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ユカリたちのたどった静かな小川は麓の村の手前で合流し、大きな流れになっていた。白い鴨が優雅に泳いで波立たせ、輝かしき朝日を水面にちらつかせる。水草の匂いが漂い流れてきて、朝の香りを奥深くする。頭上に残る夜の余韻は尾を引いて、朝星が控えめに瞬いていた。
「この爽やかな朝の香りはどこも変わらないんだね」
ユカリは深呼吸をして全身の隅々まで清める。
「朝の香り、ですか」と言ってフロウも空気を嗅ぐ。「石の匂いと大地の匂い、それに黴の匂いでしょうか」
ユカリは一旦呼吸を止める。
「いや、まあ、正確なところは分からないけど。フロウには分かるの?」
「分かっているかどうかは分かりませんが。敏感な方ですね」
二人は川を右手にたどっていく。この川が辺りの自然に調和をもたらしているのだった。大河とはいうべくもないが、恵みの川と呼ばれて人々に大事にされている。
周辺の畑のために灌漑が行われ、生活用水としても村の中へと引き込まれている。それは同時に川の精までもを村の中に引き込む事だ。それゆえに昔からこの村では恵みをもたらす川に感謝し、迷子の川の精をオルトーに戻すための祭りが年に一度春の始まりに開かれる。
「ユカリさんはどういった旅をされているのですか?」とフロウはすでにかなり親し気に話しかけてくる。
無邪気な少年フロウはまだ鼻をひくひくさせているような気がしたが、ユカリは気に留めないようにする。
「ちょっとお使いにね」とユカリは嘘をつく。「その、えっと、大事な薬を買いに行くところなの」
「そうなのですか」とフロウは残念そうに呟く。「でも薬の代金は盗賊に盗まれてしまったわけですね」
そうだった、とユカリは思い出す。嘘に嘘を重ねて収拾がつかなくなってしまいそうだ。かといって魔導書がどうのと話すこともできない。
「うん。でも、のこのこと帰るわけにもいかなくて。それまでは帰れないというか」
「お可哀そうに」とフロウは本当に親身に悩んでくれているようだった。「もしかしたら村長なら何か仕事をあてがっていただけるかもしれません。確信はありませんが」
「ありがとう。そうだね。相談してみるよ」
どちらにしろ、長い旅に先立つものは必要だ。
村にたどり着いた時、ユカリはようやく朝が訪れた実感を得た。夜の間に星明りに清められた新鮮な空気をユカリは思い切り吸い込む。
まるで父母に抱かれる赤子のように南山の麓とオルトー川に挟まれてメハの村はあった。青い山を背にして、青く煌めく川を添え、太陽に白く照り輝く村にやってきた。
オンギの村の住居に比べれば、どれも立派な屋敷のようだ。せいぜいが屋根裏部屋がある程度のオンギの村と違い、二階建て、三階建ての家が軒を連ねている。そもそも軒を連ねるという状態がオンギの村には無かった。建物は木よりも石が多く使われている。遠くに見えた白い屋根と壁も近づいてみれば灰色の様で、山の上から転げ落ちた石が積み上げられて出来ているかのようだった。傾斜の大きい石葺き屋根、隙間に苔の生えた石の壁。
緩やかなりしオルトーの川には年季の入った水車小屋が立ち並び、老婆の回す糸車のようにゆっくりとじっくりと世界の終りまで回っている。砂漠を渡る大隊商も悠々と通り抜けられそうな広々とした通りは古くから石畳で舗装されているようで、時間が削り取った跡のある敷石が無数に整然と並んでいた。
「素敵な村だね」とユカリは素直に感想を述べる。生まれた土地以外に人の住む光景を見るのは初めてだ。
しかし何度も何度も村の人々や義父に話には聞いていたからか、ユカリが思い描いていた空想のメハ村にそっくりなところもあった。幻が実体を得てしまったかのようで、ユカリの中に不思議な感慨が浮かび上がっている。
それに、ジニの語ってくれた物語に出てきたような砂漠に抱かれた翡翠の都や天を衝く塔、神殿の立ち並ぶ大きな町々と違って、荘厳さや不思議さとは無縁なように思われるが、それがユカリにとってはかえって物珍しく感じられた。
考えてみれば当然のことだ、とユカリは納得する。義母の話してくれた物語は遠い彼方にある黄昏との国境の出来事で、すぐそばにあるわけもない。義母が余計に遠い人物になったようで少し寂しくも感じたが、それ以上にユカリの胸の内は歓びに満ち溢れていた。
用水路を超える湾曲した小さな拱橋の裏側を覗き、暁に輝く窓辺に一見無造作に飾られた小石の偶像の着ているちっぽけな服の思いもよらない緻密な模様に感心し、グリュエーと共に走り回る子供たちの歌う不思議なわらべ歌に耳を奪われた。やがてグリュエーはわらべ歌を村中に運び、その日だけは全ての村人が聞き飽きたはずのわらべ歌を何度も口ずさんだ。
ユカリは何か興味深いものを見つけるたびに立ち止まってしまうが、フロウは我慢強くユカリを待った。
「なんだか面白い歌だね」とユカリは言う。鼻歌で真似してみると、不思議な気分に包まれる。
その韻律は山の上の方から吹いてくる報せの響きだ。元気に力の限り遊ぶ子供たちがふと立ち止まり、山の頂を見上げ、何か目に見えないものに対する畏ろしさを抱く時の歌だ。その歌は子供の心の奥に美と畏怖の種を植え、大人になるにつれ忘却の縁から転げ落ちてしまう存在に頭を垂れさせる。子供たちはその奏でに込められた意味も知らぬまま不思議と神秘を歌っていた。
「『羊の川』ですね」と小気味よく石畳を踏みながらフロウは言った。
「それが題名? 不思議な感じ」
ユカリも舌の上でその題名を転がしてみる。不思議で、それでいて確かな実感のある味わいだ。
「物語も伝わっているんですよ」とフロウは語る。「メハの村人が嘘ばかりついていた古い時代に魔女がやってきて呪いをかけ、川が干上がってしまったそうです。そこで三人の正直者が許しを得ようと魔女の住む山へ登り、しかし三匹の羊に変えられてしまう。羊たちは涙を流しながら村へと戻り、道中草を食んだ跡が三本の川になったとか」
フロウの頭の後ろを見つめながら、その歌が歌われた時代にユカリは思いを馳せる。言葉を紡ぐのは人だけだ、とおごり高ぶった時代だ。重ねた嘘の数だけ、石の街は発展し、山や川は人に愛想をつかす。人々は野原に生きた時代を忘れ、石から生まれたかのように石を愛し、尊び、祝福し、額づくのだ。川は干上がり、山は枯れる。そうして初めて人々は自らの紡ぐ言葉とは別の響きが世界に遍く満ちていたことを思い出す。
フロウがちらりと振り返り、大人びた表情でユカリと目が合うと、ユカリの見たことがない古い時代は石畳の隙間に逃げて行った。
「歌を悪く言うつもりはないけれど、ちょっと理不尽な話だね」
「そうですね」とフロウは苦笑する。「教訓と言えるのかは分かりませんが、それ以来、この村では何より正直者と羊が尊重されるようになったとか」
ユカリはどきりとする。嘘はよくない。
「えっと、その、羊はお話の中でしか聞いたことがないなぁ。毛織物は触ったことがあるんだけど」
フロウが振り返る。今度は子供らしい喜びを称えた表情だ。
「良ければ我が家にいらっしゃいますか? 僕は羊飼いなので沢山の羊を飼ってるんですよ」
そうしてフロウが真似した羊の鳴き声は本物と聞き紛うばかりのものだったが、羊の鳴き声を聞いたことがないユカリには分からなかった。
嘘をついたユカリの良心は少し痛んだが、このままメハの村の村長のところまで行くよりは気が楽なように思えた。
親し気で開放的な山腹にいくつか点在する家々はどれも羊飼いの家なのだそうだ。丸太と板で組み上げられた家屋は山に馴染んでいて、その山肌から生まれてきたかのようだ。
早朝の陽光はさんさんと野原に注ぎ、爽やかな風が吹いてきて、グリュエーが対抗するように吹き降りていく。
家と言っても羊小屋に間借りしているようなものだと言ってフロウは笑う。それに羊飼いは季節ごとに山岳を移り住むので、どの家屋も近隣の村に貸し与えられているものなのだという。
淡い緑に染まった山々は羊たちにとってのご馳走なのだろうとユカリは想像する。かつてメハの村に川をもたらした羊たちの子孫が威厳たっぷりに鳴き、魔女に対してユカリの嘘の許しを乞う。あの娘に悪気はなかったのです。誰を陥れたわけでもありません。哀れな乙女に慈悲を。深い山の奥の庵から出てきた魔女はいかにも真面目そうな面持ちで勿体ぶり、ユカリに何かを言う。しかし羊の鳴き声がうるさくて、ユカリには魔女の声がよく聞こえなかった。
フロウの声もよく聞こえなかった。
フロウは出迎えた不躾な態度の羊の一頭一頭の頭を撫で、にこにこと微笑みながらユカリに対して何事か喋っていたのだが、ほとんど何も聞こえない。
羊は百頭近くいるようだ。一塊になって動いている。何頭か山羊も混じっている。山羊はオンギ村でも飼っている家があった。
その群れへと素早い影がさっと走ってくると、羊たちが一目散に逃げだした。耳と尾の長い犬だ。夏を前に毛が抜け始めているのか、フロウの頭みたいにぼさぼさだ。
「牧羊犬の早足です。賢い奴なんですよ」とフロウは笑顔で、主人の元へ駆け寄ってきて全身で喜びを表現するピックを撫で、ピックも桃色の舌を出して全力で尾を振りながら思う存分に撫でられている。
フロウに促され、ユカリも白い腹を撫でさせてもらうと、ピックはやはり嬉しそうだった。
「こんにちは。ピック。よろしくね」
「おう、よろしくな、嬢ちゃん」とピックは言った。
一瞬、ユカリの思考は止まったがやがて動きだし、撫でていた手をゆっくりと離すと、ピックと会話したことをフロウに悟られないよう、万物と会話が可能な魔法少女はその場を静かに離れた。
その間に羊たちがまた調子づいて散らばり、ピックとグリュエーが羊たちの元へと走っていく。
昔は狩猟犬を飼っていたことをユカリは思い出す。それも物心ついた時には老犬で、ユカリが狩りに出る齢になる前に死んでしまったのだった。今まで忘れていたのが不思議なくらい彼女を愛していた。それが死別するということなのかもしれない。ユカリにとって義母はまだ過去の人物ではないが、いずれそうなるのかもしれないと思うと胸に隙間風が吹いたような気分になった。
「羊を初めて見た感想はどうですか?」
ユカリは少し考えて、愛想のいい嘘を心の奥の小さな箱にしまい込む。
「正直に言うと思っていた姿と全然違う。もっと毛深い生き物だと思っていたんだけど」
実際百頭近くいる羊のどれもほとんど丸裸に近い状態だった。
それを聞いてフロウはくすくすと笑う。
「すみません。毛刈りは春先に終わらせてしまったんです。ほとんどの場合、冬を超えて暑くなるまでの間に毛は刈ってしまって売るんです」
「そっか」と呟いてユカリは感心する。考えてみれば当たり前のことだ。「じゃあ、また一年をかけて毛を伸ばしてもらうんだね」
案内されたフロウの住居兼羊小屋は早朝にしては暖かく、ユカリが慣れているのとは少し違う獣臭がしたが、とても心安らぐ草の匂いもまた漂っていた。
「良ければ朝食をご一緒しませんか? あまり豪勢な食事ではありませんが」
「ありがとう。フロウ。でもお願いがあるの。不躾なお願いだとは分かっているんだけど、良ければ少し眠らせてもらえない? 昨夜は全然眠れなくて」
フロウは快く応じてくれた。寝床の準備をし、温めた山羊の乳まで用意してくれた。ユカリの胃も心も温かに満たされた。
「もう臭いを嗅いだりしないでね」と寝台に入る前にユカリは念を押すが、フロウは驚いた表情をした。「君、また嗅ぐつもりだったの!?」
「ええ」とフロウは事もなげに答える。「でも、もう見ず知らずの他人ではないですよね?」
「そうだけど! そうじゃないんだよ。フロウ君。他人の匂いを嗅ぐのは、何というか、礼儀に反する行為なんだよ」
「なるほど。分かりました」とやはりフロウは深く感心した様子で頷く。「覚えておきます」
本当に分かったのだろうか、とユカリは疑いの眼差しを向けるが、フロウは気にも留めない様子で微笑む。
「では、ユカリさん。何か準備をしておきますので、起きたら召し上がってください」と言うフロウの遠い声は辛うじてユカリの耳に届いた。