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青い空の続き
「墜落」 ①
🔞🟦🏺
※※拙作、「青い空」の続編です。そちらを読んでいないと意味不明な内容なので、先に読んでいただけると幸いです※※
※人が死にます。暴力描写、R15くらいのセンシティブ描写があります
※キャラ崩壊注意。ヤバいと思ったら逃げてください。ご本人様等々には無関係です。
1
落日が街をオレンジに染めていく。
青井は高速道路の上で愛用のバイクに跨りながら、暮れなずむ街をぼんやり眺めていた。赤より優しく黄色より温かい光はまるで誰かのシャツの色みたいだな、と思ってすぐに頭を振った。
あれから数日が経った。おやつ感覚で記憶を無くす特殊刑事課の事故など誰も記憶にとどめていない。しかしそれ以前の妙に真面目な勤務態度をやめてしまったことだけは惜しまれていた。爆発ですべてをなぎ倒すいつもの青年が戻ってきたことで、ようやく本署は日常に戻りつつあった。
「……あー、もう駄目だ」
青井は鬼面を外し、ため息をひとつ落とす。それからサンドイッチにかじりついた。
本署で休憩していたらいずれつぼ浦が視界に入る。しばらく休暇を取りたい気持ちすらあったが義務感がそれを止めた。
あの瞬間、確かにつぼ浦の心は自分に向いていた。伸ばした手を取ったはずなのになぜつぼ浦が落ちてしまったのか、青井には今も正確にはわからなかった。
終わりを受け入れたはずだった。しかし恋で膨らんだ風船は失恋という針で明確に刺されることはなく、ただ胸のうちにとどまり続けた。どのみち重い息ばかり吹き込まれたそれは手放したとしても空に飛んで消えてはくれない。
はじけるような笑顔を見て胸の暖かさを覚えることも、目が合うだけで好ましく思うことも全てやめなければならなかった。そうなるとどう相対していたのかが思い出せない。胸をざわつかせずに顔を見るすべが思いつかない。
だから距離を取るしかなかった。
「好きなんだよなー、……それでも」
未練がましい声が出た。ぱさつくパンの最後の破片を飲み込んで、煙草に火をつける。空に昇る煙をぼうっと見た。
青井はこの恋の端緒を思い返す。最初はただの後輩だった。子犬のようにころころとはしゃぎ、泥水でもかまわず飛び込む姿が微笑ましかった。あれやこれやと手を焼かされる苦労をいつの日からか苦痛と思わなくなり、やがて幸せな愛しさに変わっていった。
それはダウンしたつぼ浦を回収したときだった。担ぎ上げて触れた熱い身体が、苦しむ呼吸が、心の良くない部分をざらつかせた。
幸せな顔以外にも、苦しんだり悶えたりする顔も見たくなった。
そしてそれを与えるなら自分だけでいい、と思ったときに風船は完全に地面に落ちた。
澄んでいたはずの気持ちは日に日に濁っていった。恋に付随するほとんどの感情を持ちつつも、ただ一つ、それを伝える勇気だけがそこにはなかった。
電子音とともに客船強盗の通知が入る。やおら無線が騒がしくなる。吸い始めたばかりの煙草を指に挟み、無線に応えようとした手が無意識に滑り落ちた。
空はオレンジから徐々にすみれ色へと変わりつつあった。残照が未だ雲を赤く染め、気の早い星が数個瞬いている。
それをぼんやりと眺めながら煙を長く吸ったところで『らだお、ヘリ出せる?』という無線が聞こえた。
『……はーい、戻りまーす』
煙を吐き出すついでに答えた。しかしキーにかけた手は石のように重く、なかなか動こうとしない。
事件対応に行けばつぼ浦と鉢合わせるかもしれない。それと同時にふと自分の価値はなんなのか、という考えてはいけない疑問がくすぶり始めた。
頼られる、慕われる、それは嬉しい。それに応えたい、守りたい、力になりたい。そうしているうちにきっと遠くに来てしまったのだろう。余人はおろか、つぼ浦さえも青井が例えば遠い空だと思うほどに。
「……本当カスだわ、俺なんて」
大して中身の入っていない身体はただ舞い上がるばかりで、軽すぎて地面に足がつかない。それでも、できるだけ綺麗な空であり続けたいという欲望が弱音を取り繕わせた。
最後に煙草を深く吸い込み、深く吐いて鬼の面を被り直す。放り投げた煙草が風にさらわれ立体交差のはるか下へと落ちていった。
本音を見せる覚悟も一人を手に入れる勇気もない。行き場をなくした恋に窒息しながら、青井はキーを回した。
2
自動シャッターが開くのを待ち切れずぶちあげる盛大な音と共に、ベージュ色のジャグラーが地下駐車場に入ってきた。あえてハンドルを切ると歩いていたキャップを背後から弾き飛ばし、すでに駐車場入口の電柱とポールとその他諸々に派手にぶつけた傷を修理台で直している。通り魔よりも悪質な挨拶にキャップは運転手、つまりつぼ浦に怒鳴る。
「お、お前、いい加減にしろよ!」
「なんだァ?人に向かってその口の聞き方はよォ!」
つぼ浦は降車すると背中のバットを持って先端を左手にペシペシ当てて威嚇する。そんなのが効くわけもない上司に返答代わりのパンチを喰らい、大人しくバットをしまう。
一連の特殊刑事課らしい挨拶の後、キャップはポリポリと頭を掻いてサングラス越しに生意気な部下を見た。
「こないだはつぼつぼで今度はらだお君だし、朝から頭が痛くなるようなことをせんでくれ」
「アァ?もっと殴ってみましょうか?」
「やめなさい!先週のお前は100点だったのにな」
「チクショウ、みんなそこ褒めるんっすよね。記憶ねぇってのに」
なぜかぽっかりと空いた時間の話をされるのはなんともむず痒く、気分の良いものではない。つぼ浦は腕を組みながらサンダルの爪先で床をタンタンと踏む。イライラしているときのうさぎのような仕草にキャップは少しだけ笑った。わかりやすく真っ直ぐなのがつぼ浦という男だ。
「まあ……だが今のお前のほうが”らしい”な」
「本当ですか。まあ昨日の俺と今日の俺は細胞から違うんで一緒にされても困りますけどね。常に進化してるんで」
埒のあかない話をし始めたつぼ浦を見てキャップはため息をついた。そんな上司を剣呑な目で見ながらつぼ浦はキャップの言った言葉を思い出す。
「つーか、アオセンがどうかしたんですか?」
*
本署の上から下まで駆け回り、つぼ浦は青井を探した。
いたずらにサンダルをすり減らしながらキャップの言葉を思い出す。曰く、青井が不真面目になったらしい。電話や無線を取らないことがあり、大型の対応にも呼ばなければ率先しては来ない。本署を家と言わんばかりの仕事人間なのに、出勤しているのに本署にも他の署にもいないという。
先週はつぼ浦が突然真面目になり、今週は青井が突然不真面目になった。どちらも人間性からは遠い豹変で、それ故に同僚たちも気になったのだろう。
悪評漂う人間が善行を積めば褒められる。善しか積まない人間が怠けると、しかし普段の信頼がすぐには責を負わせない。怠慢に苛立つよりも心配する人のほうが多いのは、青井の高い人徳のなせる技だった。
つぼ浦はためしに無線で呼びかけてみた。『アオセン、います?』という声がただ虚しく電波のノイズの向こうに消える。
何度目かの電話をかけてみる。出ない。
埒が明かない。仕方なく風に当たろうとなんとなく屋上に出た。ただ顔を見て、話がしたいだけなのだ。風が汗を冷やしていく。
ふと見下ろした駐車場をあれだけ探した青井が一人で歩いていた。階段を登ったところで立ち止まり、本署の中に入るかどうか迷っているようだった。
居ても立っても居られず、つぼ浦はスケボーを取り出して屋上の縁から器用に飛び降りた。世界を守る謎の物理演算のおかげで、一旦地面に倒れるもノーダメージでエントランスの前に着地した。
「うわッ!?」
突然目の前に落ちて倒れた南国ムードの男に驚いて青井は飛び退く。
「っしゃ!上出来だぜ」
つぼ浦は倒れた姿勢から勢いをつけて起き上がる。しかしもう少し、せめていつもの鼓膜がやられる悲鳴くらいは上げるかと思ったのに反応が薄い。それに青井からは文句の一つもない。なんとなく違和感を覚えるが、自分は会話をしに来たのだ。スケボーを片付けてつぼ浦は青井の顔を見た。
「アオセン、心配されてましたよ。なんか本署にいねぇって」
「え?ああ……別にそんなつもり無かったんだけど。でもまあ、そうか」
心ここにあらずといった口調で一人でなにか納得している。久しぶりにその落ち着いた声を聞き、つぼ浦の胸が少し沸き立つ。
「なんかあったんすか?サボりたくなったんなら相談にのるぜ」
「別に、なんもないよ」
「本当ですか?よくわかんねぇっすけど、仕方ねぇなぁ」
ポケットを漁る。指にあたったカサカサと音のするパッケージを引っ張り出す。それはオレンジ色のフィルムに包まれた飴玉だった。
「ホラ、これしかないけど、これでも食って少しは……」
強引に手渡そうとした瞬間、青井の手がそれを強く跳ね除けた。弾き飛ばされた飴玉は階段の下へと勢いよく落ちていった。
何が起きたのかわからず、何も声が出なかった。青井が急に遠く思えた。それはいつも感じるものとは違う種類の遠さだった。
「……あんまりそうやって寄ってこないで」
「あ…ああハイ、すんません、なんか」
鬼の顔のせいで表情は見えない。感情の乗らない平坦な声に、それでも多大な不快感が乗っていることはわかった。
青井に追い払われ、つぼ浦は本署の中に小走りに駆け込んだ。廊下の角からこっそり振り向いて様子を見るが、青井の姿はもうなかった。
つぼ浦にとって青井は空だ。上の方で悠然と青を湛えるはずのそれが、今は黒く垂れ込める雲のせいでよく見えない。
「アオセン、疲れてんのかな。……力になれねぇかな」
だがその雲の向こうにきっと必ず青空はある。雲を晴らさないと空は見えない。頭の奥がじんわりと痛む。つぼ浦は自分の手をじっと見た。
3
青井は相変わらず本署にいないことが多く、事件対応が終わるとすぐにどこかへ消えてしまう。
いつも頑張ってるからたまにはね、案外子猫でもこっそり飼ってたりして、という同僚の世間話を聞き流し、つぼ浦は毎日それとなく青井を探した。見つからないときは時折無線に入る声を聞いて安堵した。
なにかから逃げているのだろうか、という可能性まではつぼ浦も思い至った。それは日々の仕事であり、ヘリIGLという重責であり、高ランクにでもならないと起こり得ない葛藤なのだろう、と思った。
つぼ浦の記憶には優しく頭を撫でてくれた青井の姿までしかない。あの日唐突に与えられたぬくもりしかない。だから逃避の対象が自分である、ということだけが、傾いた思考のせいで選択肢になかった。
今日も淡々と、しかし的確に報告する青井の声が無線から聞こえてきた。
高い空を裂いて飛ぶ白い機体は一羽で飛ぶ白鳥のようだった。つぼ浦はあの日も見たその機影を見上げる。
空に描く軌道を五線譜に、青井の声とともに仲間たちが動いていくさまは一つの音楽のようだった。その声のもと動ければどんなにか幸せだろうか。参戦したい気持ちもあったが、本署の屋上の縁に腰掛けて遠くビルの合間にたまに見える白を見守った。
ポケットに手を突っ込む。手に触れたのは青井にあげようとした飴玉の残りだった。最初に手に触れたものを引っ張り出して包み紙をカサカサと開ける。
手が滑り、マーブル模様の飴が指先から落ちた。あっという間に眼下の地面に叩きつけられ、一回だけ弾んでから割れた。
「……ッ、頭いてぇ」
不意な頭痛に顔をしかめた。理由のわからない痛みがどうしてか胸を刺す。
以前、街に来てからのすべての記憶を一時的に失ったときも似たようなひどい頭痛に苛まされた。また自分は何かとても大事なことを忘れているのではないか。その疑惑が首をもたげる。
空白の時間に何があったのか。唯一の頼りの頭痛は追いかける前にやんわりと消えてしまった。
無線は現場の制圧を告げている。地上班が犯人を護送するらしい。手の空いたヘリたちが餌に群がる鳩のようにヘリポートへと戻ってくる。
その中には青井もいた。ヘリから降りた直後、鬼の面がちらりとつぼ浦を見た。目が合った、と思う間もなく踵を返して再びヘリに乗り込むのが見えた。居ても立ってもいられずつぼ浦はヘリに向けて駆け出した。
「隣!いいっすか!」
助手席のドアを開けて強引に乗り込んだ。もう機体は屋上を離れつつあった。着陸するかどうか悩んで機体がぐらりと揺れる。低空飛行の逡巡の後、青井は空の旅を選んだようで、ヘリはふわりと飛び立った。
たちまちに目の前が空に変わる。徐々に地平線の果てへと落ちていく太陽が雲の腹をオレンジに染めている。同じような場所をぐるぐると飛び回るので、透き通る金色と淡い空色とが交互に目の前を通り過ぎる。
飛びながら、青井はずっと無言だった。あまりにも衝動的に乗り込んだことでつぼ浦も切り出す言葉を見つけられない。
そもそもどうしてここまで青井に執着するのか。つぼ浦は自問する。あのとき頭を撫でてもらった温かさだけではない、それを越える渇望が胸のうちにあった。それがわけもわからず身体を突き動かしていた。
「……どうしたの?」
先に口を開いたのは青井だった。わずか5文字で重い沈黙の糸が断たれ、今度はつぼ浦が答えなけえばならない。
「アオセン、いつも頑張ってるじゃないっすか。だから疲れちゃうのもわかりますよ」
つとめて明るくつぼ浦は言った。しかし返事はない。わずかに手を伸ばせば届く距離にいるのに青井まではとても遠かった。
「俺なんかじゃ頼りないかもしれないっすけど、」
間合いを測りかねたまま言葉を続ける。ひとつ息を吸い、左に座る青井を見た。
「力になれねぇかなって」
「なんで、……」
続く言葉が形にならず青井は面の下で唇だけ動かした。バラバラというプロペラの音が耳に障る。その音はつぼ浦の芯の通った声をかき消すには足りない。
地平線から始まった夕焼けは、いつの間にか空を半分オレンジに染めていた。反対側から夜が押し寄せ、空は色味を無くしていく。刻一刻と沈む残光が二人の横顔に赤く落ちる。
「……アオセンが本当にすごい人だってこと、俺はわかってますよ」
それは心からの賛辞だった。隣から鋭く息を呑む音がした。
「お前に何がわかるの?」
鬼の面の向こうから闇の滲む声がした。
ヘリは突然墜落するほどに急旋回し、叩きつけるように近くのビルの屋上に着陸した。脚が着陸の衝撃を吸収しきれずつんのめり、鼻先がコンクリートに擦れて火花が上がる。
衝撃で身体が振り回される。ちゃんと停止するのも待たず先にヘリから飛び降りた青井が助手席のドアを乱暴に開ける。降りようとしたつぼ浦の襟首を掴み、半ば強引に引きずり下ろした。
「お前さぁ、どういうつもりなの?誰にでもそんな感じなの?」
ヘリの横腹につぼ浦をドンッと押し付け、青井はまくし立てる。仮面の向こうから余裕のない荒い呼吸が漏れる。
「お、俺はただ、アオセンに元気になってほしくて」
「なんで?」
「え、っと……それ、は……」
改めて問われてつぼ浦は戸惑った。戸惑ったことに戸惑った。理由など簡単に言葉にできると思っていたのに、いざ聞かれると形にならない。
あてはまる言葉を急いで探す。なにしろ青井がつぼ浦に触れたのはあの日以来のことだった。
「アオセンには、笑っててほしくて、いつもみたいに」
見つけた言葉を素直に声に出した。
つぼ浦にとって青井は空だ。曇ったり、陰ることが許せないほどに絶対的な存在だ。
心を食い荒らす飢えは、きっと青井の笑顔で満たされる。無辺の優しさで満たしてほしかった。ただそれだけだった。
なぜビルの屋上にヘリを降ろしてしまったのか、青井は今になって後悔した。頭上にはあの日自分たちを見下ろしていた空が、夜へと色を変えながら広がっていた。
何も覚えていないはずなのに再び懐いてくるつぼ浦に青井は恐ろしさすら感じた。
「……そんなの?」
思わず声が漏れる。素直な告白に対して突き放すようなその言葉がつぼ浦の胸をずきりと刺した。
だがその顔は焦る青井の視界に入らない。焦燥が呼吸を速める。
あのときのつぼ浦は確かに青井を慕っていた。今もまた同じようなことを言う、その手を取ってもきっとまたつぼ浦は飛び降りる。生々しいトラウマが目の前にあった。
「お前はわかってないよ」
青井は鬼の面を脱ぎ捨てる。襟首を掴んだままつぼ浦の顔を見る。月をなくした空のような目が琥珀色の目をしっかりと捉えた。
「そんなのじゃ全然及ばないくらい、俺は」
端正な顔は激情に歪み、掴む手は力を入れすぎて細かく震えていた。
このままではまた繰り返す。通じ合えたと思ったのにつぼ浦が落ちたあのときが。青井が未だ正確には理由を掴めていないあの自死の瞬間が。その恐怖が決断を迫る。
「いいよ、そんなに言うなら見せてあげる。どれくらい俺が、……俺がお前に狂っているのか」
どろりと黒ずんだ声が出た。胸を占める重い風船に込められた息だった。
青井にできることは一つしかなかった。
同じ結末をたどる前に。つぼ浦から向けられる無垢な眼差しを、この恋の重さで折るしかなかった。
襟首を掴んだまま顔を引き寄せる。睫毛の数すら数えられる距離で、青井は重たい声を吐く。
「お前の笑顔も喜ぶ姿も、俺だけが見たかった」
左手がこめかみから輪郭を撫でる。ゆっくりと動かされる指先は冷たく、言葉と裏腹に狂気を感じてつぼ浦は思わず身を固くする。
「ねぇ、そうやって怖がったり照れる顔もさぁ、全部俺が見たいんだよ、俺だけが」
たどる指先が顎に至る。そのままくいっと顎を引き寄せた。
「どんな顔するのか見せて」
「あ、」
反応する暇を与えず、青井は小さく息の漏れたつぼ浦の唇に唇を押し当てた。
ただ触れるだけのキス。柔らかくかさついた唇がただ触れる。少し離れればまた追いかけ、ゆっくりと感触を分かち合う。徐々に熱が集まり、溶けるような感覚につぼ浦は思わず目を閉じる。
頬を染める顔を青井は満足そうに見ていた。上気した頬で耽溺するさまはつぼ浦が見たことのない顔だった。
しばし互いの顔を見つめたあと、青井の口端が引き上げられる。細められた目に黒い火が宿る。
「お前を苦しめるのも、俺だけでいい」
その声でつぼ浦の背筋を冷たいものが滑り落ちた。
襟首を掴んでいた手がスライドし、喉にかかる。
「待っ、なん、で…?!」
青井の手の下で、恐怖を呑んだ喉仏が上下する。そこには力をかけず、左右の頸動脈をじっくりと絞め上げた。呼吸はかろうじてできるのに血流だけが阻害され、つぼ浦の顔がみるみる赤くなっていく。
「グ、か、ハァッ…!」
「ふ、可愛い、本当可愛いね」
片手で簡単に壊されかけてもがくさまが愛しくて低い笑いが勝手に溢れた。つぼ浦は恐怖から青井の服を強く掴む。助命を乞おうと声にならない声を上げる口を青井は乱暴に塞いだ。
「ア゛ッ、グ…」
「ン、っ…!」
反射で唇を小さく噛み切られた。青井の唇に滲んだ血を見て、苦しさに喘ぐつぼ浦の目が一瞬ぎょっと見開かれる。命に手をかけられているのに他人を思う優しさがほんの少しだけ胸を刺し、残りはすべて衝動の炎にくべられる。
雑なキスで口を塞ぎ、最低限呼吸する時間を与え、つぼ浦が落ちる直前で手を緩める。一度二度と身体に刻み、四度目あたりで抵抗が消え、あとは本能的に命を繋ごうとする喘鳴だけが喉から漏れる。
よだれや涙でぐちゃぐちゃの頬に手を当て、血の足りない頭でも聞こえるように耳に口を近づける。
「死んじゃうね、お前。俺なんかの手でさ」
青井の声がとても遠くに聞こえた。幾度目かもわからぬほど、目の前をカラフルな光がちらつく。頭痛を通り越して頭の血管が切れそうなほどに拍動がうるさく、痛い。じっくりと脳だけが壊される感覚は、崖にしがみついた手の指を一本ずつ剥がされるような絶望感があった。
「俺以外の前で死なないで。お前の全部が欲しかったよ」
やけに静かな声で青井が言う。すぐにでも落ちそうな意識の中、つぼ浦は身にしみて理解した。
一度も見えたことのなかった巨大な情動が青井の中にはあった。それが今、なりふり構わずつぼ浦を押し潰そうとしていた。
「まだ意識ある?大丈夫?」
急にいたわりの声をかけられて、つぼ浦は遠のく意識を連れ戻してこくこくと頷く。
狩人の前で羽をバタつかせ居場所を知らせる鳥のような仕草に青井はニッコリ笑った。
「じゃあまだできるね」
「ッ…!?い、やだ…!!」
加害を求める笑顔から逃げようと身を捩るが両肩を強く掴まれる。自分より背の低いはずの青井に威圧され、また訪れる苦痛を恐れてつぼ浦はぎゅっと目を閉じた。
再び首に手がかかる。少しのあとに手が離され、サングラスの下に指が差し入れられた。頬を濡らす涙が拭い取られ、驚きで目を開けた瞬間、優しく唇が塞がれた。
「ゥ、んんッ…」
いつどんな痛みが襲うのか、詰まりが取れない喉から恐怖が漏れた。今際の際まで追い込まれるほどの乱暴さから一転して突然の優しさが与えられ、しかし身体のこわばりが抜けない。
青井の柔らかい唇が下唇を何度も食む。徐々に開いた口にゆっくり舌が差し込まれる。そのまま歯茎をなぞるように舌が動き、驚いて身を引こうとすると後頭部に手を回し更に深くキスが落とされる。
舌の熱さ、ほのかに残る煙草の苦み、噛み切った血。先ほどは味わう余裕のなかったそれらがねっとりと舌に絡む。
逃げようとした舌を優しく噛み、連れ戻して先端をちゅっと吸う。いつの間にかつぼ浦の力は抜け、頭を押さえられなくても身体が自然に青井の方へ倒れていた。
「ん、ふァ、はぁッ」
口を離されつぼ浦は荒く息をつく。その胸に少しの間、額を押し付けて、顔を上げたときにはまた青井の目は暗く淀んでいた。
「どれだけ夢見てたと思う?ままごとじゃ済まないよ、俺が、どれだけお前が欲しいか」
言いながら不意に目の奥が熱くなる。零れ落ちる前につぼ浦には見えないように俯いて涙をぬぐった。
本当はこうやって優しい自分だけを見せたかった。その甘い本音がつい行動に出た。自分の浅ましさが嫌になり、青井はつぼ浦の胸を強く叩いた。
「お前、が、欲しかったんだよ…!」
過去形と現在形が入り乱れる。折れた恋と捨てきれぬ恋が口から落ちる。自分か相手か、心の折れる音を聞きながら、もっと強く折るために青井は叫んだ。
夕日はとうに落ち、残った薄明かりが二人の影を闇に溶かす。最初に登ったはずの星は雲の向こうに消え、荒々しい風だけが屋上のコンクリートを撫でていた。
「チッ、くっそ…!」
ぬぐっても未練がましく涙が止まらない。被害者のような面で泣く自分が許せなかった。加害者らしく振る舞わなければこの凶行の帳尻が合わない。青井は今まで取り繕ってきた薄暗い本性を引っ張り出す。
軽く曲がったつぼ浦の足の間に足を割り入れ、膝を押し上げる。局部をグリグリと刺激されてつぼ浦の背中が跳ねた。
「は、えッ?」
突き上げられてそこがすでに熱を持っていたことに気づく。これが偶然ではなく故意の動作であることに気づいてつぼ浦はたまらず青井の腕を掴む。
「待ッ…?!アオセン、待って!!」
「待たないよ、待てないんだよ」
顔を真っ赤にして腕を叩くつぼ浦を一瞥し、グローブを脱ぎ捨ててズボンの中に手を突っ込む。下着越しでもじんわり濡れている局部をぐにぐにと擦られ、強引に熱が呼び起こされる。服を引っ張ったりなんとか抵抗しようとするつぼ浦と目が合い、青井は喉で笑う。
「こっち見、るな、はず、かしい、から!」
「嫌だよ見たいんだよそういうお前を」
「ばっ、、あ、ンッ!」
背中をつうっと指でなぞるとそれだけで文句が嬌声に変わる。下着に手を入れて直接先端に触れ、トロトロと垂れる先走りを亀頭に擦り込む。
「こわい、やだ、止め…ッ!」
「そうだね、怖いね」
ただ無理矢理に射精へと導かれる行為が怖く、つぼ浦は首を振る。
普段は誰よりも勇敢な目をへにゃりと細め、潤んだ瞳から一筋の雫が頬を伝う。被害者にふさわしい綺麗な涙だと青井は思った。嗜虐心が満たされるごとに心の折れる音が聞こえる。
身体を震わせるつぼ浦が倒れないように割り入れた足で支え、上半身を押し付ける。ひどく早い心臓の鼓動が服越しにも激しく伝わる。
「やッ、いや、だ」
つぼ浦の震える右手が青井の動きを止めようと、たよりなく手首を掴む。
「そう、嫌?俺にされるの嫌?」
「は、はずかし、だろ、こ、こんな…」
「じゃあ自分でする?」
予想だにしない言葉でつぼ浦は目を丸くする。
「は、はぁ?」
「俺だと嫌なんでしょ?」
手を引っ込める前につぼ浦の右手を自身へと添えさせる。手首を掴まれ促されるままに恐る恐る握り込むが、小さく呼吸するばかりで戸惑いながら青井をちらちらと見る。
「もしかして一人じゃやらない?」
「……ン」
つぼ浦は涙を浮かべて小さく頷いた。あまりにも無垢すぎる心に爪を立てて深く傷をつける、背徳の予感が背中をゾクゾクと駆け上る。
「ほら、手伝ってあげるから」
「ん、ふッ、これ…やだ…ッ」
握った手の上に手を重ね、強引に動かす。意思に反して強く擦られてつぼ浦の喉が鳴る。
「つぼ浦、できるよね?」
そう言いながらスピードを速めると、つぼ浦は青井の肩に顎を乗せて辛そうな声を上げた。支えないと倒れそうなくらい膝を震わせる。
しばらく熱い呼吸と蜜の滑る音、甘い声だけが二人の間を占める。添えていた手の力を抜いてもつぼ浦自身で扱いているのに気づき、言いしれぬ感情が青井の腹の底に集まる。だが単純な動きだけでは達することが難しそうで、つぼ浦は切なげに身をくねらせる。
青井は喉の奥で笑うと赤い手の痣が残るつぼ浦の首に、その形のとおりに右手をかける。首を絞めると同時に亀頭を手のひらで強く擦った。
「お゛ッ、ア゛グッ、か、ァア゛ア゛ッ…!!」
臨死に際して危機が吐き出した脳内物質が、強烈な快楽にすり替わる。視界を舞う色のちらつきすら絶頂が見せる幻覚のようだった。つぼ浦は嬌声の混じった悲鳴を上げ、腰を震わせて青井の手の中に精を放った。
「気持ちよかったねぇ」
手を解かれ、舌を突き出して荒く息を吐くつぼ浦に、青井は恍惚と話しかける。
ズボンから手を引き抜く。手をべったりと汚す濃い精液をためらわずに舐め取る。他人に味わわせることなどありえない、自分の垂れ流した欲望を舐める姿をつぼ浦は霞む目でぼんやりと見た。全身から力が抜け、ズルズルとその場にへたりこむ。青井もそれを追いかけてつぼ浦の前に膝をつく。
「……わかった?俺はこういう人間なんだよ」
ひどく冷たい顔で青井は言った。
抱えた感情のすべてをぶつければ純粋なつぼ浦などひとたまりもなく潰れることがわかっていた。青井が空ならつぼ浦は一羽の小鳥だ。風を起こし少し色を変えるだけで迷ってしまう弱い存在だ。
それでも小鳥の前では穏やかで綺麗な空でありたかった、という欲望がわずかに迷いを生じさせた。しかしこれでつぼ浦の心はきっと潰れて折れた、と青井は信じた。
つぼ浦から伸ばされた手を取ると、未だわからない理由でつぼ浦はきっと死ぬ。少なくとも死だけは回避していることを願い、胸の内のおびただしい恋の墓標から目を逸らした。
「ヤバいでしょ?本当に終わってるんだよ、俺。だからもう、俺に期待しないで。近づいてくるのもやめて」
深さを増していく夜の闇が顔に黒い影を落とす。卑劣にもまだ落ちようとする涙を闇に紛れて拭った。
あっさりと終わりが来た。それだけ告げて青井は立ち上がろうとする。
その手が強く引かれた。バランスを崩して再びつぼ浦の前に膝をつく。
まだ整わない呼吸のまま、つぼ浦は青井を見た。
「うまく、できました?」
「え」
「うまくできてたら、アオセン、頭撫でて…褒めてくださいよ」
既視感のある言葉で青井の頭の中が真っ白になる。
「なにそれ、お前」
半ばパニックになり青井は身をそらす。
つぼ浦が飛び降りる直前の台詞と似ていた。夢ですら見ず、現実で幾度も苛まされた悪夢が蘇る。
「お前それ、忘れたんじゃないの?あのとき、俺が、お前の……」
全て言おうとして言い淀む。そもそものきっかけは青井が欲望の衝動を抑えられずつぼ浦の頭を撫でたことだ。しかしそのことは問うても答えず、覚えていないはずだった。辻褄があわず心臓が痛いほどに鳴る。
真剣な顔で聞かれ、つぼ浦の疲れた顔がへにゃりとほころぶ。
「アオセンが、頭撫でてくれたこと。忘れるわけないじゃないっすか」
大切な記憶をうっとりと反芻する。浮かれたような、とても優しい顔だった。
「なんで、だよ」
「あれ、俺言わなかったでしたっけ」
「聞いてない」
「本当っすか」
「あのときどこまで覚えてるか聞いたじゃない、隠したの?」
「隠したっていうか、アー、恥ずかしかったんすよ、多分、言うのが」
「じゃあお前、もしかして俺を、……」
「ハイ、やっとわかったぜ」
その先にある言葉を言わないまま、二人は見つめ合う。つぼ浦の熱い視線と裏腹に、青井の目には恐怖があった。
何も覚えていないのにつきまとっていたのではなく、優しさと温かさを知ったまま追いかけられていた。そこに自分が何を言ったのか、何をしたのかを思い出して頭の奥が冷たくなる。
つぼ浦の心を折るための凶暴な本音の暴露は、やった行為さえ除けばただの強めな告白として取られたことだろう。相手が自分を好いていたのならなおのこと。
そう、やった行為さえ除けば。
「本当に、やっとわかった。俺、アンタのことが、」
頬を染め、はにかみながらつぼ浦は手を差し伸べる。
あの日からずっと心を蝕んでいた飢えの名前をついに見つけ出した。このわずかな時間、胸の空白が青井によって満たされてつぼ浦は幸せだった。
息を呑む音が悲鳴のように長く響く。青井は伸ばされた手を乱暴に払いのけた。必要以上に呼吸が早まる。警戒心など一つもないたおやかな首に手をかけ、コンクリートに押し倒した。
「もう一回、記憶を消して!あんなことをした俺を忘れて!!」
半ば声にならない絶叫を上げ、青井はつぼ浦に馬乗りになる。今度はしっかりと両手を回し、気管に親指を押し当てる。
酸素を吸いすぎた頭がグラついてひどく痛む。夜闇で暗いはずなのに瞳孔が開ききって目の前に光が散乱する。耳鳴りがやまない。上半身を倒し、腕に体重をかけて指が食い込むほどに喉仏ごと強く首を絞め上げた。
「ア、グッ、がッ」
つぼ浦は青井の両腕を全力で掴む。爪が皮膚を突き破り、肉が抉れて真っ赤な血が伝う。痙攣する足をばたつかせて膝で背中を何度も蹴る。もがくあまり青井の顔に伸ばした手が頬を掻いて皮が裂け血の筋を作る。それでも青井は力を緩めない。
もしもこの思いが通じるなら、という夢想の中に汚い自分はいなかった。無垢な手を取るなら手だけは綺麗なままでいたかった。
よりによって最悪なものを見せた。今度こそ、と伸ばされた手を取る資格が、青井にはなかった。
「やり直させてよ、お前を、今度こそ普通にさ」
手にポタポタと熱いものが落ちる。赤黒く鬱血した顔に、空気を求めて開いた口に涙が落ちる。
つぼ浦の両手はいつの間にか投げ出されていた。青井の意識の遠くで公務員が死んだ通知音がした。痙攣も止まり脱力しきった身体が二度と動かなくなったことを確認し、力を込めすぎて固まった指を一本ずつ首から引き剥がす。
妙に冷静に呼吸ができることが信じられなかった。夜風は冷たく、いとも簡単に肺に入る。
手の下で命が押し潰される生々しい感覚が消えない。だがそれはやり直すためだと青井は自分に言い聞かせる。
きれいなものだけ見せたかった。純粋に好いてくれているこの男に。思いが通じ合ったのならなおのこと、優しさだけを与えたかった。
しかしいつまで経ってもつぼ浦の身体は消えない。記憶を放棄しようとしない。青井は徐々に焦る。
「なんでだよ、消せよ、あのときあんなに簡単に消したくせに、なんでだよ…!!」
ビルのはるか下の血溜まりに落ちた死体の姿がフラッシュバックする。胸を叩くがチアノーゼで青紫になった口から返事はない。首に残るどす黒い手の痕が、取り返しのつかなさを無言で告げる。
青井には今もまだつぼ浦がなぜあのとき飛び降りたのかがわからなかった。どちらから手を伸ばしても、結局は誰かが何かに耐えきれずに不幸になる。
絞め殺したこの恋にはもう行き先がない。青井は大きく息を吐いた。
「そうか、最初からこれが正解だったんだ」
背中に背負った刀を抜く。冷たい刃を首に当て、一息に引き抜いた。
躊躇のない鋭利な刃が首を深く切り裂く。傷口から吹き上がる血飛沫が弧を描いて真っ白なヘリの側面に噴水のようにかかる。
力の抜けた身体がつぼ浦の向かいにどさりと落ちた。裂かれた気管から漏れた空気が赤い血の泡を作る。
ポケットから何かが落ちた。それは飴玉だった。よれたオレンジ色の包装紙の中で砕けた飴が、ノイズとともに滲む。そのノイズはすぐに青井のことも包み、やがて身体は掠れて虚空へと消えた。
ヘリのローター音が遠くから近づいてくる。
警察ダウンのシグナルを見つけた救急隊が駆けつけてくる頃、夜闇が押し寄せる屋上に残されていたのは主のいないヘリと血飛沫、つぼ浦だけだった。
コメント
9件

何食べたらこんな天才な話を思いつくんでしょうか ほんとに好きです

ほ、本当に好き( ; ; )
ヒーーン、本当に大好きです😭😭このとんでもないクソデカ感情を文字にしたくてメモアプリと格闘したのですが私の言語化能力が無いばかりに諦めてしまい、せめてもの報いとして♡を大量に押すことにしました。800を2000にしました。 「①ってことは、②があるんですよ。」と私の心の小泉進次郎さんが言っています。続き楽しみにしてます。
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