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こと-koto
402
Side 健治
目を覚めすとカーテンの隙間から明るい日差しが洩れている。
隣のベッドには、すでに美緒の姿は無かった。ベッドボードに置いてあったスマホを手に取ると、画面に表示された時間は、13時18分。
「こんな時間まで眠っていたなんて、ずいぶん疲れていたんだな」
寝過ぎたせいか、体がだるく感じられた。
直ぐに起き上がる気になれず、ベッドの上に寝そべったまま、スマホを立ち上げ、名刺アプリを起動させる。
配置換えが決まってから連日、挨拶周りに追われ、交換した名刺は数知れず。スマホのアプリに登録した名刺に覚えている限りの顧客情報を打ち込む。些細な会話から拾い上げた、趣味やし好品をメモして、今後の仕事につなげるためだ。
画面に野々宮成明の名刺が表示され、思わずスマホを打つ手が止まる。
野々宮の実家『緑原総合病院』に行った際、医院長である野々宮の父親が不在で、代わりに副院長の野々宮成明が対応してくれたのだ。
野々宮果歩の夫、野々宮成明の印象は物腰の柔らかい好人物だった。
まさか、不倫相手だった元カノの夫に挨拶をする羽目になるなんて、野々宮果歩と関係を持った頃は考えもしなかった。
後ろめたい気持ちを抱え、挨拶を交わした。
幸い野々宮成明には、俺と果歩の間に関係があった事を知られている様子は無い。
そして、この先も知られてはならない。
野々宮果歩との関係は終りにしたのだだから、今更、面倒事はゴメンだ。
太陽もてっぺんを通り過ぎ、さすがに小腹が空いてきた。
ベッドから起き上がり、廊下の先ににあるリビングのドアを開ける。
ソファーに座っていた美緒が、驚いたようにパッと顔を上げ、手にしていたスマホを慌てて隠すように、エプロンのポケットに仕舞い込むのが見えた。
美緒らしくない様子が、心に引っかかった。
「おはよう」
声を掛けると、美緒はふわりと笑って見せてから、不貞腐れたように頬を膨らませる。
「今頃、おはようって、健治ってば、お昼過ぎてるよ」
「ゴメン、今度、配置換えで|栢浜《かやはま》市の担当になったんだ。今までの地区での引継ぎと|栢浜《かやはま》の引継ぎが有って、めちゃくちゃ忙しくて」
「それだと、疲れが溜まってもしょうがないね。今、コーヒー淹れるから」
「悪いけど、軽く食べれる物も作ってくれる?」
「うん、わかった」
美緒はキッチンに入り、調理を始めた。コトコトと、まな板の上で野菜を刻む音がとても心地よく聞こえる。
普段と変わらない美緒の様子にホッとして、その様子をぼんやりと眺めていると、何かを思いついたように美緒が顔を向けた。
「|栢浜《かやはま》だと、もしかして……」
不倫バレをしている手前、その後ろめたさから、ドクンと心臓が跳ねた。
野々宮果歩の実家の事を美緒に伝えなければ、新たな誤解の種になると思い、焦って言い訳をする。
「それが|栢浜《かやはま》市だと『緑原総合病院』も担当区域なんだ。野々宮の実家の『緑原総合病院』にも行かないといけないんだ。あくまでも仕事で行くだけだし、病院経営には関わっていない野々宮とは会う事もないから……」
言ったとたん、シマッタと思った。
なぜなら、美緒がヒュッと息を飲み込み、顔をこわばらせたからだ。
確かに|栢浜《かやはま》市の担当になれば『緑原総合病院』にMRとして出入りするのは、至極当然の事だ。わざわざ、美緒に言ったのは、誤解を防ぐためだというのを、わかってほしかった。
ただ、それは不倫をシタ側の俺が、言う事じゃなかったのだ。
だけど、やっと、落ち着いて来た傷口を抉ってしまったのかも、知れない。
ふたりの間に漂う気まずい沈黙は、まるで、直りかけの傷口の瘡蓋をむりやり剥がした時の嫌な痛みとよく似ていた。
まだ、野々宮の話をするのは早すぎたのだ。
焦った俺は余計な言い訳をしてしまう。
「ごめん。緑原総合病院に行っているのを後になって知ったら、誤解の種になるかと思って……」
俺の気持ちが美緒に届いているのだろうかと、不安になり様子を伺った。
案の定、美緒の表情は暗い。
「うん……。仕事で行くんだよね」
「ごめん」
「ん……」
と短い返事だけが聞こえて来る。
野々宮とは別れたのだから、これ以上美緒との関係を悪くしたくない。
焦る気持ちが、キッチンに居る美緒の元へ足を進ませた。
誰でも、結婚生活に理想を持っているはずだ。
仕事で疲れて帰り着いた我が家のドアを開けた時、「おかえりなさい」の柔らかな声と、美味しそうなごはんの香り。それを用意してくれる妻。
お金に対しての価値観や将来子供を持つ事を考えれば、堅実な女性を妻にしたいと思うだろう。
遊びの女と結婚する女は違う。
そして、背中を包み込むように抱きしめた。
「美緒、愛しているよ」
美緒だけが、俺を癒してくれる。
優しい美緒。
可愛い美緒。
俺は、美緒を手放さない。
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