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パッと両手を合わせ、全力で頭を下げて謝罪した。いわゆる、土下座に近いポーズだ。
「ええっ!?」
翼がショックを受けた声を出す。
「無理! ごめん、本当にごめん翼! 中身が翼なのはめちゃくちゃ嬉しいし、愛してる気持ちに嘘偽りはないんだけど、その、ビジュアルの暴力が凄すぎて……! 唇が触れ合う瞬間に、気を失いそうなの!」
「そんなに!? 雰囲気バッチリだったじゃん! 今の絶対キスの流れだったじゃん!」
「流れには乗れても、見た目が激流葬なのよ! 考えてもみてよ、腐乱死体とキスできる一般成人女性がどこにいるのよ!」
「僕たちの愛は、そんな外見の壁なんて乗り越えられると思ってたのに……!」
翼は目に見えて(左目だけだが)落ち込み、体育座りになった。シャツの背中に「哀愁」の二文字が漂っている。
私はちょっと言い過ぎたかな、と反省した。彼は悪くない。悪いのは全自動で彼をゾンビ化した神様のディレクション不足だ。
私は少し冷静になり、彼に問いかけた。
「じゃあさ、逆に聞くけど」
「なにさ」
「もし、立場が逆だったら。私が三年前に亡くなって、今日の七夕に、今のあんたと同じクオリティの腐乱死体姿で現れて、『翼、キスして?』って顔を近づけたら……あんた、できる?」
翼は体育座りのまま、じっと私の顔を見た。私の、五体満足で、肌にハリのある、生きた人間の顔を。そして、自分が私を追い詰めた「ゾンビビジュアル」を脳内で私に当てはめてシミュレーションしたのだろう。
一秒。二秒。三秒。
翼の瞳が、あからさまに泳いだ。
「……無理」
「だよね!!!!」
私は立ち上がって叫んだ。
「ほら見ろ! 本人が無理って言ってるじゃん! 自分でも無理なものを、私に要求しないでよ!」
「いや、ほら、僕、ホラー映画とか苦手なタイプだからさ……。自分の彼女がゾンビになって帰ってきたら、やっぱりちょっと、脳の防衛本能が働いちゃうというか……」
「私だって苦手だよ! ゾンビゲームはビビりすぎて実況動画でしか見たことがないタイプだよ!」
「そっか……お互いに無理か……」
「うん、無理」
私たちは、お互いに「だよねー」という顔で見つめ合った。なんだろう、この、究極の愛を確認し合ったはずなのに、生物としての本能に敗北した謎の連帯感は。
気がつくと、東の空がうっすらと白み始めていた。午前四時半。窓の外では、まだ雨がしとしとと降り続いている。
「あ……」
翼が、自分の手を見つめて声を漏らした。彼の指先が、朝の光を浴びて、光の粒になって消えかけていた。漫画や映画でよく見る、お別れの演出だ。
「時間、みたいだね」
翼のトーンが、少し寂しげなものに変わる。
「……うん」
さっきまで「くさい」「怖い」と大騒ぎしていたのに、いざ彼が消えてしまうとなると、胸の奥が痛む。ビジュアルなんてどうでもよかった。いや、どうでもよくはない(やっぱり怖い)けれど、それでも、彼がここにいて、私と会話をしてくれているというその事実だけで、どれほど救われたか分からない。
「楽しかったよ、美月。君が相変わらずツッコミキレキレで安心した」
「うるさいな。あんたがボケ倒すからでしょ」
「あはは、そうだね。……ねえ、美月」
翼の体が、どんどん透明になっていく。オシャレなシャツも、チノパンも、そして緑色の肌も、朝の光に溶けていく。
「僕、来年の七夕も、絶対に審査に通ってみせるから。神様にも『次はもうちょっと肉の管理をしっかりしてください』ってクレーム入れとく」
「うん。頼むから、来年はせめて骨にして。骨ならカルシウムだし、まだスタイリッシュだから」
「善処するよ。……じゃあ、また来年ね」
翼が、いつもの、私が大好きだった優しい笑顔を浮かべた。頬の肉がなくても、不思議と、それが「いつもの翼の笑顔」だと分かった。
彼が完全に消えてしまう。一年に一度しか会えない、私たちの七夕が、終わってしまう。次に出会えるのは、また一年後の、三百六十五日後だ。
その時、私の胸の内に、ある強烈な感情が沸き起こった。
「嫌だ」
このまま、ただ怖がって、距離を置いて、キスもできずに別れるなんて、そんなの嫌だ。私たちは恋人同士なのに。誰よりも愛し合っているのに。ビジュアルごときに、生物としての防衛本能ごときに、私たちの三年越しの愛が阻まれてたまるか。
私は、雨音の中、消えゆく翼の背中に向かって、一歩踏み出し、喉が張り裂けんばかりの声で叫んだ。
「ちょっと待って、翼!!」
光の粒になりかけた翼が、驚いたように振り返る。
「……美月?」
「来年! 来年の七夕までに、私、ホラー映画を見まくって、その姿に絶対に慣れるようにしておくから!!」
「えっ!?」
「ゾンビだろうが、スケルトンだろうが、スプラッターだろうが、全部耐性をバキバキに上げておく! だから、来年は絶対に、何があってもキスしようね!! 逃げないって約束するから!!」
私の魂の叫び。エゴかもしれないけれど、それが私の、彼に対する最大の愛の誓いだった。
翼は、呆然としたように私を見つめていたが——やがて、その崩れかけた顔を、これ以上ないほど愛おしそうにクシャッと歪めた。
「うん! 約束だ!」
翼は、右手を力強く突き出し、親指をグッと立てた。往年の名作映画のワンシーンのような、最高に格好いいポーズ。だが、彼の体の崩壊は止まらない。グッと立てた親指の関節が、その瞬間、重力に従ってポロッと取れ、床に落ちそうになった。
「あ、親指取れそう」
「ちょっと! 格好いいシーンなんだからキープして!」
「無理無理、物理的に限界!じぁね美月、愛してるよ——!」
最後の最後で、やっぱりちょっと締まらないギャグを残しながら、翼は眩しい光の中に完全に消え去った。
その瞬間、降り続いていた雨がぴたりと止んだ。
後に残されたのは、静かなワンルーム。そして、ラベンダー&バニラと、微かに残るドブ川の香りの名残だけだった。
「……行っちゃった」
ポツリと呟く。涙が、一滴、頬を伝って床に落ちた。寂しいけれど、不思議と心は温かかった。彼は確かに生きていて(死んでるけど)、私を愛してくれている。その確信だけで、これからの一年を生きる元気が湧いてくる。
私は窓を開け、換気扇を「強」に回した。部屋の空気を一新しながら、机の上にあるスマートフォンを手に取る。カレンダーアプリを開き、一年後の「七月七日」の欄に、大きくメモを打ち込んだ。
『彦星(ゾンビ)来襲。絶対にキスする』
時計を見る。午前五時。私はベッドに潜り込み、動画配信サービスのアプリを起動した。検索窓に、生前の私が絶対に打ち込むことのなかった単語を入力する。
『ゾンビ』
画面にずらりと並ぶ、おぞましい形相の死者たちのサムネイル。
「よし」
私は、ゴクリと唾を飲み込み、再生ボタンを押した。画面の中で、ゾンビが激しく肉を貪り、生存者が悲鳴をあげる。
「怖い……いや、でも、翼に比べたら、こいつら全員イケメンに見えるな……?」
こうして、私の「対ゾンビ・キス特訓」の一年が幕を開けた。来年の七夕、天の川の向こうからやってくる私の彦星を、世界で一番強い織姫として迎えるために。