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店の暖簾を下ろす時間には、まだ少し早かった。
カンタローはカウンターに手をついたまま、ぐっと眉間に皺を寄せた。身体がやけに重い。背中にじわじわと汗が滲み、視界の端が揺れる。
「……やべ、これ」
自分の声が少し掠れているのに気づいて、苦笑する。
こんな状態で客を相手にするわけにもいかない。常連やバイトに軽く事情を話して早仕舞いすると、簡単に片付けだけ済ませて店を出た。
夜風がやけに冷たく感じる。
ポケットからスマホを取り出して、慣れた名前を開く。
『風邪っぽい。今帰る。今日は来ない方がいいかも。移したら悪いし。』
少し迷ってから、もう一文付け足す。
『多分熱ある』
送信してすぐ、既読がつくのが貧ちゃんらしい。しかし返事はあっさりしていた。
『そう』
『お大事に』
それだけ。
「……まぁ、そうなるよな」
苦笑しながらも、胸の奥が少しだけざわつく。
付き合ってからも変わらないその素っ気なさに慣れているはずなのに。
アパートに着く頃には頭がぼんやりしていた。着替えをなんとか済ませ、ベッドに倒れ込む。
――本当に、愛されてんのかな。
熱で気分が落ちているせいか、そんな考えがふと浮かぶ。
告白しても頑なに断られて、ようやく付き合えた相手だ。自分の方が好きすぎる自覚はある。
――貧ちゃんは、どうなんだろう。
考えようとしたところで、思考が途切れた。熱が、上がっていく。そのまま、意識は暗闇に沈んだ。
*
どれくらい眠っていたのか分からない。ふと目を覚ますと、部屋は薄暗く、時計の針は深夜を回っていた。
喉が渇いて身じろぎしたその時、視界の端に人影があるのに気づく。
「……っ」
一瞬だけ身構えるが、すぐに見慣れたシルエットだと分かった。ベッドの横に座って、静かに本を読んでいる。
「……貧ちゃん?」
声をかけると、ページをめくる手が止まった。眼鏡の奥の目がこちらを向く。
「起きたか」
「なんでいんの……」
喉が掠れて、上手く声が出ない。それでも絞り出す。
「風邪移るから今日は来ない方がいいって言ったろ」
少し強めに言ったつもりだった。
けれど、返ってきた言葉は予想外だった。
「恋人が風邪引いてんの、心配して来ちゃ悪いかよ」
一瞬、言葉の意味を理解するのに時間がかかった。
「……は?」
「何だよ、その顔」
貧ちゃんはわずかに視線を逸らす。不機嫌そうな表情なのに、どこか落ち着かない様子だった。
「普段元気な奴が急に倒れたら、誰だって気になるだろ」
言い訳みたいに付け足す。
けれど、よく見ると。
「……耳、赤いぞ」
「うるせぇ」
即答だった。
カンタローは思わず、ふっと笑ってしまう。喉が痛んで咳き込みそうになるのを堪えながら。
「それで来てくれたんだ」
「……たまたまだ」
「嘘つけ」
「うるさいって言ってんだろ」
そっぽを向く貧ちゃんの横顔は、やっぱりどこか照れている。
その時、ふといい匂いがした。
「……何か作った?」
「ああ」
机の上を顎で示す。そこには湯気の立つ器があった。
「お粥。さっき起きなかったから、そのままにしてた」
「マジで?」
「薬剤師なめんな。こういう時の対処法くらい分かる」
ぶっきらぼうに言うその声が、やけに優しい。胸の奥がじんわりと温かくなる。
「食えるなら食え」
「……あとで食う」
「今食え。どうせまた寝るんだろ」
言いながら、貧ちゃんは立ち上がって器を手に取る。スプーンで軽く混ぜてから、少し冷まして差し出してきた。
「ほら」
「……」
「何だよ」
「いや……そこまでしてくれるとは思わなくて」
「……別に」
顔を逸らしながらも、手は引っ込めない。
カンタローはゆっくり身体を起こし、差し出されたスプーンに口を付けると見せかけ、そのまま貧ちゃんに顔を寄せた。
「ちょ、おい」
「ありがとな」
近い距離でそう言うと、貧ちゃんの頬がさらに赤くなる。
「……ほんと、こういう時だけ素直だな」
「お前もな」
「は?」
「めちゃくちゃ優しいじゃん」
「……うるせぇ」
小さく舌打ちするが、その声には棘がない。
お粥は驚くほど美味しかった。身体にすっと入っていくようで、弱った体に染みる。食べ終える頃には、少しだけ楽になっていた。
ふと、貧ちゃんがぽつりと呟く。
「さっきな」
「ん?」
「お前んとこのバイトの女、来たぞ」
「……え?」
一瞬、頭が追いつかない。
「心配で様子見に来たって。合鍵持ってますみたいな顔してた」
「いや持ってねぇよ!?」
「だろうな。ドアの前でうろうろしてたから追い返しといた」
「……マジか」
「“店長、最近顔色悪かったから”って」
淡々とした口調。けれど、その奥に微かに混じるものに気づく。
「……嫉妬してる?」
「別に」
「絶対怒ってるだろ」
「怒ってない。ただ」
少し間を置いてから、ぽつりと続ける。
「……ああいうの、嫌いなだけ」
視線は合わせないまま。でも、その言葉の意味は十分すぎる程分かった。
「……ごめん」
「何でお前が謝んだよ」
「なんか、心配させたっぽいし」
「……」
貧ちゃんは何も言わない。
ただ、少しだけ近くに座り直した。その距離が、全部を物語っている気がした。
「なあ、貧ちゃん」
「何だよ」
「俺、貧ちゃんのこと好きだ」
「知ってる」
「じゃあさ」
少しだけ、勇気を出す。
「貧ちゃんは?」
沈黙。
ほんの数秒なのに、やけに長く感じる。
やがて、ため息がひとつ。
「……いちいち言わせんな」
「言えよ」
「嫌だ」
「言え」
「……っ」
観念したように、貧ちゃんが小さく口を開く。
「……好きに決まってんだろ」
声は小さいのに、妙にしっかり響いた。
カンタローは思わず笑ってしまう。
「何笑ってんだよ」
「いや、嬉しくて」
「……ほんと、単純」
「お前が言わせたんだろ」
「うるせぇ」
そう言いながらも、今度は逃げない。
そのまま、ベッドの端に腰掛けたまま寄りかかってくる。
「……早く治せよ」
「うん」
「移したら許さねぇからな」
「じゃあ、治ったら何してもいい?」
「は?」
「看病のお礼」
「いらない」
「じゃあ勝手にする」
「……勝手にすんな」
言いながらも、完全には拒まない。その曖昧さが愛おしい。
カンタローはそっと手を伸ばして、貧ちゃんの指に触れた。一瞬だけぴくっとしたが、振り払われることはなかった。寧ろ、少しだけ握り返される。
「……ほんとに、帰らなくていいの?」
「いい」
「移るぞ」
「その時はその時だ」
「薬剤師がそれ言う?」
「うるせぇ」
くすりと笑いがこぼれる。
熱でぼんやりしているはずなのに、心だけはやけにクリアだった。
――ああ、ちゃんと愛されてる。
その確信が、身体の熱よりもずっと温かく広がっていく。
「……貧ちゃん」
「何だよ」
「ありがとな」
「……もういいから寝ろ」
「一緒に?」
「……バカか」
そう言いながらも、完全には離れない。
そのまま、ベッドの横で寄り添うように座り続ける。
カンタローは安心したように目を閉じた。 指先に残るぬくもりを感じながら、ゆっくりと眠りに落ちていく。
今度は、不安なんて一つもなかった。
――熱が下がったら、ちゃんと抱きしめよう。
そんなことを思いながら。
二人の距離は、もうとっく近づいていた。