「昔ここで遊んだの覚えてる?」
白のない真っ黒な空に浮かぶ月を海が映す。穏やかに波の音を奏でる海辺の傍らにある崖の上の木の近くに腰を下ろし、隣の彼にそう問いかける。月明かりに照らされ、いつもよりも繊細な線でなぞられた横顔がふと、笑い声をあげた。
「忘れるわけないじゃん。だって涼ちゃん落っこちたし。」
「…ちょっと足滑らせちゃっただけだもん。」
幼かった僕の大切な友達の若井。勿論今だって、誰よりも大切で、大好き。でも結局は生まれた環境も育った環境も君とは違う。外から来た僕は、ここに留まれない。
「あーあ、懐かしいなぁ…。あの時の涼ちゃんのびちゃびちゃの顔、今でも笑える。」
「なっ…、若井だって、!!僕くらい泣いてたし。」
僕が海に落ちてしまったあの日、いつもは穏やかなこの海は酷く荒れていた。波は高く、空は灰色で塗り潰されていて、海のずっと向こう側で雷が鳴り響いてた。微かに鼻を通る雨の香りも、鮮明に覚えている。
「でもさ、あの時俺らがここに来なかったら、この木こんなに大きくなかったんだよ。」
突然立ち上がった若井が、感慨深そうに呟きながら、立派な大樹の表面をぽんぽんと優しく叩く。そんな様子に釣られて、僕も立ち上がって同じように木に触れた。春の暖かい空気に包まれていた木は、まるで生きているかのような温もりを纏っている。
「……生きてるんだよね。」
まだ僕らが小さかった当時、ここは滉斗とのお気に入りの場所だった。海が綺麗に見えて、あまり人も来ない。まるで2人だけの世界のようで、暇があればここに来た。約束なんてしていないのに、僕たちは毎日ここで出会い、他愛もない話をする。そんなある日、先にここに来ていた滉斗が、楽しそうに僕の手を引いた。
「見て涼ちゃん!」
目をキラキラと輝かせて地面を指さした滉斗の指先に視線を落とすと、そこには1つの緑が生えていた。まだ小さい、未熟な葉っぱ。特に植物の知識がない僕らは、沢山の想像を膨らませた。抱えきれないくらいの野菜が育つとか、綺麗なお花が生えてくるとか。
「俺らで育てよ!!2人だけで!」
「僕と、滉斗で?」
「うん!!」
言葉の意味なんてまだ上手くわかっていなかった滉斗から発せられた言葉。ぎゅっ、と僕の手を握った温もりに、精一杯の嬉しさを含んだ笑みを返した。
「もしちゃんと育ったら、2人で見ようね。」
約束、と言うよりかは、願いに近かった。しっかりと育って、ここでまた2人で一緒に居たい。強欲な僕の願い。どうしても、叶えたかった。
「…ちゃん!涼ちゃん!!」
「っあ…、ごめん、何か言った?」
肩を揺さぶられる振動に、はっ、として顔をあげる。僕の顔を心配そうに覗き込む若井に薄く微笑み、首を傾げる。
「何ぼーっとしてんの。この木登ってみようよって!」
「えぇ…?僕若井みたいに木登り得意じゃないよ。」
「大丈夫だって!俺が支えるから。」
小さい頃から若井は、何かとやんちゃだった。いつも色んなところを走り回って、何にでも好奇心を持つ。そんな所は今でも変わらないようだ。
「…っ、大丈夫、?重くない?」
「俺の心配より自分の心配してよ。」
「うん、……」
手が触れる距離にまで近くになった太い枝に手を伸ばし、何だか昔よりも重くなってしまった身体を頑張って上へと持ち上げる。足元の傍にあった枝に足をかけ、バランスを保ちながら、何とか枝の上まで登れた。僕を肩車のような姿勢で支えてくれていた若井を見下ろし、右手でOKサインを出してみる。軽く頷いた若井が、誰の補助も無しで小さく飛び上がって枝を掴んだ。僕よりも身軽そうな様子から目を離し、ふと視線をあげる。
「……綺麗。」
いつもは味わえないような高い目線の先に広がる、広大な青い海。キラキラと月明かりを反射する姿が美しく、目が離せなくなる。
「、っと…、」
後ろから聞こえた若井の声と気配に振り向くと、僕と同じように、驚いたような表情でこちらを見つめる彼の姿があった。
「綺麗だよね。」
若井の瞳に反射する海がより綺麗に見えて、思わず微笑んでそう呟く。一瞬目を見開いた若井の手のひらが、僕の手を包み込む。前振りのない行動に困惑する僕の目をしっかりと見つめ、そっと口を開いた。
「俺の中で1番綺麗。」
「…っあは、そんなに?」
「そんなに。」
「別にいつでも来れるじゃん?こんなに月が綺麗に見えるのは珍しいかもしれないけど。」
真剣な表情でそう発した若井の様子が面白くて、思わず笑いが零れてしまう。こんなにも若井が海を好きだなんて知らなかった。何だか似合わないな〜なんて思いながら微笑んでいると、ふと若井が僕の後ろを指さした。
「あそこの枝座ろ。景色よく見えそう。」
「……押さないでよ。」
「10年以上一緒に居るのに信用されてないの??」
「もうすぐ20年だけどね〜」
冗談に笑いながらも、木に手をついて慎重に枝の上に移動する。海の上へと導くように伸びている太い枝。少しでもバランスを崩してしまえば、真っ逆さまに落ちていく。折れないと分かっていても、多少は不安が勝ってしまう。ある程度の場所まで来たところで、ずっと視界に自身の手の甲を映していた顔をあげ、枝に横に座るように体勢を変える。
「…やっぱ怖いかも。」
「でも俺が退かなきゃ帰れないよ。」
足元に広がる1面の海に、思わず口から怯えの言葉が溢れ出た。そんな僕の恐怖を取り除くよう、いつの間にか同じように隣に座っていた若井が言葉を発する。
「若井のこと突き落とせばいい?」
「落ちる瞬間涼ちゃんのこと掴むからね。」
「えー?2人とも落ちたら意味ないじゃん。」
冗談気に呟いた僕の言葉に、悪戯な笑みを浮かべて返された。ずっと変わらないこの空気感。木皮に触れていた僕の手に、若井の手が重なった。
「……この傷、消えないの?」
「どうだろうね。何となく薄くなってる気はするけど。」
きっと若井の言葉が示しているのは、僕の手の甲にある傷だろう。甲全体に斜めに真っ直ぐと引かれている傷跡。何故だか僕以上に若井が気にしているらしい。
「…ごめん。」
「、謝んないでよ。さっき言ってたじゃん若井。あの時ここに来なかったらこんなに木大きく育ってないって。」
慰める為に言った言葉に、視線を下に落としたまま黙り込んでしまった若井の姿に口を閉じる。元はと言えば全部僕のせいで、若井は何も悪くない。
大雨のあの日、家の窓から外を眺めていた僕は、滉斗と一緒に育てていた植物のことが酷く心配だった。時間が経つにつれて強まっていく雨足に、いても経っても居られず、両親にバレないよう家を抜け出した。玄関の傘立てに置かれていた傘を1本乱雑に手に取り、さすことも忘れて無我夢中で走った。靴も、ズボンも、踏んだ水溜まり達から跳ねた泥でぐちゃぐちゃだった。
「っ、はっ、……」
いつもは何も感じなかった崖への道のりが身体に重く、息苦しさと不安で自然と涙が溢れ落ちる。頬を伝う雨と涙が混ざり合い、幼かった僕には大きすぎる感情に、足が止まりそうになった。耳に届く荒波の音に、大地を揺らすような雷鳴。手のひらに持っていた傘をぎゅっ、と握りしめ、下に落ちてしまっていた視線を上げる。
「…滉斗との、っ、約束だから、……」
「は、ぁ…っ、はぁ…」
肩で荒く呼吸をしながら、強風に吹かれて今にでも飛んでいってしまいそうな小さな葉の傍に駆け寄る。
「、お願い…っ、頑張って……」
片手に握り締めていた傘を開き、傍にしゃがみこんで雨を遮るように差し伸べる。ぽたぽたと髪から地面へと滴り落ちる水滴を眺めながら、どうか無事に育つようにと心の中で必死に祈っていた時、誰かの水を踏みしめる慌ただしい足音と声が聞こえた。
「涼ちゃん、!!!」
「ひろ、と?」
聞き慣れた声の持ち主に顔を上げた時、一際大きな風が吹いた。油断していた片手から傘が離れ、風の吹く方向へと地面とぶつかり合いながら飛ばされていく。反射的に動き出していた身体が、傘の後を追うように崖の端へと走り出していた。伸ばした手のひらが傘の柄を掴んだ瞬間、ふわりと身体が軽くなった。
「……あ、」
コメント
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ほわぁ…一言で表しますね!天才すぎて尊敬。
うわぁ…最後がもう最高過ぎます😭✨最初にどんな内容だったかなと手に取ってを読み返したんですけどもっといいお話になってて本当好きです🫶🏻❤️🔥やっぱりしきさん凄過ぎるなぁとまた思い知らされました💘✨