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「⋯⋯あの女⋯⋯アリアというんだね」
その声は
床に縫い付けられていたアラインの魂を
ようやく現世へと引き戻すものだった。
震える息の中で放たれたそれは
呟きにしては重く
独白にしては鋭かった。
どれほどの時間
身体を動かせずにいたのだろう。
恐怖に囚われていたわけではない。
ただ
現実と過去の境界が曖昧になり
意識が何かに喰われていた。
月の光は窓から射し込んだまま
時の流れを示すように
部屋の輪郭を少しずつ変えている。
けれどアラインは
そんな現実の変化を感じ取ることもできず
静けさの中にぽつりと
己の存在だけを漂わせていた。
気付けば
僅かに幼さの残る自分の両手を
じっと見つめていた。
この姿は
老婆に見せるための〝記憶の仮面〟
彼女には
15歳の〝遠縁の少年〟という記憶を
植え付けてある。
だが、大抵は
他者と深く関係を結んだ時には――
相手の目には
夢で見続けた〝あの青年〟の姿が
見えるように記憶を改竄してきた。
子供のままでは
誰も〝恐れ〟を抱いてくれないから。
侮られ、哀れまれるだけだから。
(⋯⋯思い出したよ)
胸の奥で、確かな〝実感〟が芽吹いた。
それは
夢の中で何度も追い詰められ
焼き殺された〝青年〟の
苦悶と、叫びと、絶望が連れてきた記憶。
「キミは⋯⋯
今のボクの⋯前のボクなんだね⋯⋯?」
背に焼き付いた痛みが
徐々にその輪郭を明瞭にしていく。
過去の記憶。
それは
まるで張り付いた皮のように
アラインの中に残っていた。
燃えるような炎に包まれ
鉤爪に貫かれた背中。
全身を裂かれ
絶望の中で見上げた紅の双眸。
「⋯⋯アリアっ⋯⋯!」
押し寄せる記憶の奔流に
アラインは思わずその名を叫んでいた。
指が背中へと伸びる。
そこには見えない傷痕――
だが確かにそこに〝在る〟
灼かれた痛みが
今もなお肉に根ざしていた。
「キミは⋯⋯
死んで、生まれ変わった今も
まだ⋯⋯苦しんでるんだね?」
語りかけるその声は
優しさにも似た
けれど冷たい分析者の声。
アラインの表情は
どこか切なげに
けれど残酷に歪んでいた。
「だから⋯⋯ボクにも、傷を残したのか?
憎しみを忘れないように」
紅蓮に燃える翼、不死の炎。
あの女が何者かを
もう見間違うことはない。
(彼女は、不死鳥を宿し⋯⋯使役している)
そして
自分の背に刻まれたこの傷もまた
前世からの〝贈り物〟
「ボクが⋯⋯アイツに、復讐してやろうか」
言葉を吐きながら
アラインの瞳に再び光が戻る。
それは炎のように激しいものではなく
氷のように冷たく
確かな〝意志〟を秘めた光だった。
青年の最期の記憶――
絶望の中で放たれた、あの叫び。
あれは、ただの嘆きではない。
あれは、怨嗟の呪いに決まっている。
「⋯⋯なら、果たしてあげよう」
この身に宿る傷が呪いならば
それをもって仇を討とう。
その瞬間
アラインの口角が僅かに
けれど確実に釣り上がった。
その笑みは
もはや少年のものではなかった。
「ボクが⋯⋯必ずっ⋯⋯!!」
手が震え
指が爪を立てるほどに握りしめられる。
爪の先から滲んだ血すらも
決意の印のように見えた。
そして――
「ははっ、あはははははっ⋯⋯!!」
哄笑が、密室に木霊する。
夜の帳に、狂気の音が滲む。
その笑いは
自嘲でも、悲しみでもない。
それは、狩人の笑いだった。
〝復讐〟という名の狩りを始める者の――
冷たく、静かな咆哮。
アラインの瞳は
再び野に生きる孤高の狼のように
鋭く輝いていた。
その目に映るのは
過去でも未来でもない。
〝今〟この瞬間から始まる獣道。
それは
アリアと、そして不死鳥へと続く――
血に染まった運命の狩場だった。
⸻
アラインは
丘の夜を境に確信を得ていた。
夢ではなかった。
幻でもなかった。
〝あの女〟は
現に存在し
かつて自分の命を
焼き尽くした張本人であり――
今も、不死のまま世界に在る。
彼女の血は再生の力を持ち
涙は透明な奇跡を呼ぶ宝石に変わる。
それらは希少価値が高く
幾度となく命を救い
あるいは命を奪ってきた。
そして
その恩恵を狙う者たちが
既に暗躍していることを
アラインは街の地下で
確かに聞き取っていた。
アリアを狙う者は他にもいる。
だが
彼らは〝本当の意味〟で
彼女を理解していない。
あの存在が
どれほど圧倒的で
理不尽で
美しい地獄か――
誰も知らない。
だからこそアラインは
自らの手で計画を進めることを選んだ。
神経質で用意周到
感情の底に猛火を秘めながらも
決してその火を安易に表に出すことはない。
動くのは、必ず〝好機〟と断じた時だけだ。
アラインはまず
下から入り込むことにした。
標的は
噂に名を馳せる荒くれ者達の集団。
法も秩序も無視し
強奪や密売を生業とするならず者の群れ。
力が全てを支配するその世界で
アラインはあえて部下として潜り込んだ。
「⋯⋯入団、希望⋯だって?」
最初に彼の前に現れた男は
鼻で笑い
面倒そうに彼を突き飛ばした。
しかし
アラインは微笑を崩さず
静かに立ち上がると
地に這うような声でこう言った。
「ボクは〝記憶〟に残る男だよ。
⋯⋯すぐに、キミ達も忘れられなくなる」
その言葉は
冗談にも、警告にも聞こえなかった。
だが、それは確実に〝実現〟されていく。
アラインは毎日
誰よりも早く起き、最後まで残った。
命令には黙って従い
時に自分の身を盾にしてまで役目を果たす。
次第に
粗野な者たちの中で彼は
若く、従順で、忠実な部下
として受け入れられていった。
けれど
それはただの前奏に過ぎない。
アラインは
徐々に〝部下〟の位置から
認識の隙間をこじ開け
やがて
集団の中での自分の位置付け
静かに塗り替えていく。
人間関係が強まれば
記憶は簡単に書き換えられる。
そして
ついに全員が
アラインを深く認識した夜――
「やぁ、皆。
これからはボクがキミ達のボスだよ。
そして、今日から我々は⋯⋯
フリューゲル・スナイダーとなる」
集団の中心に立ったその瞬間
かつてのリーダーが口を開こうとした。
怒声を上げ、掴みかかろうとした。
だが――
その前に
彼の目には〝違う記憶〟が流れ込んだ。
アラインが
かつて自分を倒し
服従させたという記憶。
次の瞬間
男は膝をつき
アラインの足元に頭を垂れた。
それは、完全な服従だった。
だが、アラインは理解していた。
記憶の書き換えだけでは
真の支配には至らない。
猛者を従わせるには
自らもまた〝猛者〟でなければならない。
それからの日々
アラインは己の体を鍛え続けた。
日の出よりも早く目を覚まし
夜が明けきる前から修練を始めた。
地を這うように動き
風を裂くように躍り
呼吸一つ無駄にせぬよう刀を振る。
筋肉はその細身の肉体に沈みこむように
研ぎ澄まされ
柔軟さと俊敏さを兼ね備えた
身のこなしへと変貌していった。
武器は、鍛冶屋に特注した一本の大太刀。
刃渡りは長く、反りはなだらかで、細身。
抜き打ちが可能な構造で
柄には滑り止めの細工が施されていた。
細身でありながらも
芯には強靭な鍛鋼が仕込まれており
振り抜けば風を切る鋭い音が走る。
彼の動きを殺さぬよう
軽量で均衡の取れたその刀は
まさに〝暗殺者の刃〟だった。
鍛錬の場に仲間を連れ出すことはなかった。
アラインは
誰にも見せぬ場所で
黙々と、ただ一人で剣を振り続けた。
それは修練というより
儀式に近いだろう。
滲む汗の一滴一滴が
アリアへの〝復讐〟のために払う
供物のように見えた。
ーフリューゲル・スナイダーー
彼の名の下に集う者達は
いつしか
絶対の忠誠を誓うようになっていた。
誰もが語る。
アラインには
決して逆らってはならない。
なぜなら
ー逆らった者がどうなったかーを
誰もが知っているからだ⋯⋯と。
だが、真実は違った。
アラインは
誰一人として傷つけてなどいない。
ただ一つ、記憶に書き加えたのだ。
ー逆らった者は、凄惨な末路を辿ったーと。
無惨に打ち据えられた。
斬られた。
焼かれた。
折られた。
そんな記憶が
彼らの中には〝実際に見た〟感覚で
根を張っている。
それは虚構だ。
だが
記憶に刻まれた虚構は
現実と同等の真実となる。
アリアへの道は、まだ遠い。
だからこそ
無駄な損失など許されない。
些細な失敗で
部下を切り捨てている余裕など
一生ないのだ。
アラインの目は
常に先を見据えている。
アリアを知る者
彼女に近付く者
彼女を狩ろうとする者。
全てが、布石。
そして彼は、今なお、何食わぬ顔で
「皆のおかげで、今日も良い日だね」と
朗らかに笑う。
その笑みの奥には
絶対的な計画と
狂気に近い復讐心が
ひたひたと脈打っているのだ。
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復讐に燃える冷酷な王は、記憶を操り、恐怖で世界を統べる。 激情を凍らせたその瞳は、ただ一つ、喫茶桜に眠る標的だけを捉える。 静かに、完璧に、血と偽りの夜を往く孤高の支配者の足音──