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そして三日後。
壁外調査の朝は、いつもより空気が冷たく感じる。馬の吐息が白く、胸の奥がざわつく。
私は立体機動装置の最終確認をしながら、無意識に兵長の姿を探していた。
「準備はできてるか。」
背後から声が落ちる。
振り向くと、いつもの無表情でリヴァイ兵長が立っていた。
だけどその目は、班員ひとりひとりを確実に見ている。
「はい、問題ありません!」
そう答えると、兵長の視線が一瞬だけ私の装置に向いた。
「ワイヤーの巻きが甘い。戦闘中に絡まるぞ。」
言われて、はっとする。
本当だ。ほんのわずか、整列が乱れている。
「……すみません。」
兵長は何も言わず、私の装置に手を伸ばした。
腰のすぐ近くに、兵長の体が寄る。心臓が嫌でも速くなる。
無駄のない動きでワイヤーを整え、カチリと固定する。
「これでいい。」
「ありがとうございます。」
兵長は軽くうなずくと、低い声で続けた。
「お前は今回前に出るな。後方支援に回れ。」
胸が、少しだけ痛んだ。
「……私、足手まといですか。」
思わず、言葉がこぼれる。
兵長の眉がわずかに動いた。
「違う。」
短い否定。
「お前は周囲を見る目がある。前線より後方のほうがその能力が活きるからだ。」
その言葉に、胸の奥が熱くなる。
評価されている。そう分かるだけで、震えそうになる足が強くなる。
「……了解です。」
出発の合図が響く。馬を駆り、兵団一丸となって壁の外へ飛び出した。
風が頬を切る。この瞬間はいつも、緊張と興奮と恐怖が入り混じり、ぐっと身体に力がこもる。
戦闘は突然だった。
森の奥から現れた奇行種が、予測不能な動きで隊列を崩しにくる。
「右だ!」
兵長の声。
私は後方から信煙弾を撃ち、隊形を修正する。仲間の位置を確認し、叫ぶ。
「左班、上方注意!」
次の瞬間、巨人の腕が振り下ろされる。
——間に合わない。目の前が白くなる。
そのとき。
鋭い風切り音とともに、巨人のうなじが鮮やかに削がれた。
血飛沫の向こうに、小柄な背中。
兵長だ。
「ぼさっとするな!」
振り向きざま、低い声で兵長は言う。
「死にたいのか。」
「……っ、申し訳ありません!」
呼吸が荒い。
兵長は私の肩を掴み、強く引き寄せた。
次の瞬間、別の巨人の腕が私のいた場所を薙《な》ぐ。
距離が、近すぎる。
兵長の腕の中。 一瞬だけ、時間が止まったように感じる。
「戦場で考え込むな。」
耳元で囁く声。冷静で、厳しくて。
でも。
「……無事でよかった。」
小さく、そう聞こえた気がした。
私は顔を上げる。
兵長の目が、真っ直ぐこちらを見ていた。
その瞳に映っているのは、部下としての私。
それでも。
その奥に、わずかな焦りが混じっているように見えた。
「持ち場に戻れ。」
兵長はすぐに距離を取る。
何事もなかったかのように、次の巨人へと飛び込んでいく。
私は唇を噛み、深く息を吸った。
——私は、守られるだけの兵士じゃない。
視界を広く取る。風向き、地形、仲間の動き。
「前方二体、挟み撃ちになります!」
信煙弾を放つ。
兵長が一瞬こちらを見る。わずかにうなずく。
次の瞬間、完璧な軌道で二体を仕留めた。
戦闘は短時間で終息した。帰還の道すがら、兵長が隣に並ぶ。
沈黙。
馬の蹄の音だけが続く。
「……さっきの判断」
不意に兵長が口を開く。
「悪くなかった。」
胸が、跳ねる。
「本当ですか。」
「ああ。お前は視野が広い。そろそろ自覚しろ。」
淡々とした声。
でも、その言葉はどんな褒賞より重い。
しばらくして、兵長が続ける。
「だが」
私は息を呑む。
「自分の命を軽く見るな。」
低い。そして、鋭い。
「お前が死ねば、班の戦力が落ちる。」
合理的な理由。それが兵長らしい。
それでも…
「……兵長は、私が死んでも平気ですか。」
聞いてしまった。
自分でも、なぜそんなことを聞いたのか分からない。
兵長の手綱を握る指が、わずかに止まる。横顔は読めない。
「なに馬鹿なこと言ってるんだ。」
強く、はっきりとそう言った後に
「……平気なわけないだろう。」
ぽつりと聞こえるか聞こえないかくらいの声が落ちる。
「それに、部下を失うのは面倒だ。」
少し間を置いて、付け足す。
私は思わず笑ってしまう。
「……それだけですか。」
「それ以上を望むな。」
ちらりと視線が交わる。
ほんの一瞬。その目が、いつもより柔らかい気がした。
兵舎に戻り、装備を外す。緊張が解けた途端、膝が少し震えた。
「立てるか。」
振り返ると、兵長。
「だ、大丈夫です。」
言った直後、ふらつく。
舌打ち。
次の瞬間、腕を掴まれた。強くて、温かい。
「無理をするなと言ったはずだ。」
距離が近い。戦場よりも近い。
視線が絡む。
心臓の音がうるさい。
「兵長は……」
言葉が詰まる。
「何だ。」
「どうして、そんなに私を気にかけるんですか。」
沈黙。
兵長の目が、ほんの少し細くなる。
「勘違いするな。」
低く、静かに言う。
「俺は班員全員を見る。」
分かっている。それは、兵長として当然のこと。それでも…
掴まれた手が、すぐには離れない。
「だが」
その続きに、息が止まる。
「お前は無茶をしそうで目が離せない。」
胸の奥がきゅっと締めつけられ、思わず下を向く。
「……それは、部下としてですか。」
自分でも呆れるほど、しつこい。
兵長は小さくため息をつく。
「お前は本当に面倒だな。」
でも、声は怒っていない。
むしろ、どこか呆れた優しさが滲んでいる気がした。
「俺の班にいる限り、勝手に死なせはしない。」
その言葉は、命令より強い。
守られている。
そう感じた瞬間、胸が熱くなる。でも同時に、悔しさも湧く。
「……守られるだけじゃ、嫌です。」
兵長の眉がわずかに上がる。
私は顔を上げ、兵長の目を見てまっすぐに言い切る。
「私、兵長の隣で戦える兵士になります。」
兵長は数秒、黙って私を見つめた。
そして、ほんの少しだけ口元が緩む。
「なら、生き残れ。」
短い言葉。
でも、それは、未来を許された証のようだった。
手が、ようやく離れる。冷たい空気が戻る。
それでも、胸の奥に残る温度は消えない。
これは恋じゃない。ただの憧れ。そう思っていた。
でも、戦場で抱き寄せられた瞬間も、 今の視線も。どこか特別だった。
兵長が背を向ける。
「片付けを済ませたら休め。」
「はい、兵長。」
呼び止めたい衝動を、ぐっと飲み込む。
まだ、部下と上官。その距離がある。
でも今日、確かに感じた。
兵長は私を見ている。班員のひとりとして。
それ以上ではない。けれど、いつか、隣に並んで立てる日が来たなら。
そのとき、このぎこちない距離は少しだけ変わるのだろうか。
胸の鼓動を抱えたまま、私は静かに空を見上げた。