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勇太くん、まさか旅館まで追いかけてくるとは……。「他の男と温泉に来てる」って怒りながら、でも最後はおまんじゅうを分け合って、美紗ちゃんの好みもお母さんのことまで覚えてる優しさ。怒ってるのに切なくて、もう胸がぎゅってなりました。追いかけられて「実は嬉しい」と自覚してしまう美紗ちゃんの心情も痛いほど伝わってきます。日下さんの「砦になれるよ」との対比も良いですね。おまんじゅうの甘さの違いに込めた想い、好きです。
「夕食、食べられなくなっちゃうよ。美紗」
私の食べ差しのおまんじゅうを食べたのは、勇太くんだった。
突然現れた勇太くんに、驚きと、しつこく残る恋心とで、心臓が激しく跳ねた。お風呂上りということも相俟っているのかもしれない。
それに被せてくるかの様に、切なさが押し寄せて、チクチク痛いのか締め付けられて痛いのかも分からないくらいに胸が苦しくなった。
「……私の胃はそんなに小さくないので」
4分の1カットのおまんじゅうを食べ切ることさえ躊躇していたくせに、『余裕です』くらいの言い訳をして、少し勇太くんから離れると、黒目と首を動かし周りを見渡した。
「……和馬くんに、俺と一緒にいるとこを見られたら困る?」
甘いものがあまり得意ではない勇太くんが、右頬におまんじゅうを頬張ったまま喋る。なんか、リスみたいで可愛い。飲み込めもしないなら食べなきゃいいのに。
薄ら笑うのを堪え、
「小田ちゃんに見られたら困るんです‼ いい気しないでしょ」
おまんじゅうの棚に身を隠しながら小田ちゃんの姿を探した。
「どうしてここに小田さんがいるの?」
未だにおまんじゅうを口の中に入れたままモゴモゴ喋る勇太くん。
「小田ちゃんと一緒に来たんじゃないんですか?」
「なんで俺が小田さんと一緒に温泉に来るの?」
勇太くんの質問を質問で返事をすると、更なる質問が返ってきた。
勇太くんの口振りから、勇太くんは小田ちゃんと一緒に来たわけではないようだ。
じゃあ、誰と? ……まさか。
「……家族旅行……ですか?」
急に血の気が引き、湯冷めをしたかの様に寒気がしてきた。
ここに真琴ちゃんもいるかもしれない。
呑気にお土産を選んでいる場合じゃない。
真琴ちゃんと鉢合う前に部屋に戻ろうと、手に持っていた爪楊枝をゴミ箱に捨てようとするが、動揺の余り、至近距離から放ったにも関わらず外してしまい、爪楊枝は床の上に転がった。
それを拾おうとすると、勇太くんがしゃがんで爪楊枝を拾ってくれ、ゴミ箱に捨ててくれた。
「違うよ。今、家族と旅行なんかしたくもない」
私の質問に不快感を露わにしながら答える勇太くん。
嫌悪感を隠しもしなかった私の態度がそうさせたのだろう。
「もし、その理由に私が関わっているなら、気にしなくて大丈夫ですよ」
「もう、自分には関係のないことだから?」
口の中のおまんじゅうを飲み込んだ勇太くんが私を見た。
「そんな無責任なことを言いたいんじゃなくて……もし、佐藤さんの家に変な空気が流れているんだとしたら私のせいだと思うから、私なら大丈夫なので……というつもりで言ったのですが……」
勇太くんの怒っている様な、悲しんでいる様な強い視線に、喋る言葉が震えてしまった。
「和馬くんがいるから大丈夫ってこと?」
勇太くんの質問が、さっきから刺々しい。
自分と結婚する約束までしていた女が、無神経に他の男と温泉に行っているんだ。当然だ。
「変な誤解で日下さんに迷惑を掛けたくないので、それは否定しておきます。日下さんと私はお付き合いしていません。なので、そういうことではありません。確かに今日、日下さんに縋って旅行に来ました。自分で招いた事態と分かっていても、やっぱりしんどくて、少しの間だけでも現実から逃げたかったんです。日下さんは優しいから、今後も頼れば手を差し伸べてくれると思います。でも、彼女でもない私が、しゃあしゃあとそんなことをしてはいけないと思っています。日下さんの困者にはなりたくない。私のことは、私で何とかしますという意味です」
勘違いしているだろう勇太くんを訂正する様に話すと、
「言ってることが矛盾だらけだね。自分のことを自分で何とか出来なかったから、和馬くんに縋ったんだろ? 彼氏でもない男と何をしに温泉に来たんだよ」
勇太くんが眉毛をピクつかせ、怒りを放ちながら鼻で嗤った。
「温泉と海鮮料理を堪能しに……」
「何それ。そんなこと、中学生でも言わないよ。中学生だって、男女が2人きりで温泉に行くってことがどういうことなのかくらい分かるわ」
言い切る前に勇太くんが言葉を被せた。
「日下さん、言ってました。『傷ついている人の傷口を抉る様なことはしない』って。日下さんは……」
「言っちゃう? 『日下さんはそんな人じゃありません‼』って、純粋ぶった女子が使うお決まりの台詞、美紗も言っちゃう? それとも『私はそんなつもりじゃなかった』とか言う? いるよね、そういうことを言いながら男を自分の部屋に呼んだり、平気で男の家に上がったりする女。それって、仮に本当に男の方にその気がなくて、一切手出しされなかった時に、女側が自分の体裁を守る為の保険だろ? もしくは、奥手な清純派を装いたいのかもしれないけど、そもそもそういう子はそんなことしないからね。俺、美紗はそういうタイプじゃないと思ってたのにな」
反論する私の言葉を、悉く遮る勇太くん。
もう、何を言っても伝わらない気がした。どんな言葉を使っても、勇太くんには嘘にしか聞こえないのだろう。
「……私、部屋に戻ります」
勇太くんに軽く頭を下げ、お土産コーナーから立去ろうとすると、
「待って。まだお土産決めてないんだろ?」
勇太くんが私の手首を掴んだ。
「また後で見に来ますから」
勇太くんの手を振り解こうと、手に力を入れて引っ張ってみるが、勇太くんの手は離れない。
「……ふざけんなよ。なんで他の男と温泉に来てるんだよ」
勇太くんが、痛いくらいに強く私の手を握る。
「……美紗に嫌味を言いたくてここに来たわけじゃないのに。俺とのこと、美紗の中では終わったことかもしれないけど、俺は全然諦められない。終わらせられない。和馬くんの言ってた通りだよ。真琴に聞いたんだ。美紗と和馬くんが今日、この旅館に泊まること。真琴に頼んで、美紗たちの隣の部屋を取ってもらったんだ。大丈夫。本当に真琴はいない。俺ひとりだけ。俺、ひとりで来たんだ。そんなことをしたって何も出来ないし、どうにもならないって分かってたんだけど、居てもたってもいられなかった。どうにかして美紗と話したかった。和馬くんに美紗を取られたくなかった。美紗と話すチャンスが欲しくて、美紗が1人でここを通るの、ずっと待ってたんだ。……今、めっちゃ後悔してる。旅館なんか来なきゃ良かった。隣の部屋で美紗と和馬くんが2人で寝るかと思うと、気が狂いそう。……何やってるんだろうな、俺。まじしょうもない。美紗の嫌がることしかしてないな、俺。お土産選び、邪魔してごめん。試食するくらいだから、他のおまんじゅうと迷ってたんだろ? どれ? 美紗、つぶあん好きだから、コレ? 1口食べな。残りは俺が食うから」
勇太くんが右手で私の手を掴んだまま、左手で【新商品】の試食用のおまんじゅうが刺さった爪楊枝を取り、私に手渡した。
「……佐藤さん、甘いもの食べられないじゃないですか」
戸惑いながらおまんじゅうを受け取ると、
「でも、全部試食してたら夕食の時にお腹いっぱいになっちゃうじゃん。美紗、海鮮楽しみにしてたんだろ?」
怒っていたはずの勇太くんの表情が一気に陰った。切なげに笑う勇太くんの顔が、私の涙を誘う。
勇太くんの気持ちに応えたいのに、出来ない。大好きなのに。私だって、この気持ちを伝えたいのに。悔しい。悲しい。
「1人で決められますよ。子どもじゃないんですから」
歯を食いしばり、私も笑って見せた。
「でも、いっぱいは食えないでしょ? フードファイターじゃないんだから」
勇太くんが、おまんじゅうを持つ私の手にそっと触れると、そのまま私の口元におまんじゅうを近付けた。
「ホラ、食べな。俺は別に海鮮料理を楽しみたかったわけじゃないから、まんじゅうで腹が膨れても構わないし」
と勇太くんに促され、一口齧ると、勇太くんが残ったおまんじゅうを食べてくれた。
勇太くんの優しさに、涙を堪えるのに精一杯で、なかなかおまんじゅうが喉を通らない。
しかし、執拗に咀嚼をし、口の中で味わい続けたおかげで、今食べたおまんじゅうは、さっきのに比べて甘さが強いことは分かった。
粉々に噛み砕いたおまんじゅうを無理矢理飲み込み、
「さっきの方がおいしかったですね。さっきのにしましょう」
と、さっきのおまんじゅうの箱を手に取った。
本当は【おすすめ】の品も食べてみたかったけど、勇太くんにおまんじゅうを食べさせることも、勇太くんと一緒にいることも気まずい。
「嘘吐き。ここは会社じゃないんだから嘘なんか吐かなくていいよ。さっきの甘さ控えめだったじゃん。美紗、甘ったるいのが好きじゃん。俺に気を遣った?」
勇太くんが、私の手に持たれたおまんじゅうの箱を、今食べたおまんじゅうが詰められた箱と取り替えた。
勇太くんに気を遣ったわけじゃない。性懲りもなく、諦め悪く勇太くんのことが好きだから、勇太くんが食べられそうな方を選んだんだ。
甘さの弱いおまんじゅうを買ったところで、甘いことには変わりないから、勇太くんは食べないだろうのに。
「……じゃあ、これとさっきのおまんじゅうを買います。甘い方をお母さんのお土産にします」
勇太くんによって元の位置に戻されたおまんじゅうの箱を再度手に取った。
お母さんに……。お母さんには、まだ結婚がダメになってしまったことを話せていない。
勇太くんとの結婚を、涙を流しながら喜んでくてたお母さん。
お母さんに申し訳なくて、お母さんの悲しむ顔を見るのが辛くて、でも言わないわけにもいかない。
だから、なかなか実家に行こうとしない自分に【お母さんにお土産を渡す】というミッションを課した。
「……美紗。お母さんの前では悪者にならないでね。俺との関係がどうのこうのより、そっちの方が美紗のお母さんを傷つけてしまうと思うから。美紗のお母さん、本当に美紗を大切に想っている人だから。事実以外のことで悲しい思いをさせないで」
勇太くんの言葉に、水道管が破裂したかの様に一気に涙が湧き出し、我慢する間もなく涙が零れ、手に持っていたおまんじゅうの箱に滴り落ちた。
たまに意地悪なことを言ったりするけれど、でもいつも勇太くんは優しかった。
優しくて優しくて、私のお母さんにも優しくて。
だから私は、勇太くんを大好きになってしまったんだ。
こんなことになってまでも、元カノの母親を想ってくれる勇太くん。
私はどうすれば、この人を好きじゃなくなれるのだろう。
「ごめん、美紗。嫌なことばっかり言って泣かせてゴメン。折角の温泉旅行に、水差してゴメン」
勇太くんが、乾き切っていない中途半端に湿った私の頭を撫でた。
「……手、濡れちゃいますよ。髪、ちゃんと乾かしてないんです。それに、佐藤さんは何も悪くないから謝らないでください。変に泣いたりしてすみませんでした。……私、本当にそろそろお部屋に戻ります。身体、冷えてきちゃったので。佐藤さんも戻って下さい。風邪引いちゃいます」
勇太くんの手から逃れる様に、頭を下げながら勇太くんの手を潜り抜け、2つのおまんじゅうの箱と、目に付いた味見もしていないおせんべいの箱を適当に掴み、レジへ持って行った。
小銭を見ることもなく、財布から1万円札を取り出し、会計皿に乗せる。
さっとお会計を済ませ、勇太くんに会釈もせずに早歩きで部屋へ急いだ。
胸のざわつきが、自分の厭らしさを刺激する。
私を諦められないと言っていた勇太くんに、喜び安堵した卑しい自分。
自分も諦めつかなくて、未練を引きずるみっともなさ。
情けなくて、申し訳なくて、悲しくて、辛くて。
私はまた、勇太くんから逃げた。
部屋に戻ると、日下さんはまだ横になったまま、すやすやと寝息を立てていた。
買ったお土産を鞄に片し、日下さんの近くに座り、日下さんの寝顔を眺めながら、勇太くんのさっきの言葉を思い出す。
『なんで他の男と温泉に来てるんだよ』
勇太くんはこの問い掛けに対して、私の答えを聞かなかった。
聞かなくても分かっていたからだろう。
「はぁ……」
肺が無意識にやるせない溜息を押し出す。
「美紗ちゃん、温泉に来てまで溜息吐かないの‼ 顔にかかってるっつーの」
日下さんが、目を閉じたまま口を開いた。
「すみません。起こしちゃいましたね」
右手で「ヤバイヤバイ」と口を押えつつ謝ると、
「美紗ちゃんが部屋に戻ってきた時、なんとなく気配で起きてはいたんだけど、どうにもこうにも目が開かない」
日下さんが、ぴったりくっついている瞼を擦りながら、起き上がろうと床に手をついた。……が、上半身を起こすことさえ出来ない日下さんは、産まれたての小鹿の様にプルプル震えていた。
日下さんは、寝起きがあまり良ろしくないらしい。
「美紗ちゃん、何かあったでしょ? 真琴のお兄さんに会っちゃった? 世間一般的にはさ、逃げずに立ち向かう人間を良しとする傾向があるけどさ、逃げるのだって有りだと思うよ、俺は。立ち向かうことくらい一生懸命逃げてる場合だってあると思うからさ。俺、全然砦になれるよ。美紗ちゃんくらい、全然守れるよ」
未だ起き上がれず蹲ったままの日下さんが、なかなか恰好の良いことを口にするから、
「……ふっ」
ちょっとキュンとしつつも笑ってしまう。でもやはり、自分のことを【守る】と言ってくれる男性には、心ときめく。
「今、いいこと言ったのにー」
ようやく目を開けた日下さんが、ほっぺたを膨らませながら私の方を見た。
「日下さん、砦にはもうなってるじゃないですか。私は砦に逃げ込んで、今温泉にいるんですよ」
「そっか。いつでも気兼ねなく逃げておいでよ」
日下さんは、ほっぺに溜めていた空気を「ふふッ」と笑いながら吐くと、私の頭を撫で撫でした。
私だって一応女だ。守って欲しい願望もあれば、『守るよ』などと言われれば嬉しくなる。
この人、私のことを好きなのかな? という錯覚にさえ陥る。
もし、日下さんが真琴ちゃんの元彼でなかったら、私は日下さんを、何の懸念もなく、勇太くんへの気持ちを吹っ切って好きになれただろうか。
……勇太くんへの気持ちを吹っ切って。
……どうやって?
「……立ち向かうのも逃げるのも一生懸命なら、追いかけることも一生懸命なのかな」
だって私は、勇太くんが旅館まで私を追って来てくれたことが、本当は嬉しかったんだ。どうせ逃げなきゃいけないのに、嬉しかったんだ。
「それは、真琴のお兄さんのこと? 美紗ちゃんはさ、逃げたいんじゃないの? 立ち向かいたいの? どうしたいの?」
私を撫でる手を止め、怪訝な表情で私を見る日下さん。
……どうしたいのか。自分にも分からない。
真琴ちゃんからは逃げたい。でも、勇太くんから離れるのが、やっぱりどうしても辛い。
「……」
答えあぐねていると、
「夕食の準備が整いましたので、お運びしてもよろしいでしょうか?」
沈黙を破る様に、襖の向こうから仲居さんの声がした。
「はーい。お願いしまーす。美紗ちゃん‼ 来たよ来たよ‼ 豪華海鮮調理ー‼ 蟹ー‼」
再度私の頭を撫でた日下さんが、「ごめん、美紗ちゃん。今日は楽しむ日なのにね」と立ち上がり、「どうぞー」と言いながら襖を開けると、仲居さんを中へ招き入れた。
仲居さんによってお膳がセットされると、
「凄いね、美紗ちゃん‼ 本当に豪華だね‼ 美味そー‼」
日下さんが、何もなかったかの様にテンションを上げ、「早速食っちゃおう‼」と、お膳の方へと私の手を引いた。
「おぉ……。贅沢すぎる。こんなん食べちゃってバチ当たらないかな」
厚さ何センチあるの? くらいの【お尻に優しい】を通り越して【お尻をただただ甘やかす】くらいの厚みを持つ座布団が敷かれた座椅子に腰を下ろし、目の前でキラキラ輝く魚介たちに、私の目もキラつく。
「全然OKでしょ。こう言うのも何だけど、このくらいの贅沢でもしなきゃ、美紗ちゃんの不運って相殺されないでしょ。目移りするねー。どれから食べればいいんだろ」
日下さんの目も輝く。
「明るくサラっと私を【不運な女】呼ばわりしましたね」
「今、そんなのどうでも良くない? 早く美紗ちゃんも箸持って‼ ハイ‼ いただきまーす」
私の突っ込みさえも軽く流した日下さんが、「とりあえず、刺身‼」と箸でマグロの切り身を挟んだ。
「……確かにどうでもいいですね。私も食べたい‼ いただきます‼」
何となく日下さんと感動を共有したくて、私も箸でマグロのお刺身を撮んだ。
マグロをお醤油につけ、ほぼ2人同時に口の中に入れる。
目を大きく見開き、お互いの顔を見つめ合い、
「うーまー‼ 何コレ‼ やばい‼」
絶品のマグロに感嘆した。
「料理に気を取られてうっかり忘れてたけど、ウチラ乾杯してないよ。美紗ちゃん、グラス持って。ビール注ぐよ‼」
日下さんが「さぁさぁ」と言いながらビール瓶を私に向けるた。
会社でもこうして上司や周りに気を遣って、可愛がられて親しまれているのだろう日下さんが目に浮かんで、ちょっと面白い。
「私が注ぎますよ。グラス持って下さい、日下さん」
『お先にどうぞ』とばかりに、日下さんの持っているビール瓶に手を伸ばすと、
「ladies first」
日下さんが私の手を避け、いつかみたいに外国人ぶった。
「ジェントルマンですね、日下さん」
「発音が違う。【gentleman】ね。Lの発音、難しいから気をつけて」
そして、私の褒め言葉にもダメ出しをする日下さん。
「日下さん、どこの国の人でしたっけ?」
「生まれも育ちも父も母も日本」
『クックックッ』
そして2人で笑い合う。誰かと笑い合えることは、こんなにも楽しい。
「じゃあ、すみませんが……」
日下さんにグラスの口を向けると、
「Not at all♬」
日下さんがエセ外国人を続けながら、私のグラスにビールを注いでくれた。
日下さんからビール瓶を受け取り、今度は私が日下さんにビールを注ぐ。
「では、遅ればせながら、乾杯‼」
お互いのグラスをぶつけると、2人で喉を鳴らせながら飲んだ。
「おーいーしーいー‼」「何ココ、天国‼」
日下さんと極楽を噛み締める。
美味しい料理に美味しいお酒。最大の楽しみだった極太の蟹。
なんて素晴らしい時間なんだ。と、夢心地になりながらも、隣の部屋が気になってしまう。
勇太くんも今、同じ料理を食べているのだろうか。
おまんじゅうでお腹いっぱいになっていなかっただろうか。
勇太くんも楽しめているだろうか。
いかんいかん。私は今日、現実から脱走し非日常を味わいにここに来たんだ。
瞼をぎゅうっと閉じ、ビールの入ったグラスを掴むと、頭に浮かんできてしまう勇太くんの姿を払拭しようと、グラスの中のビールを一気した。
「飲むねー、美紗ちゃん」
日下さんが、私の空いたグラスにビールを注ぎ足した。
「飲みますよ。日下さんもガンガン飲みましょうよ」
自分だけが勢いよく飲んでしまっていることが何となく恥ずかしくて、日下さんにビール瓶を向け、飲む様に促す。
「俺、料理も酒もゆっくり味わいたいタイプ」
が、日下さんは自分のグラスに手で蓋をし、ビールの注ぎ足しを阻止した。
「ですよね。急いで飲んだり食べたりするの、もったいないですよね」
正直私だって、こんなに美味しい料理をビールをガブ飲みしながら食べたいわけではない。
ビール瓶を置き、箸を持ち直すと、カラっと揚がった天ぷらを口に入れた。
本当に、何を食べても美味しい。
「美味しいね、美紗ちゃん」
日下さんが笑顔で同意を求めた。
「最高に美味しいですね」
同じものを食べ、同じ感想を言い合うことは、心がほんわかする。
『美味しいね、勇太くん』。勇太くんが同じものを食べているのなら、勇太くんにも言いたかった。
やっぱり、お酒でなんか勇太くんを忘れることは出来ない。
#第4回テノコン特別賞