篠崎は、展示場中庭の池の前でやっと由樹の手を離した。
「篠崎さん?何でここに?」
由樹は訳が分からず、篠崎を見上げた。
「どういうことだ…!」
篠崎は開口一番、言葉で殴りつけるように言った。
「俺は何も聞いてないぞ。お前の直属の上司は俺じゃないのか?相談のひとつもしないで、どういうつもりだ!」
「……あ、えっと……」
「お前が契約した客はどうするつもりだ!お前が建てた家はどうするつもりかって聞いてるんだよ!!」
「え……それは、責任をもって引き続き…」
「んなことできるわけねえだろうが!!」
なぜか怒っている篠崎を由樹はわけもわからないまま見上げた。
刺すような鋭い目つき。
深い眉間の皺。
片方の眉が少しつり上がって、口が牙を剥く様に歪んでいる。
篠崎のこんなに怒った顔を見るのは初めてだ。
「……何て名前だった。あの客は」
篠崎が吐き捨てるように言った。
「え?」
「この間の地盤調査の客だよ!」
篠崎がイラついた声を荒げる。
「……えっと、五十嵐さんです」
「俺、地盤調査の時に、五十嵐さんに聞かれたんだよ。
『セゾン工務店の家は良いと思うので、契約しようと思うのですが、営業マンの彼はあんなに若くて大丈夫ですか』って」
地盤調査中、母親が篠崎に何か耳打ちしていたのを思い出す。
「俺は言ったんだ。
『新谷はお客様の幸せのことを第一に考えられる優秀な営業マンです。安心してお任せください 』って」
ますます篠崎の顔が歪む。
「『 俺が客だったら新谷を選ぶ 』って!そう言ったんだよ!」
「……!!!」
◆◆◆◆◆
『新谷、お前が営業として、自分なりのスタイルが確立していう中で、いつか俺の指導なんか忘れてもいいけどな、これだけは覚えておけよ』
遠い昔、由樹がまだ新人だったころ、篠崎に言われた言葉を思い出す。
『“良い営業”というのは、“俺が客なら、俺を選ぶ”と言い切れる営業だ』
◆◆◆◆◆
気が付くと、由樹の目から涙が溢れていた。
「お前、俺を嘘つきにするつもりかよ……!!」
――――なんとなく篠崎が何を勘違いしているか、由樹には分かった。
それでも―――。
やっと、篠崎の本心に触れられた気がして、否定することが出来なかった。
「……それに」
篠崎は熱くて深い怒りのため息を吐いてから、改めて由樹を睨み落として言った。
「お前、これからもずっと、俺を想い続けるって言っただろ!」
「…………!」
(なんで、それを……)
直接伝えたことのないはずの言葉が、彼の怒りに震える唇から出てくる。
「それなのに――なんで自ら遠くに行くんだてめえは!」
「……………」
由樹はあまりの衝撃で忘れていた呼吸を再開するために、大きく息を吸って吐いた。
「でも、俺、篠崎さんを、裏切って………」
「ああ。そうだよな」
篠崎が冷たい視線で由樹を突き刺す。
「……俺はお前を、一生許さない」
その言葉は冷たいのに、対面するその顔は震えあがるほど怖いのに、由樹は喜びに身体が震えた。
やっと引き出せた、篠崎の本心。
やっと聞き出せた、篠崎の本音。
やっぱり……怒ってくれていた。
涙が数滴、展示場から借りたサンダルに落ちた。
それでも由樹は俯かず、目をそらさず、篠崎を見つめた。
「だから――」
篠崎の怒りに歪んだ唇が動いた。
「お前の一生をかけて、俺に謝りつくせ」
「…………!」
由樹は目を見開いた。
「そうしたら。今際の際に、許してやる」
篠崎が由樹を睨みながら、細く長い息をついた。
「……それって―――」
言いかけた由樹の腕を篠崎が引っ張る。
「帰って来い。新谷」
強く抱き締められる。
雪の冷たい匂いに紛れて、濡れたスーツの匂いに混じって、篠崎の匂いがする。
熱い体温が移ってくる。
低い声が自分の中に溶けていく。
「お前が不安になったら、何回でも言ってやる。何回でも教え込んでやる。俺は今もこれからも、お前だけだ……!」
雪が頬に降り注ぐ。
それを熱い涙が溶かしていく。
「俺も………俺だって、篠崎さんだけです……!!」
由樹は篠崎の腰に手を回し抱きついた。
「これからも、篠崎さんのそばにいさせてください!」
篠崎の大きな手が由樹の頭を叩く。
「痛っ」
由樹が篠崎の肩に顔を埋める。
「二度目はねぇぞ」
叩いた頭を今度はグシャグシャに撫で上げる。
「はい……!」
その力強い手を身体全体で感じながら、由樹は目を閉じた。
◆◆◆◆◆
こんなにシンプルなことだったのに、どうして自分は諦めようとしていたのだろう。
自分の腕の中に戻ってきた新谷の温もりを感じながら、篠崎は目を閉じた。
雪は降り注いでいるのに、
コートも着ずに飛び出してきたのでスーツもびしょびしょに濡れているのに、
ちっとも寒くない。
抱きしめた新谷が自分の身体に溶けていくのを感じる。
こいつはとっくに自分の一部だったのに、
引きはがすことなんて元から不可能だったのに。
(……馬鹿だな、俺は――)
「一緒に、八尾首に帰るぞ」
その柔らかい髪の毛に唇をつけようとしたところで――。
「はいっ!」
唐突に顔を上げた新谷の頭頂部が、篠崎の顎にぶつかった。
「じゃあ、ちゃっちゃと契約してきますね!」
「…………」
曇りなき眼で微笑む新谷の両頬をバチンと手で挟む。
顔を中央に集められたように潰れた新谷が、タコのように突き出した口で言う。
「何ふるんれすか!!」
「お前なあ。人の話を聞いていたか?どこにも行かずにそばにいろと言ったんだぞ?」
「はひ!」
「八尾首に一緒に帰ろうと言ったよな?」
「はひ!」
新谷は苦しそうに唇をパクパクしながら答える。
「……はあ?」
何やら様子がおかしい。
篠崎は新谷を覗き込んだ。
「……どういうことだ?」
言いながら両手を離すと、新谷は頭を掻いた。
「あの、篠崎さん、気を悪くしないでいただきたいんですけど……」
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