方が分からなくなる前に、何か変わった様子はありませんでしたか? 何らかの兆候のような事ですが」
「うちの児相の職員がたまたま聞いていたという話なのですが。元々異常に寡黙な子なのですが、ある日急に遠くを見つめるような眼つきで意味不明な単語を何度もつぶやいていたようです」
「ポータラカ、という言葉ではなかったですか?」
「はい、そんな感じの発音だったらしいです。私が直接耳にしたわけではありませんので、断言はできませんが」
「分かりました。お力になりましょう」
「本当ですか? ありがとうございます」
「ただ、坂田さんにも協力していただく必要があります。その点はよろしいですか?」
「はい、私で出来る事であれば」
渡は上半身をひねって振り向き、宮下を呼んだ。宮下が坂田の隣に座ると、渡は矢継ぎ早に指示した。
「宮下君。坂田さんに協力してもらって、調べて欲しい事がある。あの土偶状の物体に取り込まれた子どもたちの中に、他にも児相が関係しているケースがなかったかどうかだ。警視庁から要請を出して、日本全国の児相に問い合わせてくれ」
予想もしていなかった渡の指示に、宮下は面食らった表情で言った。
「は、はあ……それは可能だと思いますが。渡先生、何かその点に心当たりでも?」
渡は茶をぐいと飲み干して重々しい口調で答えた。
「あの土偶状の物体に自ら取り込まれて行った子どもたちには、何らかの共通点があるはずだ。その共通点が見つかるかもしれん」
それから5日が経った。「ポータラカ」という言葉を口にしながら夢遊病者のような様子で土偶状の巨大物体に向かう少年少女たちの数は日を追って膨れ上がって行った。
ついには10人以上の少年少女たちが列になって行進して行くような状況になった。だが警察官が彼らを制止しようとすると、土偶の目から閃光が走り、あの巨大生物や巨大怪鳥が出現し、間に立ちふさがった。
警察は周辺住民や通行人への被害が出る事を恐れ、そういう子どもたちを見つけても遠巻きに見守るだけで、もはや制止しようとはしなくなった。
渡と筒井が土偶状の物体を観察していると、制服警官が一人近づいて来て小声で告げた。
「渡先生、注意して下さい。児童誘拐の容疑者がこちらの方向へ向かったという情報が入りました」
渡が眉をしかめて訊き返した。
「児童誘拐?」
「はい、9歳の女児を連れ去った若い男が、オートバイで逃走中との事です。ただでさえ大変なのに、厄介な奴がいるもんです」
警官がそう言った途端、近くからオートバイの爆音が響いて来た。渡と筒井が坂の下に目をやると、1台の中型オートバイが駆け上がって来た。
座席の後方には水色のワンピースを着た、明らかに小さな子どもに見える人影が運転している男の背に顔を押し付け、両手で腰にしがみついていた。
渡たちの側にいた制服警官が驚愕の表情を浮かべながらも、オートバイの前に立ちふさがろうとする。
「そこのバイク、止まりなさい!」
オートバイを運転している男は急ブレーキをかけ、警官をはね飛ばすのをかろうじて回避した。男は足を踏ん張ろうとしたが失敗してオートバイを横向きに倒してしまった。
ヘルメットで顔が隠れているので年齢は分からないが、まだ若そうな男は座席後部から転げ落ちた女の子を抱え上げ、土偶状の物体へ向かって走り出そうとした。
警官が男の前に立ちふさがり腕をつかもうとした。
「動くな! 訊きたい事がある」
男は女の子が被っていた子ども用のヘルメットを外した。その下からはボサボサの髪形の痩せこけた小さな女の子の顔が現れた。
男は子供用のヘルメットを振り回して警官の動きをけん制し叫んだ。
「俺を誘拐罪で逮捕したけりゃ好きにしろ! けどこの子だけは行かせてやってくれ!」
男の声は意外と幼かった。男は女の子のワンピースの裾をまくり上げ、その背中を露出させた。それを見た警官は驚愕のあまり動きを思わず止め、筒井が小さな悲鳴を上げた。
その女の子の背中には無数の赤いミミズ張れと青い痣が一面にあった。火傷の痕らしい紫色の大きな部分は、はっきりとアイロンの形をしていた。
男は女の子の体を抱き上げたまま、じりじりと警官の体を避けて坂を上に歩いて行く。
ヘルメットを脱ぐと成人しているかどうかという年頃の気の弱そうな若い男だった。男は泣きそうな表情で叫んだ。
「この子の体見ただろ? 行かせてやってくれ。このまま家に置いといたら、そのうち殺されちまう! 頼む、見逃してくれ!」
女の子が頭上に見える土偶状の巨大物体を見上げてつぶやいた。
「ポータラカ……」
土偶の両目がカッと見開き、閃光が辺りを包んだ。巨大物体が鎮座する公園の辺りから女の子の側まで、数えきれない金色の物体が並んだ。
それらは高さ2メートルほどの、人型の像のように見えた。異様なのは、その肩から腰にかけて10対、計20本の腕が並んでいる事だった。
その無数の金色の立像は、公園に続く道の左右に2列に並び、腕を広げてまるでトンネルのような形を作った。
女の子が男の手から降り、トンネルの入り口に歩み寄った。無数の金色の腕が一か所でさっと開き、女の子を中に招き入れるように動いた。
無数の金色の腕の隙間から、その女の子がふらふらと公園の方へ坂を登って行くのがちらちらと見えた。
やがてトンネルを抜けた辺りで女の子の体が宙に浮きあがり、そしてふっとその場から消失した。土偶の目が再び閃光を放ち、10対の腕を持つ金色の人型の像は一斉に姿を消した。
「まるで千手観音(せんじゅかんのん)だ」
渡が成す術もなく見守りながらそうつぶやいた。
オートバイを運転していた若い男は、女の子が姿を消したのを見届けると、放心したようにその場に座り込んだ。
近寄って来た制服警官にうながされると素直に立ち上がり、そのまま連行されて行った。
渡と筒井が茫然と土偶状の物体を見上げていると、渡のスマホが鳴った。通話に出ると、宮下の声が聞こえて来た。
渡は筒井に向かって言う。
「すぐに研究室に戻るぞ」
「何か分かったんですか?」
「ああ、どうやら私の仮説が当たっていたようだ」
大学の研究室に戻った渡と筒井は、部屋に待機していた宮下と坂田にさっき目撃した女の子の事を手短に話した。
遠山と松田は現場のテントに詰めているとの事だった。話を聞き終わった坂田は眉をひそめながら言った。
「それは明らかに虐待ですね。渡井先生が何故あんな指示をなさったのか、改めて理解できました」
宮下が応接スペースのテーブルの上に、分厚い書類の束を置いた。百枚を超えるプリントアウトされた紙の束は、テーブルに置かれるとドンと音を立てた。宮下がため息交じりに渡に告げる。
「結論から言います。あの土偶状の物体に取り込まれた子どもたち全員が、それぞれの居住地の児童相談所から少なくとも一度は保護ないし家庭への介入を受けています」
「ええ?」
筒井が甲高い驚きの声を上げた。
「全員って、一人残らずって意味ですよ……ね?」
坂田が大きくうなずいて説明し始めた。
「はい、虐待、不適切養育、児童本人の度を越した非行が疑われる場合、その家庭に介入する権限が児相にはありますから」
渡がテーブルの上の書類の束を見ながら苦々し気な口調で訊いた。
「今のところ何人になっている?」
すかさず宮下が答える。
「107人です。そして今先生と筒井さんが目撃したという女の子を入れて108人になったという事ですね」
渡が坂田に向かって訊いた。
「児相の介入案件の理由に共通点は?」
「全て親やその他の保護者による虐待です。今は虐待が疑われる場合、法律で目撃した市民に通報を義務付けていますから」
その時、渡のスマホが鳴った。通話に出て見ると松田からだった。渡がソファからいきなり立ち上がった。
「何? 例の座像のような装置が、また私と話したいと言って来たという事か? 分かった、すぐ現場へ向かう。準備をしておいてくれ」
渡はスマホを上着のポケットに仕舞いながら坂田と宮下に言った。
「聞いての通り、私はひとまずこれで失礼する。あなた方はさらに何か共通点がないかどうか、子どもたちの記録を調べてみてください」
渡が鬼子母神堂の本堂に到着した時には、もう日が沈みかけていて本堂の中は薄暗かった。
座像を刺激しないように、大きなロウソク立てが座像の横にいくつも置かれ、揺らめくロウソクの炎に照らされた灯りの中で、渡は板張りの床にあぐらをかいて座り、座像と相対した。
「呼びつけて申し訳ない、渡教授」
座像からは少女のそれのような高く済んだ声が聞こえて来た。その声はこう続いた。
「これで人数がそろった。この若い地球人の個体を連れて行く事に、周りの個体からの承認が欲しい。若い個体たちの移住の意思は確認済みだ」
「その、若い個体、という言い方はやめてくれ」
渡は顔をしかめて座像に文句を言った。
「せめて子どもたちと言ってくれ。私たちの事は、まあ、大人たちだな」
「なるほど、では言い方を訂正する。あの移住船にやって来た子どもたちを惑星ポータラカへ出発させたい。あなた方大人たちの意思を無視して飛び去る事は簡単だが、千年後のトラブルを避けるために大人たちの承認を得ておきたい」
「さっき人数がそろったと言ったな? 108人になったという意味か?」
「その通りだ。精神感応波の効果は無効化してある。これ以上、子どもたちが移住船を目指してやって来る事はない」
「なぜ108人なんだ?」
「あの移住船の定員だからだ。それ以外に特に意味はない」
渡は右手でしきりにあごひげをしごきながら、言葉を慎重に選びながら問いかけた。
「なぜ虐待を受けている子どもたちばかりを呼び寄せた?」
座像からの少女のような声は、まったく変わらぬ落ち着いた口調で答える。
「質問の意味が理解できない。惑星ポータラカへ到着したら、原則として二度とこの地球には戻れない。仮に戻れたとしても、その時にはこの地球上では少なくとも百年以上の時間が経過している。この事は子どもたちには何度も説明し、理解してもらっている」
「移住の意思が固い者だけを集めた結果だと言うのか?」
「知的生命体が生まれ育った惑星から永遠に離脱する事の重要性は、我々のプログラムに明記されている。我々の創造主の科学力を以ってしても、恒星間移動は知的生命体にとっては片道切符の旅になる。それでも移住したいという強固な意思を持つ子どもたちに参加を呼び掛けた結果、こうなった」
「それでいつ出発したい?」
「母船との合流のタイミングを考えると、遅くとも10日後には地球を離れたい」
「では、ぎりぎりまで出発を待って欲しい。私が大人たちに今の要望を伝えて決定を出させる。それから、子どもたちに、外の大人たちの音声を伝える事は可能か?」
「可能だ」
「子どもたちの親や……あ、親という概念は分かるか?」
「理解している。親の声を伝えたいというのであれば、半径2キロメートル以内の位置まで来てくれれば、子どもたちの脳に直接伝達しよう」
「最後にもうひとつ。あの子どもたちが本当に地球から去りたいのかどうか、証明できるか?」
「渡教授、あなたの脳内に直接、子どもたちの記憶の一部を転送して、疑似体験してもらう事は可能だ」
「いいだろう、やってくれ。今すぐ、ここでだ」
「了解した。では開始する」
座像の頭部の周りに青い光の輪が浮かび、すうっと宙を滑って渡の頭にかぶさった。
数分後、けたたましい悲鳴を聞いた自衛官たちが本堂の中に駆け込んで来た。既に光の輪は消え、板張りの床の上に横向きに寝転がり、両手で頭を抱えて髪を掻きむしりながら、低く吠えるような声を張り上げてのたうち回っている渡の姿がそこにあった。
自衛官たちは渡の体を抱えて、大急ぎで外へ担ぎ出した。彼らが去った本堂には、一切の動きを止めた座像がポツンと残り、ロウソクの炎の揺らめきに照らされていた。
視界の中に鬼のような怒り狂った形相の男女の顔が次々に浮かんでは消えて行った。怒鳴り声が次々に響いた。
「このガキ! むかつくんだよ」
「金がかかるから病気にはなるなと言っただろうが。なんで病院にいやがんだ」
「ほらこうしてやる。思い知れ!」
「おまえなんか、産まなきゃよかった!」
怒鳴り声の合間に、大人の拳、足先、何かの棒が次々に視界に入って来て、肉を打つ音が響いた。
あるいは火の付いたタバコの先端が迫って来るのが見えた。大雨の降る戸外へ突き飛ばされているとおぼしい光景も目に入った。
中年の男が包丁の切っ先を目の前に突き付けてこう怒鳴った。
「さっさと体売って金稼いで来い! 何だ? その目は? 親を敬えって学校で教わらなかったのか?」
子どもたちの声、いや多分心の声だろう、それが続いてか細く響く。
「痛い! 痛い!」
「苦しい!」
「熱い! 痛い! やめて!」
「どうしてあたしがこんな目に遭わなきゃいけないの?」
「お母さん! 僕を迎えに来てよう!」
「誰か助けて!」
「誰か助けて!」
「誰でもいい、あたしを助けて!」
「どうして誰も僕を助けてくれないの?」
「児相の人、戻って来て! このままじゃ、僕殺される!」
「もう死にたい! 誰も助けてくれないなら、いっそ殺してよう!」
「どうして誰も分かってくれないんだ?」
「どうして誰も助けてくれないんだ?」
「どうして?」
「どうして?」
「どうして?」
「どうしてええええええええ?」
「うわああ!」
渡は大声を上げて飛び起きた。全身が汗でぐっしょりだった。目に入ったのは、大学の研究室の天井だった。
ガタガタと体が震え、か細い悲鳴がまだ渡の口からこぼれていた。渡研のメンバー全員がソファに駆け寄り、その後ろから坂田が心配そうに身を乗り出した。
松田が渡の上半身を後ろから抱くようにして体を支えた。
「渡先生、しっかりしてください! 大丈夫ですか?」
渡は我に返り、まだ荒い息を吐きながら今の状況を確認した。研究室のソファに寝かされ毛布が体にかけられていた。壁掛け時計に目をやると、あの座像と会話していた時から3時間ほど過ぎていた。
渡は掌で、自分の体を押さえつけている松田の腕を軽くポンポンと叩いて言った。
「もう平気だ。すまんが松田君、冷えた水が飲みたい」
「すぐにお持ちします」
松田がキッチンスペースへ駆け出して行き、渡は毛布をはねのけてソファに座り直し、額に浮かぶ大粒の汗を指で払いのけた。
「先生、何があったんですか?」
松田が氷のキューブが入ったコップを渡に手渡しながら訊いた。渡は水を一気に飲み干し、大きく息を吐いて答え始めた。
「あの座像に頼んで、子どもたちの記憶とやらを疑似体験したんだ。その後私はどうにかなったのか?」
「現場の自衛官が錯乱状態の先生を発見してすぐに連れ出したと報告を受けています。気を失っておられたようですが、外傷はなく体調もそれほど異常ではなかったので、ひとまず研究室にお連れしたんですが」
「そうか、それは迷惑をかけたな」
宮下が心配そうな表情で訊く。
「渡先生、警察病院なら夜間診療を受け付けてもらえます。連絡しましょうか?」
渡は弱々しく首を横に振って答えた。
「いや、それにはおよばん。精神的にショックを受けただけだ」
坂田が遠慮がちに尋ねた。
「渡先生、記憶の疑似体験とかおっしゃいましたね。もしや、あの子どもたちの虐待の記憶ですか?」
渡は無言で大きくうなずき、言うべき言葉を探して視線をしばし宙に飛ばした。そして皆に言った。
「どうやらそのようだ。そしてもうひとつ、疑問が解けた。何故私が、あの地球外生命体から連絡役に指名されたのか、それが分かった」
遠山が首を傾げながら訊く。
「どういう意味です?」
「私は同じなんだ。あの巨大物体に取り込まれた子どもたちと」
宮下が怪訝な顔で訊き返した。
「同じって、何が同じなんです?」
渡は皆の方に顔を向けて、低い声で告げた。
「私も虐待を受けて育った。12歳から10年以上に渡って。そこが、私とあの子どもたちとの共通点だったんだ」
それから渡はゆっくりと自分の生い立ちを皆に話し始めた。
「私の父親は、西日本の地方都市の代々の大地主の跡取りだった。私はその息子だが、いわゆる妾腹(めかけばら)というやつだ。父親が家の外に作った愛人に産ませた子どもだったんだよ」
他の全員が音を立てて息を呑んだ。渡が言葉を続ける。
「私の産みの母親はその地方の貧困家庭の生まれでね。頭が悪くて水商売でなんとか働いて食べていたような女だった。悪い人間ではなかったんだがね」
遠山が唖然とした顔つきで言った。
「僕はてっきり、渡先生はもっとこう、育ちのいい方だとばかり思ってました」
渡は小さく首を横に振って言う。
「私の父親はその時既に別の女性と正式に結婚していたんだが、子どもが出来なかった。その後私の継母(ままはは)になる女なんだが、どうやら子どもを持てない体質だったらしい」
筒井がおそるおそる訊く。
「じゃあ、跡取りを確保するために、先生の実のお母さまに?」
「そういう事だ。家を継ぐ男の子が欲しくて、父親は私の実母を愛人として囲い、生活の面倒を見る代わりに、私を産ませた。自分の妻、つまり私の継母に、遂に男の子が生まれなかったら私を引き取る事になっていたらしい」
松田が憤懣やるかたないという口調で言う。
「なんて話だ。でも渡先生はそこまでのお年じゃないでしょう?」
「昭和の終わり頃だからな。まだその時代には、地方ではそういう事が結構あったんだよ。金に目がくらんで私を産んだ実母だったが、父親と正式に夫婦になれるわけではなし、毎月の生活費をもらうだけの関係になった。当然そこに男女の愛情などない。やがて実母は宗教にのめり込むようになった」
宮下が訊く。
「カルトとかですか?」
「いや、そこまでじゃない。今でもある仏教系の新興団体だ。今でこそ常識的だが、当時の団体は過激でね。実母は父親からもらう生活費のかなりの部分をお布施としてつぎ込むようになった。多額のお布施をすると坊さんや他の信者がちやほやしてくれる。それがうれしかったんだろうな。だから父親から相当な金額をもらっていたはずだが、暮らしはいつも貧乏だった」
宮下がさらに訊く。
「先生もその団体を信仰していてんですか?」
「いや。子どもの目にもおかしな教えだという事は分かったからね。私自身は何の興味も無かった。だが二人きりで暮らしている実母から一緒に集会などへ行けと言われたら断れんだろう? 小学生の子どもに固い畳の上に何時間も正座させてお経を暗唱できるようになるまで唱えさせる。周りの他の信者も貧困層ばかりだ。一番辛かったのは子どもらしい思い出作りが全く出来なかった事だ」
遠山が興味深そうに訊く。
「思い出作りが出来なかったとは、具体的にどういう?」
「その団体は、自分たちの信仰する宗教以外は全て悪しき邪教だという、少々過激な考えでね。地方都市だから、祭礼などはたいてい地元の神社や仏閣絡みだった。団体の教えを盲信していた実母から、お祭りに行く事は禁止されていたし、ほんのわずかにでも他の宗教が関係している地域のイベントなどに参加する事も厳禁だった。たとえばクリスマスパーティーとかもだ。当然友達づきあいは悪くなるし、私自身も周りの同級生、学校教師、近隣の住人からは変人扱いされていたようだ」
坂田が申し訳なさそうな顔で口をはさんだ。
「こう言ってはご不快でしょうけど、渡先生、それは既に児童虐待ですよ」
「現在の基準ではそうですな。私は自分がそうあったので、児童虐待の本は多少読んできました」
「はい、信仰の自由はそれは尊重されるべきですが、まだ自我が確立していない学童期の子どもに、世間一般の常識とかけ離れた行為を強制するのは今では虐待とみなされます」
「私はお経を詠めるようになるのも早かったし、実母の承認欲求を満たすには都合のいい子どもだったんだろう。それだけならそれほどの苦痛ではなかった。だが私が中学に上がる直前になって、実母から突然こう言われた。来月からお父さんの家でお父さんと一緒に暮らすんだ、と。これでお別れだと」
筒井が鳴き声に近い口調で尋ねた。
「先生は何て返事したんですか?」
「私の意思など尋ねられもしなかったよ。大人が勝手に決めて、一方的に従わされただけだ。実母は多額の手切れ金を渡されてどこかへ引っ越して行った。私はそれまで、年に数回しか会っていなかった父親の家に突然放り込まれた」
「実のお母さんは今どうなさっているんですか?」
「知らん。一切分からん」
「は?」
「実母とはその後一度も会った事すらない。私との連絡は一切途絶えた。今どこにいるのか、そもそも生きているのか死んでいるのか、それすら一切不明だ」
「実のお母さんに会いたくならなかったんですか?」
「我ながら冷めた子どもだったようだな。実母と父親の関係はうすうす知っていたから、私は金と引き換えに母親に捨てられたのだと思った。会いたいだの恋しいだのと思った事は一度もない。向こうだって私に母親としての愛情などなかったんだろうしな」
坂田がまた訊いた。
「本人が納得していない状況で生活環境を一変させるのも、虐待にあたりますよ。それは大変でしたね」
渡は苦笑を浮かべながら首を横に振った。
「いや、これで終わりじゃありません。私が経験した虐待は、ここからが本番です」
再び驚いた表情を見せる皆に向かって、渡は自虐気味な口調で話を続けた。
「父親の家に引き取られて住む場所も遠い所に変わり、まあそういう意味での環境の激変もあった。生活習慣も実母と二人暮らしだった時とは一変して戸惑う事だらけだった。それはまだ良かった。慣れればいい話だからな。その日から、毎日が恐怖の連続だった」
坂田が食い入るような目で渡の顔を見つめて尋ねた。
「実のお父様から虐待を?」
「いや、父親からは直接的な暴力は受けなかった。暴力を振るって来たのは父親の結婚相手の女、つまり私の継母になった相手でね。父親が一緒にいる時はニコニコした顔で『劉造(りゅうぞう)君』と私の事を呼んで普通の態度でいたが、父親が不在中は鬼のような眼つきで私の事を四六時中にらみつけていた。君が悪いので私が与えられた子ども部屋にこもっていると、常にドアを半開きにして私の様子を監視していた。一緒に暮らすようになって初日からそれだ。子どもには恐怖でしかない」
「何かきっかけでもありましたか?」
「これは私が大人になってから親戚から聞かされた話ですがね。継母は私の事を父親の財産狙いで家に入り込んで来たと思い込んでいたそうです。元々その継母も父親の金目当てで、妊娠したと嘘をついて結婚に持ち込んだらしい。地元では不良が集まる事で有名な低レベル高校の出で、札付きの不良娘だったそうで。できちゃった婚なら仕方ないという事で、父親の方の縁者も結婚を認めたんだが、いつまで経っても子どもは生まれない。不妊体質だから当然なんだが、父親が嘘に気づいた時は、後の祭りさ」
筒井がまたおそるおそる訊いた。
「お父様は離婚は考えなかったんですか?」
渡は苦笑しながら答えた。
「一度正式に結婚した以上、離婚するのは世間体が悪い。父親も親族もそう考えたんだそうだ。愛人や妾腹の子どもは平然と作るのにな。そういう土地柄だったんだ、その頃は」
坂田が渡に訊く。
「その継母からの暴力とは具体的にはどのような事を?」
「文字通りの暴力ですよ。なにしろ新しい家での生活習慣が全く分からない。洋式トイレというのを産まれて初めて見たんだが、使い方が分からなくてね。で、蓋を閉め忘れたと言って殴る、箸の使い方が気に入らないと言って殴る。それも平手じゃない、グーで殴る。顔を殴るから一緒に生活し始めて数日で顔が腫れあがった。それに気づいた父親がどうした?と訊いてきたので正直に答えたら、父親は黙って継母の所へ行き、継母を殴る蹴るし始めた」
「え? 目の前でですか?」
「はい、私の目の前で。父親の継母に対する暴力もひどい物だった。グーで顔を殴って、うつむいたところで腹に蹴りを入れ、倒れ込んだところで何度も執拗に蹴り飛ばす。父親があんな暴力的な人間だとは全く知らなかったから、私はその場で全身が凍り付いてただ見ている事しかできなかった」
「それも虐待ですよ、お父様からの。子どもの目の前で配偶者や家族に暴力を振るっているところを見せつけるのは、子どもに対しても心理的な虐待です」
「ほう、それは知らなかった。今の児童福祉とか心理学では、そういう事になっているんですか?」
「ええ、れっきとした心理的虐待と定義されています。それでそういった場面はその後もありましたか?」
「そりゃもう数えきれない程の回数。そして最初の夫婦の暴力沙汰の翌日、継母は私をダイニングに引きずり出し、同じ様に殴る蹴るを続けた後、台所から包丁を持ち出して私の目の前に突きつけた。『今度あの親父に告げ口したらどうなるか、分かってんだろうな?』と言いながら」
その場にいる全員が「ええ?」という声を上げた。
坂田が痛ましそうな目で渡を見ながら訊いた。
「いつ頃までそんな状態が続きましたか?」
「私が高校に入学した直後までです。中学生の頃は部活を口実に、父親が家にいない時間帯には、可能な限り家に帰らないようにしていた。父親が毎日帰宅するのが午後7時過ぎだったので、それまで時間をつぶして、父親が家に入った頃を見計らって私も家に入る。ほぼ一年中そんな生活パターンでした」
「その間、どこで何をなさってたんですか?」
「5時頃までは学校の校舎に。5時少し前に校門が閉まるので、後は帰宅途中の公園や、雨の日は林の中の廃寺の軒先で、図書室から借りた本を読んで過ごしました。夏の暑い日も、嵐の日も、雪の降る寒い日も。おかげでこの年になっても暑さ寒さには強い体質になりましたよ」
「典型的な被虐待児の行動パターンじゃないですか。学校の成績はいかがでしたか?」
「小さい頃から本を読むのは大好きでしたからね。家に帰っても夕食が済んだらすぐに自分の部屋に駆け込んで、やる事が他にないので教科書をながめているしかなかった。継母とは一秒たりとも一緒にいたくないので、テレビも見ないし、マンガなどの娯楽を継母は一切与えてくれなかったし。おかげで中学での成績はトップクラスでした。それが一層継母には気に入らなかった。私が、勉強が出来るのを鼻にかけて継母を馬鹿にした態度を取っていると、親戚や近所の人にはそう言いふらしていたそうで」
「ちょっと待ってください」
遠山が思わず話に割り込んだ。
「毎日の様に暴言を吐いて暴行を加えている人間に、子どもがなつかないのは当たり前じゃないですか? その継母さんもそれが理解できなかったはずはないでしょう?」
渡はため息をつきながら答えた。
「世の中にはいるんだよ、そんな単純な事を理解できない人間が。私の継母がその典型だった。暴力沙汰が日常茶飯事だった不良の高校の出だ。自分のやっている事が暴力だと言う認識さえ持っていなかっただろう。さらに日常的に父親も継母に対して暴力を振るっていたんだ。お互いに殴る蹴るをし合うのが普通の家庭環境だと本気で思っていたのさ」
「いや、常識的に考えてそんな事ってあり得るんですか?」
坂田が割って入った。
「あるんですよ、本当に。子どもを骨折させたり、刃物で大けがを負わせたりした親と話し合ったら、これは我が家の躾(しつけ)だ、他人が口出しするな、家庭の問題だと、堂々と強弁する。そんな親を見た事は、私自身何度もあります」
渡が意外そうな顔で言った。
「今でもあるんですか?」
「はい、むしろ近年はそういう極端なケースが増えているぐらいで」
「そうですか。私も中学時代はどんな暴言を吐かれても暴力を振るわれても黙って耐えるしかなかったが、高校に進学した直後、包丁を握って詰め寄って来た継母をたまらず突き飛ばした事があった。さすがに体が成長して力がついていたんだな。それ以降、継母からの物理的な暴力は止まった。やり返されると思ったんだろうな。それ以降はあの手この手の嫌がらせに変わった」
坂田がもう驚かないという口調で尋ねた。
「それは具体的にどういう?」
渡も落ち着き払った表情で答えた。
「学校に提出するレポート用紙を、私が風呂に入っている隙に部屋に忍び込んで破る。部屋の中に生ごみをぶちまける。服にわざと穴を開けたり、父親が仕事で帰らない夜は食事をさせてくれない。その他にも、よくここまでいろいろ思いつくなと感心するほど、嫌がらせをされました」
「なんというか、私が知っているあらゆる虐待のパターンのフルコースですね。お父様は気づいていなかったんですか? お父様には相談なさらなかったんですか?」
「父親は気づきもしていなかったと思います。稼業の地主の仕事以外は、夜遊び、女遊びにしか興味のない男でしたから。それに相談したらどうなるかは火を見るより明らかだった。父親がまた継母に暴力を振るい、それが私のせいだと逆恨みした継母からの私への虐待行為がエスカレートするだけ。それが分かっていたから、父親に助けを求める事など考えもしなかった。というより出来なかった」
遠山が信じられないという表情で渡に言った。
「渡先生、よくグレませんでしたね。僕なら間違いなくそうなってた」
渡はかすかに笑いながら言う。
「いや、大学の学部を卒業するまでの私は相当な問題児だったはずだよ。中学1年の時から毎日朝から晩まで口汚い罵声を浴びせ続けられながら過ごしたんだ。たまに家に尋ねて来る父親の友人も下品な連中ばかりだったしね。あんな大人にはなりたくないと思っていたんだが、環境というのは恐ろしい物で、私自身もいつしか、そういう下品極まりない口の利き方をするようになっていた。自覚が無い分、厄介なんだ。それにその頃の私は他人に対して異常に攻撃的な人間だった」
筒井が首を傾げながら言った。
「先生が攻撃的? いえ確かにとても厳しい方だとは思いますが、そういう風には見えませんが」
渡がニヤリと笑って答えた。
「いや、そう変わったんだよ。本来安らぎの居場所であるはずの自分の家が、一時も心休まる暇のない地獄のような場所なんだ。継母の暴力や嫌がらせに常に怯えて過ごし、一年365日、家にいれば四六時中、憎しみのこもった罵声を浴びせられる。なぜか私自身も周りの学友に対して異常に攻撃的な物言いをするようになっていて、しょっちゅう周りを激怒させていた。ところが、私自身には何故周りの人間がそんなに私に対して起こるのか、理由がさっぱり分からない。それが私の青春時代の有様だった」
「それもよくあるパターンなんですよ」
坂田が言った。
「四六時中悪意のこもった言葉を投げかけられて育った子供は、本人も非常に乱暴な物言いや態度を、無関係な人間にする事は多いです。自分の心に突き刺さった悪意を吐き出そうとして、無意識に他人に攻撃的な言動を取るようになる。たとえて言うなら、毒を飲まされた人間が必死にその毒を吐き出そうとして、吐き出した毒が、たまたま側にいた人間にかかってしまう。そういう心理的な自己防衛反応だと心理学的には理解されています」
遠山がまた訊いた。
「そんなすさまじい体験をなさった渡先生が、研究者の道を選んだのには何か理由が?」
渡はまた首を横に振って答えた。
「他に選択肢が無かったと言う方が正確だ。とんでもなく性格がひねくれてしまった私では、友人も出来ず、人とまともに会話する事も困難になっていた。今で言うコミュ障というやつだな。それに大学進学を機に家を出たかったんだが、父親が家から通学できる大学以外は受験させないと言った。家の跡取り息子だから家から出る事は許さんという理由で。私は遠方の大学に進学してやっとあの家から出られると期待していたから、その時は絶望のどん底に突き落とされた気分だったよ」
「そう言えば渡先生は、うちの大学の学部卒業生ではなかったですね」
「ああ、当時は成人年齢がまだ20歳だったから、親が認めないとなったら、事実上進学先は選べない。仕方なく地元の国立大学に進んで、家になるべく寄り付かないように毎日を過ごすという学部時代を送った。就職活動も一切させてもらえなかった。稼業を継ぐのだから、そんな必要はないと父親が認めなかったんだ」
「ですが大学院はうちですよね? 博士課程まで」
「学部のゼミで担当になった教授に何故か妙に目をかけてもらえてね。大学中で有名な偏屈な先生で、学生みんなに恐れられていた。変人同士で気が合ったのかもしれんな。その先生の推薦で、給付型奨学金をもらって大学院に行ける事になった。その時選んだのが帝都理科大学の大学院だ。金は当てが出来たので、もう父親の言いなりになる必要もない。家出同然に東京に出て来た。子どもらしい遊びも青春も知らずに、本ばかり読みふけっていた事が幸いしたと考えれば、なんとも皮肉な話だが、その唯一の希望の光にすがりついた結果、今ではここの教授にまでなる事が出来た。そんなところかな」
坂田がおずおずと訊いた。
「その後ご家族との関係はどうなりました?」
「一度も実家には戻らず、絶縁状態でした。何度か父親から、家に戻らないと親子の縁を切るぞ、という内容の手紙が来ましたが、それはこっちのセリフだと返信してやった。私が30代の後半だったかな、父親がガンで死んだと言う知らせが来た。昔から無茶苦茶な酒の飲み方をしていた男だったから、不思議はない。さすがに葬式には出たが、まだ納骨もしないうちから継母が、遺産の分け方がどうのこうのと言って来た。あらかじめ裁判所で相続放棄の手続きを済ませていて、その証明書を、親戚一同が居並ぶ目の前で継母の前に叩きつけてやって、その場を去った。それ以来実家とは一切音信不通だ。今どうなっているのか知らんし、知りたくもない」
宮下が大きくため息をついて渡に尋ねた。
「大変な生い立ちだったんですね。でもひとつだけ疑問が。虐待を受けている間、家族以外の方に相談して助けを求めなかったのはどうしてです? たとえば学校の先生、警察、児相などに」
渡は苦笑して言う。
「昭和の時代の話だと言っただろう? その頃はまだ『家庭内虐待』などという言葉も一般には知られていなかった。痣だらけの顔で学校に行って教師が気づいたとしても、親が躾だと言えば何もできない。虐待をされている子どもがいる事に近所の人たちが気づいても、見て見ぬふりをするのが常識。そういう時代だったんだよ。そもそも児童相談所なんて役所があること自体、私は知る機会もなかったし、誰も教えてなどくれなかった」
坂田が言う。
「虐待防止の法整備がなされる前の頃でしたね。確かに親権、つまり親の養育の権利を主張されたら、たとえ児相でも何も出来ない時代だったと聞いた事があります」
渡は天井を見上げながら言った。
「正確に言えば相談した事が全くなかったわけじゃない」
目をぱちくりさせている宮下に顔を向けて渡は言う。
「中学時代に一度、私が精神的に不安定だという事に気づいた教師のはからいで保険医のカウンセリングを受けた。虐待の事実を必死になって訴えたがこう言われた。この世に、いくら血のつながらない子だからと言って、そんなひどい事をする親がいるはずはないだろう、嘘もいいかげんにしなさいと」
坂田が鳴きそうな表情になった。
「今でもその問題はあります。決死の覚悟で打ち明けたのに信じてすらもらえない。それで子どもが自殺に至るケースもあります」
渡は小さくうなずきながら言葉を続けた。
「次は高校時代、夜の街をさまよっていて警察に補導された時。やはり信じてもらえなかった。警官は笑いながら、作り話ならもっと本当らしい事を言え、と。最後は大学1年の時に心理カウンセリング室に駆け込んだ時。こう言われた。仮に本当だとしても、昔の話だろう、いつまで引きずっているんだ、と。その度に絶望したよ。そしてあきらめた。誰に打ち明けてところで、誰も助けてはくれないのだと」
「そういう被虐待児を私も何人も見て来ました。児相と言っても私のような専門的な資格を持っている職員はごく一部で、大半の職員はたまたま児相に配属になった一般職の地方公務員です。研修は受けますが形式的な物で、数年で異動になりますし。予算的にも人員的にも、今の児相はどこもパンクしている状態です。ケアよりも、どうやって家に返すかが優先されているのが現状で」
渡はソファから立ち上がり、自分のデスクに向かって歩いた。デスクの椅子に座り、パソコンの画面を見て「おや?」と声を上げた。坂田に向かって尋ねる。
「坂田さん、何かファイルが私の所に届いているようですが?」
坂田は渡のデスクに駆け寄り、画面を見てあわてて言った。
「すいません、忘れてました。あの108人の子どもたちの、児相の対応の評価を知り合いの大学教授にAIで判定してもらったんです。渡先生にも結果を送ってもらうようにしてありました」
「この赤いアルファベットは何です?」
「総合判定結果です。理想的な対応ならA、不適切な部分があったら順に下がって最低がF。これは事態をますます悪化させかねない最悪の対応だったという評価になります。それで渡先生、結果はどう出ています? 私はまだ目を通していなくて」
渡は他のメンバーも側に呼んで、パソコンのスクリーンの画面を壁掛けの大型スクリーンにも同時に表示した。マウスを操作して、子どもたち一人一人の判定結果を映し出す。
まずFと表示された。次もFと表示された。そして、渡が画面をスクロールして行くにつれ、皆の顔色がこわばり始めた。特に坂田の顔は引きつった。判定結果は全てがFだった。
渡はマウスから手を放し、うなるような口調で言った。
「みなも理解できたようだな。これがあの108人の子どもたちの、真の共通点なんだ」
渡がメンバーの一人になっている政府の有識者会議は、108人の子どもたちの保護者を現場に呼ぶように提言し、了承された。
土偶状の巨大物体の周囲にスピーカーを設置し、保護者たち、その大半が実の親だったが、彼らが直接子どもたちに戻って来るよう説得の言葉を届けようという試みだった。
計画の提案者の一人である有識者会議のメンバーが、現場近くでマスコミの記者に囲まれてコメントをしていた。子ども支援のNPOの代表だと言う方が肩書の初老の女性が、高価そうなピンクのスーツを着て得意げに語っていた。
「大丈夫です。親子、家族の絆に勝る物はこの世にはありませんから。肉親の心のこもったメッセージが届けば、宇宙人なんかに負けるはずはありません」
正午に呼びかけが始まった。一人1分ずつの時間を与えられ、親たちはマイクの前に立ってスピーカー越しに、土偶状物体の中にいる自分の子どもに呼び掛けた。
「ヒロシ、早く帰っておいで。早まるんじゃないよ。親の言う事は聞くもんだよ」
「ヨウコ、何が気に入らないんだ? 何もかも、おまえのためを思ってやった事じゃないか。子どもを愛していない親がどこにいる?」
「おい、イチロウ。あの程度の事でここまで思い詰める必要はないだろ? 甘えてんじゃない。悪いようにはしないから、早くそこから出て来るんだ、な?」
渡は苦々しい表情で少し離れた場所の木立の陰でその様子を見守っていた。坂田が側にやって来て渡に小声で訊いた。
「渡先生、どうでしょう? 効果はありそうですか?」
渡は左の頬を歪めて答える。
「そこは何とも言えませんな。ただ、あの保護者達は本当に反省しているのか? 謝罪の言葉を口にした者が一人もいない」
二人の横にマイクから離れた一人の中年の男が寄って来た。坂田が驚いて声をかけた。
「山本さん、いらしてたんですね?」
山本と呼ばれた男は険しい表情で坂田に食ってかかった。
「おい、児相のあんた。いつになったらうちの娘取り返してくれるんだ? 税金泥棒が、仕事しろ」
渡は山本の顔を見た事があった。あの座像から子どもたちの記憶を疑似体験させられた時、包丁を切っ先を顔の突き付けて「体を売れ」と迫っていた男の顔だった。
山本のスマホが鳴り、二人の横から離れた。その隙に渡がその事を坂田に耳打ちすると、坂田の表情が曇った。
「その可能性は考えていました。ですが、それでは客観的に証明するのは難しいのでは?」
「私がテレパシーで見せられた記憶という事ですからね。証明は出来ないでしょうな」
「それでは児相は踏み込めません」
山本の声のトーンが跳ね上がった。話に夢中で渡たちに聞かれている事も忘れているらしい。
「分かってるよ。だから東京までわざわざ連れ戻しに来てんだろうが。いいから撮影会の場所押さえとけ。筋金入りのロリコンの客が予約入れてんだから、大丈夫だって」
渡はどうにも我慢出来なくなって通話を切った山本に話しかけた。
「こんな所へ来てまで娘を売る算段かね? 未成年少女のヌード撮影会でもやるのか?」
「あ? 何だてめえ? だったらどうした?」
「こりゃ子どもが逃げたくもなる。親としてまず娘さんの無事を心配する方が先じゃないのか?」
「おうよ、心配してらあ。うちの娘にゃ今月中にもっと稼いでもらわねえと困るんだ。借金の返済日が迫ってんだからよ」
「きさま、それでも……」
渡は我を忘れて右の拳を振り上げ、山本に詰め寄ろうとした。その時さっと人影が二人の間に飛び込んで来た。それは宮下だった。
宮下は警察手帳を上下に広げて、きっとした表情で渡に言う。
「先生、殴りかかるつもりですか? もしそうなら、たとえ渡先生と言えど、私は自分の本業の職務を執行しなければなりません」
渡は歯を食いしばって拳を降ろした。山本は渡に向かって嘲笑を浴びせた。
「けっ! 何だやらねえのか、腰抜け?」
宮下は首だけ後ろに向けて山本に言う。
「あなたも場所をわきまえたらどうですか?」
「何だと? このやろう、女のくせに……」
宮下がゆっくりと全身で振り返った。宮下の右手に掲げられている警察手帳が山本の目に入る。宮下が低い声で言う。
「女が……どうしたと?」
山本は少し腰をかがめて、両手をこすり合わせながら愛想笑いを始めた。震える声で馬鹿丁寧な口調で言う。
「あ、いえ、何でもございません、はい。ええ、ええ、分かってます。男女同権、男女平等の時代でございますよね。えへへ、では失礼を」
あわてて走り去って行く山本の後ろ姿を見つめながら、渡はペッと地面に唾を吐き捨て、いまいましげに言った。
「あの土偶と、どっちが悪役だか分からんじゃないか」
それから連日、保護者達からの呼びかけは朝9時から午後5時まで続けられた。
だが土偶状の物体の中の子どもたちからは一切何の反応もなかった。そして翌日が座像の告げた出発までのタイムリミットという日の朝、保護者による呼びかけが始まって20分後、土偶の両目が閃光を放った。
くちばしに歯があるあの巨大怪鳥の群れが、空に出現し、マイクの周りに集まっている保護者達に急降下で襲いかかった。
保護者達は一斉に逃げまどった。だが怪鳥の群れは追い払うだけでは止まらず、各個体が散開して保護者達を襲おうとした。
周囲に待機していた自衛官たちが自動小銃を一斉に構え、スイッチをフルオートにして怪鳥に向かって連射した。
機関銃の様に連射されたライフル弾が頭上の怪鳥を1羽、2羽と撃ち落として行く。
土偶の目がまた閃光を放ち、怪鳥の群れは、地面に落ちた物も含めて、かき消すようにその場から見えなくなった。
鬼子母神堂の方から自衛官が駆け寄って来て渡に耳打ちした。渡は大きくうなずいて堂に向かった。
十数分後、渡は本堂の床にあぐらをかいて座り、座像と対峙していた。座像からの少女のような声は告げた。
「あの呼びかけはもう中止してもらいたい。移住船の中の子どもたちの精神状態が危機的なレベルに達したので、警告のためにオステオドントルニスを送ったが、子どもたちの精神状態に影響されたのだろう、襲撃しかけてしまった。大人たちを傷つける意図はなかったが、恐怖という感情を引き起こしてしまったのなら、その点は謝罪する」
渡はしばし、目を閉じてあごひげをしごいていた。そして目を見開き、重々しい口調で尋ねた。
「自分の親たちからの呼びかけを拒絶した、という事か?」
「そう解釈するのが合理的だと判断する」
「子どもたちの、惑星ポータラカへの移住の意思は変わっていない。二度と地球へ帰って来られない事も含めてだ。そう判断したのだな?」
「子どもたちの意思の確認は、深層心理へのスキャンも含めて13回にわたって行った。この惑星から去りたい、それが子どもたちの意思だ。我々はそう結論を出した」
「出発はいつだ?」
「明後日、この地の時刻、日本時間午後7時に移住船は出発する」
「分かった。これで私の役目も終わりだな」
「渡教授、あなたには感謝する。この惑星の成熟した個体群、あなたが言う大人たちの同意の下で子どもたちを連れて行ける事になったと理解している」
渡は無言で立ち上がり、本堂の外へ出た。渡が10メートルほど歩いた時、本堂の奥から青い光が外まであふれ、光の玉が土偶状の巨大物体の方へ飛び去って行った。
近くに控えていた自衛官が数人、本堂に向かって走った。渡も小走りで引き返す。本堂の内部をのぞいた自衛官たちが驚愕の声を上げた。
「なくなっている!」
渡も本堂の中をのぞいた。あの座像が鎮座していた位置には何もなく、撮影録音用の器材だけが残っていた。
静まり返った本堂の奥で、鬼子母神像だけが、以前と変わらない様子で、渡たちの方を向いていた。
翌日は朝9時から、渡は政府の有識者会議に出すっぱりになった。自衛隊による強行救出作戦の説明を受けるためだった。
その時の有識者会議はいつもより大きな会議室で行われ、渡たち6人の委員と議長が座る長机のあるホールの上には二階席のようになった傍聴席が設けられ、マスコミの記者とテレビカメラがぎっしりと並んでいた。
午前中は自衛隊の幹部数人から、戦闘機、対空ミサイルその他の兵器による土偶状物体への攻撃のプランが説明された。
渡は何度か、人類の通常兵器が土偶状物体に効果があるかどうか疑問を呈したが、顧みられる事はなかった。
午後1時、有識者会議の会合が再開された。自衛隊の強行救出作戦が、土偶状物体の内部にいる子ど子たちの安全を確保できるかどうか、おざなりな検証がなされた。
自衛隊があの移住船を攻撃すれば中の子どもたちの、少なくとも一部が、死傷する可能性が否定できない事は予想される事態として認定された。
議長は有識者会議として、自衛隊の強行救出作戦を承認するかどうか、採決を行いたいと切り出した。
「この決定は全会一致、つまり6人の委員全員が賛成の場合にのみ、承認する事にしたいと存じます。ご異議ございませんか?」
渡以外の全員が「異議なし!」と答えた。渡は無言で大きくうなずいた。議長にうながされ、委員たちは所見を述べる。
「たとえ命を落とす事になったとしても、遠い宇宙の果てに連れ去られるくらいなら、子どもたちにはこの方が良いと思います」
「同感ですわね。命を助ける事ができた子どもたちはすぐに親元へ返してあげないと。何だかんだと言っても、この世で一番大切なのは親子、家族の絆なんですから」
議長が裁決を開始した。
「では、強行救出作戦の実施に賛成の方、挙手を願います」
渡以外の委員全員が勢いよく右手を真っすぐ上上げた。渡は胸の前で腕組みをし、両目を軽くつむっていた。
当惑した様子の議長が、言いよどみながら渡に声をかけた。
「あ、あの、渡教授。さきほど申し上げましたように、この決定は全会一致なのですが……」
渡は右目だけを開いて、ぎろりと議長を見つめた。そして言った。
「採決を取っているんでしょう? 次の手順はどうしました?」
他の委員が一斉にざわついた。二階席のマスコミ陣からも、驚きの声が上がる。議長がためらいながら声を振り絞った。
「では念のためお尋ねします。作戦の実施に反対の方は挙手を」
渡が両目を見開き右手を高々と上げた。
他の委員の一人の男が渡に向かって詰問するように言った。
「どういうつもりですか、渡教授? あの子どもたちを見殺しにしろと言うんですか?」
別の委員の女性が金切り声で渡に言う。
「子どもたちにとって一番幸せなのは、親元で家族と一緒に人生を送る事に決まっているじゃありませんか。それは虐待されていた子どもがいるとは報告を受けていますが、たかがその程度の事で」
おろおろしている議長に向かって渡が落ち着き払った声で言う。
「議長、発言をよろしいか?」
「あ、はい、渡教授、どうぞ」
渡は椅子から腰を浮かし、立ち上がりながら右手の拳をドンと激しい音を立てて机の表面に叩きつけた。
「いつまでそんな綺麗事にこだわっているんだ!」
渡は二階席の隅々にまで響く雷鳴のような大声でまくし立てた。
「家族の絆だと? あの子どもたちにとって、その結びつきは絆などではない。呪いだ! 親を選んで生まれて来るわけにはいかない子どもたちにとっては、生まれながらに背負わされた悪夢のような呪いだ。その呪われた環境に無理やり引き戻す事の、どこにあの子たちの幸せなどという物があるんだ? あの子どもたちが自分の意思で行きたいというのなら、行かせてやれ。どうすれば、何がどうなれば幸せになるのか、そんな事は子どもたちが自分で決める事だ。我々大人が勝手に決めつけるべき事ではない。家族だの、絆だのと、自分たちの勝手な、自己満足の綺麗事を、子どもに押し付けるのは、もういい加減にやめるべきだ!」
渡はどすんと椅子に腰を戻してややトーンを落とした声で言った。
「以上が私の意見だ」
他の委員たちは呆気にとられた顔で黙り込んでいた。議長も真っ青な顔色で立ち尽くしていた。二階席もしんと静まり返った。
数分後、我に返った議長が会合の終了を宣言し、渡は真っ先に机を離れ、大股でドアに向かって歩き去った。
渡が建物の外へ出たところで、地味なグレーの女物のスーツを着た女性が追いかけて来て背後から声をかけた。それは坂田だった。
「おや、坂田さん。いらしてたんですか?」
坂田はちょこんと一礼して答えた。
「はい、二階の傍聴席で聞いておりました。よく言ってくださいました。私たち児相の職員にとっては、本音では思っていても口に出せない事でした」
「とは言え、謝らなければなりません。坂田さんの担当のお嬢さんを含めて、誰も私は救ってやれなかった」
深々と頭を下げる渡に、坂田は明るい口調で言った。
「いえ、とんでもない。渡先生の落ち度でなどあるものですか。さっき先生がおっしゃっていたように、あの子が幸せになれるにはどうすればいいか、それは彼女自身が選んで決める事です。自分の手では救えなかったという点では私も同じです」
「そう言っていただけると少しは気が楽ですよ」
「私は今から帰郷します。救えるなら救わなければならない子どもたちが大勢待っていますから」
「そうですか、ではお気をつけて」
坂田はもう一度渡に一礼して、東京駅の方向へ去って行った。
あの土偶状の巨大物体が出発する時間になり、渡研の5人は自衛隊の仮設テントに近くでその様子を見守った。
夕日が沈み切って暗くなった夜空を背景に、巨大物体の表面を金色の光が包み始めた。
細かい空気の振動が、肌ではっきりと感じ取れるほど鋭く、渡たちの所まで届いた。
やがて土偶状の巨大物体はすうっと宙に浮きあがり、そのまま真っすぐに上昇して行った。ロケットの噴射のような音も、光も、熱も発さず、みるみる夜空を駆け上って行く。
周囲の空域に、自衛隊と在日米軍の物らしき戦闘機と何かの観測機らしき機影がいくつも見えた。
結局、土偶状物体の対する攻撃は一切行われなかった。それは上昇を続け夜空に浮かぶ点になり、そのまま大気圏外へ飛び出して行った。
地球上のあらゆる観測地点の測定器、各国の人工衛星がその後を追ったが、土偶状物体は急激に加速し、次の瞬間に一切のレーダーや観測機器から見えなくなった。
土偶状物体が鎮座していた小高い丘の上の公園の端に渡たちは立ち、それぞれに夜空を見上げていた。
宮下が顔を降ろして誰にともなくつぶやく。
「本当にこれでよかったんでしょうか?」
渡がその声に答えた。
「それは私にも分からん。ただひとつ確かな事は、この結末は、あの108人の子どもたちが自分の意思で選んで決めた結果だという事だ」
遠山が独り言のように言った。
「鬼子母神の伝説は、ひょっとしてあの土偶のような物体を目撃した昔の人が伝えた話なんじゃないですかね? こうやって多くの子どもたちをさらって行く。千年おきに地球に来ていたらしいですからね、あれは」
なるほど、という表情で他の3人がうなずく中、渡だけは首を静かに横に振った。
丘の上から、地平線にそびえ立つ光の塔のように見える池袋の高層ビル群を渡は見つめた。すっかり暗くなった夜空の下、あちこちに色とりどりの街の灯りがまぶしくまたたいていた。
「それはどうかな? 我々人類は豊かな生活と快適な環境を求め続け、少なくとも日本のような先進国ではそれを手に入れた。だが生物としての人間は進化したわけではない。あのきらびやかな都市の灯りの陰に、虐待に苦しんでいる子どもたちが大勢いる事に、多くの普通の市民は関心すら持っていない」
渡は4人のメンバーの方に顔を向け、言葉を続けた。
「日本中で虐待に苦しむ子供が、あの108人だけという事はあるまい。今後もそういう子どもたちは出て来るだろう。だとすれば、人食い鬼だった頃の鬼子母神にたとえられるべき存在がもし現代日本にいるとするなら、それは私たち大人、この社会の大人全員なのではないかね?」
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!