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夏。
茹だるような空気。
汗でびっしょりの背中が気持ち悪い。
昼休み。
教室の喧騒を逃れて一人、誰もいない旧校舎の階段の踊り場にやってきた。
つめたい壁に背中をつけてするりと床にへたり込む。
汗の滴る手は飲みかけの水のペットボトルを一本握り締めている。
ようやく得た静寂を肺に満たし、どっと吐き出す。
誰の気配もしない。
窓から溢れた青白い光はその床に潤いを持たせ、きらきらときらめいた。
瞬間。
赤い金魚が一匹、尾ひれをたなびかせながら眼前に泳いでいるのを見つけた。
幻想に誘われるように金魚を追って階段を降りていくと、廊下の先には一人の少女が佇んでいた。
セーラー服。うちの制服だ。
黒いロングヘアーに白い肌。
まるで硝子細工のように繊細な雰囲気。
透明な青い光の中、その黒い瞳は窓の外を物憂げに眺めている。
金魚は僕を先導するように彼女のほうへ泳いでいく。
それを追い歩を進めると、彼女は僕に気がついたようで、ふわりと振り返った。
目と目が合う。
初めて見たはずなのに、不思議とどこかで会ったことがあるような気がした。
「あの、」
思わず何かを言いかけた僕に、彼女はふわっと微笑んだ。
長い髪がさらさらと風に揺れる。
途端、彼女の脚先は水になった。
水は彼女の身体を上昇していき、指先まで天然水のようになっていった。
言葉を次げず固まる僕に、彼女はその指先を伸ばし、 とん、と僕の肩に触れた。
「休み時間終わっちゃうよ」
笑顔でからかうようにそう溢した彼女の目元は少し泣いていた。
顔から髪まで、水になっていく。
「待って」
僕は必死にそう叫んだ。
理由は自分でも分からなかった。
相手は初めて会ったばかりの少女で、すがたかたちは溶けはじめている。
身動きを取れず凝視しているうちに、もう完全に水になりきってしまった。
「またね」
彼女はそう最後に呟くと、ふっと蒸発して消えた。
青い光の廊下には、僕だけが残った。
金魚ももういない。
何だったんだ。
僕は踵を返し階段を上り、踊り場へ戻ってきた。
身体から力が抜け、青い床に座り込む。
遠くからは車の音や蝉の鳴き声が聴こえてくる。
暑さで頭が朦朧とする。
喉はからから。
水を飲もうと手元を見たが、ペットボトルは消えていた。
視界が熱く滲み、歪んだ。
脳を殴られたような感覚だった。
透明な粒は手の甲に落ち水玉模様を描いていく。
青白い光がその模様を照らし、嗚咽だけが痛々しく響き渡った。
「さよなら」
蝉が鳴く。
陽は灼け落ちる。
震える白シャツの左肩には、僕がつけたものじゃない水の影が一つ、静かに残っていた。
〈終〉