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その日は朝から天気が変わりやすく、夏だというのに冬を思わせる雲が時折流れてきてはしばらく街の景色を楽しむように留まり、そしてまた何処かへと流れていく、そんな不思議な天候だった為、バカンスを楽しんで来た人々やこれから出掛けようとする人々が雨に降られたくないという気持ちから心なしか急ぎ足で目的地へと向かう姿が彼方此方で見られていた。
そんな雲行きが怪しい空の下を、先日、懐かしい教会と孤児院に顔を出して姉のように感じていたゾフィーと再会し、久しぶりに話をして今の暮らしを垣間見せたノーラが浮かない顔で歩いていたが、その顔に浮かんでいた痣が綺麗に消えていてもまだゾフィーとの約束は果たせていなかった。
二年前に体を売る暮らしをしなくても良いようにと、何の取り柄もないノーラに安くても確実に賃金を得られる仕事に就く為の訓練を行い、周囲の善良な大人達の力を借りながら一人でやっていける夢を抱けるようになっていたにもかかわらず、ある日突然母の代理人だと名乗る弁護士がやって来たかと思うと、その場にいた世話焼きが好きな人達にも何の挨拶もさせないで無理矢理連れて行かれてしまった彼女を待っていたのは、脅えたように目を合わそうともしない女と最も顔を見たくないと願っていた男、つまりは父だった為、その場から逃げ出そうとしたのだが、車に押し込まれて今住んでいるアパートに連れてこられ、その翌日からノーラは以前のように夢も希望も持てない暮らしに戻ってしまったのだ。
その日のことを思い出せばどうしても世話になった心優しいシスター達や自分を迎えに来てくれた天使の相貌を持つアーベルに顔を合わせることが出来ずにいたが、口うるさくて少し怖いゾフィーにだけは何故か総てを話せる気がしたもののやはり顔を合わせられない思いが強くて、つい昨日マザー・カタリーナとブラザー・アーベルが父に事情を聞きにやって来た時も遠くで見守ることしか出来なかった。
あの時、アーベルと一緒にあの教会に帰っていれば何かが変わっただろうかと歩きながら思案し、きっと簡単に連れ戻されて顔に痣が出来るほど殴られて客を取らされるだけだと、未来に対して何の希望も夢も抱いていない暗い目で笑ったノーラは、道端に寝転がってそのまま眠ってしまいたい衝動に駆られ、本当にアーベルが天使として迎えに来てくれて苦痛を感じない世界に連れて行ってくれたらどれ程嬉しいだろうかと自嘲にも似た笑みを浮かべる。
あの孤児院で彼と一緒に過ごした短くとも幸福な時間は、彼女にとってきらきらと輝く宝石のように貴重なものだった。
その時間を思い出せば今でも胸が暖かくなり、金を稼ぐ手段で無理矢理身体を売っているうちに冷え切った心までもが温もりを持つように感じられるのだ。
あの幸せな時を思い出すと自然と笑みが浮かび、年齢を感じさせないような化粧をした顔に明るさが戻ってくる。
眼鏡を掛けた背の高い自分だけの天使の顔を思い描いて幸せな気分で自宅に戻った彼女だが、自室のドアが開いている事に気付いて首を傾げ、人の気配を感じ取ると同時に顔中の血の気を喪ったように蒼白になる。
今日は出かける前にちゃんと鍵を掛けて出たはずなのに何故ドアが開いているのだろうか。そして何よりも、洋服ダンスの奥に隠してある貯金箱は無事だろうかと一瞬のうちに思案しながらドアを開け放つと、ベッドに腰を下ろして銜え煙草で金を数えている父の姿が目に入る。
「あ、たしの部屋で何してんのよ・・・!」
蒼白な顔で叫びながら部屋に入ってきたノーラを見た父は、煙草を窓から外に投げ捨てて立ち上がると、片手には紙幣を握りもう一方の手でノーラの髪を掴んでぎらついた目で彼女を睨む。
「痛い・・・っ!」
「お前、こんな大金を隠してやがったのか?あぁ!?」
「知らない・・・っ!」
今ここで自分の金だと言い張れば何をされるか分からない恐怖に思わず知らない振りをしようとするが、ならば何故タンスの奥に隠すようにしていたと耳元で叫ばれ、きつく目を閉じて次に来る痛みに身構える。
「よくもまぁ隠してたな。これだけあればドラッグも買えるし酒も飲めるじゃねぇか」
彼女が心を押し殺しながら客を取って稼いだ金は大半が父に奪われていたが、その使い道は目の色を変えた父の口から流れ出したように、ドラッグや酒を買う為やまたは同居している女の衣装代やアクセサリーに化けていて、心身ともに痛みを感じている彼女の為に使われることはほとんどなかった。
それを理解している為、一日でも早く独立できるように貯めてきたなけなしの金を握られ、絶望的な気持ちに囚われながらも髪を握る父の手を何とか振り払って廊下へと飛び退くが、柔らかな何かが背中にぶつかり、慌てて振り返ったノーラの目に飛び込んできたのは、いつもと同じ濃い化粧を施した顔にいやらしい笑みを浮かべて見下ろしてくる女の顔だった。
「駅裏に新しいクラブが開店したんだってさ。その金で遊びに行こうよ」
「良いな、行くか」
「や、だ、やめて・・・っ!返してよ!!」
あたしが貯めていたお金なんだから返してと、真っ青な顔で叫ぶノーラを煩げに睨み付けた女は、外で稼ぐのも良いが今度AVを作っている会社を紹介してやるからそこでもっと稼いでこいと吐き捨て、ノーラの父もそれが良いと下卑た笑い声を室内に響かせる。
今客を取ることでさえも心が押しつぶされるほどの苦痛を感じているのに、この上更に不特定多数に己の裸や身体を開かされる姿を見られるのかと思うだけでノーラの目の前が真っ暗になり、貧血を起こしたようにふらついてしまう。
「お願い、返して・・・っ!」
「うるさいね!また稼いでくれば良いだろ!?」
これからまた外に立って金を稼いでこいと、廊下に座り込んだノーラの腿を蹴り飛ばした女が煙草に火をつけて煙を吹き付け、さっさと行ってこいと唾を吐く。
何故自分はここまでされなければならないのか。ただ父が人としても親としても最悪なばかりに、同年代の女の子ならば当たり前のように享受している楽しい学生生活も送れず、それどころか大人でさえも顔を顰めてしまうような方法で金を稼いでもほとんどを奪われ、自分に残されたのはごく少額のユーロ紙幣だけだった。
人並みに幸せを望むことも許されないのかと暗く嗤ったその時、ドアベルが途切れ途切れに鳴り響き、三人の視線が一斉にドアに向くが、ノーラがいち早く父の手に握られたままだった紙幣を奪い取る為に女を突き飛ばす。
「アッ!?」
廊下の壁に肩をぶつけた痛みに顔を顰めて床に座り込む女の声に驚いて振り返った父の手から紙幣を取り返したノーラの耳に、今一番聞きたくて聞きたくない優しさを思い出させる男女の声が流れ込む。
「何をしやがる、さっさと返しやがれ!」
「これはあたしのお金だもん!渡さない!!」
廊下で父と娘が目を光らせながら怒鳴り合い、その声に被さるようにドアベルが何度も鳴り響き、うるさいと父が叫んだその時、ドアベルや父娘の怒声を遙かに上回る大きな音が廊下中に響き渡る。
その音はノーラ自身テレビや映画などで耳にしたことはあっても現実に耳にする事がないもので、咄嗟に何の音なのかが理解出来ずに音がした背後を振り返ると、目を吊り上げた怒りの形相で女が拳銃を構えて立っていた。
「お前、商売道具を勝手に持ち出してんじゃねぇぞ!!」
「あんたがちゃんと言い聞かせないから逆らうんだろ!」
ノーラを挟んで前後で始まった女と父の怒鳴り合いを尻目に、取り返した金をしっかりと握ったノーラがいつまでも鳴り響くドアベルの音に紛れる微かな声の主に助けを求めるように手を伸ばして父の横を擦り抜けようとするが、それに気付いた父が彼女の腕を掴んで力任せに引いた為、あと少しでドアノブに手が届く場所から元いた場所に倒れ込んでしまう。
「さっきからうるせえぞ!こいつをどこにもやるつもりはねぇからさっさと帰りやがれ!」
廊下に倒れ込んだノーラを一瞥した後唾を吐いた父が玄関に向かって叫ぶと一瞬だけ沈黙が訪れるが、ここを開けて下さいという昨日同様切羽詰まった女性の声は止まることはなく、今度はドアベルだけではなくドアそのものを叩く音も聞こえだしてしまい、隣近所から野次馬が顔を覗かせる気配も伝わってくる。
「お前が余計な事をするからだろうが!」
「あたしが悪いんじゃないよ!悪いのはコイツだよ!!」
父と女の怒りの矛先が向けられたのは当然ながら最も弱い立場にいるノーラで、女が銃を構えたままノーラを蹴りつけようとするが、彼女も父から暴力を受けて堪え続けてきた限界を越えたようで、少女のものとは思えない低い絶叫を放ったかと思うと、蹴りつける為に浮いていた女の足を掴んで高く掲げ、女の身体を廊下に叩き付けると素早く身を屈めて女の手から転がり落ちた拳銃を足下の身体に向けるように構える。
「ひ・・・っ!や、やめて・・・っ!!」
「あたしが今まで稼いできたお金を返してよ!」
女が手にしていた拳銃を強く握りしめたノーラが青ざめた顔を見下ろしながら怒鳴り、あんたの金など50セントも残っていないと引き攣った顔で笑われ、理性の箍が吹き飛んだような声が廊下に響く。
「あんた達なんか・・・っ、死んでしまえばいいんだ!!」
「や、やめてよぉ・・・っ!」
震えながら懇願する女を正気を失ったような顔で睨み付けた少女は、背後から伸びてきた手に気付かずに女を見下ろしているが、その手が腕を掴んで銃を奪い取ろうとしている事に気付き、慌てたように上体を屈めて身を捩る。
「返せ!!」
「いや!離してっ!」
銃を奪おうとする父と何があっても手放すまいとする娘の鬩ぎ合いの間近で女が震えているが、ノーラが父の力に負けて蹌踉けたその時、彼女の肩まで痺れるような衝撃が手の中で生まれ、直後に耳をつんざくような悲鳴が家中に響く。
「アァアアアア!!!」
「・・・ッ、ヒ・・・っ!!」
悲鳴を上げて床の上でのたうち回る女が肩を押さえた手の間からまるで意思を持っているかのように赤い血が流れ出し、みるみる内に押さえた手や服が赤く染まり、その衝撃にノーラが銃を胸元に引き寄せたまま小刻みに震え出す。
「それを返せ、エレオノーラ!」
「い、いや!」
痛みにのたうつ女を冷たい目で睨んだ父はその目つきのまま震える娘を睨み付けて早く拳銃を返せと強く迫るが、死んでも離さない事を示しながらノーラが後退って玄関のドアに徐々に近づいていく。
「早く返せ!!」
「いやよ!」
父の腕から逃れるように身を捩り、ドアまであと少しと迫った時、父の手が襟首を掴んで引きずり倒そうとした為に渾身の力で振り払うが、着ていたシャツが破れて素肌が露わになってしまっても今は気にしている余裕はなく、そうすることでこの現実から救われるんだと思い込んでいるようにドアに手を伸ばす。
だが素肌の肩に食い込む父の手の強さに負けて不自然な体勢で身を捩った瞬間、何かが激しく爆発したような音が生まれ、間髪いれずに二人の身体が逆方向に吹き飛ばされる。
「────ッ!!」
「ヒ、ヒィィイイイッ!!」
ドアの近くまで来ていたノーラが背中からドアにぶつかるが、己の身体に芽生えた熱と痛みに身体を痙攣させながらも必死に手を持ち上げてドアの鍵を開けると、ようやく開いたドアからいつも夢に見ていた男が飛び込んでくる事に気付いて大きく目を瞠る。
「ノーラ!!」
ドアから少し離れた場所に倒れ込んで痛みに身体を痙攣させるノーラの傍にブラザー・アーベルが膝をついて蒼白な顔で彼女の上体を抱き起こすと、真っ青な顔で弁護士に救急車と警察に通報をして下さいと指示を与えたあとでマザー・カタリーナが膝をつくが、ブラザー・アーベルの腕の中で身体を痙攣させる少女の顔や胸元が見るも無惨な傷を負い、呼吸にあわせるように傷口から鮮血が吹き出す様から、ノーラの命が流れ出していくことに気付くと口元を両手で覆って顔を伏せる。
「なんということ・・・っ」
「マザー、何か止血するものを・・・!」
アーベルの切羽詰まった声にマザー・カタリーナではなく、救急車の手配と警察への通報を終えた弁護士がノーラの部屋から持ち出したベッドのシーツを二人に差し出すと、血が流れ出す無残な傷を隠すようにシーツを被せたブラザー・アーベルが、己の血と火薬と拳銃の破片が絡まっている金髪を労るようにそっと撫でる。
「ノーラ、ノーラ、私の声が聞こえますか?」
喉笛から流れ出すか細い声がうんと返した事に頷き返したマザー・カタリーナは、彼女の胸元で拳銃が爆発した為にその衝撃で指先が吹き飛ばされて真っ赤に染まっている手をそっと握り、鮮血の中で暗く光る双眸を覗き込んで彼女の名を呼ぶ。
「ノーラ、どうしてこのような事になったのです?」
「あ、たしの・・・お金、・・・とろ・・・と・・・」
「ゾフィーから聞いていました。あなたが貯めていたお金を取られたのですね?」
「・・・う、ん」
マザー・カタリーナの手に血まみれになった紙幣を握りしめた手を重ね、このお金を取られそうになったと答え、呼気の固まりとともに血の塊も吐き出してしまう。
「救急車はまだですか!?」
アーベルの悲鳴じみた声に青年弁護士が蒼白な顔で時計を見つめてドアを睨み、救急車の到着と少女の命が失われる速さを比べて苛立たしげに足踏みをし始める。
「だって・・・こ、れ、とられ・・・ら、あたし、・・・いつまでも・・・ここか、ら・・・」
離れられないと悔しそうに呟くノーラの目尻に涙が光り、こんな所一日でも早く逃げ出したかった、本当はマザー・カタリーナやゾフィー達がいるあの孤児院にいたかったと咳き込みながら告げた為、身体の揺れに合わせて目尻から大粒の涙が伝い落ちる。
「あた、し・・・ホームにいたときが・・・いちば・・・たの・・かった」
短い人生の中の記憶を埋め尽くしているのは苦痛ばかりだったが、その苦痛ばかりの人生の中で一欠片の砂金のようにきらきらと輝いている時があり、それがホームで過ごした日々だったと、終わりを迎える事を悟ったノーラが嬉しそうな透明な笑みを浮かべ、己の身体を支えているブラザー・アーベルを見上げて心底嬉しそうな声でやっぱりアーベルは天使様だったと囁き、眼鏡の下の双眸を驚愕に見開かせる。
「私が天使なら・・・きみはこんな風にならずに済んだはずです・・・!」
私は天使などではなく、誰一人として救うことの出来ない無力な人間なのですと、己の無力さに打ち拉がれたような声で囁くアーベルの頬に、そんな事は無いとノーラが血に染まった手を宛がおうとするが、端正な横顔が血に汚れる事を嫌ってそっと手を戻す。
「でも、迎え・・・きてくれ、た・・・やっぱ・・り、アーベルは・・・天使、さま・・・だ、ね」
幼い頃から苦痛を和らげる為に思い描いていた、いつか自分をこの苦痛から解き放ってくれる天使の容貌を持つアーベルに満足そうに笑ったノーラは、マザー・カタリーナの顔に目を向けると、ゾフィーとの約束を守れなくてごめんなさいと素直に謝罪をし、もうそれ以上何も言わなくて良いと伝える代わりにブラザー・アーベルがノーラの手を頬に当てて顔を何度も左右に振る。
「きみを迎えるのは救急車ですよ」
「・・・あたし・・・痛いの、も・・いやだ、よ・・・」
こんな苦痛をこれからも味わうような人生ならば、このまま自分を迎えに来た天使の腕の中で眠りに就きたいと透明な笑みを浮かべられてしまい、咄嗟に何も返せなかったブラザー・アーベルが唇を噛み締めれば、せっかくお迎えに来てくれたんだからと静かに笑い、無言で俯く顔を見上げて目を細める。
「ね、あたし・・・神様のとこに・・・いける、かな・・・?」
幼い頃から父の命令に逆らえずに己の身体を売り物にし、好きでもない相手の子どもを三回も妊娠したが、その度に自然であれ人工であれ宿った命を奪ったような自分であっても神様は迎え入れてくれるのだろうかと問いかければ、ブラザー・アーベルが強く目を閉じたかと思うと、当たり前ですと静かな声で断言する。
「きみが神の元に行けなくて誰が行くと言うのです?きみは地獄になど行きませんよ」
「良かっ・・・な、んか・・・暗くなって・・・た・・・」
ノーラの声にブラザー・アーベルが唇を噛み締めて彼女の暗くなっただろう視界にしっかりと入るように顔を寄せれば、そんな二人を痛ましげに見つめるマザー・カタリーナが青年弁護士に何やら耳打ちをされた後、ノーラよりも奥で倒れて痛みにのたうっている男女の姿に深く溜息を零すと、ようやく駆けつけた救急隊員に事情を説明する。
ノーラをストレッチャーに乗せようとした救急隊員だったが、マザー・カタリーナと弁護士が彼女よりも負傷していても命に別状はなさそうな二人を先に運び出してくれと視線で告げられた為、その言葉に従う様に男女をストレッチャーに乗せ、下で待機している救急車に乗せる為に運び出すと、急に室内が静まりかえる。
「ノーラ、私の声が聞こえますか?」
「う、ん・・・マ・・・ザー、ごめ、なさい・・・」
アーベルの腕の中で手を挙げるノーラの傍に膝をつき、血にまみれた手を再び握って祈るように目を閉じたマザー・カタリーナは、あなたは何も悪くないのだから謝る必要はないのですと、あの日も伝えた言葉をもう一度伝えれば、安心したような小さな吐息がノーラの口からこぼれ落ちる。
「も、う・・・あんまり・・・見えない、んだ・・・何か、こわい・・・っ」
「ノーラ・・・何も怖がることはありません。あなたはもう痛みも苦しみも感じない明るい場所に向かうのです」
「・・・マザー、もう・・・眠っても、良い、の?」
「・・・・・・ええ。お休みなさい、ノーラ」
胸の傷を押さえるように被せたシーツはすでに真っ赤に染まり、口の端から流れる血とともに彼女の命も流れだしていて、教会のマリア像を手入れする時のように恭しく優しい手付きで彼女の髪を撫でたマザー・カタリーナは、今まさに短い命を終えようとする少女が恐れることなく神の元に旅立てるように祈り、ブラザー・アーベルを見て小さく頷くと、彼もマザー・カタリーナの思いを察して同じようにノーラの髪を撫で、血で汚れている額を掌で撫でる。
「ノーラ・・・光が見えますか?」
ブラザー・アーベルが彼女の耳元に口を寄せて囁きかけて吐息で返事を貰うと、その光はきみを導くものだから怖がることはないと囁けば、更に安心したような子どものような小さな溜息がこぼれ落ちる。
もうどれだけ手を尽くしたとしても助けられないのならば、彼女が望む最期を迎えさせてやろうとの思いがマザー・カタリーナとブラザー・アーベルの間にあり、それを感じ取った弁護士が駆け寄ってきた救急隊員に手短に説明をし、あと少しだけ待ってくれとひっそりと頼み込む。
「・・・天使、さま・・・ゾフィーとリ・・・オンに・・・」
「分かっています。きみは何も心配しなくて良いのです」
「うん・・・リオンに、会いた、かっ・・・なぁ・・・」
初めて話をした時はゾフィーと同じように怖いと思ったが、しばらくするとまるで兄のように思えた事を途切れ途切れの声で囁き、そこまで贅沢は言えないから仕方ないと満足そうに吐息を一つ。
「・・・・・・、ありが、・・・バイバ・・・イ・・・」
痛みと苦痛に彩られた短い人生を送った少女が、生きている間に感じていたそれらから解き放たれて神の元に旅立つ直前のその声にマザー・カタリーナが震える瞼を閉ざし、ブラザー・アーベルが眼鏡の下の双眸を赤くする。
「・・・・・・神の御許でゆっくりと休みなさい、ノーラ」
マザー・カタリーナがシーツの上で彼女の手をそっと重ね合わせて短くも真摯な祈りをすると、ブラザー・アーベルに合図を送って立ち上がる。
「アーベル」
「・・・・・・はい」
こちらの意思を尊重して待機してくれていた救急隊員に目礼し、マザー・カタリーナと弁護士とブラザー・アーベルがドアの外に出ると、野次馬が容赦ない視線を投げ掛けてくる最中、顔見知りの刑事が慌てたように駆け寄ってきた為、後の事は警察署で弁護士がお話をしますと一礼をし、自分たちはひとまずは教会に戻る事を伝えると、二人は血に汚れた修道服のまま野次馬の視線も黙殺してノーラの家を後にするのだった。
今日は天候が不安定だから人の気持ちもそわそわするのか、重大な事件ではないがそれでも一歩間違えれば最悪の結末を迎えていたかも知れない事件がいくつか重なり、そのうちの一つの処理を終えたリオンがジルベルトとともに警察署に戻ってきたのは、夏の陽が寝床に帰ろうとする直前だった。
こんな時間まで働く俺たちを誉めてくれと口に出すリオンに、ジルベルトが当たり前だと思われているから誰も誉めてくれないと自嘲の声を挙げ、男二人で慰め合うように肩を組んで刑事部屋に上がっていく。
刑事部屋は人も疎らで、先に帰った同僚達が羨ましいと口を尖らせたリオンは、ヒンケルの部屋のドアが開いて名を呼ばれた為、気怠そうな顔を隠すことなく中に入り、デスクに背中を向けて窓の外を見ているヒンケルの背中に今帰ったことと事件の顛末を手短に説明をする。
「ああ、ご苦労だった。・・・お前がその事件で出ている時に住宅街で拳銃の暴発事件があった」
「へ?暴発?安いコピー品でも掴まされたんですか?」
銃の暴発など久しぶりに聞いた気がすると肩を竦めたリオンだが、ヒンケルが肩越しに振り返って己を真っ直ぐに見つめてきた為、何かがあることを察して口と閉ざし、腰の上で手を組み親指をくるりと回転させる。
「・・・被害者は?」
「銃を暴発させたのは十六歳の少女で、その暴発に巻き込まれたのは彼女の父親だが、暴発する前に女が一人肩を撃たれている」
「その少女は・・・」
「残念ながら、手の施しようがなかった」
「・・・ボス、奥歯に物が挟まったような言い方、俺は嫌いなんですよね。知ってましたよね」
ヒンケルが事件の核心をわざと外していることに気付いたリオンが戯けた風を装って問いかけると、頭ひとつ分低い場所にある顔に沈痛な色が浮かび上がり、デスクの引き出しから血がこびり付いて乾燥している紙幣が数枚入ったビニール袋を取り出してリオンの前にそっと差し出す。
「彼女が死の間際まで握っていたそうだ。これを父親に奪われそうになり、女が持っていた拳銃を奪って撃ったが、火薬が不良品だったようで銃が暴発したらしい」
「・・・・・・担当は誰ですか」
「マックスとダニエラだ」
リオンが親しく付き合う刑事仲間でも堅物と陰口を叩かれる程生真面目なマクシミリアンと唯一の女性であるダニエラが担当している事から、きっとどちらに偏ることもなく公平に事件を見てくれる確信を抱いて無表情に頷くものの、差し出された血まみれの紙幣を見つめていると、自分自身でも理解出来ない冷め切っているのに不思議と熱を感じる暗い感情が胸の裡に込み上げてくる事に気付き、それを堪える為に腿の横で拳を握って掌に爪を突き立てる。
「・・・マザー・カタリーナとブラザー・アーベルが彼女を看取ったそうだ」
「アーベルが・・・そっか、ホントにアイツの天使になったんだ、アーベル・・・」
ヒンケルがマクシミリアンとダニエラから掻い摘んで報告を受けたが、その中で教えられた事をリオンに伝えると、珍しく放心したような声でリオンが呟き、天井を仰いで拳を更に握りしめる。
「・・・今頃、天国に行ってるんでしょうね、アイツ」
「そうだな・・・・・・これは証拠として預かっておくが、彼女の父は女と同じ病院に入院している」
「ボス、どこですか、それ」
「・・・お前には教えられない」
「え、何ですか、それ。ヒドイな」
ヒンケルがクッと眉を寄せてきっぱりと告げるとリオンが殊更陽気な声を発するが、蒼い瞳に宿っている感情をしっかりと見抜いたヒンケルはゆっくりと首を左右に振り、病院は教えられないが、拳銃の密輸入と麻薬の使用及び売買、彼女の母親とその両親に対する脅迫と強請の罪で治療が終わると同時に裁判に掛けられる事を告げると、リオンの肩から何かが堕ちたように力が抜ける。
「・・・母親と両親への脅迫って・・・」
「彼女の祖父母が金を要求する父親との会話を録音していたらしい」
それを証拠として提出するので刑事事件として訴える事を捲し立てられたとダニエラが帰ってきたときにヒンケルに伝えたようで、それを聞かされたリオンが青い眼を限界まで見開いたかと思うと、腿の横で握っていた拳をヒンケルのデスクに叩き付ける。
「シャイセ!」
今頃訴えるのならば何故彼女が最も助けを必要としている時に訴えなかったんだと噛み締めた奥歯を軋ませて絞り出すように吐き出すが、次の瞬間にはたった今見せた激情など嘘のように涼しい顔で拳を戻してヒンケルに一礼する。
「・・・・・・ボス、もしかすると一日休みを取るかも知れません」
「あ、ああ、気にするな」
「アイツはもう・・・?」
「多分明日には帰れる筈だが・・・・・・孤児院で良いんだな?」
ダニエラが事情を聞きに行った祖父母と母の元ではなく、お前の実家であるあの孤児院で良いんだなと念を押すヒンケルにリオンが無表情に頷き、彼女の葬儀を終えたらマックスとダニエラに話を聞く事と今日はこのまま帰ることを伝えると、ヒンケルもそっと頷いてご苦労だったと労ってくれる。
「リオン」
「Ja」
「・・・孤児院に花とカードを送る。彼女に供えてやってくれ」
「ありがとうございます、ボス」
たった一度見ただけの少女の死を悼んでカードと花を手向けてくれるヒンケルの心遣いが有り難くて、もう一度頭を下げたリオンが部屋を後にする姿を見送ると、重苦しい溜息を零してデスクに力なく腰を落とし、己の部下の心を思って悲痛な色を瞳に漂わせるのだった。
そろそろベッドに入って明日の診察に備えようと、リビングのソファから立ち上がって伸びをしたウーヴェは、窓を流れ落ちる雨粒に気付き、窓を開けて雨脚を確認するように顔を出すが、真冬の冷たい雨ではなく何か温かさを感じるようなそれに目を細め、窓を閉めて戸締まりを確認すると、リビングの照明を消してベッドルームに向かう。
今日は仕事はいつもと同じように順調に進み、オルガとも疲れを労って少しだけ先の休診の予定について話し合ったのだが、ここ数日リオンから何の連絡もない事を訝ったオルガにまさかケンカをしたのかと問われて飲んでいた紅茶を喉に詰めるという失態をしでかしてしまったのだ。
そんな風に思われている事に驚きを隠せなかったウーヴェだが、確かにリオンから連絡がないというのは非常に珍しい事だった為、仕事が忙しいのだろうと言葉を濁しておいたが、明日も連絡がなければこちらからメールをしても良いだろうと苦笑し、ベッドルームのドアを開けた時、綿パンのポケットから軽快な映画音楽が流れ出す。
たった今考えていた張本人からの電話にあまりのタイミングの良さに驚きつつも携帯を耳に宛がい、疲れ切っているかそれとも浮かれている声が聞こえてくるかと想像しながらどうしたと声を掛けるが、聞こえてくるのは少しだけ荒くなっている呼吸音だけだった。
「リオン?どうした?」
携帯の向こうの景色を咄嗟に読み取れずに眉を寄せ、どうしたんだともう一度優しく問いかけたウーヴェは、掠れたような声で名を呼ばれて仕事中なのかと不安の滲んだ声を出すが、仕事は終わった事をぼそぼそと返される事に焦りを隠せなくなる。
「仕事は終わったんだな?どうしたんだ?それに今どこにいるんだ?」
リオンの低く沈んだ声の後ろの光景を感じ取ろうと意識を集中させるが、なかなか脳裏に風景が思い浮かばず、一体今どこにいるんだと焦りの滲んだ声で再度問いかける。
『・・・・・・オーヴェ・・・オーヴェ・・・っ』
「ああ、リオン、リーオ。今どこにいる?そこはどこなんだ?」
聞こえてきた声に心臓を鷲掴みにされたような痛みを胸に感じ、胃袋の上辺りの服を握りしめたウーヴェは、頼むから答えてくれと告げて耳を澄ませて聞こえてくる言葉や周囲の物音を拾う為にきつく目を閉じるが、ふと何かが気になると同時に廊下の先ぽつんと存在するドアを見つめて碧の目を限界まで見開く。
「まさか・・・・・・」
小さく呟きながらも足はかけ出していて、玄関のドアを勢いよく開け放つと同時に左右を見渡し、予想通りの人影を発見して安堵の溜息を零す。
玄関の明かりが届かない廊下で膝を抱えて携帯を耳に宛がっているリオンの姿を発見し、ドアが閉まってしまわないようにサンダルをドアの間に挟んだウーヴェは、携帯をポケットに戻してリオンの前にしゃがみ込み、その手から携帯をそっと取り上げて通話を切る。
「こんな所にずっといたのか?」
いつかも話したと思うが、ここにいるのならばどうして連絡をしないんだと少しだけ非難するような声で名を呼んだウーヴェは、のろのろと上げられたリオンの顔を見た瞬間、何も言わなくて良いと言いながらリオンの頭を胸に抱き寄せる。
「リーオ・・・・・・中に入ろう」
お前のもう一つの家でもあるこの部屋に入ろうと囁いて頷くリオンを抱き起こすように立ち上がると、俯いたままの恋人の手を強く握って中に入り、戸締まりの確認をするとベッドルームに向かい、ベッドではなくソファへと導くと、濡れている為に座ることを躊躇う気配を見せるリオンの肩を抱いて逆らえない優しさで座らせる。
「・・・この間問題が起きたと言っていたが、それに関係する事か?」
少し前に電話で話をしたが、ホームで面倒を見た少女に何かがあったのかとそっと問いかけながらリオンの髪を撫で、冷たくなっている身体を温めるように腕を回すと、くすんだ金髪が上下に揺れる。
「そうか・・・・・・話せるか?」
もしも話せるのならば話して欲しいが、仕事が絡んでくるのならば無理に話す必要はないと、リオンの仕事の特殊な事情に配慮したように問いかけるウーヴェにリオンが凭れるように身体を傾げて来た為、しっかりとその身体を受け止める。
「どうした?何があったんだ?」
「・・・お迎え、来ちまった・・・っ・・・」
「・・・そうか」
お迎えが何を現す事かを察して目を伏せ、残念だし悲しい事だなとひっそりと告げてリオンの髪に口を寄せ、悔しいなとも囁くと、のろのろと上がったリオンの手が腰に回って強い力で抱きしめられる。
「本当に・・・残念だし悔しいな」
「オーヴェ・・・っ!」
リオンの背中を抱くように腕を回し、悲哀に震える身体を抱きしめたウーヴェは、それでもまだ何かを躊躇っている気配を察してリオンの名を呼び、この間も話をしたが無理をする必要はないと囁き、頷かれた事に安堵の溜息を零す。
「・・・・・・オーヴェ」
「ああ。どうした?」
「全部終わったら話すって言ったよな、俺」
「そうだな」
顔を上げて何かを堪えるように高い天井を睨み付けたリオンだったが、ウーヴェを見る為に顔を戻した時にはいつもよりは少しだけ暗い表情に戻っていて、顔を出していた生身のリオンが姿を消した事に気付くが、特に今は何も言わずにリオンの言葉の続きを待つ。
「多分・・・明日か明後日に葬儀があると思う。それが終わったら・・・クリニックに行っても良いか?」
「・・・・・・ああ」
葬儀と聞かされてやはりあの時話題になった誰かが亡くなった事を察し、いつもならば駆け込んでくる癖に断りをいれる恋人の心を慮ってそっと頷いたウーヴェは、いつもとは違うひっそりとした声にダンケと告げられてゆっくりと首を振る。
「気にする必要はない」
「うん・・・・・・シャワー浴びてくる」
「分かった」
その間にパジャマだのの用意をしておくことを伝え、ソファから立ち上がったリオンを抱きしめ、しっかりと暖まるんだぞと告げたウーヴェは、リオンがバスルームに姿を消すまで見送ると、クローゼットからパジャマやバスローブを取り出して出てきた彼がすぐに眠れるように準備を整えるのだった。