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第八話 霧の向こう側
雨の音がしていた。
天井からではなく、どこか遠く。まるで教室の壁の向こうで、誰かがずっと静かに蛇口をひねっているような――そんな水音だ。
晴明は、人気のない廊下を歩いていた。
壁に掛けられた時計は針が止まったまま、しかし別の教室の時計は動いている。
窓の外に広がる校庭は霧に包まれていて、さっき見た時と芝の色が違う。
(……まただ。世界が少しずつズレてる)
晴明は足を止める。
霧の中、誰かの影が立っていた。
「……晴明くん、こちらに。」
影が近づき、学園長の姿になった。
しかし、なぜか“足音”がしない。
ただ、滑るように近づいてくる。
晴明は喉の奥がきゅっと締まった。
「学園長……? どうして、ここに」
「見回りですよ。あなたが迷わないように、ね。」
学園長の声は穏やかだ。
だが廊下の蛍光灯がわずかに瞬いた瞬間、ほんの一瞬だけ――晴明にはその声が“水の中から響いたように”聞こえた。
(……今の、何?)
晴明はゆっくり後ずさる。
それに気づいたように、学園長は微笑んだ。
「晴明くん、そんなに警戒しなくてもいいのですよ。私はただ、あなたに伝えたいことがあって来たのです。」
「伝えたいこと……?」
「ええ。」
学園長はふと、窓の外を見た。
霧の向こうへと目を細め、懐かしむように――しかし、その表情は悲しみに近かった。
「あなたがもし、この“夢から”出ようとしたら……良くないものを見るかもしれません。」
唐突に出た言葉に、晴明は思わず息を呑む。
「……良くないもの?」
「ええ。とても。」
学園長の目は優しかった。
けれど、優しさの奥に沈む“深い影”は、晴明をぞくりと震わせた。
なぜそんな影を宿しているのか――まるで、すでに“何かを経験した人間”のように。
晴明は唇を噛む。
「学園長……その、霧の向こうには何があるんですか?」
「それを、あなたに言うわけにはいきません。」
学園長は首を振る。
「知れば、夢は壊れますから。」
「ゆ、夢……?」
「ええ。あなたがまだ見ていたい夢です。
私はあなたに夢の覚め方を教えました
ですがあなたはまだ、夢から覚めようとは
ていない。」
“まだ”――その言い方が引っかかった。
「学園長……その言い方だと、まるで……」
「……」
学園長は、少しだけ口元を緩めた。
微笑んでいるはずなのに、その表情はどこか“諦め”のようにも見えた。
「本当に夢だとしても――誰が困りますか?」
(現実の学園長は一体どうなって…?)
晴明の胸はざわついた。
学園長はいつも答えをくれる人だった。
なのに今は、核心だけを避けている。
その時だった。
――ひゅう、と冷たい風が廊下を通り抜けた。
窓ガラスが震え、霧の色がほんの一瞬だけ暗くなる。
その瞬間、晴明の耳に“ある音”が届いた。
――ぷつん。
何かが、水の底で切れるような音。
(え……今の、なに?)
晴明は反射的に学園長を見る。
すると、学園長は動かなかった。
ただ静かに立ち、どこか遠くを見るような目をして――まるで、世界の音が聞こえていないようだった。
「……学園長?」
「……」
「学園長!!」
晴明の声で、ようやく学園長は瞬きをした。
「ああ……すみません。少し、昔のことを思い出していました。」
「昔のこと……?」
「ええ。」
学園長の目は寂しく揺れていた。
「こことは違う世界で私が“置いてきたもの”のことを。」
それは、まるで――
“自分がもうこの世界にいない”ことを示唆するような言い方だった。
「置いてきた、って……どういう……」
「晴明くん。」
学園長は晴明の肩にそっと触れた。
その手は、なぜか“夢みたいに軽かった”。
「どうか、この夢から覚めないでください。あなたが目を開ければ……私の姿を見ることは、もう――」
言いかけて、学園長は微笑んだ。
その笑みは決して怖くない。
ただ、“最後の言葉”のように儚かった。
「……やめましょう。この先は、まだ言うべきではありませんね。」
晴明は震えた。
何を言おうとしたのか、わかってしまった気がしたからだ。
霧の外に、現実がある。
そこには――学園長はいない。
だけど、それを本人の口から言うことは決してない。
まるで、晴明に“気づかれてはいけない”ように。
学園長は振り返り、霧の方へゆっくり歩き出した。
「授業の準備をしておきなさい。すべてが静かに続いていく間は……あなたは守られています。」
「ま、待ってください……!」
晴明が手を伸ばすより早く、霧が音もなく濃くなった。
学園長の姿は薄れ、そして――静かに消えていった。
残された晴明の耳に、また水の音だけが響いていた。
ぽちゃん。
ぽちゃん。
どこかで、誰かが沈んでいくような音だった。