夕焼けが校舎を赤黒く染めるころ、音楽室には大森ひとりの音だけが響いていた。
窓の外では運動部の掛け声が遠くで聞こえ、カーテンが風に揺れるたびに影が壁を這う。
ギターの弦を軽く弾くと、音は確かに響くのに、胸のざわつきは少しも消えてくれない。
藤澤はもう部活に顔を出していない。
あの日から、彼の様子は変わった。
笑っていても笑っていない。
話していても、どこか遠くにいるような気がする。
若井も——今日は遅いな。
大森は譜面に視線を落とし、ため息をついた。
「……元貴」
背後から名前を呼ばれ、心臓が跳ねた。
振り返ると、扉のところに若井が立っていた。
その姿に安堵しかけたが、次の瞬間に違和感が走る。
「お、お疲れ。遅かったな」
「……ああ」
返事は短く、声は低い。
笑顔もなく、瞳はまるで深い井戸の底のように暗かった。
大森は無理に笑って話しかける。
「なあ、このコード進行、昨日思いついたんだけどさ……」
「元貴」
その一言で空気が切り裂かれる。
低い声が音楽室の壁に反響し、背筋をぞわりと走った。
「お前さ……俺がいないと、何もできないよな」
言葉の意味を理解する前に、身体が硬直する。
気づけば、背中が壁にぶつかっていた。
ドンッ、と強い音を立てて手が壁を叩きつけられる。
若井——いや、“偽若井”が鋭い視線で大森を見下ろしていた。
「お前の歌が光だって? 笑わせるな」
至近距離で放たれる声は、耳ではなく胸の奥に突き刺さる。
「結局お前は孤独に怯えてる。俺らがいなきゃ何もできない、ただの子供だ」
大森の呼吸が浅くなる。
反論しようとしても喉が乾いて声が出ない。
「……お前、本当に若井なのか」
ようやく絞り出した声に、“偽若井”の口角がゆっくりと吊り上がる。
「さあ、どうだろうな。
少なくとも——本物よりも、お前のことをよく知ってる気がするけどな」
吐息が頬にかかるほどの距離。
その笑みは、温もりを知るはずの顔に貼り付けられた、冷たい仮面のようだった。
その瞬間、廊下の奥から軽い笑い声が響いた。
「おーい、元貴。……怯えてる顔、めっちゃ似合ってるよ」
廊下を見に行くと、そこには藤澤が立っていた。
いや、藤澤の“姿をした何か”だった。
細長い影を背後に引きずり、蛍光灯の下で口角を吊り上げている。
「……涼ちゃん……?」
大森は呟いたが、返ってきたのは薄気味悪い笑みだった。
偽藤澤はゆっくり歩み寄り、指先で自分の頬を撫でながら言った。
「大丈夫。心配ないよ。俺たち、ずっと一緒にいてあげるよ。
だって元貴……ひとりになるの、嫌だろ?」
「違う……お前らは……!」
大森は叫ぼうとするが、声が震えて喉の奥で詰まる。
偽若井がさらに圧をかける。
「なぁ、選べよ。
本物が鏡の中で泣いてるのを見捨てて、偽物と過ごすか……
それとも、偽物に喰われて終わるか」
「ほら。どっちに流れる?」
「っ……やめろ……!」
蛍光灯が一つ、また一つと消え、廊下が暗闇に包まれていく。
足元の影が不自然に長く伸び、二人の影と絡み合って、大森の足を縛るように見えた。
「怖いなぁ、元貴」
偽藤澤が囁く。
二人の笑い声が重なり、耳の奥をひりつかせる。
大森は震える手で壁を押さえ、深く息を吸った。
気づけば、全身汗で濡れていた。
はっと我に返ると、目の前には誰もいない。
ただ暗い廊下が続くだけだった。
⸻
その夜、夢を見た。
暗闇の中に、見覚えのある二つの影が立っている。
「……元貴」
声が震えている。
「助けて……!」
手を伸ばしても、その指先は遠く、靄に包まれて届かない。
「ここは冷たい……息ができない……」
藤澤の声が、必死に空気を掻きむしるように響いた。
「おい元貴! 頼む……ここから出してくれ!」
若井の声も続く。
かすれているが、確かに本物の若井の声だった。
その叫びは、夢だと分かっていても胸を引き裂くほど生々しかった。
大森は涙を浮かべながら手を伸ばすが、二人の姿は霧の奥に引きずり込まれるように消えていった。
⸻
目を覚ますと、布団の中で心臓が激しく脈打っていた。
窓の外はまだ夜の闇に沈んでいる。
息を整えながら天井を見つめ、大森は震える唇で呟いた。
「……俺が、助けなきゃ」
旧校舎の鏡に、本物の二人が囚われている。
笑っていたのは偽物だ。
冷たい眼差しで突き放す彼らは、本当の仲間じゃない。
その確信が胸に宿った。
孤独に押し潰されそうな夜。
けれど、その孤独こそが大森を動かす力となっていた。
——必ず、あの鏡の奥から二人を取り戻す。