「いやはや⋯⋯
レイチェルさんは
頼もしい限りですね」
感嘆の声が
厨房の方から響いた。
振り向くと
タスキ掛けをした時也が
暖かい笑みを浮かべながら
顔を覗かせていた。
「ソーレンさん」
その声色が、少しだけ低くなる。
「貴方も、見習ってくださいね?」
言葉の端には
明らかに皮肉が混ざっていた。
「はぁ?」
ソーレンが
眉をひそめて
時也に露骨な視線を向ける。
「俺は、俺なりにやってんだよ。
大体、どう並べても同じだろ?」
「まぁまぁ」
時也は軽く笑い
片手をひらひらと振って受け流した。
「ですが、僕としては
しっかりお客様が
心地良く使えるようにしていただけると
ありがたいんですけどね?」
「うっぜぇな⋯⋯」
ソーレンが
ますます不機嫌そうに顔を顰めた。
レイチェルは思わず
くすりと笑ってしまう。
(この二人⋯⋯
やっぱり、ずっとこんな感じなんだ)
険悪に見えるが
不思議と空気は重くない。
何処か家族のような
慣れ親しんだ喧嘩に見えた。
「では⋯⋯」
時也はレイチェルに目を向けると
丁寧に深く頭を下げた。
「本日から、よろしくお願いしますね」
その言葉には
温かな誠意が滲んでいた。
「⋯⋯はいっ!」
レイチェルも思わず背筋を伸ばし
元気よく返事をする。
「んじゃ、開店すっか!」
ソーレンがぼやきながら
入口へ向かう。
「ソーレンさん
開店のベルは僕が鳴らしますよ」
「へいへい⋯⋯
どうせ俺が鳴らしたら
音が〝ガンガラガン!〟って
雑で、うるせぇって怒んだろ?」
「分かってるなら
そうしないでください」
「へぇーへぇー」
ソーレンが
心底面倒くさそうに
手をひらひらと振りながら
カウンターの奥へ戻っていった。
そんなやり取りを背に
時也は扉にかけられた
「Closed」の札を裏返す。
ー「Open」ー
「さぁ、今日も頑張りましょうね!」
優しく微笑みながら
時也は扉の取っ手をそっと引いた。
ベルの音が
穏やかな店内に
心地よく響き渡る。
それと同時に
冷たい朝の風が
コーヒーと
焼き菓子の香りを巻き上げて
店内を包み込んだ。
レイチェルは
制服の桜の刺繍を指でなぞりながら
静かに息を吸い込む。
(⋯⋯ここが、私の新しい居場所)
胸の中が
ぽかぽかと温かくなっていくのを感じた。
営業が始まり
暫くすると
昼下がりの喫茶桜は
活気に満ちていた。
ピークタイムに入る頃には
席はほぼ満席。
彼方此方で
カトラリーがカチカチと音を立て
湯気の立つカップがテーブルに運ばれ
笑顔の客達が賑やかに談笑していた。
それでも
店内には何処か
落ち着いた空気が流れている。
それは静かに流れるピアノの旋律と
店全体を漂うコーヒーの香りが
心を和ませるからかもしれない。
「ソーレンさん」
耳元のインカムから
時也の穏やかな声が響いた。
「3番と5番テーブルの
ご新規様の接客は紳士的に」
「⋯⋯へいへい」
カウンターの奥で
ソーレンが面倒くさそうに返事をする。
「8番は⋯⋯
いつも通りの貴方で良いでしょう」
「は!そりゃ、楽で助かるぜ」
ソーレンがシルバーを手にしながら
わずかに口元を緩めた。
時也は来店客をしっかり観察し
接客に難の有るソーレンを
巧みに扱っているように思えた。
「レイチェルさん」
インカム越しに自分の名が呼ばれ
レイチェルは背筋を伸ばした。
「空いた食器を
その機動力を活かして下げつつ
お待ちの新規様用に
テーブルのセットをお願いします」
「了解です!」
すぐにローラースケートで
レイチェルは動き始めた。
ーシャッ
滑るような音と共に
テーブルの間をすり抜け
客席の空いた食器を軽やかに片付ける。
その合間に
次の来店客の為に席を整え
磨かれたシルバーを配置していく。
目の端に
時也がコーヒーポットを手に
アリアの座る特設席へと向かう姿が見えた。
「⋯⋯あいつ
レイチェルが使えるとわかった途端
今日はアリアから離れねぇつもりか
うざってぇ⋯⋯」
ぶつぶつと文句を言いながら
ソーレンが不機嫌そうに
フォークを並べる。
その姿に
レイチェルは思わず
くすっと笑みを零した。
「⋯⋯〝スペシャル〟です」
不意に、インカムから時也の声が響いた。
その声は
何処か沈んでいるように感じられた。
「レイチェルさん。
4番テーブルへ⋯⋯御答えを」
「了解しました」
ローラースケートの車輪が
静かに滑る音を響かせながら
レイチェルはカウンターへと向かう。
時也が
無言で差し出したカップ。
その深い琥珀色の液体が
静かに揺れている。
「⋯⋯お願いしますね」
そう言う時也の声は
ほんの僅かに力が無かった。
コーヒーの表面には
柔らかく花弁を描いたようなラテアート。
その隣のソーサーの上には
小さく折り畳まれた
白い紙が添えられていた。
(アドバイスの⋯⋯紙)
レイチェルは
紙を隠すようにカップをソーサーに乗せ
慎重に再び滑るようにテーブルを目指した。
4番テーブル。
其処に座っていたのは
一人の若い女性客だった。
華奢な肩に薄手のカーディガンを掛け
目の下に薄く隈を作った
酷く憔悴した顔立ちの女性。
「お待たせしました」
レイチェルは静かに声を掛け
カップをそっとテーブルに置いた。
女性は視線を落としたまま
ぼんやりとカップを見つめる。
レイチェルは深くお辞儀をし
その場を離れた。
カチャ⋯
ソーサーに手が伸びる音がした。
レイチェルは
振り返ることなくカウンターへ戻り
ちらりと女性の様子を見守る。
(期待とは⋯⋯違っていたのかしら)
その答えは
女性の表情が物語っていた。
カップを持つ手が
微かに震えている。
女性は目を伏せ
ソーサーに置かれていた紙を
ぎゅっと拳に握り締めた。
今にも泣きそうな顔。
けれど、涙は堪えている。
その背中は
必死に何かを耐えているように見えた。
(⋯⋯これが救いに、繋がりますように)
レイチェルは
そっとその背中に願った。
心の何処かで
その言葉が
彼女に届く事を願いながら。
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