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午後からの業務は、自分でも信じられないほどスムーズに進んだ。
昨夜はあんなに落ち込んでいたし、今でも心の奥底では傷がじくじくと痛むのに。
ナオミのメイクで引き締まった顔は、自然と背筋を伸ばさせ、仕事への集中力を高めてくれる。視界まで澄んでいるような、不思議な感覚があった。
「安住さん、今日なんだか凄く頼もしいわね。テキパキしてて助かるわ」
「穂乃果ちゃん、なんだか今日とても綺麗ね。凄く可愛いわよ」
師長からの称賛だけでなく、受け持ちの患者たちからも上々な評判。
いつもなら謙遜して縮こまるところだが、今日は素直に「ありがとうございます」と微笑んで受け流す余裕があった。
少しずつ、自分を取り戻せているような感覚。ウキウキとした高揚感が、胸の奥で静かに跳ねる。
――だが、その高揚感は、廊下の角を曲がった瞬間に冷たく凍りついた。
「……穂乃果」
一番会いたくない男が、そこに立っていた。
研修医の白衣を纏った直樹だ。彼は不満げに眉を寄せ、さも当然のように距離を詰めてくる。
「昨日、何してたんだよ。遅くまで待ってたのに、なんで連絡一つ寄越さないわけ? 心配したんだぞ」
(心配……? よくもまあ、そんな白々しいことが……)
昨夜、彼が里奈と何をしていたか、穂乃果はすべて知っている。
はらわたが煮えくり返りそうになるのを、ナオミに引いてもらったアイラインの奥に押し込めた。
動揺を見せるのは、負けだ。
「……ごめん。急な残業で疲れてたから。昨夜はそのままホテルに泊まったの」
「は? ホテル?」
一瞬、直樹の目が細められる。疑うような、探るような視線。
「ええ。スマホの充電も切れてたし。それより、もういい? 仕事をしないといけないから」
そっけなく告げて、彼の横を通り過ぎようとする。
これ以上、この男の吐く嘘を吸い込みたくなかった。それなのに――。
「待てよ、穂乃果!」
ぐいっと腕を引かれ、思わずバランスを崩しそうになる。
直樹の指が、穂乃果の手首を強く締め付けた。白衣の袖口から覗く手が、やけに生々しい。
「なんだよその態度。……それに、なんだ、その顔。今日はずいぶん気合入ってるじゃん」
品定めするような、不躾な視線。
直樹の瞳には、自分の知らない穂乃果の姿に対する焦燥と、奪われかけているものを取り戻そうとするような独占欲が、はっきりと浮かんでいる。
「別に、直樹には関係ないでしょ? それより、行かなくていいの? 先生たち待ってるんじゃない?」
「……チッ。わかった行くよ。帰ったらきっちり説明してもらうからな!!」
直樹は忌々しげに舌打ちすると、最後にもう一度、穂乃果の顔を睨みつけるようにして手を離した。
去り際、わざとらしく肩をぶつけるようにして歩いていくその背中を、穂乃果は冷めた目で見送る。
(何を説明しろっていうんだろう。……馬鹿じゃない?)
奪うものをすべて奪っておいて、どの口がそれを言うのか。
どうせ、あの家にはもう戻らないつもりだ。午前中のうちにあの家から必要なものだけはすべて纏めて運び出しておいた。
仕事から戻った後、誰もいないもぬけの空になった部屋を見て、彼は何を思うだろうか。せいぜい、従順だった「獲物」が消えたことに、滑稽なほど狼狽えればいい。
「先生」と呼ばれて悦に入っている彼の白々しさが、今はただ滑稽で、反吐が出るほどに疎ましかった。
「安住さん、大丈夫……? 真鍋先生、なんだか怒ってたみたいだけど」
通りがかった彩美が、心配そうに声をかけてくる。
「あ……うん、大丈夫。虫の居所が悪かったんじゃないかな?」
「ふぅん。でもまぁ、あの先生結構キレやすいしね」
彩美は不思議そうに首を傾げながらも、それ以上は踏み込んでこなかった。
(……不思議。あんなに執着していた場所なのに、全然惜しくない)
昨日まで「私のすべて」だったはずの男も、家も、財産も。
一度すべてを失ってみれば、それらはただの重荷でしかなかったのだと気づく。
常に顔色を窺って、言いたいことは全て飲み込んで、いい彼女でいるためにずっと努力してきたつもりだった。
メイク一つでこんなに自信が持てるようになるのなんて知らなかった。
(努力の方向を……間違えていたのかもしれない)
自分を押し殺して尽くすことが愛だと思っていた。けれど、ナオミがくれたこの「武装」は、自分を愛するための盾だったのだ。
「さあ、仕事に戻ろ」
驚くほど軽やかな声が出た。
今の穂乃果は、鏡の中の自分という絶対的な味方を得たような、奇妙な全能感に包まれていた。
その後の業務は、文字通り「完璧」だった。
テキパキと指示をこなし、患者の小さな変化も見逃さない。
「今日の安住さん、なんだか凄く頼もしい」という囁きが聞こえてくるたびに、背筋がすっと伸びるのを感じた。
業務を終え、更衣室で着替えを済ませた穂乃果は、鏡の中の自分を見つめた。
数時間の勤務を経て、少しだけ崩れたメイク。
けれど、その奥にある瞳の光は、昨日までの自分とは明らかに違っていた。
「……よし」
小さく独り言を漏らし、穂乃果は病院を後にする。
夜の帳が下りた街。
向かう先は、もう決まっていた。