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続・青い空
「墜落」 後編
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ゆらゆらと、暗い闇に落ちた意識が徐々に浮かび上がる。再び心臓が拍動し、氷のように冷たかった指先の血管一本にまで血が行き渡る。
「首に挫傷…?って、これ事件性ないんですか?」
人の話す声が遠くに聞こえる。まぶたの向こう側に光の存在を感じ、つぼ浦はゆっくり目を開けた。
「あ、つぼ浦さん起きた!」
「これ、絞められてねぇか?何やったらこんな死に方すんだよ」
ももみと神崎に顔を覗き込まれ、つぼ浦は冷たく硬い診察台に寝そべったままぼんやりと記憶をたぐる。
悲痛な顔と、涙。もう治ったはずなのに息苦しさを感じ、喉に手を当てる。薄皮の下で血液が確かに循環している感触がした。
「あー、なんつーか、大丈夫なやつだぜ」
平静を装うはずが驚くほど弱い声が出た。いつものレスバを期待した神崎はしなびた様子に驚き、とりあえず請求書を飛ばす。
「びっくりしたぜ、やめてくれよ変なところで死ぬの。せっかくチルタイムだったのに」
「警察ヘリのインパウンドは頼んでおきましたよ!」
「ああ、本当ですか?そりゃ助かります」
神崎はともかくももみの元気な声は心にしみる。こわばっていた肩の力がふっと抜けた。
のそのそと身体を起こす。床に置かれていたサンダルに足を通したあたりで寝起きの頭にようやく血が回り、違和感に気がついた。
「え?なんで……」
「それでだな、つぼ浦……ちょっと聞きにくいんだけどよ」
「待て、それより聞きたいことがある」
生暖かい唾を飲み込む。
誰かにインパウンドを頼む必要などないはずだ。警察官はいたはずなのだ、もう一人。
「もう一人……アオセンは?一緒に、いたんだけど」
途端に明らかに空気が変わるのを感じた。複雑な表情を浮かべたまま、神崎とももみは顔を見合わせる。
*
院内を走るな!と神崎の怒鳴る声を聞き流し、つぼ浦は病院の奥の個室のドアを押し開ける。開けた拍子に勢い余って転んで膝を打ち、しかしすぐに立ち上がる。
「アオセン!!」
蛍光灯が白々と照らす室内、ベッドに腰掛ける青井がいた。警察装備のベストやグローブは横のテーブルに置かれていて、水色のシャツだけの軽装だった。騒動に気づいて首だけ動かしてつぼ浦を見た。
「…………誰?」
温度のない顔で青井は言った。
世界が凍ったようだった。頭の奥がひどく痛む。吐き気がこみ上げるのに口の中がやけに乾く。
「冗談…ですよね、アオセン…?」
ひどくかすれた声が出た。姿形は知っているのにつぼ浦の知らない顔だった。
「つぼ浦でも駄目か」
背後に立つ神崎がため息混じりに言った。
「な、なにがあったんだよ」
遅れてきたももみが神崎の後ろから顔を出す。
「わかんないです、気がついたら”居た”んですよ」
「つまりそういうことだ。……記憶が消えちまってる、それもかなりまずいところまで」
「まずい、って」
「……多分全部だ、本当に全部」
血の気が引いた。無意識に指が首に触れる。もう絞められてなどいないのに息が詰まる。
「お前ら一緒にいたのか?なあ、本当に何があったんだ?」
神崎はつぼ浦の肩を掴む。力を入れようとしたがつぼ浦は藁のようにその場に膝から崩れ落ちてしまった。
「嘘だろ」
神崎は声をかけようとしたが、その腕をももみが引っ張る。首を振ると、二人ともゆっくりと廊下に出ていった。
意識の端でドアが閉まる音がした。つぼ浦はへたり込んだまま青井を見る。
「なんで……なにがあったんすかあのあと、なんでアオセンが」
もしかしたらという希望をわずかに込めた問いかけだった。
「アオセン…?」
「あ」
耳慣れない固有名詞に不思議そうに首を傾げる青井を見て、つぼ浦の浅はかな希望がゆっくり崩れた。
ついさっきまでどす黒い欲望をやり取りしていたのに、虚ろな目の奥には吹けば簡単に消えそうな火しかなかった。
「覚えて、ないんすか、マジで」
青井は一度だけ頷いた。
面白くもないのに引きつった笑みがこぼれる。思わずぶつけてしまいそうになった感情のいくつかを飲み込んで、つぼ浦は歯を食いしばる。
揺れる目で青井を見た。見た目は変わらない。しかしいつも見て、話をして、さっきまで一緒にいた人の顔ではない。知っているのに知らない顔にしか見えないことが恐ろしかった。
記憶がないというのは自分の全てに根拠がないということ。このまま魂までも薄れて消えてしまいそうだった。
「……アンタの名前は青井らだお」
なんとか繋ぎ止めようと名前を伝えた。あわよくばそれで思い出しはしないかと淡い期待が胸を焦がす。
「あお、い?」
「そうだぜ。この街の…ロスサントスの警官で、俺の先輩、で……」
「警官……、警察官?」
「そう、だぜ。そうなんだぜ……」
それ以上は嗚咽で言葉にならなかった。信じられないほどの涙が頬を伝い、膝や床に雨のようにボタボタ落ちる。
それをただ青井は見ていた。何をしているんだろうな、という目で見ていた。
ひときわ強い頭痛で涙が引っ込む。吐き気が誘発されるほど、目の奥が刺されるような痛みでつぼ浦は思わず頭を抱えて呻く。
「ウ、グッ…!」
こらえきれず床に倒れた。身体を丸めて必死に痛みに耐えながらふと見ると、つぼ浦に向けて座ったまま身を乗り出す青井と目が合った。目の前で急に倒れた人間の安否がただ気になるだけの仕草に、猛烈な既視感を覚えてつぼ浦は目を見開く。
「ッあ…?!」
それはいつかの日、屋上で青井を守ろうとして撃たれて倒れたときのこと。慌てて駆け寄ってきた青井の姿と重なった。
一気に記憶が蘇る。あの日頭を撫でてもらったあと、そのぬくもりを再び求めて無茶な事件対応に明け暮れたこと。他にぬくもりを求める方法がわからず、それで褒めてもらおうとしたこと。その結果、青井にそれまでの頑張りに気づいてもらい、そして、
「俺が飛び降りたんだ」
絶望が口から出る。遠い空が遠ざかり、風が頬を切る感触さえも鮮明に蘇る。
つぼ浦はよろりと立ち上がる。思い出した記憶の終端にはひどい結末があった。
「俺がアオセンを置いてったんだ」
遠く聞こえた悲鳴が脳内を反響する。息が詰まる。呼吸すら忘れるほど、頭の中が真っ白になる。
「俺だけ全部忘れて、なのにまた優しくしてもらおうとして、それで……」
青井の優しい笑顔が一瞬よぎった。これは至るべくして至った終わりだった。許しを請おうにもどこにも縋り付けず、それでもついベッドに腰掛けている想い人を見てしまった。
青井の目は虚ろでも綺麗だった。青空を閉じ込めたような目がつぼ浦の涙でぐちゃぐちゃの目を捉えた。
「君は?誰なの?」
「誰でも……誰でもないぜ、俺は、俺なんてもんは」
喉が苦しげに鳴った。もう一度記憶に刻んでもらうまでもない名前だった。青井は「そうなんだ」と一言だけ言った。
「ごめん……アオセン、本当にごめん、俺が逃げたから」
つぼ浦はふらふらと青井の前に膝をついた。また涙が落ちはじめ、俯いて静かにしゃくりあげる。
突然、ぽん、と頭に手を置かれた。その愛しい感触でがばりと顔を上げる。
特に感情の動いていない顔があった。目の前で泣き出した人間にしてあげられる仕草のうちの一つをしただけの姿だった。
手は温かかった。ついさっきまで青井の後ろにあった、つぼ浦を容易く押し潰そうとしていた大きすぎる感情の重みはそこにはなかった。
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いつの間にかつぼ浦は病院のソファーで眠りに落ちており、気がつけば窓の外はすっかり明るくなっていた。
あのあと事件を聞きつけた同僚たちが夜遅くにも関わらず総出で駆けつけてきた。しかし想像以上に青井の状態は深刻で、誰が会話を試みてもすり抜けるばかりで全てが無意味だった。つぼ浦だけでなく、共に戦った仲間たちでも記憶を取り戻す手がかりにはならなかった。
何が正解なのかわからないまま一夜が明けた。
このまま忘れ去られてしまったら到底自分は生きていけないだろう。しかしもし記憶を取り戻してもまた死んでしまうのではないかという恐怖が消えない。
「……きっとアオセンもこんな気持ちだったんだな」
つぼ浦はぽつりとつぶやいた。病院の廊下はただ無機質な白く冷たい光を返す。
自覚してしまった恋の炎がどうしても消えない。それを抱えたまま何も覚えていない想い人の顔を見て生きるのはあまりにも過酷な道だろう。それは青井が歩いた道であり、その身の破滅を選ぶに足るだけの絶望だった。
なるべく静かにドアを開けて、つぼ浦は青井の様子をうかがう。ベッドで身体を起こしている姿が見えた。ゆっくりドアを閉めて部屋に入る。
「あー、おはよう…ございます」
「おはよう」
穏やかな声で挨拶が返ってきた。少しの希望を抱いて顔を見るが、昨夜と変わらず遠くを見る目は虚ろだった。
「……なんか思い出したりしました?」
慎重に問いかける。青井は首を振るだけだった。
「怖くないんですか?」
「怖い?」
「何も思い出せないのって。だって、何もないじゃないっすか」
あらゆるページを遡っても自分のことが何一つ書かれていないのは恐怖ではないか、とつぼ浦は思った。ほんの数日の記憶が抜けただけでも不安で不快な思いをしたのだ。
しかし青井は表情を変えずに言った。
「だからかな、何もないから怖くもないよ」
達観と諦観を混ぜたような回答だった。
つぼ浦は青井の視線の先を追う。個室の窓からは青い空が見えた。分厚いガラス越し、雲一つない凪いだ空は静謐な美しさを湛えていた。
それも綺麗だなとつぼ浦は思った。
その下で焦げ付く自分から目を逸らせば、空はとても綺麗だった。
「アオセン、行きましょう」
つぼ浦は衝動的に青井の手を取った。
「どこに?」
「空ですよ、空!」
ぐいぐい引っ張られて青井は当惑しながらベッドから出る。靴を履くのを待つ時間さえじれったい。
思い出してほしかった。あの重たい感情に、激しい情動にまた触れたかった。
さもなくばすべてを忘れてしまいたかった。青井がそうしたように、心を蝕む恋という名前のついた巨大な飢えを消してしまいたかった。
あの空に触れればもしかしたら何かが。わずかな期待だけがつぼ浦の背中を押した。
*
早番の救急隊員が止めるのも無視して、運良く停めてあった救急車両に乗り込んで本署へと向かった。ちょうど大型対応でバタつく署内を駆け抜け、ヘリを一台拝借する。
慣れ親しんだ手足のような警察ヘリを見ても青井に反応はなかった。それにがっかりしている暇はなく、呆然とする青井を助手席に乗せ、つぼ浦は運転席に座った。
つぼ浦がこうして青井を乗せたことは数回しかない。颯爽と運転席に向かういつもの後ろ姿が未練とともにちらついた。
太陽はその高度を上げ、空は抜けるような青さだった。すべての雲は地平線まで退き、陽光は柔らかに頬を照らす。天まで繋がりそうな濃い青の中をヘリはできるだけゆっくりと飛んだ。
「俺もヘリ上手くなったんすよ、アオセンには勝てねえけど」
「その「アオセン」っていうのは?」
「ああ……青井先輩の略っす」
「そうなんだ」
繋がらない会話が不安の染みを作る。届かない距離に心を刺されながら、なるべく明るい声でつぼ浦は言った。
「すごい人なんですよ。自分の翼みたいにヘリ飛ばすし、目が何個あるんだよってくらいサーマルすげぇし、IGLしてるだけかと思ったら悪魔みたいなブレードキルかますし、しぶとくてなかなか落ちねぇし」
目を閉じるまでもなく思い出せる数々の活躍を謳う。存在しない思い出の話をされるのは苦痛かもしれない。それでもつぼ浦は言葉を続ける。
「アンタは空だ。俺らみんなを見守る空だ。アンタが空にいてくれるだけでみんな安心するんだよ。ヘリ乗りの憧れなんすよ?警察の連中は、アンタを目指して空を飛んできたんだ」
返事はない。それはもはや独白に近かった。壁にでも話しかけるような徒労だった。
それでもつぼ浦は話すのをやめなかった。この期に及んでなお涙腺が痛む。自分の中にあるキラキラした思い出が口をついて出続けた。
「アンタは……空だったんだよ」
操縦桿を握る手に力が入る。噛みしめるように本音を吐き出した。返事はない。
ユニオンヘイストをやっているようで中心街を警察とどこかのギャングのヘリがいくつも飛んでいた。邪魔にならないようにとつぼ浦は海沿いの住宅街にヘリを向かわせる。
天頂を目指して駆け上がる太陽が海にその身を照らして眩しかった。それを避けるように適当なアパートの上にヘリを降ろす。遠くから吹く潮風がふわりと髪を揺らす。
つぼ浦は助手席から降りる青井に手を貸す。掴んだ手は温かかった。
「……なんか、あります?懐かしさとか」
「空を飛んでたんだ?俺は」
「ハイ」
頷くつぼ浦を見て、少し考えてから青井は首を振る。あれほど翔けた空も記憶を取り戻すきっかけにならないことを知り、つぼ浦は嘆息する。
空っぽの青井の向こうにはただ茫洋と空が広がっていた。それが青井をどこへでも連れて行ってしまいそうで怖かった。せめて、爪を立てなければ。つぼ浦は声を絞り出す。
「アオセンもわかってないっすよ。俺が、どんだけアンタのこと欲しがってたのか」
なにも思い出せない人に向けてつぼ浦は訴える。消えそうな灯に向けて、心で燃える恋の炎がそれでもなおと火の粉を飛ばす。
「アンタはずっと遠い空で。俺がどんだけ落ちてこいって吠え立てても全然手が届かなくて。……でも違った、俺が遠くさせちまってたんだ」
つぼ浦は青井の目を真っ直ぐに見た。
そうあれかしという理想は実像を突き放し、地に足さえつけさせない。曇りすら許さず常に青い空であれと願い、空から降りてこないことを恨みながら青井を空から降ろさせなかったのは、他ならぬつぼ浦の盲信だった。
「すぐ側にいたんすね。あのとき見せてくれたのが、あれがアンタのすべてだったんだ」
つぼ浦は一歩踏み出し、立ち尽くす青井をそっと抱きしめた。服に残る機械油と洗剤の香りが、頬に触れる柔らかい髪が、その感触があの日負傷した自分を初めて抱きしめてくれたときのことを思い出させる。
あのとき青井が見せた感情は、泣きたくなるほどに青井の全てだった。それを見誤らずにちゃんと手を握り続けていればこんなことにはならなかった。後悔だけが重くのしかかる。
青井はつぼ浦の言葉をただぼんやりと聞いていた。芯がないのだから響くものもない。飛んでいきそうな魂がかろうじて繋ぎ止められているだけのような、空っぽの身体はとても軽く感じた。
「でも、もう関係ないよな、アンタは……忘れちゃったから」
自嘲とともに身体を離す。腕は驚くほど簡単に解けた。
「そんなに好きだったんだね。この、青井らだお、のことが」
青井は静かに言った。青井から初めて「好き」という言葉が出て、つぼ浦は目を見張る。
自分が伝えられず、きっと青井も伝えられなかった言葉だった。それが遠い他人事として語られたのが、とてつもなく悲しかった。
「嬉しかったっすよ。最初は何されるかすげぇ怖かったけど、俺にだけ夢中になってくれて、本当に嬉しかった」
つぼ浦は首に手を当てた。つい昨夜青井にされた行為を思い出す。命を捕まれ、強い言葉で踏み荒らされた苦痛と、その中に間違いなくあった感情を思い出す。
「だって全部、全部、愛だったじゃないっすか。暗くても汚くても、あれは全部愛だったんですよ。……忘れられるわけないじゃないっすか」
目に涙を浮かべ、つぼ浦は感情を吐き出した。最期に見た、泣きそうな目で首を絞める青井の顔が脳裏をよぎる。
誰の前でも綺麗な空であり続けた人が、あの時間だけは見たことのない顔で自分だけを見て狂ってくれたこと。それを誰にも渡さず独り占めできたこと。無慈悲に命を握られたことさえも、今となっては嬉しかった。
つぼ浦にとって青井は空だ。夜闇も、雷鳴も、垂れ込める黒い雲さえ空の一部だ。
どれだけ姿や色を変えても空は空だった。青空だけを求めすぎて、それに気づくにはもう遅すぎた。
「じゃあきっと幸せだったんだね、記憶を無くす前の俺らは」
ふわりと青井は笑った。つぼ浦は息を呑む。いつ以来の笑顔なのか、それももうわからない。その場違いに幸せそうな笑顔はつぼ浦の胸を強く締め付けた。
青井はほんのすぐそこ、手が届くところにいる。しかしどの想いももう届かなかった。
「幸せ、だったぜ」
一連の激情を形容するなら「幸せ」以外の何者でもなかった。
胸に言いしれぬたくさんの感情が押し寄せる。走馬灯のようなそれは感情の終点を告げていた。
つぼ浦はゆるく首を振り、大きく息を吐いた。
青井はきっと何も思い出さない。もう何も思い出そうとしない。
ならば胸にこの思い出があったというだけで、この身体が一度は愛してもらえたという事実だけで、十分だった。
「俺もきれいサッパリ忘れてきますよ。アオセンのこと」
一歩、二歩と後ずさり、つぼ浦は告げる。
「終わりにしましょう、全部。俺も忘れて、アオセンも忘れて、それで全部……最初からなかったことにしましょう」
青井がそうしたように。つぼ浦は惜別の言葉を告げると踵を返す。一歩ずつ、徐々に歩調を速めて屋上の縁までたどり着く。
頭上いっぱいを埋め尽くす、あの日と同じ空の青から目をそらす。
せめて最期に、青井の顔を見ることが出来なかった。
「つぼ浦」
背後で愛しい声がした。その声の響きも愛しい思い出として胸に刻み、振り向かずに虚空に向けて一歩踏み出す。
片足が空を踏み抜き、重力に捕らえられた身体がゆっくりと倒れていく。身体を掴む死の重みが救いのように思えた。
あの日と同じ墜落を前に目を閉じようとした刹那、つぼ浦は気付いた。
自分は、この青井に名前を告げていない。
「つぼ浦ッ!!!」
駆け寄る足音と悲鳴が聞こえた。同時に腕が強く引っ張られる。
「ア……?!」
救い手の名前を呼ぶ間もなく、すでに半分は落ちかかっていたつぼ浦の身体が勢いよく屋上に引き上げられた。
紺色の髪が頬をかすめる。引き上げた勢いでバランスを失い、助けてくれた青井の身体が虚空に崩れる。
その腕を掴み返すより先に手が離された。二人一緒に落ちないようにと離された。
最後まで耐えて縁にかかっていた足が外れた。
全てはスローモーションだった。落ちていく青井と目が合った。満足そうに笑う顔に、胸が熱くなる。
「だ、めだ!!」
一瞬のためらいもなく、つぼ浦は落ちていく青井に飛びついた。
自分を落とすまいとした人だけを落とさせるわけには行かなかった。
決して離さぬように強く抱きしめる。重力はあっという間にその力を増し、命を奪おうと全身を掴む。
耳元を風が激しく切る。否応にも身体はスピードを増し、見る間に地面が近づいてくる。
つぼ浦はとっさにビルの壁面を全力で蹴りつけた。脱げたサンダルが舞うのが視界の端に見えた。
死の重さに抗わんとするあがきが落下の軌道をわずかに変える。植え込みの街路樹に背中から突っ込む。枝がバキバキと何本も折れる。
衝撃を覚悟してぎゅっと目を閉じた。鈍い音が人通りのない道に響く。
二人は地面に落ちた。
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割れそうな頭痛が頭を襲う。枝を引っ掛けたこめかみの傷から血が大げさに出る。目に入る血を拭おうとして右腕の感覚がないことに気づく。抱きしめる相手の頭を庇った右腕はひしゃげて手首から骨が突き出していた。
シュレッダーにかけた程に切り刻まれ、混濁していた記憶が泥の中から繋がる。空虚なジオラマのように見えていた世界が徐々に色を取り戻す。
途端に身体がずっしりと重くなる。喘ぐように大きく息を吸った。吐き出す呼吸は間違いなく自分のもので、ようやく青井は自分の下敷きになってぴくりとも動かないつぼ浦に気づいた。
「つぼ浦……つぼ浦っ!!」
無事な左手で頬を叩く。逃避から一度は絞め殺した命の無事を願う、身勝手な振る舞いだった。それでもつぼ浦を死なせるわけにはいかなかった。このまま記憶を消させるわけにはいかなかった。
「頼む起きて、また…また置いていくなよ…!!」
額に額を押し当てる。血の混じった涙がつぼ浦の頬に流れる。
悲痛な嗚咽がただ虚空に響く。
青井は命を奪ったその手をつぼ浦の首に当てる。できるだけそっと触れる。
薄皮の下、確かに命の脈打つ感触がした。
「つ……」
「…っしゃ!生き延びたぜ…!」
吠えるように息を吸い、つぼ浦はぱちりと目を開けた。何よりも見たかったその琥珀色の目を見て青井の顔がくしゃりと歪む。
「バカッ、お前…!本当バカ、この野郎ッ!!」
半分は悲鳴になってまともな声にならなかった。喉が苦しげに鳴る。万感の思いがこぼれ落ちる。青井はつぼ浦の上で声を上げて泣いた。
「もう一度飛び降りるとかお前マジか」
「本当すんませ……ウグッ!!」
激情のままに胸を叩いた拳が折れた肋骨に入る。声にならぬ呻き声を上げて痛がるつぼ浦を見て青井はハッと我に返る。
つぼ浦がとっさに街路樹に突っ込んで勢いを殺し、落ちた先が花壇の土だった。青井を庇って下敷きになったつぼ浦の両足は変な方向に曲がっていたが、二人はなんとか生き延びた。各所を襲う痛みが命の存在を示していた。
「あ……?待って、思い出したの?」
つぼ浦の言葉に違和感を覚え、青井は問う。
「チクショウ、そりゃこっちのセリフだぜ!もう絶対に無理だと思ったのに」
感情をあらわにする青井を見て、つぼ浦も胸が一杯になる。
先程までの小さな灯火しかなかった青井は消え、いま自分の上にのしかかっているのは嵐のような激情に揺さぶられる青井だった。つぼ浦がずっと会いたかった青井だった。
「なに落ちてんだよ」
「会えないと思ったんすよ」
「……俺だって会わないと思ったよ」
「でも戻ってきたんすね」
「また落とすわけにいかないだろ、お前を、……俺のせいで」
青井は唇を噛む。事実上の死に等しいほどの記憶喪失から引きずり戻したのはつぼ浦の命と、罪悪感だった。目の前で特大のトラウマを踏まれ、気づいたときには体が走り出していた。今度は救えた、という安堵がため息をつかせる。
二人はしばし見つめあう。しかし取り戻した記憶を咀嚼するにつれて、どんどんと青井の顔から血の気が引く。
つぼ浦にしてしまったことが蘇る。首を絞め、首を割いた手の感触までも思い出す。戸惑う殺人者は殺してしまった被害者に恐る恐る問いかけた。
「……あんなことするクズなんだよ俺」
純粋なつぼ浦の心と身体を汚したという罪が腹の底からこみ上げる。それが喉から出るより早く、つぼ浦は倒れたままにかっと笑って青井を見た。
「俺にあんなに狂ってくれて嬉しかったっすよ」
「駄目だよ俺は汚いんだよ」
何でも受け入れてしまいそうなつぼ浦に吐き捨てる。湿った涙がじっとりと浮かぶ。
「許さないでよ、俺本当に駄目なんだよ。お前には綺麗なものだけ見せたかった。だから絶対許すなよ、きっと……歯止め効かなくなるから」
青井は左手で涙を拭った。人並みに泣く資格など自分にはないことはわかっていた。
勇気という最初の一歩を持たず、恋を吐き出せない心は思いを溜め込むうちに濁っていき、いくつもの重く醜い情念を作り出してしまった。ともすればいま怪我で苦しむ顔すら好ましいと思うほどの汚れた性分が、つぼ浦の思いを受け止めることを拒む。
「効かなくていいっすよ」
つぼ浦の手が青井の手を掴んだ。それから涙の残る頬に触れる。
「取り繕わないでくださいよ。俺は、アンタの全部が欲しくて仕方なかったんだ」
ぎらぎらと燃える瞳が青井を見た。
弱音も逃避も焼き尽くし、あの日見せたすべてを肯定しようとする目だった。青井の背後にある暗く重たい感情さえも見通す目を前に、青井はしばし言葉を失う。
「……潰れちゃうよ」
「望むところだぜ」
「俺は、綺麗じゃないんだよ」
「わかってます」
「本ッ当にろくでもないよ」
「俺だって大体そんなもんっすよ」
「お前を、壊すかもしれないんだよ?!」
「でも全部、愛っすよね?」
感情を隠さずつぼ浦は言った。
愛、という純粋な言葉がうろたえる青井の頭を貫いた。
その一言で、薄汚れた積年の恋が汚れたまま愛に変わる。
恋が秘めるものならば、愛は与えるものだ。溜め込み続けた独善の恋が、利他の愛に昇華する。
一度も踏み出すことの出来なかった足が、その最初の一歩が、ついに空を踏み抜いた。
愛という重力が身体を掴み、理想を湛えた青い空が遠ざかる。その空には目もくれず、青井は自分の下敷きになっているつぼ浦を見た。
「やっと落ちてきた」
勝ち誇るように笑うとつぼ浦は受け止めるために両手を広げた。
「……落ちたよ。言っとくけど重いよ」
苦笑とともに涙の雫が一つ落ちる。青井はその腕にためらわずに飛び込むと、ぎゅっと強く抱きしめた。
重みで傷が押され、身体の下でイテテと呻く声がした。
つぼ浦にとって、青井は隣にいてくれる人だ。
空の名残の色の目が、つぼ浦を見つめて情けなく笑った。
ーーーーー
青井は動けないつぼ浦の身体を片手でなんとか引きずって、せめて楽になるようにと上体を起こして壁にもたれかからせる。その横に座り、二人は救急隊の到着を待った。
ふと気づいて青井はポケットを探る。しかし何の感触もなく、ため息をついた。
「お前がくれた飴、消えちゃったな」
「エ、持ってたんすか?!」
あのとき強烈に拒絶されたのに実は拾っていたという事実につぼ浦は驚く。青井は首を振ると自嘲した。
「……逃げ回るし捨てられないし、ほんとどうしようもないね」
自己評価の低さが頭を垂れさせる。そんな青井をつぼ浦はじっと見て、ふと思いつく。
「アオセン、頭撫でてくれませんか?」
「は?」
疑問が口をついて出たが、頼まれた通りつぼ浦の頭に左手を乗せる。そのまま柔らかい髪をくしゃくしゃと撫で、一通り撫で回してから乱れた髪を手櫛で直す。
「あーそう、これが」
つぼ浦はなにか納得すると痛む腕を持ち上げてお返しとばかりに青井の頭を撫でた。腕の痛みで力加減が出来ず、髪が乱れるのも気にかけず青井はわしゃわしゃと撫でられる。
ただそれだけだった。それだけで胸の中の闇が退いた。
手は温かかった。闇が消えたあとの空白に、じわりと温かいものが満ちる。
それが愛だ、と気づいて青井は頬の赤らみを隠さずつぼ浦を見た。
「これで俺はわかったんですよ、アオセンが好きだって」
「ふ、本当お前さぁ」
単純さに思わず笑いが溢れた。それはお互い様だった。
青井はあの日伸ばした手の重さを思い知る。それがどれほどつぼ浦の心を飢えさせ、そして満たしたのかを思い知る。
無条件な肯定は、愛だった。それは空白を満たすには十分だった。
「じゃあ俺も教えてあげるよ。お前のどこに惚れたのか」
「お、おう、頼むぜ」
「全部ちゃんと聞けよ、歯止めなんてないんだからね」
青井はつぼ浦の肩にもたれ、耳に口を近づける。一つ一つ、語るたびにつぼ浦の顔が真っ赤になっていく。
隠し通してきた本音はやがてただの惚気に変わる。決して綺麗ではない重い言葉たちは、それでも軽々と空に昇った。
コメント
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普段は見る専なのですが、あまりにも癖に刺さり、感想を送らずにはいられませんでした。特に、空で人物像を描写するシーンが本当に大好きです。どうしようもない切なさを感じて、思わず涙がこぼれました。すれ違いを重ねた2人を見下ろす空がたとえ澄んでいなくても、この先には幸せな未来が待っている……そう確信できるような救いのあるラストに心が震えました。こんなにも心に響く作品をありがとうございます。長文失礼しました
読んでいただきありがとうございます🙏Cパート(一番最後の部分)を入れるかすごい悩んだのですが、その前の長い改行のところで特殊エンディングとスタッフロールが流れたものとしてエピローグ的にお楽しみください…
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