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類司・司類です
また病気に対して暴言などの表現がありますが、それを示唆する目的は全くないです!
不快に思われる方がいたら、お手数ですがすぐ報告してくださると嬉しいです
ストーリーの内容も重めなので、ワンツー推しで重めなものが嫌いな方がいたらブラウザバックしていただいて構いません
(ストーリー長めかもです、約40,000字)
一応ワンクおきました
──あの日、司くんの全ては壊れてしまった。
小学6年生の冬。
家族4人で出かけた楽しいはずの外出は、一瞬にして地獄へと変わった。司くんがほんの少し目を離した隙に、制御を失った車が彼の両親と、大切にしていた妹の咲希くんの命を奪った。
アスファルトに飛び散ったガラスの破片、鼻を突く鉄臭い血の匂い、そして鳴り止まないクラクションと救急車のサイレン。生き残ってしまった司くんの心には、その光景が鋭い棘となって刺さったまま抜けないでいる。それ以来、彼は外の世界を拒絶し、学校に通うこともできなくなった。
それから数年が経ち、高校3年生の年齢になった僕たちは、今こうして二人で暮らしている。 だけど、今の僕たちの関係を「幸せな同棲」と呼べる人は、きっとどこにもいない。
部屋の時計の針が、もうすぐ19時30分を指そうとしている。
僕は台所で司くんの夕飯の準備をしながら、時折玄関の方へ視線をやった。
学校の課題が終わらなくて少し焦ったけれど、なんとか門限の数分前には帰宅できた。ここで1分でも遅れれば、この後の時間がどうなるか嫌というほど分かっているから。
「おかえり」も「ただいま」も、この家では安らぎを伴う言葉じゃない。
自分の身を守るための、儀式のようなものだ。
夕飯も、毎日のように君が好きなハンバーグにする。
…今日は、おとなしく座って待っていてくれるかな。
「司くん、ご飯できたよ」
僕は努めて穏やかな声を出しながら、リビングで僕を待っているであろう司くんに声をかけた。
視界の端には、昨夜僕が夜なべして作った手書きのプリントが置いてある。
正負の法則すら怪しい、中学1年生レベルの“算数”の問題。
それを必死に解こうとして、結局間違えて泣き喚く彼をなだめる時間を想像すると、心の奥が冷たく冷えていくのがわかる。
(もう、疲れたな……)
そんなどす黒い本音が口から出ないように飲み込んで、僕は彼に向き直った。
「司くん、今日もいい子で待っていてくれたかな? すぐに準備するからね」
そう言いながら、僕は彼を刺激しないよう、細心の注意を払って皿をテーブルに並べた。
「…ありがとうな、類」
「どういたしまして。司くんにそう言ってもらえると、作った甲斐があるよ」
僕は感情を押し殺して、いつものように微笑んで見せた。
司くんが殊勝に礼を口にするたび、心の中にざらついた感覚が広がる。
感謝ができるから、謝ることができるから。
その微かな「人間らしさ」が、僕をこの歪な生活に繋ぎ止めてしまっているのだと思うと、余計に吐き気がした。
(…もし、彼がただの怪物だったら…もっと簡単に捨てられたのかもしれないのに)
僕は彼の隣に座ることはせず、少し離れた位置からその様子を眺めた。
司くんが食事を口に運ぶ音だけが響く静寂。
…それが一番安全だと知っているから。
ふと、机の端にあるプリントに目をやる。
まだ手をつけていないようだけれど、これを差し出せば、またあの苛立たしい時間が始まる。
解けない苛立ちを僕にぶつけ、パニックになり、最後には僕に縋り付く。
「……司くん、食事の後は、昨日のプリントの続きをやろうか。今日は僕も隣で見てあげるから、ゆっくりで大丈夫だよ」
僕は優しく、けれど拒絶を許さないトーンでそう告げた。
本当は、勉強なんてどうでもいい。
ただ、こうして「先生」と「生徒」のような役割を演じている間だけは、彼が暴れだす確率を少しでも下げられる気がしているだけなんだ。
「今日は、マイナスの計算だったよね。覚えているかな?」
「あ……ああ…。マイナスは、2個になったらプラスになるんだったか…?」
「そう、よく覚えていたね。マイナスとマイナスが合わさるとプラスに変わる。司くんは物覚えがいいじゃないか」
僕は感情を排したまま、嘘を吐く。
本当は昨日の夜、同じところを三回も間違えて泣いていたことを知っている。
けれど、ここで否定して彼の機嫌を損ねるのは得策じゃない。
僕はプリントを彼の前に引き寄せ、ペンを差し出した。
「じゃあ、この三問だけやってみようか。もし分からなくなっても、僕がここにいるから。何も怖がることはないよ」
(何も怖くないはずなんてないのにね。僕が一番、君の隣にいるのが怖いよ)
司くんがペンを握る手を見つめながら、僕は冷めた頭で考える。
どうせまた、小学生でも解けるような問題で躓く。
その時に、彼が僕を殴るのか、それとも子供のように泣きじゃくるのか。
どちらにせよ、僕の夜は今日も削られていくんだ。
「さあ、まずはこの『 (-5) - (-3) 』から。ゆっくり書いてごらん」
僕は努めて穏やかな声で、逃げ道を塞ぐように促した。
「…マイナスが3個の時もプラスになるのか…?」
「……いや、マイナスが3個の時は、またマイナスに戻るんだよ」
僕は努めて冷静に、否定の言葉を口にした。
否定されることに敏感な彼を刺激しないよう、声のトーンはどこまでも低く、柔らかく。
けれど、内心では呆れが込み上げてくる。
…昨夜、あんなに時間をかけて教えたはずなのに。
でも…それすら、彼にとってはただのBGMなのかもしれない。
中学1年生の、それも基礎の基礎で躓く彼を見ていると、本当に僕と同じ時間を生きてきたのか疑いたくなる。
「いいかい、マイナスが奇数個……つまり、1個や3個の時はマイナス。2個や4個の時はプラスになるんだ。こうやって、2個で1組のペアを作るとプラスになると考えると分かりやすいかな」
僕は手書きのプリントの余白に、小さな図を描いて説明してあげる。
(……ああ、またそんな顔をして。パニックの前兆かな)
司くんの表情が曇り、視線が泳ぎ始める。
このまま理解できない自分に腹を立てて、また大きな声を出したり、僕を突き飛ばしたりするんだろうか。
「司くん、大丈夫だよ。ゆっくりでいい。もう一度、この問題を最初から一緒に解いてみよう。ね?」
僕は彼の顔色を伺いながら、そっと椅子の位置を少しだけ引いた。
彼が暴れだした時に、すぐに避けられるように。
自分の身を守るための、いつもの間合いだ。
「あ…そうか、マイナスが1個余るから……。」
「そう。司くん、正解だよ。ペアになれずに1個余っちゃうから、マイナスのままなんだ。よく気づいたね」
僕は心にもない称賛を口にする。
こんな当たり前の理屈を理解するのに、どれだけの時間を費やしているんだろう。
普通の高校3年生なら、もっと複雑な数式を解いているはずなのに、僕が目の前のこの人のために夜なべして作っているのは、子供騙しのような算数のプリントだ。
(……本当に、馬鹿げている)
司くんが少しだけ安心したように表情を緩めるのを見て、僕はさらに冷淡な気持ちになる。
こうして機嫌を取って、波風を立てないように立ち回る。
それが今の僕の、唯一の生きる術だ。
「じゃあ、納得できたところで、ここの答えを書いてみようか。マイナスが2個あるところをプラスに変えて……そう、そこだよ」
僕は細長い指先でプリントの一点を指し示した。
彼がゆっくりとペンを動かし、おぼつかない足取りで正解に向かおうとするのを、ただ無機質に見守る。
(早く終わらせてくれ。そうすれば、僕はまた自分の部屋で、君のいない静寂に浸れるんだから)
「……うん、いい調子だ。書けるかな?」
僕は努めて穏やかに、けれど追い詰めるように、次の言葉を待った。
「…マイナスが3個で、ここがプラスになって消えるから…。−5と+3で、…−2?」
「……正解。すごいじゃないか、司くん。完璧だよ」
僕は口元に笑みを浮かべながら、心の中ではひどく冷めた溜息をついていた。
たった一問。たった一問を解くために、これだけの時間と、僕の神経を削るようなやり取りが必要なんだ。
それでも、彼が正解に辿り着いたことで、今夜のパニックの引き金が一つ回避されたことに安堵している自分もいる。
「その調子でいけば、次の問題もすぐに解けるはずだよ。司くんは、やればできるんだから」
僕はプリントの次の問題に指を添えた。
彼の手が震えていないか、呼吸が荒くなっていないか。
その一挙手一投足に意識を集中させながら、僕は「優しい同居人」の仮面を貼り付け続ける。
(いつまで、こんなことを続けなきゃいけないんだろう。このプリントの山が、いつか僕の自由を塞ぐ壁に見えるよ)
僕が夜中にペンを走らせて作るこの紙切れは、彼への愛情なんかじゃない。
彼を大人しくさせ、僕が殴られないための、ただの防波堤だ。
「さあ、次はこれだ。……あ、司くん。少し肩に力が入っているよ。深呼吸して、ゆっくり取り組もうか」
僕はあえて少しだけ声を潜め、彼を落ち着かせるように促した。
もしここで彼がまた混乱して、ペンを投げ出したりしたら……。
そうなれば、また長い夜が始まる。
「次はこれ。 (-2) × (-4)だね。掛け算だから、さっきのルールを思い出せば簡単だよ。……わかるかな?」
僕は、彼が数字を睨みつける様子を、冷え切った瞳で見守った。
「…あと1問だっけ…。…早く終わらせる、」
「……そうだね。あと一問で終わりだ。最後までやり遂げようとするなんて、司くんは偉いよ」
僕は彼の言葉に合わせ、大げさなくらいに頷いて見せた。
本当は、さっさと終わらせて解放されたいだけなのに、言葉だけはどこまでも甘く、彼を肯定し続ける。
司くんがやる気を見せている今のうちに、この不毛な時間を切り上げてしまいたい。
僕は最後の一問を指でトントンと叩いた。
「最後はこれだね。 (-12) ÷ (-2) ……。これもさっきの掛け算と同じルールが使えるよ。マイナスの数に注目してごらん」
(これが終われば、今日の義務はひとまず終了だ。……頼むから、最後くらいスムーズに解いてくれよ)
司くんが眉間に皺を寄せて、数字を見つめている。
彼の中で数字が混濁し、恐怖や混乱に変わる前に、正解という出口へ導いてあげなければならない。
僕は彼の手元をじっと見つめ、呼吸を整えた。
「マイナスが2個あるね。……ということは、符号はどうなるんだったかな?」
僕は、まるでお手本のような優しい教師の顔をして、彼の答えを待った。
この一問が終わった後に見せるであろう、彼の安堵した顔も、その後の甘えたような態度も、今の僕にはただのノイズでしかないけれど。
「これもプラスになるのか…?」
「そう。司くん、大正解だよ。マイナスが2個だから、答えはプラスになる。あとの計算は、いつもの割り算と同じだね」
僕は心の中で、ようやく終わる……と安堵の息を吐き出した。
司くんがゆっくりと、震える手で「6」という数字を書き込む。
その歪な数字が、今日の僕の努力の結晶であり、同時にこの部屋に漂う緊張感を一時的に霧散させる鍵でもあった。
「うん、全部正解だ。よく頑張ったね。やっぱり司くんは、集中すればちゃんとできるんだ」
僕はプリントを受け取ると、あえて彼から少し距離を置くように立ち上がった。
彼を褒め称える言葉とは裏腹に、僕の指先は冷え切っている。
こうして一つ一つ、子供に教えるような手間に時間を割くたびに、僕の心は摩耗していく。
(……これで、今夜は殴られずに済むかな)
僕はプリントを片付けながら、リビングの隅にあるゴミ箱に視線をやった。
昨夜、彼がパニックになった時に投げつけた物の残骸がまだ頭の隅をよぎる。
彼が落ち着いているうちに、僕は次の行動に移らなければならない。
「全部終わったし、少し休もうか。温かい飲み物でも淹れてくるよ。司くんは何がいいかな?」
僕は努めて明るい声を作り、彼を安心させるための次のステップを踏み出した。
彼が僕を独りにさせたくないことは分かっている。
だから、キッチンへ行く間も、なるべく彼の視界から外れないように、そして声をかけ続けるように気を配る。
「ココアでいいかな? それとも、いつものお茶にするかい?」
僕は冷蔵庫を開けながら、彼の返答を待った。
この平和が、せめて眠りにつく瞬間まで続いてくれることを、心の底から願っている。
「いや…今日は大丈夫だ、」
「そうかい?珍しいね。今日はもう、ゆっくり休みたい気分かな」
僕は差し出した手を引っ込め、少しだけ意外そうな顔をして見せた。
いつもなら、僕が少しでも離れようとすると不安そうな顔をしたり、もっと構ってほしそうに袖を引いたりするのに。
今日は、彼なりにあのプリントの数問にエネルギーを使い果たしてしまったのかもしれないね。
(……まあ、僕としては手間が省けて助かるけれど)
僕は片付けたプリントを棚にしまい、再び司くんの方を向いた。
飲み物すら要らないというのなら、これ以上僕がリビングに留まる理由も薄れていく。
けれど、下手に「じゃあ僕は部屋に戻るよ」なんて言えば、それが孤独への引き金になって、また彼のパニックを誘発しかねない。
「分かったよ。それじゃあ、今日はこのまま少しのんびりしようか。司くん、何か観たいテレビや、話したいことでもあるかな?」
僕はソファーから少し離れた位置に腰を下ろし、彼の様子を観察する。
司くんの「大丈夫」が、本当に満たされている時の言葉なのか、それとも何か別の感情が渦巻いている前触れなのか。
それを読み解くことに、僕はもう、心底疲れ果ててしまっているのだけれどね。
「……何かあったら、すぐに言ってね。僕はここにいるから」
僕はいつもの、耳障りのいい言葉を並べて彼を繋ぎ止める。
僕自身の安全と、平穏な夜を確保するために。
司くん、今日はどうしたんだい? そんなに静かだと、逆に心配になってしまうよ。
「……うん…」
「おや、もう眠くなってしまったのかな。今日はたくさん頭を使ったからね。無理もないよ」
僕は彼の微かな変化を逃さず、そっと立ち上がった。
パニックの予兆ではなく、純粋な眠気であることに、心から安堵する。
彼が眠ってしまえば、ようやく僕はこの「献身的な恋人」の役を降りて、自分だけの時間に戻れるのだから。
(……このまま静かに、深い眠りに落ちてくれればいい)
僕は彼に歩み寄り、子供をあやすような手つきで、その肩を優しく叩いた。
彼が僕を殴ることも、喚くこともない、一番安全で平穏な時間。
それが彼の眠りの中だけにしかないという事実は、皮肉としか言いようがないね。
「さあ、寝室へ行こうか。司くん。歩けるかな? それとも、僕が支えてあげようか」
僕は彼を促しながら、心の中ではもう、一人になった後のことを考えていた。
明日のための新しいプリントの準備、そして彼に見られないように隠してある僕自身の勉強。
「……おやすみの時間だよ」
僕は司くんの背中に手を添えて、寝室へと導いていく。
「…うん…、」
「ふふ、足元がフラフラしているよ。危ないね」
僕は司くんの身体が倒れないように、細心の注意を払ってその脇を支えた。
彼が僕の肩に体重を預けてくる。その重みが、今の僕にはただただ疎ましくて、重荷にしか感じられない。
けれど、それを顔に出すことは決してしない。
(あと少し。彼が目を閉じれば、僕の『勤務時間』は終わるんだ)
寝室に入り、彼をゆっくりとベッドに横たわらせる。
シーツの擦れる音が、静かな部屋にやけに大きく響いた。
司くんが完全に眠りに落ちるまで、僕は彼のそばを離れない。
途中で不安にさせて目を覚まさせ、またパニックを起こされるのが一番面倒だからだ。
「さあ、ゆっくり目を閉じて。僕はどこへも行かないよ……司くんが眠るまではね」
僕は彼の髪を優しく撫で、耳元でそう囁いた。
…嘘だ。
彼が寝息を立て始めたら、僕はすぐにこの部屋を出て、ドアを閉めるだろう。
「……おやすみ、司くん」
僕は彼が深い眠りに落ちるのを、暗闇の中でじっと見守り続けた。
「…おやすみ……」
「おやすみ、司くん」
僕は彼が完全に眠りに落ち、規則正しい寝息に変わるのを、暗闇の中でじっと待った。
数分、あるいはもっと長い時間が過ぎたかもしれない。
彼の手が僕の服の裾を掴んでいた力が弱まり、指先が力なく離れる。
(……ようやく、終わった)
僕は音を立てないよう、細心の注意を払ってベッドから立ち上がった。
足音を忍ばせて寝室を出ると、ゆっくりとドアを閉める。
カチリ、という小さなラッチの音が、僕の解放の合図だ。
リビングに戻り、誰もいない空間で僕は深く、長く、溜息を吐き出した。
貼り付けていた微笑みを剥ぎ落とし、無表情のまま冷えた空気の中に立ち尽くす。
さて、ここからは僕の時間だ。
僕は棚の奥から、彼には決して見せない、僕自身の難解な参考書とノートを取り出した。
そしてもう一枚、真っ白な紙を用意する。
明日の夜、彼にやらせるための新しいプリントを作るために。
(2桁の足し算にしようか。それとも、今日やった符号の復習をもう一度……)
ペンを握る指先に力を込めながら、僕は冷え切った瞳で時計を見た。
明日もまた、19時30分までに帰らなければならない。
明日もまた、彼が壊れないように言葉を尽くし、機嫌を取り、殴られないように立ち回らなければならない。
司くん、君が夢の中で幸せにしている間、僕はこうして君の「偽りの世界」を維持するために、独りで削り取られているんだよ。
ペン先が、司くん用の算数プリントの上で止まる。
(……ああ、そうだった。僕自身の課題も残っていたね)
手書きの拙い数字が並ぶ紙を脇に避け、僕は自分のカバンから国語の教科書とノートを取り出した。随筆文の課題。自分の内面を見つめ、言葉を紡ぐ作業。
今の僕にとって、それは何よりも皮肉な作業に思えた。
司くんが眠る寝室の方を一度振り返る。扉の向こうは静まり返っている。
彼が起きている間、僕は自分の「知性」を隠し、彼のレベルに合わせて言葉を砕き、噛み砕いて与えなければならない。
でも、この白紙のノートに向かっている時だけは、僕は僕自身の言葉を使うことが許される。
(随筆、か。……今の僕の生活をありのままに書いたら、先生はどんな顔をするだろうね)
「共依存? そんなのしない。僕はただ、自分の身を守っているだけだ」
そんな一文が頭に浮かんで、僕は自嘲気味に口角を上げた。
ペンを走らせる。司くんには一生理解できないであろう、難解な語彙と複雑な構文。
彼に教える「 -5 」や「 +3 」の世界とは違う、出口のない思考の迷路。
(君を置いて、僕だけがこうして難しい言葉の海に浸っていることを知ったら、君はまた泣き喚くのかな。……それとも、何もわからずに笑うんだろうか)
深夜の静寂の中、カリカリというペンの音だけが部屋に響く。
司くんの明日のためのプリントと、僕の未来のための課題。
机の上に並んだその二つの落差が、僕たちの歪な関係を象徴しているようで、胸の奥がひどく冷めた。
時計の針は、残酷にも午前3時を回っていた。
自分の課題に没頭している間だけは、この家を支配する息苦しい空気から逃げられていた気がしたけれど、現実はすぐに僕を引き戻す。
(……ああ、もうこんな時間か。自分のことをしていると、時間はあっという間に過ぎてしまうね)
僕は開いていたノートを閉じ、まだ半分白紙のままだった司くん用のプリントを再び手元に引き寄せた。
僕が自分の勉強をしていることを、もし彼が知ったらどうなるだろう。
自分が理解できない世界に僕がいるというだけで、彼は「独りにされた」と感じて、またあの金切り声を上げるに違いない。
(……だから、これは隠しておかなければならないんだ。僕たちの『平和』のためにね)
僕は重い頭を振り、ペンを持ち直した。
司くんがギリギリ理解できて、かつ、解けたという達成感を与えられる絶妙な難易度の問題。
あまりに簡単すぎても彼は馬鹿にされたと怒るし、難しすぎればパニックになる。
その匙加減を調整するのは、高度な数式を解くよりもずっと神経を使う作業だ。
「……次は、文章題を一つ混ぜておこうか。林檎が何個、というような……」
僕は、自分の知性をわざと澱ませるようにして、幼い問題文を書き連ねていく。
一文字ずつ、丁寧に。彼が読み間違えてパニックを起こさないように、読みやすい字で。
(明日の朝、彼が起きてきたら、僕はまた『優しい類くん』を演じなきゃいけない。……ふふ、本当に滑稽だよ)
あと数時間もすれば、寝室から彼が僕を呼ぶ声が聞こえるだろう。
それまでに、この「安全な鎖」を完成させなければ。
僕は静まり返った部屋で、黙々とペンを動かし続けた。
時計の針が、無機質に4時を告げた。
5時半には起きて、司くんが起きる前に朝食の支度を済ませなければならない。逆算すれば、僕に残された安らぎの時間は、たったの90分だ。
(……ふふ、たったの1時間半か。僕の人生は、いつからこんな風に削り取られるようになったんだろうね)
完成した手書きのプリントを、司くんの席の定位置に置く。中1レベルの、なんてことのない算数の問題。けれど、これがなければ僕の平穏は維持できない。
机の上に散らばった僕自身の高度な参考書やノートを、見つからないよう慎重にカバンの奥底へと隠した。
彼に見つかれば「僕の知らないことをしている」とパニックの引き金になりかねないからね。
僕は重い身体を引きずるようにして、自分の寝床へ向かった。
本当なら、冷たい水を浴びて目を覚ましていたいくらいだけれど、今は少しでも意識を飛ばして、この現実から逃げたかった。
(1時間半後には、またあの『演劇』が始まる。司くんの顔色を伺って、声を荒らげないように、殴られないように……)
暗い部屋で横になり、目を閉じる。
隣の部屋からは、何も知らない司くんの穏やかな寝息が聞こえてくる気がして、余計に胸の奥が冷えていった。
大好きだったはずのその音すら、今の僕には自分を縛り付ける鎖の音にしか聞こえない。
(……おやすみ、自分。短い悪夢の後で、また長い悪夢が始まるよ)
僕は意識を手放す直前まで、自分の身を守ることだけを考えていた。
(……ああ、時間だね)
5時30分。スマートフォンのアラームが鳴る前に、僕は指先でそれを止めた。
冬弥……じゃなくて、司くんを起こさないように、慎重にベッドから抜け出す。
司くんはまだ深い眠りの中にいるようだね。彼を起こすのは6時。それまでの30分が、僕に残された唯一の、誰にも邪魔されない自由時間だ。
冬の朝の空気は冷たくて、少しだけ頭がはっきりする。
僕は音を立てないようにリビングへ向かい、まずはキッチンに立った。
司くんが起きてきた時に、家の中が暖かく、食事の匂いが漂っていること。それが彼の情緒を安定させるための、最低限の条件だから。
(……本当は、このまま外へ飛び出して、二度と戻ってこなければ楽になれるんだろうけどね)
そんな空想をしながら、僕は手際よく朝食の準備を進める。
司くんが嫌いな音……急な物音や、食器がぶつかる高い音を立てないように。
まるで忍びか何かにでもなったような気分だよ。
コンロに火をつけ、味噌汁の準備をしながら、僕はふと、昨夜書き上げたプリントに目をやった。
テーブルの上に鎮座する、あの歪な「鎖」。
あと30分もすれば、僕はあの「天馬司」という嵐を迎え入れなければならない。
(……さて、今日の司くんは、どんな顔をして起きてくるのかな)
僕は冷え切った手で温かいお鍋の縁を触り、僅かな熱を確かめた。
自分の身を守るための、新しい一日が始まる。
「……あと少し。あと少しだけ、静かでいさせておくれ」
独り言を飲み込んで、僕は朝食の仕上げに取り掛かった。
「……司くんなんか、いなければいいのに」
口から漏れたのは、自分でも驚くほど冷え切った、澱みのような独り言だった。
誰もいないキッチン。朝の静寂の中で、その言葉だけが妙に鮮明に響いて、僕は自嘲気味に口元を歪めた。
(……ふふ、本音だね。紛れもない、僕の)
もし彼がいなければ、僕はこんな時間に起きて、神経をすり減らしながら朝食を作る必要もない。中学レベルのプリントを夜なべして作ることも、彼のパニックに怯えて、殴られないように顔色を伺う必要もない。
僕は、僕の学力に見合った場所へ行き、僕の言葉を理解してくれる人たちと、対等な会話ができるはずだったんだ。
けれど、現実は。
あと数分もすれば、僕はあの部屋へ行き、彼を優しく起こさなければならない。
(嫌いだよ、司くん。君のことも、君に縛られている自分のことも。……でも、君を捨てて、その後に待っている面倒事を引き受ける勇気も、今の僕にはないんだ)
僕は深く、溜息を吐き出した。
吐き出した息が白く濁って、すぐに消えていく。
僕の自由も、あんな風に消えてしまったのかもしれないね。
時計の針が、非情にも6時を指した。
僕は表情を殺し、いつもの「優しい類くん」の仮面を被る。
足音を忍ばせながら、司くんが眠る寝室へと向かった。
「……司くん。朝だよ、起きて。今日もいい天気だよ」
僕はドアを開け、努めて穏やかな声を部屋の中に滑り込ませた。
「っ……るい………。」
「……司くん?」
僕はベッドのそばに膝をつき、彼の顔を覗き込んだ。
その怯えたような表情に、心の中で冷めた溜息をつく。
僕が何かしたわけじゃない。ただ起こしに来ただけだというのに、彼はどうして何かに怯えるような反応を見せる?
それが僕のせいでないとしても、その怯えがパニックに直結する可能性がある以上、僕は細心の注意を払わなければならないんだ。
(……僕の方が怯えたいくらいだよ。君がいつ、その手を振り上げて僕を殴るか分からないんだから)
けれど、僕はそんな本心を一欠片も出さず、どこまでも穏やかで、慈愛に満ちた笑みを浮かべてみせた。
震える彼の手を、怖がらせない程度の強さでそっと包み込む。
「大丈夫だよ、司くん。僕だよ、類だ。怖い夢でも見たのかな?」
僕はあえて声を少しだけ低く、落ち着いたトーンで紡ぐ。
大きな声や急な動きを嫌う彼のために、僕は自分の心臓の鼓動すらコントロールしてしまいたい気分だ。
「ほら、ゆっくり息を吐いて。……そう、上手だ。朝ごはんは、君の好きなものを作ってあるよ。リビングに行こうか?」
僕は彼が落ち着くのを待つ。
ここで無理に引き起こせば、混乱した彼に何をされるか分からない。
自分の身を守るために、僕は世界で一番優しい守護者のふりをし続ける。
「……ねえ、司くん。僕がここにいるよ。何も怖いものなんてないんだ」
僕は彼を安心させるための言葉を、機械的に並べ立てた。
「あ……ああ…。」
「うん、いい子だね。ゆっくりで大丈夫だよ」
僕は彼を安心させるように、背中を優しく、一定のリズムでさすってあげた。
こうして身体に触れている間も、僕の神経は彼の筋肉の強張りを敏感に探っている。
もし、この「怯え」が急激な「怒り」に変わって、僕の顔に拳が飛んできても、すぐに避けられるように。
(……僕がどれだけ神経を削って、この平穏を維持しているか、君は一生知ることはないんだろうね)
僕は彼がベッドから足を下ろすのを手伝い、立ち上がるまで支え続けた。
司くんの体温が伝わってくるけれど、僕の心は氷のように冷え切ったままだ。
彼を守っているんじゃない。彼を怒らせないことで、僕自身が壊されないように守っているだけなんだ。
「さあ、リビングへ行こうか。昨日一緒に解いたプリント、覚えてるかな? 朝ごはんを食べたら、また少しだけ復習してみようね」
僕は彼をリードしながら、リビングへと歩を進める。
テーブルの上には、僕が深夜に作ったあの「鎖」が、白く光って待っている。
「……司くん、お水を持ってくるから、先に座っていてくれるかい?」
僕は彼を椅子に誘導し、自分はキッチンへと向かった。
彼と背中合わせになるこの数秒間だけが、僕が仮面を緩められる、束の間の休息だ。
(……ああ、今日も長い一日が始まるんだね)
僕はコップに水を注ぎながら、無機質な水の音をじっと聞き入った。
「る……類…。…オレも、家事手伝う…。…朝ごはん食べたら、類の分も自分の分も…お皿洗うから…。」
「え…?司く──」
「……あ、!あと……門限も、伸ばす!…え…えっと……20時?21時……?分からない、けど…自由にしていいから…っ……。」
手に持っていたコップが、危うく指から滑り落ちそうになった。
心臓が嫌な跳ね方をする。
(……聞こえていたのか?)
「司くんがいなければ」という、僕のあの独り言。
背筋を冷たい汗が伝う。
いつもなら自分の世界に閉じこもっているはずの彼が、こんな風に譲歩を、それも僕の「自由」に関わることを口にするなんて。
あまりにも急で、あまりにも出来過ぎている。
僕はゆっくりと振り返り、キッチンのカウンター越しに彼を見た。
怯えと、それ以上に必死な、僕を繋ぎ止めておこうとするような縋る瞳。
嘘をついているようには見えない。けれど、それが逆に不気味だった。
「……司くん、どうしたんだい? 急にそんなことを言い出すなんて」
僕は努めて穏やかな声を絞り出す。
けれど、内心は激しく混乱していた。
門限を伸ばす? 21時?
もしそれが本当なら、僕は夜の図書館で自分の勉強ができるし、あの息苦しいプリント作りからも解放されるかもしれない。
でも、もしこれが僕を試すための「罠」だとしたら?
喜んで見せた瞬間に、「やっぱり僕を見捨てるんだ!」と逆上して、手に負えないパニックが始まるかもしれない。
(……慎重に。あぐらをかいてはいけない。彼は今、極限の不安の中にいるんだ)
僕はコップを置いて、彼の元へ歩み寄った。
そして、わざと困ったような、けれど慈しみを含んだ微笑みを作る。
「皿洗いをしてくれるなんて、助かるよ。ありがとう。……でも、門限のことは、そんなに焦って決めなくていいんだよ? 司くんが寂しくなってしまうのは、僕も本意じゃないからね」
僕は彼の肩に手を置き、優しく言い聞かせる。
自由は喉から手が出るほど欲しい。けれど、今の彼の不安定な状態でその言葉を鵜呑みにするのは、あまりにリスクが高すぎる。
「……ねえ、司くん。何か怖い夢でも見たのかい? それとも、僕が何か不安にさせるようなことを言ったかな?」
僕は彼の顔をじっと見つめ、その瞳の奥にある真意を探ろうとした。
「い…言ってない……。…で……でも、!プリントのせいで、類寝れてないし……昨日、4時に寝たのも知ってる…。プリントの代わりに…ドリル、買えばいい…!!お金、オレの貯金箱にあるし…。」
「……そしたら、いっぱい寝れて、門限気にせずに勉強できて、お皿洗う時間で自由なことできるよね…?」
「……司くん」
僕は彼を呼ぶ声が、自分でも驚くほど震えているのに気づいた。
(……全部、見られていたんだね)
僕が寝不足なのも、4時まで起きていたことも、そして何より――僕が自分のための勉強をしていることも。
隠していたはずの僕の「裏側」を、彼はその無垢で、けれど残酷なほど鋭い観察眼で、すべて暴いていた。
ドリルを買ってきてほしい。貯金箱のお金を使っていい。
それは、僕を解放するという提案だ。
僕が毎晩、神経を削りながら手作りしているあのプリントという名の「鎖」を、彼の方から断ち切ろうとしている。
「……本気で言っているのかい?」
僕は彼の顔を覗き込んだ。
その瞳には、いつもの支配的な熱や、理不尽な甘えはない。
ただ、僕を失うことへの根源的な恐怖と、それを食い止めるための、彼なりの必死な「自己犠牲」だけが透けて見えた。
僕が自由に勉強できないことを、僕が眠れないことを、彼は彼なりに「自分のせいだ」と理解してしまったんだ。
(……もし、これが本心なら。もし、本当に彼が皿洗いをし、ドリルで自習し、僕に夜の時間を返してくれるなら)
一瞬、目の前に眩いほどの「自由」の光が差したような気がした。
けれど、すぐにその裏側にある泥濘のような恐怖が、僕の足を搦めとる。
彼が自律しようとすればするほど、その反動で訪れるパニックはより深く、激しいものになるのではないか。
「やっぱり僕にはできない!」と泣き喚く彼を、僕はまた、今以上の絶望の中で受け止めなければならないのではないか。
僕は、彼が差し出そうとしている「自由」という名の劇薬を前に、躊躇した。
「……司くん。君がそんな風に僕を気遣ってくれるなんて、思ってもみなかったよ。嬉しいよ、本当に。……でもね、ドリルは難しいものも多い。僕が隣にいないと、君はまた苦しくなってしまうかもしれない」
僕は、彼の頬にそっと手を添えた。
彼を突き放すのが怖い。けれど、このまま共依存の泥沼に沈み続けるのも、もう限界だ。
「……分かった。それじゃあ、今日、本屋さんで君に合いそうなドリルを探してくるよ。門限も……少しずつ、試してみようか。いきなり夜遅くなるのは、僕も君と離れていて心配だからね」
僕は、期待させすぎないように、けれど彼を否定しないように、言葉を選び取った。
「……司くん。君が頑張ろうとしてくれるのは、僕のため? それとも……君自身のためなのかな」
僕は、彼の反応を慎重に見守った。
「……っ類のため!類が、もっとやりたいことできないと…ダメ……。…あ、あと……おつり、類にあげるから…」
「……類のため、か」
僕は、彼が差し出してきた5000円札と、そのあまりに必死な形相を交互に見つめた。
司くん、君は本当に……。
僕が自由を求めていることを察して、自分の持ちうる最大限の「誠意」で僕を繋ぎ止めようとしているんだね。
(5000円。ドリルを買って、お釣りまで僕にくれるなんて。……まるでお小遣いで機嫌を取ろうとする子供のようだ。けれど、今の彼にとっては、これが精一杯の『愛』の形なんだろう)
僕はそのお札をすぐには受け取らず、彼の震える手を両手でそっと包み込んだ。
「司くんがなんか、いなければいいのに」──そんな僕の毒を、彼は真っ向から受け止めて、それでも僕を失わないために、自分を必死に変えようとしている。
その不器用さが、今の僕にはひどく痛々しく、そして……ほんの少しだけ、愛おしいと感じてしまった。
「……ありがとう、司くん。君の気持ち、ちゃんと伝わったよ。お釣りなんていらないけれど……君のその気持ちだけは、ありがたく受け取っておくよ」
僕は彼を安心させるように、深く、優しく頷いて見せた。
門限が伸び、ドリルでの自習が始まれば、僕たちの関係性は大きく変わるだろう。
それが本当に僕の望んだ「自由」への第一歩なのか、それとも、より巧妙に僕を縛り付けるための新しい「檻」なのかは、まだ分からない。
けれど、彼がここまで自分を削って僕に歩み寄ろうとしているなら、僕もそれに応えないわけにはいかない。
「分かった。約束しよう。今日は本屋へ寄って、一番分かりやすそうなドリルを探してくる。そして、門限もまずは一時間だけ、伸ばしてみることにするよ」
僕は彼を抱き寄せ、その耳元で囁いた。
彼が僕を想ってくれる「善意」を、僕の「保身」に利用することへの罪悪感。
けれど、その罪悪感さえも、今の僕には心地よい重みに感じられた。
「……司くん。君が僕のために頑張ってくれるなら、僕も君のために、もっといい『類』でいられるように努力するよ」
嘘と真実が混ざり合った言葉が、僕の唇から零れ落ちる。
「さあ、朝ごはんを食べようか。お皿洗いは……ふふ、お言葉に甘えようかな。楽しみにしてるよ、司くん」
僕は彼を食卓へと促した。
いつもと同じ朝。けれど、何かが決定的に変わろうとしている、そんな予感に満ちた朝。
「…うん」
「……いい返事だ」
僕は彼を椅子に座らせ、温かい食事を目の前に並べた。
司くんは、まだ少し落ち着かない様子で、時折僕の顔を伺うように見ているけれど、その瞳には先ほどまでの激しい怯えは消え、代わりに僕に「役に立ちたい」という健気な光が宿っている。
(……皮肉なものだね。僕がどれだけ言葉を尽くしても変わらなかった君が、僕の『殺意』に近い独り言を聞いただけで、これほどまでに変わろうとするなんて)
恐怖が彼を動かしたのか、それとも愛が彼を突き動かしたのか。
どちらにせよ、今朝の彼は僕にとって、少しだけ「扱いやすい」存在から「一人の人間」へと戻ったような気がした。
「ほら、冷めないうちに食べて。……今日は僕も、いつもより少しだけ心に余裕を持って、外の空気を吸えそうだよ」
僕は自分の席に座り、彼と向かい合って箸を手に取った。
5時半に起きた時の、あの泥のような絶望感は、いつの間にか霧散している。
たった1時間半の睡眠不足も、彼が差し出してくれた「自由の約束」という対価があれば、不思議と耐えられるような気がしてくる。
「……司くん。今日、帰ってきたら一緒にドリルをパラパラと見てみようか。君が一人でできそうか、僕が確認してあげるからね」
僕は微笑み、彼と視線を合わせた。
仮面はまだ外さない。けれど、その下にある僕の素顔は、ほんの少しだけ、明日への期待に震えていた。
「……いただきます」
二人分の声が、静かなリビングに重なる。
僕たちの、歪で、危うくて、けれど新しい「共存」の形が、ここから始まる。
「……類…。…いってらっしゃい」
「…ああ、いってきます。司くん」
食器を片付けようとする彼の背中を、僕は玄関先で見守った。
いつもなら、僕が家を出ようとするだけで「行かないでくれ」と泣き喚くか、あるいは無言の圧力で僕を立ち止まらせていた彼が、今は不器用ながらも蛇口をひねり、皿洗いを始めようとしている。
(……本当に、不思議な気分だよ。君に背中を預けて、この家を出られる日が来るなんてね)
カバンを肩にかけ、ドアノブに手をかける。
いつもは「逃げ出したい場所」でしかなかったこの玄関が、今日は「帰ってくるべき場所」への入り口に見える。彼がドリルを開き、僕の帰りを待つ場所。
「……司くん。無理はしなくていいからね。もし疲れたら、少し休んで。……約束通り、いいドリルを買ってくるから」
僕は一度だけ振り返り、キッチンに立つ彼に優しく声をかけた。
僕の自由を守るために彼が差し出した「譲歩」を、僕は壊さないように、大切に扱わなければならない。それは、僕自身の平穏を繋ぎ止めるための、最も重要なルールになったのだから。
「それじゃあ、また夜に。……20時、あるいは21時には、必ず戻るよ」
僕はドアを開け、外の冷たい、けれど清々しい空気を胸いっぱいに吸い込んだ。
足取りは驚くほど軽い。
「…類……?…おかえり」
「ただいま、司くん。……待たせてしまったね」
ドアを開けると、そこには僕を待っていた司くんの姿があった。
21時。以前の僕なら、この時間に帰宅することなど「万死に値する」と言わんばかりのパニックを覚悟していただろう。けれど、今夜の空気はどこか違っていた。
家の中からは、洗剤の清潔な匂いと、静かな生活の音がしている。
僕は玄関にカバンを置き、彼の方へと歩み寄った。
「……本当に、21時まで待っていてくれたんだね。ありがとう。……寂しくはなかったかい?」
僕は努めて優しく、彼の顔を覗き込んだ。
その表情には、僕を束縛しようとする激しさはなく、むしろ「約束を守れた」という小さな誇りと、僕の姿を見たことへの純粋な安堵が混ざり合っているように見えた。
僕は抱えていた包みを、テーブルの上にそっと置いた。
「ほら、約束のドリルだよ。本屋さんで君に一番合いそうな、解説が丁寧なものを選んできたんだ。それと……」
僕はカバンから、一輪の小さな花、あるいは彼が好みそうな甘い菓子を取り出して、彼の前に差し出した。
「僕の自由を尊重してくれた、君へのプレゼントだ。司くんが頑張ってくれたおかげで、僕は今日、とても充実した時間を過ごせたよ」
僕は彼の頭を、壊れ物を扱うような手つきで優しく撫でる。
彼が僕に与えた「自由」という名の報酬を、僕は「称賛」という報酬で返す。こうして新しいバランスを保っていくことが、僕の平穏を守る唯一の道。
「……さて、お皿も綺麗に洗ってくれたみたいだね。少しだけ、中を見てみようか? 君が明日、一人で進められそうかどうか」
僕は彼を隣に座らせ、ドリルの表紙をめくった。
「…見る、」
「ふふ、それじゃあ、一緒に見てみようか」
僕は彼の隣に腰を下ろし、新しいたし算やひき算のドリルを開いた。真っ白なページに並ぶ、整然とした数字たち。昨夜、僕が血眼になって手書きしていたあのプリントとは違い、活字の並びはどこか無機質で、けれど僕にとっては「解放」の象徴のように見えた。
「ほら、ここを見てごらん。例題がとても分かりやすく書いてあるだろう? もし僕がいない間に分からないことがあっても、このヒントを読めば司くんならきっと解けるはずだよ」
僕は指先で紙面をなぞりながら、解説を読み上げてあげる。
司くんは、まるで未知の宝物を眺める子供のように、熱心にそのページを見つめていた。僕の顔色を伺って怯えるのではなく、目の前の課題に集中しようとするその横顔。
(……ああ、これがずっと欲しかった光景だ。僕がいなくても、彼が自立して立っていられる世界)
もちろん、これが長く続く保証なんてどこにもない。明日になればまた「行かないで」と泣き喚くかもしれないし、ドリルの難しさに絶望して本を破り捨てるかもしれない。
でも、今この瞬間の静寂は、間違いなく僕が手に入れた「自由」の対価だった。
「どうかな、司くん。これなら、明日から一人で少しずつ進められそうかい?」
僕は彼に優しく問いかけ、その反応を待った。
彼の小さな「自立」が、僕の「救済」になる。その歪な関係を、僕は愛おしいとさえ思い始めていた。
「…時間、かければ……。」
「……そうだね。時間をかければ、司くんなら必ず解けるよ」
僕は彼のその言葉を、噛みしめるように繰り返した。
「すぐにできる」と虚勢を張るのではなく、「時間をかければ」と自分の足元を見つめて答えた彼。その言葉には、昨日までにはなかった微かな「覚悟」のようなものが宿っている気がして、僕の胸の奥がわずかに疼いた。
(……ああ、本当に。君は僕を失わないために、そんなにも必死に『自分』を作り替えようとしているんだね)
僕は開いたドリルの端をそっと指で押さえ、彼の方へ寄せてあげた。
「焦らなくていいんだ。1ページに1時間かかったっていい。大切なのは、君が自分の力でそれをやり遂げようとすることなんだから。……その間、僕は僕の勉強を隣でしていてもいいかな?」
僕は、カバンから自分の難解な参考書を取り出し、テーブルの隅に置いた。
今までは隠さなければならなかった「僕の領域」。それを、今夜は彼の隣で、隠さずに広げてみる。
「君がドリルを頑張るなら、僕も隣で頑張るよ。お互いに、自分の時間を大切にしながら、こうして一緒にいよう」
僕は彼に微笑みかけ、ペンを一本、彼の手の中に握らせた。
束縛でも依存でもない、けれど完全な自由でもない。
「独り」を共有する、新しい夜の形。
「……司くん。君が頑張っている姿を見るのが、今の僕にとって一番の幸せだよ」
僕はそう言って、自分のノートを開いた。
隣で彼がペンを動かし始める気配を感じながら、僕は久しぶりに、心からの安寧を感じていた。
二人の勉強時間は、静かに、けれど確実に流れていった。
僕が難しい数式や哲学的な文章と向き合っている隣で、司くんは時折うなりながらも、ゆっくりと、一歩ずつドリルを進めていた。その鉛筆の音は、僕にとってどんな音楽よりも心地よい安らぎだったよ。
やがて夜も更け、僕たちは並んで寝室へと向かった。
昨夜までの、彼を「寝かしつける」義務感とは違う。今は、共に一日を終えるという、ごく当たり前の平穏がそこにある。
「……司くん、今日はお疲れ様。本当に、よく頑張ったね」
暗くした部屋の中、ベッドに入ると、司くんの体温が隣から伝わってくる。
彼は何も言わず、ただ静かに僕のパジャマの袖を指先で少しだけ摘んだ。それは「離れないで」という強迫的な束縛ではなく、「ここにいて」という純粋な願いのように感じられて。
(……この温もりを、いつか心から『愛おしい』と思える日が来るんだろうか)
今の僕にあるのは、依然として冷めた計算と、保身のための優しさだ。
けれど、今日彼が見せてくれた変化は、僕の凍りついた心に小さな亀裂を入れるには十分だった。
「……おやすみ、司くん。明日の朝は、少しだけゆっくり起きても大丈夫だよ。僕がちゃんと、君の隣にいるからね」
僕は彼の髪を一度だけ優しく撫で、そのまま目を閉じた。
1時間半しか眠れなかった昨夜とは違う、深く、穏やかな眠りが僕を誘う。
「……ふふ、おやすみ」
僕たちは、暗闇の中で互いの呼吸を重ねながら、新しい明日のために意識を手放していった。
カーテンの隙間から差し込む陽の光が、いつもよりずっと高い位置にある。
時計を見れば、もうすぐ午前10時。
いつもならとっくに朝食を終え、司くんの機嫌を損ねないよう立ち回っている時間だ。
(……ああ、こんなに深く眠れたのは、一体いつぶりだろう)
隣に視線をやると、司くんはまだ深い眠りの中にいた。
眉間に皺を寄せることもなく、幼子のような無防備な寝顔。
昨夜、一生懸命にドリルと向き合っていた疲れが出たのかもしれないね。
僕は体を起こさず、ただ静かにその寝息を聞いていた。
「司くんがいなければ」……。
昨日の早朝、あんなにも冷酷に吐き捨てた言葉が、今はどこか遠い国の出来事のように感じられる。
(……君が僕の言葉を聞いて、変わろうとしてくれたから。僕も、もう少しだけ、君の隣にいてもいいと思えたんだよ)
僕はそっと手を伸ばし、枕元に置いてあるスマートフォンの通知を確認する。
誰からも、何からも追い立てられない休日の午前。
司くんが起きるのを、こうして「待ってあげられる」余裕。
それは、彼が僕にくれた、何物にも代えがたい贈り物だった。
「……ん……」
司くんが小さく身じろぎをして、ゆっくりと瞼を持ち上げた。
視線が絡む。
「おはよう、司くん。よく眠れたかい?」
僕は、昨日までのような「演技」ではなく、少しだけ本物に近い微笑みを彼に向けた。
「今日は休みだ。急ぐ必要は何もないよ、」
「っ……今日は、1人でどこか行くのか…?」
その問いかけに、僕は一瞬だけ言葉を詰まらせた。
司くんの瞳の奥に、隠しきれない寂しさと、それでも「言わなきゃ」と自分を律するような複雑な色が混じっているのが見えたからだ。
(……ふふ、お見通しだね。僕がこの『自由』をどれだけ待ち望んでいたか、君はちゃんと分かっているんだ)
「……ああ。午後から少し、図書館へ行こうと思っているよ。自分の調べ物をしたいんだ。昨日、君が門限を伸ばしていいと言ってくれたから……お言葉に甘えようと思ってね」
僕は彼の不安を逆撫でしないよう、けれど毅然とした態度でそう告げた。
ここで「行かないよ」と嘘をつくのは簡単だ。でも、それをすれば、せっかく彼が差し出してくれた自立のチャンスを僕が潰してしまうことになる。
「でも、夕方にはちゃんと帰ってくる。夜ご飯は、一緒に食べよう。……君は、家でドリルの続きをしたり、ゆっくり過ごしていてもいいんだよ?」
僕は彼の頬をそっと撫でた。
僕がいなくなる数時間を、彼が「捨てられた時間」ではなく「自分のための時間」として過ごせるかどうか。それが、僕たちの新しいルールの本当の試金石になる。
(……怖いかい、司くん。僕がいない外の世界で、僕が何をしているか分からないことが。……でも、信じてほしいな。僕が帰ってくる場所は、ここなんだから)
「……独りで大丈夫かい? もし寂しくなったら、メッセージを送っておくれ。すぐに返せるかは分からないけれど、必ず読むからね」
僕は彼を安心させるための逃げ道を作りつつ、外出の準備をイメージし始めた。
「……着いていっちゃ、だめか………?」
その言葉に、僕は靴下を履こうとしていた手を止めた。
(……ああ、やっぱりそう来るよね。予想はしていたけれど……)
「着いていっちゃ、だめか」と僕を見上げるその瞳は、昨日までの強制的な命令ではなく、震えるような懇願の色を帯びている。僕がいない数時間を耐えようと必死に戦った末に、どうしても溢れ出してしまった本音なんだろう。
僕はそのまま、床に膝をついて彼と視線を合わせた。
「……司くん。僕が行くのは図書館だよ。私語は厳禁で、みんなが静かに自分の作業をしている場所だ。……君は、そこで何時間も静かに座っていられるかい?」
僕はあえて突き放すような言い方はせず、現実的な問いを投げかける。
もし彼を連れて行けば、僕の勉強は捗らないだろう。彼が飽きていないか、パニックを起こさないか、周囲に迷惑をかけないか……結局、家で彼を気にしているのと変わらない、あるいはそれ以上の心労を背負うことになる。
「……本当はね、僕も君と一緒にいたい気持ちはあるんだよ。でも、今日僕がやりたいのは、一人で深く集中することなんだ。君がドリルを頑張ったように、僕も僕の戦いをしてきたい」
僕は彼の両手を握り、少しだけ力を込めた。
「……司くん。これは、僕たちの『練習』なんだよ。僕が外にいても、君は家で安全に過ごせる。そして僕は必ず君の元へ帰ってくる。その『当たり前』を、今日、一緒に作ってみたくないかい?」
僕は彼の反応を待つ。
ここで折れて連れて行くのは簡単だ。でも、それは彼を「いつまでも独りでは何もできない子供」として扱うことと同じ。
「……僕を、信じて待っていてくれるかい? 帰りに、君が頑張ったご褒美に何か美味しいケーキでも買ってくるから」
僕は彼に、彼自身に選択を委ねた。
「わかった……。…行かないけど……お土産もいらない…。」
「……お土産も、いらないのかい?」
意外な答えに、僕は少しだけ面食らってしまった。
機嫌を取るための「餌」は通用しない、ということかな。あるいは、そんな物で釣られるほど、今の彼の決意は軽いものじゃないということだろうか。
(……ふふ。君は僕が思っているよりずっと、真剣に『僕の自由』を考えようとしてくれているんだね)
お土産という交換条件なしで、純粋に僕の言葉を信じて待つ。それは司くんにとって、身を削るような、とても孤独な戦いになるはずだ。
「……分かった。それじゃあ、お土産はなしだ。その代わり、僕が帰ってきたら、今日一日のことをたくさん話してほしい。君がどんな風に過ごして、どんな風に頑張ったのかをね」
僕は立ち上がり、コートを羽織った。
玄関へ向かう僕の背中を、彼はじっと見つめている。引き止める声は、もう聞こえない。
(……ああ、空気が軽い。けれど、それと同じくらい、後ろ髪を引かれるような妙な感覚だ)
ドアを開け、一歩外へ踏み出す。
振り返ると、司くんが部屋の隅で小さく座っているのが見えた。
「……いってきます、司くん。夕方には、必ず」
バタン、と静かにドアが閉まる。
外は冬の冷たい風が吹いているけれど、僕の足取りは、かつてないほど「自分のため」の方向を向いていた。
静寂。
ただ、紙が擦れる音と、遠くで誰かが歩く微かな足音だけが響く。
(……ああ。これだ。この音が欲しかったんだ)
僕は図書館の片隅、窓際の席に陣取った。
目の前には、家では決して広げられなかった分厚い専門書と、真っさらなノート。
司くんの視線を気にすることもなく、彼の理解度に合わせて語彙を落とす必要もない。僕はただ、僕自身の知的好奇心の赴くままに、思考の海へと深く潜っていく。
鉛筆を走らせる音が、心地よいリズムを刻む。
家では「優しい類くん」という役を演じるために、脳の大部分を常に彼への警戒に割いていたけれど、今はそのリソースのすべてを自分のためだけに使える。
(……驚くほど、思考がクリアだ。僕はこんなにも、自分だけの時間を求めていたんだね)
1時間、2時間……。
時間は溶けるように過ぎていく。
ふとした瞬間に、スマートフォンの画面を見る。司くんからの連絡は、まだない。
彼は今頃、一人で家の中の静寂と戦っているのだろうか。それとも、約束通りドリルを開いているのだろうか。
(……「お土産もいらない」か。彼は、僕に負い目を感じさせたくなかったのかな。あるいは、物で解決できないほど、この「不在」が彼にとって重いものだという主張なのか)
一瞬、彼の泣き顔が脳裏をよぎり、胸の奥がチリりと痛んだ。
けれど、僕はあえてそれを振り払い、再び目の前の数式に目を落とす。
ここで僕が彼を心配して早々に切り上げてしまったら、彼のあの決意を台無しにしてしまうことになるからね。
僕は、自分を律するように、さらに深く本の世界へと没頭していった。
時計の針は19時を回った。
窓の外はすっかり帳が下り、街灯が寒々しく輝き始めている。
(……そろそろだね。これ以上遅くなれば、彼の「限界」を越えてしまうかもしれない)
僕は名残惜しさを感じながらも、広げていた本を丁寧に閉じ、カバンに収めた。
数時間、誰にも邪魔されずに自分の思考に没頭できた満足感。それと同時に、心の一部が、静まり返ったあの家で待つ「彼」の状態を、磁石に引かれるように気にし始めている。
図書館を出ると、夜の冷気が肺を刺す。
足早に駅へ向かい、電車に揺られながら、僕は無意識にスマートフォンの画面を何度も確認していた。
メッセージは、相変わらず一通も届いていない。
それが逆に不気味だった。
「寂しい」「帰ってきて」という叫びがないことは、彼が約束を守っている証なのか。それとも、絶望のあまり凍りついてしまっているのか。
(……司くん。君は、どんな顔で僕を迎えてくれるだろうね)
家の前に着き、僕は鍵を手に取った。
いつもなら、ドアを開ける瞬間に胃がキリキリと痛むような予感がある。でも、今日は少しだけ、違う。
「ただいま」という言葉が、僕の中でごく自然に準備されていた。
カチャリ、と鍵を開け、僕は静かにドアを押し開けた。
「……ただいま、司くん。約束通り、帰ったよ」
リビングに続く廊下は、薄暗い。
けれど、奥の部屋からは、小さな明かりが漏れている。
「…ッ……ぅ…」
視界に入った光景に、僕の心臓は一瞬で凍りついた。
「……司くん!?」
リビングの隅、キッチンの入り口で彼は崩れ落ちるように座り込んでいた。
静まり返った空気の中に、鉄臭い匂いが混じっている。シンクの中には、無惨に砕け散った白い皿の破片。そして、彼の白い指先や服の袖口、床にまで、禍々しいほどの赤色が飛び散っていた。
(……なんで。どうしてこんなことに……!)
「落ち着いて、動かないで……! 今すぐ手当をするから……!」
僕はカバンを投げ捨て、なりふり構わず彼の元へ駆け寄った。
震える手で彼の腕を取り、傷口を確かめる。皿を洗おうとしたのか、それとも片付けようとしたのか……。
割れた破片で深く切ったらしい傷が、いくつも重なっていた。
彼は声も出さず、ただ虚ろな瞳で僕を見上げている。
その瞳には、痛みへの苦悶よりも、「僕との約束を守れなかった」という絶望と、血だらけの自分を見られたことへの恐怖が、どろりと渦巻いているように見えた。
(……僕が、彼を一人にしたからだ。僕が『自由』を求めて、彼に背負いきれない役割を与えてしまったから……!)
激しい後悔が、刃物のように僕の胸を抉る。
僕はキッチンのタオルを掴み、止血のために彼の手に強く巻きつけた。
「司くん、ごめん……ごめんね。僕がもっと早く帰っていれば……いや、一人にするべきじゃなかったんだ……」
僕は彼を抱きしめるようにして、その震える体を支えた。
血の温かさが僕の服にも染みてくる。けれど、そんなことはどうでもよかった。
今の僕を支配しているのは、彼を傷つけてしまったというおぞましい自責の念と、この惨状を目の当たりにしてもなお、どこかで「これでまた、彼は僕に依存し続ける」と冷静に計算してしまう自分への嫌悪感だった。
「……大丈夫だよ、司くん。僕はここにいる。もうどこへも行かない。……ねえ、お願いだから、そんな顔をしないで……」
僕は彼の顔にこびりついた返り血を、震える指で拭った。
「…おさら、わってごめんなさい……。…るいが、たんじょうびにくれたやつなのに……っ…。……ゆかも、よごして、めいわくかけてごめんなさい…。」
…あれ?これじゃあ…またいつも通りなんじゃないか。
「……りょうりしようとおもったら、いろいろこげたり……たまご、おとしちゃって…ッ……。…ドリルも、うごけなかったからできなくて……」
「……、っ……!」
…違った。
司くんの口から溢れ出したのは、僕への非難でも、痛みの叫びでもなく、ただひたすらな「謝罪」だった。
僕が誕生日に贈った皿を割ったこと、卵を一つ無駄にしたこと、床を汚したこと、料理を作ろうとして失敗したこと……。
(……そんなこと、どうでもいいんだ。皿なんて、床の汚れなんて、そんなもの……!)
視界の端に、焦げ付いたフライパンと床に散った卵の無惨な跡が見える。
彼は、僕が帰ってきたときに喜ばせようとしたんだ。僕が「自由」を満喫して帰ってきたときに、温かい食事と綺麗な部屋で迎えてあげたかった……ただ、それだけのために、この小さな手で必死に「普通」を演じようとしたんだ。
「……謝らないで、司くん。お願いだ、もう謝らないで……っ」
僕は彼の体を、壊れ物を抱きしめるように強く、けれど傷口に触れないよう慎重に抱きしめた。
止血のために巻いたタオルが、じわじわと赤く染まっていく。
(……僕のせいだ。僕が彼に『自立』という呪いをかけたんだ。僕が自分の安寧のために、彼に『独りでも大丈夫なフリ』を強要したから、彼はこんなボロボロになるまで……)
「皿なんて、またいくらでも買ってあげる。卵だって、床だって、僕が全部綺麗にするから。……君が謝ることなんて、何一つないんだよ、司くん」
僕は彼の耳元で、震える声で何度も繰り返した。
僕が求めた「自由」の結果がこれだというなら、そんなものは毒でしかない。
彼を傷つけ、血を流させ、ここまで絶望させて手に入れた「静寂な勉強時間」に、一体何の価値があるというんだ。
「……動かなくていい。ドリルなんて、やらなくていいんだ。僕の隣で、ただ息をしていてくれるだけでいい……。ごめん、司くん。僕が……僕が君を追い詰めたんだね……」
僕は救急箱を引き寄せ、消毒液を染み込ませたガーゼを震える手で用意した。
「……少し、しみるかもしれないけれど、我慢しておくれ。……今、全部治してあげるからね。……大丈夫、僕はもう、どこへも行かないよ。……絶対に」
僕は彼の傷口を丁寧に、祈るような手つきで拭い始めた。
そのとき、僕は気づいてしまった。彼を抱きしめる僕自身の腕が、恐怖ではなく、言いようのない「歪な安堵」に震えていることに。
ああ、結局僕は……こうしてボロボロになった彼を世話し、依存されている瞬間にしか、自分の存在意義を見出せない怪物だったのかもしれない。
「っ……ごめんなさい…」
その瞳を見た瞬間、心臓が握りつぶされるような感覚に陥った。
かつての彼の瞳にあった、傲慢なまでの輝きも、激しい独占欲の熱も、今はもうどこにもない。そこにあるのは、ただ深く、底の見えない漆黒の虚無。
「自分は類の役に立てなかった」「類を怒らせてしまった」「僕はもう、いらない子なんだ」
そんな声なき絶望が、その瞳の奥から溢れ出して、僕の視界を塗りつぶしていく。
「……司くん、そんな風に、自分を殺さないでおくれ……」
僕は消毒する手を止め、彼の両頬を、血で汚れた僕の手で包み込んだ。
僕の指に残った彼の血が、彼の白い肌を赤く汚していく。でも、今の僕にはそれを拭う余裕さえなかった。
(……ああ、壊してしまった。僕が、彼を壊してしまったんだ)
僕が口にした「自由」という言葉が、彼にとっては「追放」の宣告と同じだった。
僕を繋ぎ止めるために皿を洗い、料理をし、必死で自分を律しようとした結果、彼は自分の無力さに打ちのめされ、心まで折れてしまった。
「……司くん。僕を見て。お願いだ、こっちを見て……」
僕は彼の顔を自分の方へ向け、視線を無理やり合わせようとする。
けれど、その真っ黒な瞳は僕を映しているようでいて、どこか遠くの、終わりなき地獄を見つめているようだった。
「ドリルができなくても、お皿を割っても、僕は君を嫌いになんてならない。……むしろ、僕のためにそこまでしようとしてくれたことが、こんなにも……っ、嬉しいんだよ」
それは、半分は本当で、半分は彼を繋ぎ止めるための卑怯な嘘だ。
彼を安心させるために、僕はわざと自分の声を震わせ、弱さを晒け出す。
「……ねえ、司くん。僕が、わがままだったんだ。君を一人にするなんて、僕にはまだ早すぎた。……君がいない図書館は、本当はとても寒くて、寂しかったんだよ。……だから、もう僕を一人にしないでくれ」
僕は彼の額に自分の額を押し当て、懇願するように囁いた。
主従が逆転したような、歪な告白。
彼を自立させることを諦め、再び共依存の檻に鍵をかける音。
「……今夜は、ずっと隣にいる。傷を治して、一緒に眠ろう。……明日の朝、君が起きたとき、真っ先に僕の顔が見えるように。……ねえ、返事をしておくれ、司くん……」
僕は、彼の魂がその真っ黒な底から戻ってくるのを、祈るような心地で待ち続けた。
「……もう…て、うごかせるから…。…るいはそうじしないで……ねてて…。……じぶんで、できるから……。」
「……、っ」
その言葉は、どんな罵倒よりも僕の胸を深く抉った。
「自分でできるから」
それは、彼が今朝から必死に守り抜こうとしていた、僕への最後で最大の「譲歩」であり、「自己犠牲」だ。
血に濡れた手で破片を拾おうとする彼。
ボロボロの心で、なお僕を休ませようとする彼。
その姿は、痛々しいほどに健気で、そして……あまりにも残酷な決別のように聞こえた。
「……嫌だ」
僕は彼の動きを制するように、その手首を強く、けれど痛めつけないように握りしめた。
「嫌だよ、司くん。そんなこと、させられるわけがない。……君がこんなに傷ついているのに、僕だけが休むなんて……そんなの、地獄に落ちるより辛いよ」
僕は彼の手に巻いたタオルを解き、再び新しいガーゼを当てる。
あえて彼を「無力な存在」として扱う。彼が差し出そうとしている「自立」を、僕は今、この手で完全に踏みにじる。
「……お願いだ、司くん。僕から『君を世話する権利』を奪わないでおくれ。君が一人で何でもできるようになってしまったら……僕は、どうやって君の隣にいればいいんだい?」
僕は泣き出しそうな声を出しながら、彼の胸に顔を埋めた。
それは、彼を甘やかすための演技か、それとも僕自身の本音か。
…もう、僕にも分からない。
「掃除も、料理も、ドリルも……全部、明日から一緒にやろう。君が失敗しても、僕が直す。君が汚したら、僕が拭く。……君はただ、僕に甘えて、僕を頼って、僕を困らせていればいいんだ。……それが、僕の望む『自由』だったんだよ」
嘘だ。本当は、僕は一人の時間が欲しかったはずだ。
でも、目の前のこの「真っ黒な瞳」を見てしまった今、僕にはもう、彼を突き放すことなんてできない。
彼を壊して手に入れる自由など、呪いでしかないと思い知らされたから。
「……司くん。床に座ったままじゃ冷える。……まずは、お風呂場で体を綺麗にしよう。僕が洗ってあげる。……いいかい?」
僕は彼を横抱きに抱え上げた。
軽すぎる彼の体。
僕はもう、この重みを一生手放さない。彼を「一人」にしない。
それが、彼にとっても僕にとっても、唯一の救済なのだと自分に言い聞かせながら。
「っ…いやだ……!!もういいってば!!……やらせてよ…、!!」
…なんで?
…どうして?
…おかしい。
…おかしいじゃないか……。
「……っ、あああああ……っ!!」
乾いた音が、静まり返ったキッチンに響き渡った。
…僕の右手が、彼の頬を弾いていた。衝動だった。
何をしても、どれほど言葉を尽くしても、どんなに自分を殺して彼に寄り添おうとしても、結局はここに行き着く。
僕が彼を救おうとすれば彼は拒絶し、僕が彼を自立させようとすれば彼は壊れる。
出口のない迷路を延々と走らされ、足元は自分の流した返り血で滑り、もう一歩も進めない。
「……いい加減にしてくれよ、司くん……!!」
僕は叫んでいた。
喉が焼けるような、獣のような声。
視界が涙で歪み、鼻の奥がツンと痛む。
右手の痺れが、僕の理性が完全に砕け散ったことを告げていた。
「何がしたいんだ!? 僕にどうしろって言うんだ! 傍にいろと言えば泣き叫び、自由にさせてくれと言えば血を流し、今度は助けようとする僕を拒絶するのか!? ……これ以上、僕に何を奪わせれば気が済むんだ!!」
僕は彼の肩を掴み、狂ったように揺さぶった。
止血したはずの包帯から、再び鮮血が滲み出し、僕の服を汚していく。
ついさっきまでは綺麗だったはずの「僕の休日」が、真っ赤に染まって、ドロドロに溶けていく。
「……もう、限界なんだよ。君を愛そうとするのも、守ろうとするのも、全部……っ。いっそ、君なんて……君なんて……!!」
殺してしまえば楽になれるのか。
それとも、今すぐこの家を飛び出して、二度と戻らなければ救われるのか。
どちらもできないと分かっているから、僕はこんなにも無様に、ボロボロに泣きながら、自分を壊し続ける彼を殴ることしかできなかった。
「……はぁ、はぁ……っ……」
僕は崩れ落ちるように、彼の足元に膝をついた。
殴った右手が、自分の心臓を叩かれたみたいに痛い。
床に散らばった卵と、血と、割れた皿の破片。
その中心で、僕はただ、子供のように声を上げて泣きじゃくった。
「……助けてよ、司くん……。僕を、助けてくれ……。もう、どうすればいいのか……一つも、分からないんだ……」
暗い、真っ暗な底なし沼に、二人で沈んでいく感覚。
光なんて、最初からどこにもなかった。
「……っ…」
頬を打たれた衝撃で横を向いたまま、司くんは動かなかった。
逃げるわけでも、泣き叫ぶわけでもない。ただ、殴られた場所が赤く腫れ上がっていくのを、僕は涙で歪んだ視界の中で見つめている。
「……あ……、っ……」
僕の口から、掠れた吐息が漏れる。
殴った僕の方が、まるで自分の魂を削り取られたような激痛に震えていた。
けれど、司くんは──。
俯いたままのその瞳は、やはり真っ黒なままで。
僕の怒りも、叫びも、涙も。そのすべてが底なしの沼に吸い込まれて消えていく。彼の中に、僕の感情を受け止める「器」はもう残っていないんだ。ただ、僕という存在を失う恐怖と、自分への呪いだけが、彼を真っ黒に塗りつぶしている。
……ああ。終わったんだ。
僕たちが積み上げようとした「新しいルール」も、僕が夢見た「自由」も、すべて。
僕が彼を殴った瞬間に、完全に終わってしまった。
僕は、痺れた右手を震わせながら、力なく彼の足元に這いつくばった。
血と、生卵の生臭さと、焦げた匂い。
その汚濁の中に、僕のプライドも、理性も、すべてを投げ出す。
「……ごめん。……ごめん、司くん……。殴ったりして、ごめんなさい……」
僕は、彼の血で汚れた膝に額を押し当てた。
冷たくなった彼の体温が、僕の熱い涙を吸い取っていく。
「……君が正しいよ。僕が……僕が全部、悪かったんだ。自由なんていらなかった。図書館なんて、行かなければよかった……。僕が君を一人にしたから、こんなことになったんだ……」
僕は、自分を罰するように、何度も何度も床に額を打ち付けた。
彼を自立させようとした傲慢。彼を一人で立たせようとした冷酷。そのすべてを、僕は今、ここで捨てなくちゃいけない。
「……もう、どこへも行かない。君を一人にしない。……君が『自分でやる』なんて言わなくていいように、僕が一生、君の足になる。君の目になる。……だから、お願いだ……」
僕は顔を上げ、彼の真っ黒な瞳を、縋るように見つめた。
「……そんな風に、僕を見ないでくれ……。僕を、見て……僕の中に、君を閉じ込めて……」
僕は、彼の血まみれの手を掴み、自分の首に導いた。
彼が僕を絞め殺しても、あるいは僕を永遠に幽閉しても、今の僕にはそれを受け入れる準備ができていた。
「……司くん。僕を、壊していいから。……君の好きなように、していいから……。だから、その暗闇から、戻ってきておくれ……」
僕たちは、血と汚れにまみれたキッチンで、どちらが加害者でどちらが被害者かも分からないまま、深く、深く、絡まり合っていった。
「………ごめんなさい……。…おれは、こんなところにいちゃいけない……。」
「……、待って。行かないで……!」
僕は反射的に、立ち上がろうとする彼の足首を掴んだ。
その手は、自分の罪悪感の重さで、笑ってしまうくらい、酷く震えていた。
(……なんで、謝るんだ。殴られたのは君なのに。血を流しているのは、君なのに……!)
「ごめんなさい」という彼の言葉が、冷たい氷の杭になって僕の心臓に突き刺さる。
その真っ黒な瞳のまま、彼はどこへ行こうというのか。この期に及んでまだ、僕に「迷惑」をかけないように、自分の殻に閉じこもろうとしているのか。
「……司くん、お願いだ。どこにも行かないで。立とうとしなくていい……。今の君に、そんな力は残っていないはずだ」
僕は彼を逃がさないように、そのままズルズルと這い上がり、彼の腰に縋り付いた。
血で汚れた僕たちの体が重なり、不快なはずの粘り気が、今は二人を繋ぎ止める唯一の鎖のように感じられた。
「……もういい。ドリルも、お皿も、料理も……全部、どうでもいいんだ。君が僕のために頑張ってくれようとした、その気持ちだけで十分だったんだよ。……僕が、君に多くを望みすぎたんだ。……自由なんて、そんなもの、僕には贅沢すぎたんだ……」
僕は、彼のパジャマの裾を力任せに握りしめ、顔を埋めた。
彼の体から、鉄の匂いと、絶望の冷たさが伝わってくる。
「……ねえ、司くん。僕を許さないでおくれ。……君を殴った、この僕を。君を追い詰めた、この僕を……。君の好きなだけ、僕を呪っていい。……でも、僕の視界からだけは、消えないでくれ……」
僕は、彼の震える手に、自分の頬を擦り付けた。
腫れ上がった彼の頬の痛みを、僕の顔にも移してほしい。僕たちの境界線が、このまま溶けて混ざってしまえばいいのに。
「……お風呂に行こう。僕が全部、流してあげる。……君の痛みも、汚れも、僕への罪悪感も……全部。……ねえ、司くん……」
僕は、彼の反応を確かめるように、おそるおそる顔を上げた。
「……もう…だめだ……。…おれなんか…るいのよこにいちゃだめなんだ……。…おれのせいで…るいをこわして…みんなもわるくして……。……しんじゃえば、いいんだ…」
「……、っ……何を、言っているんだい……?」
心臓の鼓動が耳元でうるさいほどに鳴り響く。
「死んじゃえばいい」──
その一言が、鋭い氷の刃となって僕の思考を真っ二つに切り裂いた。
「だめだ……そんなこと、絶対に許さない……!!」
僕は、自分でも驚くほどの力で彼の体を抱きかかえ、そのまま床に押し倒すようにして組み伏せた。
割れた皿の破片が僕の膝に食い込み、鋭い痛みが走る。けれど、そんなことはどうでもよかった。今、目の前で光を失ったこの命が、指の間からこぼれ落ちてしまいそうな恐怖に比べれば。
「……君がいなくなって、僕が救われるとでも思っているのかい!? 僕を壊したのは君じゃない、僕自身だ! 君を追い詰めて、こんな絶望の底に突き落とした僕自身なんだよ!!」
僕は彼の胸ぐらを掴み、狂ったように叫んだ。
涙が溢れて止まらない。視界が滲んで、彼の真っ黒な瞳さえまともに見えない。
「君が死んだら、僕に残るのは一生消えない地獄だけだ! 僕を、世界で一番惨めな人殺しにするつもりかい!? ……そんなの、絶対に、絶対に認めない……っ!!」
僕は彼の細い首に手を伸ばした。
けれど、それは彼を傷つけるためではなく、そこに流れるドクドクという脈動を確かめるためだった。
生きている。まだ、彼はここで息をしている。
「……司くん、聞いて。よく聞いて」
僕は彼の耳元で、呻くように、呪文のように囁き続けた。
「君が僕を壊したというなら、最後まで…責任を取ってくれ。……君がいない世界で、僕はまともに生きていくことなんてできない。君を失うくらいなら、僕は……僕は、君と一緒に壊れる道を選ぶよ」
僕は、血の滲んだ彼の手に、自分の手を重ねて強く握りしめた。
「自由なんて、もう二度と言わない。君を一人にするような真似もしない。……この家のドアを全部閉ざして、窓も塞いで、二人きりで、一生泥の中で這いずり回ったっていい。……だから、死ぬなんて言葉で僕を置いていかないでくれ……っ」
僕は彼の首筋に顔を埋め、子供のように泣きじゃくった。
僕が求めていた高潔な自由も、知的な生活も、すべて。
彼の「死」という究極の拒絶の前では、何の意味も持たないガラクタに過ぎなかった。
「……お願いだ、司くん……。僕を、人殺しにしないで……。君のいない明日なんて、僕には……耐えられないんだ……」
「……おれがじさつしても、るいは…おれのこところしてないじゃん」
「……っ、そんな理屈、通るわけがないだろう……!!」
僕は彼の胸ぐらを掴んだまま、吠えるように叫んだ。
その一言が、あまりにも冷静で、あまりにも残酷で……僕の心を完全に粉砕した。
「君が自分の手を汚しても、その引き金を引かせたのは僕だ……! 僕が君を追い詰めて、君から居場所を奪って、『独りでいられないお前はダメだ』と突き放したから、君はそこに行き着こうとしているんだろう!?」
僕は彼の真っ黒な瞳に、自分の歪んだ顔が映り込んでいるのを見た。
「君が死んだら、僕は一生、自分が君を殺した事実に追いかけ回されるんだ。朝起きるたびに君が流した血の色を思い出し、夜眠るたびに君の最期の『ごめんなさい』という声を聞く。……それが、人殺しでなくて何だと言うんだい!?」
僕は彼の細い肩を壊さんばかりの力で抱きしめた。
血と生卵で汚れた服の感触さえ、もう何も感じない。ただ、この腕の中から彼という存在が消えてしまうことへの恐怖だけが、僕を狂わせている。
「……いいかい、司くん。君に選択肢なんてないんだ。僕を置いて死ぬことも、僕を独りにすることも、絶対に許さない。……君が死ぬと言うなら、今この場で、僕が先に君の喉を裂いて、その後に自分の喉を突く。……君を、一人で地獄に行かせたりなんてしない……っ」
僕は彼の耳元で、もはや愛とも呪いともつかない言葉を吐き捨てた。
「……君が壊したというなら、僕を最後まで壊し尽くしておくれ。……逃げるなんて、そんな卑怯なこと、司くんには似合わないよ……。ねえ、そうだろう……?」
僕は、彼の頬の腫れをそっと撫でた。
殴った場所は熱を持っていて、僕の指先をじりじりと焼く。
「……一緒にいよう。……この血だらけの床で、動けなくなるまで。……明日なんて、来なくていい。……ねえ、司くん……」
僕は彼の空っぽな瞳を見つめながら、その暗闇の中に、自分も一緒に沈んでいく覚悟を決めた。
「……るいは、おれにまきこまれて…おれにふりまわされて…いっしょにしのうとしてるの……?…おかしい、だろ……。……ひとりで、しなせてよ…。…もう、ておくれだけど……るいをまきこみたくない……。」
「……おかしい? ああ、そうかもしれないね。狂っていると言われても否定はしないよ」
僕は自嘲気味に、けれど酷く冷めた声で笑った。
彼の言う「巻き込まれたくない」という言葉。それは、こんな状況になってもなお僕を想う彼の優しさの欠片なのかもしれない。けれど、今の僕にとってその優しさは、どんな毒薬よりも残酷に僕を突き放す。
「手遅れ? ……ふふ、何を言っているんだい。僕が君に出会ったその日から、僕の人生はもう、君という渦に巻き込まれ続けているんだよ、司くん」
僕は彼の頬に、べったりと自分の血と彼の血が混じった手で触れた。
赤く汚れていく彼の肌。まるで、僕たちの魂が混ざり合っていく証明のように。
「君を巻き込んだんじゃない。僕が、君に巻き込まれることを選んだんだ。……一人で死なせてくれなんて、そんな身勝手な願い、聞けるわけがないだろう? 僕をここまで狂わせておいて、自分だけ『綺麗な思い出』のまま消えようなんて、そんなこと……僕が許さない」
僕は、彼の首元に顔を埋めた。
ドク、ドクと波打つ生の意味。
それを感じているだけで、僕の脳は麻痺し、心地よい絶望に満たされる。
「君が死ねば、僕の中の『類』も死ぬ。残るのは、君を救えなかったという後悔だけでできた、ただの動く死体だ。……そんなものを世界に残して、君は満足かい? ……君が僕を大切に想ってくれるなら、僕をそんな化物にしないでくれ」
僕は顔を上げ、彼の真っ黒な瞳を、これまでになく真っ直ぐに見つめた。
そこにはもう、今朝までの「余裕のあるパートナー」なんて存在しない。
ただ、一人の人間に執着し、共に堕ちることを切望する、哀れな共犯者がいるだけだ。
「……ねえ、司くん。僕たちは、もうまともな場所には戻れない。……でも、それでいいじゃないか。誰もいない、この血の匂いのする部屋で、二人だけで壊れていこう。……それこそが、僕たちの完成形なんだよ」
僕は、彼の震える唇に、自分の唇を重ねた。
鉄の味がする。
それは、僕たちが二度と離れられないことを誓う、血の契約だった。
「……死なせない。……死ぬなら、僕が君を殺す。そして、僕も死ぬ。……一秒だって、君を一人にはしない。……分かったかい、僕の司くん……」
「……、…だめ、なんだ…ひとりでしななきゃ、」
「……どうして、そんなに頑なに僕を排除しようとするんだい」
その言葉は、もはや怒りですらなく、深海に沈んでいくような絶望的な溜息となって漏れ出た。
「ひとりで死ななきゃ」……。
それは僕への配慮のつもりかい? 僕を「汚れのない側」に残そうとする、君なりの最後の愛の形だとでも言うのかい?
「……馬鹿なことを言わないでおくれ。君が一人で逝ってしまったら、僕の心には、君が割ったあの皿よりも鋭利で、一生治らない傷跡が残るんだ。それを抱えて生きろと言うなら、それこそが君が僕に与える、最高に冷酷な拷問だよ」
僕は、血の滲む包帯の上から、彼の両手を力任せに握りしめた。
彼の体温が、少しずつ僕の絶望に溶けていく。
「君が何をしても、どれほど自分を汚しても、僕にとっては君だけが『特別』なんだ。……皿を割った君も、料理を焦がした君も、血を流して泣いている君も、全部。全部ひっくるめて、僕が選んだ司くんなんだよ」
僕は、彼の額に自分の額を強く押し当てた。
「……もう、君だけの命じゃない。僕が君に執着した時点で、君の命は僕の所有物でもあり、僕の命は君の地獄の一部になった。……ねえ、わかるだろう? 君が消えれば、僕という存在を支える重力も消えて、僕は宇宙の塵になるしかないんだ」
僕は彼の真っ黒な瞳の奥に、僕という「狂気」を無理やり叩き込むように見つめ続けた。
「死なせない。……もし君がその命を投げ出そうとするなら、僕は全力で君をこの世に繋ぎ止める鎖になる。……自由なんて、もういらない。君を独りにはしない。……一生、この血の匂いが染み付いた部屋で、僕に飼われていればいいんだ。……それが、君の望んだ『永遠』じゃないのかい?」
僕は、彼の頬の傷に、吸い付くように口づけをした。
逃がさない。死という逃げ道さえ、僕が塞いでみせる。
「……ねえ、司くん。僕に……『いってらっしゃい』なんて、二度と言わせないでくれ。……ただいまを言う相手がいない世界なんて、僕は一秒だって耐えられないんだ……」
「……おれなんかにそんなこといって、るいのなんのためになる…?…ほかのひとに、たのめばいいだろ……?」
「……っ、やめろ!!」
視界の端で光った銀色に、僕の思考は真っ白に弾けた。
反射的にその手首を掴み、床に叩きつける。ガシャン、と金属が硬い音を立てて転がったけれど、そんな音なんて耳に入らない。
「他の人に……? 他の誰に頼めと言うんだ!? 代わりなんて、いるわけがないだろう!!」
僕は彼の両手を押さえつけ、馬ウントをとるようにして組み敷いた。
もう、優しく語りかける余裕なんて微塵もない。怒りと、恐怖と、やり場のない愛しさが混ざり合い、僕の理性を焼き尽くしている。
「君じゃなきゃダメなんだよ……! 君が僕を振り回し、僕を壊し、僕の時間を奪い尽くす……その歪な関係の中にしか、僕の居場所はないんだ! 他の誰が、こんな僕を必要としてくれる? 他の誰が、僕の人生をここまで無茶苦茶にかき乱してくれるんだ!?」
僕は彼の真っ黒な瞳に顔を近づけ、叫ぶ。
涙が、僕の頬を伝って彼の顔に滴り落ちる。
「君は『僕のため』なんて言うけれど、それはただの逃げだ。僕を一人にして、自分だけ楽になろうとしているだけだ! ……そんなの、僕が許すと思うかい? 君が僕に植え付けたこの渇きを、君が死ぬことで解消しようだなんて、傲慢にも程がある!」
僕は彼の胸元に拳を叩きつけ、そのまま縋り付いた。
血の匂い、焦げた匂い、そして司くんの、消え入りそうな体温。
「……お願いだ、司くん。僕を……僕を独りにしないでくれ。君がいない世界で正気でいろなんて、そんな残酷なこと言わないでくれ。……君が地獄だと言うなら、僕も一緒に焼かれる。君が化物だと言うなら、僕も人間をやめる。……だから、その刃を僕たちに向けないでくれ……」
僕は、彼の掌に自分の頬を押し当てた。
震える彼の手。その冷たさが、僕の胸を締め付ける。
「……もう、何もいらない。ドリルも、皿も、日常も……全部、捨てていい。……ただ、君がここにいて、僕の名前を呼んでくれればいいんだ。……ねえ、司くん……。僕を、見捨てないでくれ……」
僕は、折れそうなほど細い彼の体を、壊さないように、けれど二度と離さないように、強く、強く抱きしめ続けた。
「……どうして、しなせてくれないんだよ…。…しにたいのに」
「…どうして?……そんなの、決まっているじゃないか」
僕は、肩に埋められた彼の顔を、逃がさないように両腕でさらに強く囲い込んだ。
彼の震えが僕の骨の芯まで伝わってきて、自分の一部が削り取られていくような感覚になる。
「死にたい」というその呟きは、僕に向けられた刃よりも深く、鋭く、僕の胸に突き刺さった。
「……君が死にたいと言っても、僕が君を『生かしたい』んだ。君の意思なんて関係ない。僕が、君を離したくないんだよ。……これは僕の身勝手で、僕の傲慢だ。……君の地獄を、僕が終わらせてあげないのは……僕が、君のいない世界を生きる勇気がない臆病者だからなんだ」
僕は彼の項に鼻を押し付け、その細い首筋から立ち上る、生臭くて切ない匂いを深く吸い込んだ。
「ごめんね、司くん。君がどれほど苦しくても、僕は君をこの泥沼に引き留める。君が自分を嫌いになっても、僕が君を呪いのように愛し続ける。……君を楽にさせてあげるなんて、そんな『優しいこと』、僕には一生かかったってできそうにない」
僕は、彼の背中をあやすように、ゆっくりと、けれど執拗に撫でた。
血に濡れた指がパジャマを汚し、僕たちの境界線がさらに曖昧になっていく。
「……死なせないよ。君が何度絶望しても、僕がそのたびに君を拾い上げる。君が自分の喉を裂こうとするなら、僕がその手を噛みちぎってでも止める。……君の命は、もう君だけのものではないんだ。……僕という怪物を生み出した責任を、死んで逃げることで果たそうなんて思わないでおくれ」
僕は、彼の耳たぶを優しく噛んだ。
痛みで、ほんの一瞬でもいいから、彼の思考が「死」から僕へと引き戻されるように。
「……ねえ、司くん。今日はもう、何も考えなくていい。……掃除も、皿も、全部忘れて。……僕の腕の中で、ただ、生きていて。……それだけでいい。それだけで、僕は救われるんだ……」
僕は彼を抱き上げたまま、血の海のようになったキッチンを後にした。
リビングのソファに彼を横たえ、僕はその上に覆いかぶさる。
「……眠れるまで、ずっとここにいるよ。……君が死を願うなら、僕はその願いが枯れるまで、君に生を流し込み続けるから……」
「……しなせてよ…」
「……嫌だ。絶対に、嫌だ」
僕は壊れた機械のように、その言葉を繰り返した。
君の「死なせて」という懇願は、僕の喉元に突き立てられたナイフよりもずっと、僕の命を削り取っていく。
「死なせてと言われるたびに、僕の心は死んでいるんだよ。……君が死にたいと願うなら、僕はその数倍の力で、君を生かしてやると呪いでもかけるように抱きしめる。……君が楽になる道なんて、僕が全部塞いでやる」
僕は彼の首筋に顔を埋め、まるでそこから彼の命が逃げ出さないように、強く、執拗に吸い付いた。
赤い痕が残る。それは、彼が僕の所有物であり、勝手に消えることを許さないという「刻印」だ。
「……君は、僕を壊したと言ったね? だったら、壊した責任を取ってよ。……こんなボロボロの僕を一人にして、自分だけ無責任に消えようなんて、そんなこと、僕が、僕という人間が許さない」
僕は、血の滲んだ彼の指先を一本ずつ、愛おしむように口に含んだ。
鉄の味が口の中に広がる。それが、僕たちが共に地獄にいる証拠だ。
「いいかい、司くん。君が『死にたい』と言うなら、僕は君が『生きていたくない』と思う理由を、一つずつ僕への依存で塗りつぶしてあげる。……君が自分の価値を見出せないなら、僕が君を『僕の欠かせない部品』にしてあげる。……自由も、自立も、もう二度と言わない。……君は、僕がいないと息もできない人形でいればいいんだ」
僕は顔を上げ、彼の真っ黒な瞳を、至近距離で見つめた。
逃げ場のない、狂気に満ちた愛。
「……ねえ、司くん。一緒に壊れよう。死ぬなんて生ぬるいことはさせない。……生きながら、二人で、ゆっくりと腐っていくんだ。……それが、君への僕の答えだよ」
僕は彼の震える唇を、強引に、けれど泣きそうなほど切実に塞いだ。
「…こわれるくらいなら、しにたいんだ……」
「……、っ……!」
その言葉は、僕が必死に築き上げてきた防波堤を、一瞬で粉砕した。
「壊れるくらいなら、死にたい」
それは、誇り高い君の、最後の、そして最も切実な叫びだったんだね。
僕の腕の中で、自我を失い、ただの「類の人形」として生かされる。それは君にとって、死ぬことよりも恐ろしく、屈辱的なことだったんだ。
僕は、彼を抱きしめていた腕の力を、ほんの少しだけ緩めた。
皮肉なことだ。僕は彼を愛しているからこそ生かしたいのに、僕の愛し方そのものが、彼を死に追いやる毒になっていたなんて。
「……司くん。君は……、どこまで僕を絶望させれば気が済むんだい……」
僕は、力なく笑った。視界が涙で滲み、血と涙が混じって、もう何も見えない。
「君を壊したくない。でも、君を死なせたくもない。……そんな贅沢な願いは、もうこの地獄には残っていないのかい? 僕が君を離せば、君はすぐにでも自分を切り裂いてしまう。……でも、僕が君を繋ぎ止めれば、君の心は死んでいく……」
僕は、彼の頬に優しく、今度は殴ったことを悔いるように、指先で触れた。
「……わかったよ。壊さない。……君を、壊したりなんてしない」
僕は、彼の上から退き、床に座り込んだ。
彼を物理的に拘束することをやめ、ただ、祈るようにその手を取る。
「……死なないでおくれ。その代わり、僕はもう君に何も求めない。……『普通』になれなんて言わない。ドリルも、家事も、自立も……そんな、君を苦しめるだけのものは、全部僕がどこかへ捨ててくる。……君は、ただの『司くん』でいいんだ。僕の横で、何もできずに、ただ怯えていてもいい。……僕がそれを守るから」
僕は、彼の真っ黒な瞳を見つめ、静かに宣告した。
「君を人形にはしない。でも、自由という名の孤独にも戻さない。……僕が、君の『居場所』そのものになる。……ねえ、司くん。壊れる必要なんてないんだ。……僕という器の中で、ただ、静かに揺れていればいい……」
僕は、彼が再び包丁に手を伸ばさないよう、その銀色の刃を遠くへ蹴りやった。
「……今日はもう、おしまいにしよう。血を拭いて、温かい布団に入ろう。……君が明日も生きていたいと思えるまで、僕は何度でも、この夜をやり直してあげるから……」
「るいは、どうしたらおれにしなせてくれるの……。」
その問いに、僕の思考は音を立てて停止した。
「……どうしたら、なんて」
絞り出すような僕の声が、血の匂いの立ち込めるリビングに虚しく響く。
君は、僕から「死への許可」を求めているのか。
僕が首を縦に振らなければ、君は死ぬことさえ自分に許せないのか。そこまで僕に支配され、僕を呪い、そして頼っているのか。
「……そんなの、あるわけがないだろう。僕が、自分の手で自分の心臓を止めるような真似、できるはずがない」
僕は床に膝をついたまま、這いずるようにして彼の元へ戻り、その冷え切った両手を僕の頬で挟み込んだ。
「ねえ、司くん。僕がどうなれば君は満足だい? 君を殺して、僕も死ねばいい? それとも、君が冷たくなっていくのを、僕はただ指をくわえて見ていろと言うのかい?」
僕は、彼の真っ黒な瞳を凝視した。
光を失い、死だけを唯一の救済だと信じ込んでいるその瞳を。
「……君を死なせてあげる方法は、世界中にたった一つしかない。それは、僕が君への愛をすべて捨てて、君をどうでもいい存在だと思うことだ。……でも、それは死ぬよりも難しい。僕が僕である限り、それは不可能なんだよ」
僕は、彼の指先にこびりついた乾きかけの血を、舌でなぞった。
鉄の味が、僕の罪悪感と混ざり合って喉を下りる。
「死なせてなんて、二度と言わないでおくれ。……君がそれを願うたびに、僕は君をさらに深く、逃げられない場所に閉じ込めなきゃいけなくなる。……君を壊したくないと言った僕の言葉を、嘘にさせないでくれ……」
僕は、彼の体に顔を埋め、獣のような嗚咽を漏らした。
僕たちは、どちらかが消えるまで終われない、出口のない円舞曲を踊り続けている。
「……もう、何も言わなくていい。……今は、僕の心臓の音だけを聞いていて。……僕が生きている限り、君も、道連れだ。……絶対に、離してあげないから……」
僕は、彼を抱きしめたまま、眠りに落ちるまでその言葉を呪文のように囁き続けた。
「…もう……いいや…。…るいがいいなら、それでいいよ……。」
その言葉を聞いた瞬間、僕の体から全ての力が抜け、彼の胸元に崩れ落ちた。
「……っ、ああ……。ありがとう、司くん……ありがとう……」
それが、抵抗を諦めた末の「絶望」による受容だと分かっていても。僕の歪んだ独占欲に屈した、あまりにも悲しい服従だと知っていても。それでも、君が僕の隣に「生きて留まる」ことを選んでくれたという事実だけで、僕は救われてしまった。
(……僕は、本当に救いようのない化物だ)
彼から光を奪い、死という逃げ道さえ塞ぎ、泥沼の中に引きずり込んだ。
彼が「もういい」と諦めたことに、安堵して涙を流しているのだから。
「……いいんだ。それでいい。僕が全部決めてあげる。君が何を考えればいいか、何をすればいいか、全部僕が教えてあげるから……」
僕は、彼の血に汚れた細い体を、壊れ物を扱うように、けれど二度と離さないという確かな拒絶を込めて、優しく、深く抱きしめた。
「お風呂に入ろう。……それから、この汚れも全部僕が片付ける。君はただ、僕の隣で眠っていればいいんだよ。……明日の朝、君が起きたとき、今日起きた悪い夢は全部僕が食べておいてあげる」
僕は、彼の真っ黒な瞳にそっと口づけをした。
今はまだ光がなくてもいい。
いつか、その暗闇に僕という毒が馴染んで、僕がいなければ息もできないほどに馴染んでしまえば……。
「……愛しているよ、司くん。世界中の誰よりも、僕が君を愛してあげる。……君を苦しめる自由なんて、もう二度と、君の手には渡さないからね……」
僕は、彼を横抱きにしてゆっくりと立ち上がった。
血の滴るキッチンを後にし、二人だけの「檻」の中へ。
「…だいすき」
「……、っ」
その、消え入りそうなほど微かな囁きに、僕の心臓が大きく跳ねた。
「大好き」──?
あんなにも傷つき、
あんなにも死を望み、
僕に殴られ、
自由を奪われた君が。
──最後に選んだ言葉が……それだったのかい?
あまりにも残酷で、あまりにも甘美な、僕への死刑宣告だ。
「……ああ、僕もだよ、司くん。僕も、狂おしいほどに君を愛している。……君が僕を大好きだと言ってくれるなら、僕は喜んで悪魔にでも、君を閉じ込める檻にでもなろう」
僕は、彼のその一言を噛み締めるように、再び彼を強く抱きしめた。
彼の体から、抵抗の力は完全に失われていた。今はただ、僕の腕の中にその身を委ね、僕の体温を求めるだけの、壊れかけた愛おしい存在。
僕たちが選んだのは、光に満ちた正しい未来じゃない。
血と泥と、歪な執着で塗りつぶされた、出口のない袋小路だ。
…でも、君が「大好き」だと言って僕の隣にいてくれるなら。
そこは僕にとって、世界で唯一の楽園になる。
「……行こう、司くん。温かいお湯で、全部流してあげる。……君の痛みも、僕たちの罪も。……そして明日からは、僕の瞳に映る君だけが、君の真実になるんだ」
僕は彼を抱きかかえたまま、浴室へと歩き出した。
キッチンの床に散らばった皿の破片が、月明かりを浴びて、星のように冷たく輝いている。
それを踏み越えていく僕の足跡は、血で赤く汚れていたけれど、不思議と心は凪いでいた。
(……もう、何も怖くない。君が僕を愛し、僕が君を飼い慣らす。この完璧な地獄を、誰にも邪魔させはしないよ)
「……おやすみ、僕の司くん。いい夢を。……その夢の中に、僕以外の誰一人、入ってこないように……」
静まり返った家の中に、浴室へと続く僕の足音だけが、重く、深く響き渡っていた。