テラーノベル
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向こう岸は、ない。
日曜日。
目は、
もう覚めていた。
まだ家の中は静かだ。
子どもも、
妻も眠っている。
僕だけが、
起きている。
今日は、
薔薇を見に行く。
違う。
薔薇じゃない。
菜月さんだ。
父親だから。
そう思って、
これまでやってきた。
正職があって、
夜はアルバイトもする。
眠る時間を削って、
働く。
家庭を守るためだと、
思っていた。
でも。
それが正しいのか、
分からない。
答え合わせができない。
誰も、
教えてくれない。
子どもができたら、
価値観が変わる。
そんな言葉を、
よく聞く。
本当に、
そうなのか。
みんな、
そうなのか。
それとも。
溺れていない人間が、
言っているだけなのか。
僕には、
分からない。
そもそも。
自分の価値観が、
どこにあるのかも。
分からない。
考える。
何度も考える。
でも。
どうしても。
今日、
行かない理由に、
繋がらない。
行くんだ。
今日。
洗面所で、
手を洗う。
爪の間の汚れを、
落とす。
何度も。
落ちない。
それでも、
少しだけ、
薄くなった気がする。
手を繋ぐわけでもないのに。
久しぶりに、
デニムを履いた。
シャツも、
少しだけ整える。
髪に、
ワックスをつける。
鏡の中の自分は、
少しだけ、
よそ行きだった。
リビングに行くと、
子どもが起きていた。
「パパ、今日どこ行くの?」
少しだけ、
言葉に詰まる。
「ちょっと、
出かけてくる」
「おみやげ買ってきてね!」
明るい声。
「あぁ」
空返事。
胸の奥に、
何かが刺さる。
罪悪感。
たぶん、
そういうもの。
でも。
今から、
向かうんだ。
溺れている僕は。
海の中を、
歩いている。
最初は、
足首だった。
次は、
膝。
腰。
胸。
ここまで来たら、
もう泳ぐしかない。
それでも。
どこかで思っている。
この先に、
もう一つの防波堤があって。
そこに辿り着けば、
また陸に上がれるんじゃないかと。
そんなもの、
あるわけないのに。
それでも。
今日、
僕は向かう。
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