リアが入院している病院はあの時偶然クリニックに駆けつけたカスパルが勤務する市内でも比較的病床数の多い病院だった。
受付で刑事であることを示す手帳を見せてリアの病室を教えてもらったリオンだったが、エレベーターを待っているときに白衣の裾を翻して大股にやってくるドクターの姿を発見し、そう言えばウーヴェは診察時はいつも決まって同じジャケットを着ていたがあれがウーヴェにとっての白衣なのだろうかと思案するが、やってきたドクターが手を上げて名を呼んだことに気付いて目を丸くする。
「リオン!」
「へ? ああ、アニキだったのか」
初めて白衣姿を見たから誰だか分からなかったと苦笑するリオンに一瞬驚いたアニキことカスパルだったが、一緒にどこかに向かっていた他のドクターらに手短に指示を与えた後、リアはこちらだと病室に案内するように先に歩き出す。
慌ててその後をついていくリオンは、本当に幸運なことに太い血管や神経が傷付けられていなかったために傷口が完全に塞がってリハビリをすれば日常生活も不自由なく送ることが出来る、ただ傷跡が少しだけ残ると教えられて安堵の溜息を吐く。
「……良かった」
「ああ。……この病院に定期的に来ている美容師に頼んでウィッグを作ってもらうことにもした」
あの時、ジルベルトが彼女が自ら助けを求めるのを遅らせるために髪を切り刻み服も下着も切り裂いた為、リアの長いいつも一つに纏められていた髪も無残なことになっていたのだ。
退院できると言っても切られた髪のまま外を歩く事など出来る筈も無く、それに気付いたカスパルが出入りする美容師に彼女が一時的に利用するウィッグの制作を依頼したのだ。
その辺の事情を教えられて再び溜息を零したリオンは病室のドアを開けてドクターの顔で入っていくカスパルの後についていくが、ベッドでぼうっとしたように窓の外を見ているリアを見ると、怪我はしてしまったが命の別状はないことや後遺症が出ないことが本当に嬉しくて拳を握って込み上げる感情を堪え、カスパルの呼びかけに振り向いたリアが目を瞠った後、何かを言いたげに口を開閉させつつシーツを握りしめた事に気付き大股にベッドに近寄る。
「……リア、来るのが遅くなって悪ぃ」
「リオン……!!」
カスパルが少しだけ淋しそうな顔でリオンの背中を叩いた後また後でと残して病室を出て行くが、リオンが椅子ではなくベッドの端に腰掛けてリアの肩を抱くと彼女が顔を覆ったシーツの中に嗚咽を零す。
「……痛かったな、リア。髪も切られて辛いな」
嗚咽を零すリアの肩を撫で腕を撫でて落ち着かせようとしたリオンだが、嗚咽の合間にウーヴェの名を呼んでいることに気付き、無残にも切られてしまった髪を痛ましげに思いつつそっと頭に口付ける。
「今みんな必死に探してくれてる」
昨日リアを刺した男から連絡があり、その時にウーヴェの声を聞くことも出来たと伝えると、リアが涙で濡らした顔を上げたため、ごめんと謝りつつブルゾンの袖でリアの頬をぐいと拭う。
「……ウーヴェは……大丈夫、なの……?」
「背中をさ、リアが刺されたのと同じナイフで切られてた。後は鞭とかで殴られたみてぇな傷跡もあった」
「……!!」
ビデオ通話で見せつけられた総てを話したくは無かったため背中の傷だけでウーヴェの置かれている状況を伝えるとリアが再び顔を覆って肩を振るわせる。
「うん。だから、さ、俺も正直な話自信が無いから事件から離れることにした」
「……え?」
「あんなオーヴェを見て冷静に仕事が出来るなんて思わないし絶対に出来ねぇなぁって」
だから自分から今回の事件から離れることにしたと伝えてリアの肩を再度抱きしめたリオンは、リアの傷が深くない事にホッとしたしマザーらも早く良くなってくれって言ってたと伝えると、泣き腫らした顔をリアが上げて精一杯の小さな笑みを浮かべてくれる。
それが嬉しくてもう一度髪にキスをしたリオンは、今ウーヴェを探しているがもう少しで何か情報が得られそうな気がする事を伝え、リアの涙混じりの声に励まされる。
「みんな、頑張って……るのね」
「ああ。すげー頑張ってくれてる。……ゾフィーの事件の時に来ていたBKAの刑事でいけ好かない奴がいたんだけどさ、今回もその人が来ていて、マックスみてぇに生真面目だけどでもすげー優秀な刑事だなーって思った」
その人とボスが中心になってウーヴェの救出とリアを刺した男達の逮捕に向けて頑張っている事を伝え、ほんとうにみんな優秀な刑事だと心からの言葉を伝えると、リアの手が己の肩に回されているリオンの腕を撫でる。
「ウーヴェ……早く無事に見つかって……!」
「……ダンケ、リア」
恋人と異性の友人という違いはあるがウーヴェの無事を祈る思いはどちらも同じだけ持っていて、互いにそれを認め合って少し身を寄せた二人だったが、リオンのブルゾンのポケットに入っている携帯が振動した為、断りを入れてリオンが携帯を取り出す。
「……ボス?」
『朝にどこにいるか報告出来ないのなら出勤してこい!』
携帯から流れ出す怒声に顔を顰めて思わず携帯を耳から離したリオンは報告することで休職の許可を得ていたことを思い出し、忘れてましたと素直に謝罪をする。
『まったく……!』
こちらの心配をよそにお前は本当にと更に続けて怒られそうなことをいち早く察したリオンが、今リアの病院にいて彼女の容態と彼女のボスをあと少しで皆が見つけ出してくれると話していましたとも報告すると、フラウの様子はどうだと口調が柔らかなものになる。
「少し傷跡が残るかも知れませんがリハビリをすれば日常生活に支障は出ないそうです」
『そうか。……良かったな、リオン』
「Ja.本当に良かったと思います」
今回の凄惨な事件で関係者の心身に癒えるまでに時を要する傷を負ってしまったが、リハビリをすれば以前のように動ける事は関係者にとっても朗報の一つだった。
その朗報をもっと増やそうと今ヒンケルらが力一杯動いてくれている事をリオンも知っている為に今日の予定を軽く聞き、ローマとフィレンツェの組織の動きを調べている現地警察から連絡があり、今日中に強制捜査に入る事が決定したと教えられて目を瞠る。
「今日?」
『ああ。ルクレツィオとジルがいない今がチャンスだ』
組織を動かす人間が不在の今、残っているのは命じられることでしか動けない連中ばかりだからここで一網打尽にすれば組織の全容解明にも繋がるし、お前が言ったように留守宅を壊滅させれば帰る家がなくなるだろうとヒンケルが自信に満ちた声で告げるとリオンも少し考え込んでしまうが、強制捜査が上手くいくことを激しく祈っていると返す。
『ああ。……ドクがいると思われる家の候補もいくつか上がってきた。今手分けしてその家を当たっている』
昨日のビデオ通話は痛ましく悲しいものだったが、ただそれだけのものではなかったと辛い現実から決して目を逸らさずに事件解決の手がかりを皆が探している、だからその朗報も待っていろと命じられ、リオンが深呼吸を一つしたあと上司や同僚達を信頼している顔でもちろんと頷く。
そのリオンの横顔を見ていたリアはリオンの顔が興奮に紅潮している事に気付き、きっと自分たちにとって良い方向へと事態が向かっているのだと気付くと、足の傷や髪を切られた事を理由にいつまでも泣いて立ち止まっている訳にはいかない、今日からはもうこの事件のことでは泣かないとひっそりと決意をする。
携帯をブルゾンのポケットに戻してリアを見たリオンだったが、彼女の顔に浮かぶ表情が先程とは一変していることに気付き、小首を傾げてどうしたと問いかける。
「……ねえ、リオン」
「ん?」
「ウーヴェ、もうすぐ見つかるのよね?」
「ああ」
リアの問いに訳が分からないなりにも己の思いを込めてしっかり頷くとシーツで目元を拭ったリアがようやく明るくなってきた空と同じような笑みを震える唇に浮かべ、ウーヴェが戻って来るまでにリハビリをちゃんとして仕事に復帰できるようにしなきゃと笑った為、リオンの蒼い目が限界まで見開かれるが、リアの肩に再度腕を回して髪に頬をすり寄せるように身体を寄せるとくすぐったいから止めなさいとリアが姉の顔で制止する。
「またあの美味いタルトを食わせてくれるよな、リア」
ぐりぐりと頬を押し当てた後で口調を丁寧にしたリオンがリアの顔を覗き込むと少しだけ逡巡した彼女だったが、もちろんと泣き笑いの顔で頷く。
「だって、ウーヴェもあなたもあんなに美味しそうな顔で食べてくれるのよ。そんな人他にいないわ」
別に仕事ではなく趣味で作っているお菓子をあれほどまでに美味しそうに食べてくれる男なんて他にはいないのよと笑い、リオンの胸に軽く頭を押し当ててクスクスと笑うリアにリオンの顔にもじわじわと笑みが浮かんでくる。
「だよなー。オーヴェの怪我が治ったらすぐにクリニックを再開してもらわないとなー」
「ええ」
その日が一日でも早く来るように皆頑張っている、だからリアも頑張ろうと笑うとリアの目が一瞬見開かれるが、クリニックの受付で見ていた様にきりっとした表情で頷くと、ウィッグが届けばもっとリハビリにも気分が入ると己に言い聞かせるように呟く。
「そうそう……あれ、アリーセ?」
リアの顔に前向きな思いを感じ取ったリオンが胸の裡で溜息をついた時ドアが開いて花束を抱えた女性が入ってきた事に気付き、目を丸くしてしまう。
「リオン? お仕事はどうしたの?」
その問いはもっともなものだった為、不思議そうに見つめて来るアリーセ・エリザベスの為に椅子を用意し、冷静でいられる自信が無いからオーヴェの捜索をみんなに任せたと伝えると、アリーセ・エリザベスの目が冷たく細められる。
「投げやりでもねぇし後ろ向きな思いでもねぇ」
「じゃあどういうつもり?」
「俺の仲間達は全力でオーヴェを探し出してくれる。それは間違いねぇ」
信頼している人々に総てを任せ自分はウーヴェを発見したという朗報が入るのを待っていると伝えると、アリーセ・エリザベスの細められた目が逆に見開かれ、次いで好意的に細められる。
「……そう」
「うん、そう。オーヴェを発見して救出に向かうときにはお前も来いってボスに言われてる」
だからもしも可能なら一番に俺がオーヴェを迎えに行くとも告げ、だからこの間も言ったがもう少し待ってくれと伝えるとアリーセ・エリザベスが無言でリアのお見舞い用の花束を花瓶に生けて吐息を零す。
「……このお花、リアは好き?」
「え? え、ええ。綺麗なお花。……お花を見ているとやっぱり気持ち良いわね。ありがとう」
「そう。良かった」
二人の女性の会話を何となく蚊帳の外の気持ちで聞いていたリオンだったが不意に背中に何かがぶつかる衝撃に前のめりになりつつ必死の思いで踏ん張ると、アリーセ・エリザベスが背中に額を押し当てている事に気付き、振り返ろうと身体を捩るが振り向かないでと強く命じられて素直にハイと返事をする。
「……あなたがそこまで信じる仲間を、私も信じているわ」
己を褒められるよりももっと嬉しい言葉だとリオンが鼻の頭を掻きながら告げるが、女王様失礼しますと断りと入れた後、無理矢理身体を捩ってアリーセ・エリザベスの背中に腕を回して抱きしめる。
「ダンケ、アリーセ」
「……あ、あなたの為じゃないわよっ!」
「あー、はいはい。ホントにこの姉弟は素直じゃないんだからなー」
まったくと呟きながらアリーセ・エリザベスの髪を撫で、素直なアリーセ・エリザベスが好きだけどちょっとそれも怖いなと告げると、途端に背中に痛みが走る。
「ぎゃ!」
「それも怖いってどういう意味よ、リオンちゃん!?」
「痛い痛いイタイ」
ごめん、言い過ぎたと素直に謝罪をしたリオンにリアが肩を揺らして笑い出し、アリーセ・エリザベスが頬を少し紅潮させてリオンを睨み付けるが、睨まれた方は素直に思った事を口にしただけなのにと拗ねてしまい、更にそれがリアの笑いを誘ってしまう。
小さな笑い声が少しだけ大きくなり室内に充満した頃リアの主治医と看護師が回診にやってくるが、何故かその後ろにカスパルがいる事にリオンが気付き、診察の邪魔にならないように部屋の隅に移動するとカスパルもその横に並んでリアの傷の様子を遠くから窺う。
「……アニキ、リアの主治医じゃねぇのにここにいて良いのかよ?」
カスパルの耳に顔を寄せてにやりと笑うと、良いんだという無言の声がリオンの腰にぶつけられた拳から聞こえてくる。
「ふぅん」
無言の声から聞こえてきた感情をしっかりと読み取ったリオンが考え込むように天井を見上げるが、リアに付き添ってくれと告げたあの時のカスパルの様子から今リオンが察した感情を抱くようになっても不思議はないと気付き、今度は足下を見た後、カスパルの耳に再度口を寄せて何事かを囁くとカスパルの顔が驚くほどの早さで赤くなっていく。
「……リオン、あなた何を言ったの?」
「ん? ナイショ」
男同士のスケベな話だから女性には聞かせませんと真っ赤になって魚のように口をぱくぱくさせるカスパルの肩に腕を回したリオンが嘯くとアリーセ・エリザベスが呆れた様に溜息をつき、リアの診察が終わり今日からリハビリを始めようと告げるドクターの声も耳に入らないほどだった。
ドクターと看護師が出ていったのを見送ったカスパルは顔の火照りを抑えるように咳払いをしてリアの傍に向かうと、リハビリは少しずつだから焦らず無理をせずと、他の患者にもそんな言い方をするのかと言いたくなるような懇切丁寧な説明をするが、一日でも早く元に戻りたいと願うリアに焦りは厳禁だとも伝えくるりと振り返ってリオンを呼びつける。
「ん?」
「……後で話がある」
「分かった」
話の主題については聞かなくても分かっている為に素直に頷いたリオンは、リアの様子が落ち着いていること、リハビリも頑張ると分かった事から今日は帰ると告げ、アリーセ・エリザベスに進展があればすぐに伝えると告げて頬にキスをしリアの頬にもキスをする。
「リオン、無理をしないでね」
「ダンケ、リア。無理はもう通り越したから大丈夫だ」
何の事か分からないと首を傾げる女性陣に苦笑しカスパルと一緒に病室を出たリオンはロビーのベンチに腰を下ろし、ベンチの背もたれに腰を下ろすカスパルを見上げると先程まで病室で見せていた顔を一変させる。
「ウーヴェと昨日ビデオ通話で話が出来た」
「何だと!?」
「……アニキだから言う。ナイフで背中や腰を随分切りつけられていた。鞭で叩かれたみたいなみみず腫れもあった」
「……っ!!」
医療従事者のカスパルに隠しても仕方が無いと腹を括ったのか、聞かされた言葉に衝撃を受けるカスパルを痛ましげに見つめつつ誘拐されてからかなりの回数レイプもされていると伝えると、カスパルが椅子の背もたれから力なくベンチに滑り落ちる。
「さっきボスから連絡があった。オーヴェがいる家を何軒か特定したから今調べているって。――突入するときには俺も来いと言われてるから搬送するときはこの病院を指定したい」
だから背中や腰の傷だけではなくある意味最も深手を負っている場所の手当をアニキにして欲しいと青ざめて震えるカスパルの横顔に伝えたリオンは、ゆっくりと顔を振り向けるカスパルに頷きアニキだから頼めると小さく頭を下げる。
「……頼む」
「……分かった。俺に出来ることは何でもする。ウーヴェの傷はそれ以外には見えなかったか?」
リオンの言葉にカスパルがグッと拳を握って腹を括ったことを示した後他に何か傷口は見えなかったかと問いかけ、左足に茶色っぽい布を巻いていた事をリオンが伝えると、止血か傷口を塞いでいるような感じかとカスパルが問い返す。
「多分そんな感じ。オーヴェ、話してるときは自分の足で立ってなかったから良く分からないけど傷口を塞いでたのかな?」
画面の中のウーヴェは首輪に繋がるリードで引っ張られていたからとカスパルが初めて見るような昏い顔でリオンが笑うと、カスパルが震える手で口元を覆い隠す。
「そんなだからさ、頼むな、アニキ」
「ああ……俺が総てやる。誰にも治療させない」
カスパルの震える声にリオンが感謝と小さく告げてその肩をぽんと叩くと、同じ強さで腕を叩かれて大げさにイタイと笑う。
「……リオン、お前こそ大丈夫なのか?」
初めてウーヴェに紹介されて以来幾度かお前達と食事をしたり遊んだことがあったが、常にウーヴェの傍にいて離れなかっただろうと問われ、親指をくるくると回転させたリオンが天井を見上げ、無理は通り越した、後はやるべき事をするだけだと呟きカスパルの口を閉ざさせる。
「今まで俺がやって来た悪いことがオーヴェにいっちまった。誰にも文句を言えねぇよな」
今回の事は総ての発端が俺なのだから誰にも何も言えないと笑うリオンにどんな言葉を伝えるべきか悩んだカスパルは、その悩みも読み切っている顔で笑われて絶句する。
「ダンケ、アニキ。……とにかく、オーヴェが救出されたらここに搬送してもらうからその時はアニキに連絡する」
「あ、ああ。リオン、あいつを頼む」
「ん、分かった」
真面目な話は終わったと伸びをして立ち上がったリオンはロビーの端から顔を出したアリーセ・エリザベスに呼ばれている事に気付いて手を上げ、今度はアニキじゃなくてアリーセ・エリザベスの相手だと肩を竦める。
「……大変だな」
「ホントにな」
彼女の相手は無理だからギュンター・ノルベルトに止めてくれと頼んだのは数日前だったが遙か遠い昔のように感じつつもう一度肩を竦めたリオンは、リアの様子もまた見に来ると告げて笑みの質を切り替える。
「……リアってさ、新しいカフェとか行くの好きだぜ」
「……っ!!」
この情報をどう使うかはあんた次第だと笑って手を上げるリオンにまたもや何も言えなかったカスパルだったが、その姿がアリーセ・エリザベスと一緒にロビーの角を曲がった後、情報をありがとうよとやけくそ気味に叫び、通りかかった人たちを軽く驚かせてしまうのだった。
リオンに定期報告を忘れるなとヒンケルが怒鳴ってから数時間後、夏に比べればあっという間に太陽が寝床に帰ってしまいすっかりと暗くなって人々の気持ちも沈んだものにしてしまう夜、フィレンツェとローマ市内から少し離れた小さな町の裏通りに国家警察の強制捜査が入り、周囲の住人達が何事かと家々の窓から顔を出すが、強制捜査の対象が以前からいかがわしい事で金を得ていた会社だと知ると神の罰が下ったと笑って家に引っ込む。
パトカーの回転灯が夜の帳の降りた街を不気味に浮かび上がらせ、何人もの男女がパトカーで連行され、強制捜査で最も重要な組織の人間を確保することが出来た安堵に皆が胸を撫で下ろすが、そんな彼らから少し離れた場所に一人の刑事が移動し声を潜めて携帯電話に慌てた様子で呼びかける。
「……ローマが強制捜査に入られた。フィレンツェもおそらく今頃捜査員が向かっているはずだ」
電話の相手は懇意にしていた組織の人間で、もう少し情報を早く流したかったが決行日が直前まで知らされなかった言い訳をした時、肩をぽんと叩かれて飛び上がってしまう。
「誰に電話をしているか教えてもらおうか」
蒼白な顔で振り返る刑事の肩に手を載せ、さぁ詳しい話は警察署で聞こうと笑ったのはこの二年の間ずっと組織の内偵を進めていたBKAの刑事で、ブライデマンの直属の部下だった。
強制捜査の情報を今朝ブライデマン経由でヒンケルに伝えた彼は内通者がいる事を恐れて箝口令を敷いていたのだが、先手を打っておいて良かったと安堵に胸を撫で下ろし、自分たちの仲間に内通者がいたことに衝撃を受けて冷や汗を浮かべる国家警察の刑事に腰の上で手錠をかけた男の身柄を引き渡すと星が煌めく夜空を見上げ、フィレンツェの捜査も無事に終わりますようにと願い、あと少しでドイツに帰ることが出来るがまだ気を抜くなと己を律するように身体を一つ震わせるのだった。
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