テラーノベル
アプリでサクサク楽しめる
コメント
0件
👏 最初のコメントを書いて作者に喜んでもらおう!
いるまは眠りの浅いまま、夢の中でまたあの景色に引き戻されていた。
暗く狭い空間、声が飛び、腕が伸びてくる感覚――心臓が早鐘を打ち、手足が硬直する。呼吸が荒くなり、汗が額を伝う。
みことはそんないるまをもっと強く抱きしめようと、無意識に力を込めた。
抱きしめることで何かを消せるような気がして、みことの腕はいつもよりずっと強かった。
だが、いるまは夢の中で反射的に身を振り、思わず手を振り上げてしまう。固まった拳は、みことの胸に鈍い衝撃を与えた。
鈍い感触に、いるまははっと息をのんで目を覚ます。暗がりの中で視界が揺れ、倒れ込むように床に崩れるみことの姿が飛び込んできた。
血の気が引き、視界が一瞬真っ白になる。錯乱と恐怖が同時に襲い、いるまは言葉にならない声を漏らした。
「ごめ……っ」
声が裏返り、指先が震える。
自分が何をしたのかわからない、ただその瞬間だけが全てを支配する。心臓が張り裂けそうになり、いるまは慌てて起き上がってみことに駆け寄る。
しかし、倒れていたみことはゆっくりと起き上がると、まるで何もなかったかのようにいるまの首に回した腕をぎゅっと引き寄せた。目は潤んでいるが、口元には決意のような静かな強さがある。
「……大丈夫、いるまくん。大丈夫、もう大丈夫だから…」
みことの声は震えているが、何度も繰り返されるその言葉は、必死に現実を確かめるための呪文のようだった。
いるまはしばらく凍りついたまま、みことの胸で荒い息をつく。
無意識に自分が誰かを傷つける可能性があるという事実に、涙が零れそうになる。
みことは顔を上げ、いるまの頬にそっと手を添えた。強く叩かれた衝撃の痕も、今は彼の存在が包み込んでくれると信じているようだった。
「ごめん、みこ……本当に…、」
いるまの声は掠れ、震える。
だがみことは、首を振って否定した。
「…いいよ。いるまくん、夢見てたでしょ? 怖かったんだよね…俺も怖かった。でも、ここは現実で――俺がいるから」
そう言って、みことは再びいるまを抱きしめた。力はさっきよりは弱く、しかし確かな温もりを伝えようとする。
いるまの肩は細かく震えている。息は乱れ、まるでまだ夢の中にいるように怯え続けている。みことはそんな彼を腕の中に抱きしめ、少し顔を離してその表情をじっと見つめた。
「……いるまくん、大丈夫だよ」
掠れた声でそう囁くと、みことはそっといるまの頬に唇を寄せた。柔らかい音が小さく響き、額にも、目元にも一つ一つ丁寧に口付けを落としていく。
「ここは夢じゃない。俺がいるから…もう怖くないよ…」
そのたびに、いるまの強張った眉が少しずつ緩んでいった。大粒の涙が目尻から零れると、みことはそれすらも唇で受け止めるように触れて、温かくなぞった。
いるまは何度も「ごめん……」と繰り返していたが、その声は次第に弱まり、震えも落ち着いていった。
「謝らなくていいから…いるまくんは悪くない」
「……みこと……」
みことはただ優しく微笑み、もう一度頬に口付けした。その温かさに包まれて、いるまはようやく力を抜き、腕の中で小さく息を吐いた。やがて彼の瞼は重くなり、涙の跡を残したまま、穏やかな眠りへと落ちていった。
みことは眠るいるまの髪を撫でながら、小さな声で囁く。
「大丈夫だよ…今度こそ…守るから…」
昼の光が差し込む屋上。まだ人影はなく、柵に寄りかかっていた兄たちは、それぞれ考え込むような表情をしていた。
ひまなつがぽつりと呟く。
「……魘されるってことは、相当だよな。あいつら、どんな目に遭ってきたんだ」
らんは腕を組みながら小さく唸る。
「考えれば考えるほど、胸が苦しくなる。こさめも、みことも、いるまも……無理して笑ってるんじゃないかって」
すちは俯き気味に、ぽつり。
「……俺たちが一緒にいるときは、もう過去なんて思い出させたくない。でも、心の奥にはまだ消えないものが残ってるんだろうね」
そんな時、屋上の扉がガラリと開き、こさめが顔を出した。
「お待たせー!」
無邪気な声に、三人は一瞬表情を和らげる。
しかし、すぐにこさめはすぐに困ったように眉を下げ、少し笑ってから言った。
「……やっぱり、気になるよね。こさめたちの過去のこと」
兄たちは一斉にこさめを見つめた。
こさめは深呼吸をしてから、静かに言葉を続けた。
「……虐待って、いろんな種類があるんだよ。俺はね、ずっと『心理的虐待』を受けてきた。否定されたり、怒鳴られたり、笑ってないと嫌われる気がして、笑顔でいなきゃって……そんな感じ…」
兄たちの胸が締めつけられる。
「みこちゃんは……身体的虐待。叩かれたり、殴られたり、きっと一番目に見える形で傷を負わされてたんだと思う…」
すちが小さく拳を握る。
こさめは視線を落とし、少し間を置いてから最後に口を開いた。
「そして……いるまくんは……性的虐待、だと思う」
言葉が風に溶け、屋上に重苦しい沈黙が落ちた。
「直接、本人から聞いたわけじゃないんだけどね。でも……多分…魘され方とか。見てればなんとなく分かっちゃうんだ」
こさめは唇を噛み、うつむいた。
「ずっと知らないふりしてたけど……本当は、分かってた…」
こさめは、ぎゅっと制服の裾を握りしめながら、ぽつりぽつりと話を続けた。
「……俺は、手を出されてないからいい。怖かったけど……でも、殴られたり、変なことされたりはなかった」
言葉を選びながらも、声が少しずつ震えていく。
「でも……いるまくんと、みこちゃんは違う。心の傷が……俺が思うより、ずっと深いんだと思う…」
ひまなつとすちは顔を曇らせ、らんは拳を握りしめた。
「でもね」
こさめは小さく笑顔を作ろうとする。
「兄ちゃんたちができて……ほんとにちょっと安心してるんだよ。酷いこと言ったり、手を出したりしないから……“ああ、こんなに優しい家族があるんだ”って、そう思えてる」
そこまで言って、言葉が途切れた。喉が詰まり、目尻に涙が滲む。
「だから……」
小さな肩が震え、唇からかすかな声が漏れる。
「だから……いるまくんと、みこちゃんを……助けて……っ…」
その瞬間、堪えていた涙が一気に零れ落ちた。
「こさめ……」
らんがとっさに腕を伸ばし、強く抱きしめる。
「大丈夫、大丈夫だ。お前が一人で抱えてきたことも、もう俺たちがいるから」
こさめはらんの胸に顔を埋め、声を殺して泣いた。
すちもひまなつも言葉を失いながらも、まっすぐこさめを見つめる。
ひまなつはぎゅっと奥歯を噛みしめながらも伝える。
「……絶対に助ける。二人も、こさめも。もう一人にしねぇから」
すちも静かに頷き、こさめの背中に手を添えた。
泣き疲れて眠ってしまったこさめを連れて早退することになった兄たち。
階段を静かに上がっていった兄たちは、一つひとつ部屋を覗いていった。
リビングにも、廊下にも二人の姿はなく、最後に辿り着いたのはみことの部屋だった。
扉をそっと開けると、窓際のベッドに座るみことの姿が見える。
彼の細い腕の中にはいるまが眠っており、その額にはうっすらと汗が浮かんでいた。
みことは必死に抱きしめながら、その髪を撫で続けている。表情は不安に揺れていたが、どこか決意めいた強さも混じっていた。
「……ここにいたんだ」
すちが小声で呟くと、みことがわずかに顔を上げた。
瞳の奥には安堵と緊張が混じっていて、兄たちの姿を確認すると小さく息を吐いた。
「……代わるよ。俺たち早退してきたから」
すちが優しく言うと、ひまなつが頷き、ベッドに近づいていく。
「いるま、俺が連れてくね」
ひまなつはそっと腕を伸ばし、眠るいるまを抱き上げた。
その瞬間、いるまが一度だけ眉を寄せて小さく呻いたが、すぐにひまなつの胸元に顔を埋めて呼吸を落ち着ける。
まるで安心を確かめるかのように。
「……起こしちゃった?」
みことは不安そうに尋ねるが、ひまなつは首を横に振った。
「大丈夫。安心して寝てるよ。俺の部屋に連れてく」
ひまなつが部屋を出ていくと、残ったのはすちとみこと。
しんと静まり返った空気の中で、みことは未だ緊張を解けないまま、いるまのいない腕をぎゅっと抱きしめていた。
すちはそんなみことの隣に腰を下ろす。
そっと肩に腕を回し、俯いたままの頭を撫でる。
「……よく頑張ったね、みこと」
みことの唇がかすかに震えた。
「……俺、ちゃんと守れたかな……? いるまくん、苦しそうで……」
声は小さく掠れていて、まるで泣くのを必死に堪えているようだった。
すちは答えず、ただその頭を撫で続ける。大きな手の温かさが、言葉以上の肯定となってみことを包み込む。
耐えきれなくなったように、みことの瞳からぽろりと涙が零れ落ちた。
「……俺、いるまくんを守りたいのに、ちゃんとできてるのか分かんない……」
その呟きは子どものように弱々しく、胸の奥に隠していた不安があふれ出す。
すちはみことを胸に抱き寄せ、耳元で囁いた。
「大丈夫だよ。みことはちゃんと守れてる。……俺が見てたんだから、間違いない」
その言葉にみことは肩を震わせ、ついに声を殺して泣き始めた。
すちは背を優しく擦りながら、泣き疲れて眠るまで傍にい続けるのだった。
みことはすちの胸に顔を埋めたまま、しばらく泣き続けた。
嗚咽が小さくなっていき、やがて涙は落ち着いたものの、呼吸はまだ不安定に震えている。
「……すち兄」
か細い声で名前を呼ばれる。
すちは撫でていた手を止めずに、優しく返した。
「ん?」
「……俺、今、ひとりになりたくない……」
震える声でそう訴えるみことの目は、涙で赤く腫れていた。
すちは胸の奥がぎゅっと熱くなる。
「ひとりにしないよ。……ずっと傍にいる」
その言葉に、みことはぎゅっとすちの服を握りしめた。
まるで溺れる者が唯一の浮き輪にしがみつくかのように、必死な力だった。
すちはみことの頭を包み込むように抱きしめ、耳に唇を寄せて囁いた。
「安心していいよ。俺は、何があってもみことの味方だから」
その瞬間、みことの全身から力が抜けた。
不安や恐怖で張り詰めていた心が、すちの言葉でようやく解けたのだ。
胸の奥から深い安堵の吐息を洩らし、みことはようやく穏やかな眠りへと落ちていった。
すちは彼の寝顔を見つめながら、そっと頬に触れる。
「……ほんと、頑張りすぎ。俺にもっと頼っていいのに」
その呟きはみことには届かず、静かな寝息だけが返ってきた。
「強がらなくていい。泣いても、甘えても、弱音吐いても……俺の前なら全部許されるんだから」
撫でる指先が髪を梳くたびに、みことは小さく身じろぎして、またすちに身体を預け直した。
その仕草が、何よりも信頼の証のようで胸が熱くなる。
「……可愛いな」
つい零れた言葉に、自分でも苦笑してしまう。
弟を守りたいはずなのに、それ以上に「この子を独り占めしたい」なんて気持ちが強くなっていることに気づいていた。
「俺だけに甘えてくれたらいいのに……」
独占欲のような呟きは、眠るみことの耳には届かない。
それでもいい。
今はただ、こうして隣にいてくれるだけで十分だった。
すちは腕の中の温もりを確かめるように、ぎゅっと抱きしめた。
「守るよ。絶対に」