昼までぐっすりと眠っていた。ユカリは薄暗い部屋で目を覚まし、初めに義父のことを思った。そして思わないように努めた。
昼間の内にこうも深く眠るのはユカリにとってとても久しいことだった。気怠い身を起こし、しばらくぼうっとする。
「おはよう」と誰もいない場所で挨拶するのが当たり前になってきた。
しかしグリュエーからの返事はない。外で吹いているのだろうか、と曇った頭の中でユカリは考える。あるいはこの辺りの山々を吹き抜ける風と逢瀬を重ねているのかもしれない。美しい歌を奏でるグリュエーの元に、生まれた土地も分からない風来坊のつむじ風がやって来て、幾度となく逢瀬を重ね、遂には彼女を荒れ野の向こうへと攫っていってしまう。とはいえ風は気の向くままにあちらへこちらへと吹くもの。初夏の緑風と荒れ野のつむじ風の行く末は、魔導書を探す旅に似て確たるものとは言えないだろう。
改めて魔導書の気配も感じる。今朝からずっと途切れることなく感じているが、少しずつ慣れてしまっていた。再び気配に鋭敏になったのは一度眠って目覚めたせいだろう、とユカリは一人納得する。
フロウの言っていた通り、食事が用意されていた。小さな机に小さな椅子。少年は一人きりで生きているらしい。
そんな小さな机の上に固焼き麺麭と香ばしい乾酪、それに干し肉まであった。おそらく羊肉だろう。突然に転がり込んだ見知らぬ女に対してあまりに親切なもてなしだ。
ユカリは久しぶりに味わい深い食べ物を有り難く食べ、ある程度身だしなみを正し、フロウの姿を探すことにする。家を出ると人懐っこい風が頬ずりしてくる。せっかく梳いた髪も台無しだ。
「おはよう。グリュエー。密会の後みたいにご機嫌だね」
「おはよう。ユカリ。グリュエーは別に普通。よく眠れた? 幸せな夢は見れた?」
「うん。よく眠れた。夢も見れないほどにぐっすりと眠れて幸せだった」そう言うとグリュエーは満足そうに小さなつむじ風を起こした。やっぱりね、とユカリは思った。
フロウのことはすぐに見つけた。青い野原に寝っ転がってピックと楽しそうにじゃれあっている。一通りじゃれ合うと、あちこちに散らばった羊たちに目を向ける。
すると合図も無しにピックは駆けだし、羊の周りで吠え立てる。忠実な仕事ぶりだが、ピック自身はただ歓びに突き動かされているだけのようにユカリには見える。たまにピックが鋭く吠える。吠え声には喜びと誇りが込められている。
そして驚くほどそっくりな声音でフロウが犬の鳴き真似をした。羊の鳴き声もそっくりだったが、これも聞き分けられないほどにそっくりだった。
「おはよう。フロウ。寝床と食事をありが近い近い近い」近づいてくるフロウをユカリは押しのける。「隙あらば嗅ごうとするのやめなさい」
「嗅ごうとなんてしてないですよ。礼儀に反する行為ですからね。僕はただそばで呼吸をしたいと思っただけです」
どうやら本気で言っているらしい。嗅ごうとしたのではなく、匂いを感じ取れる程度に近くで呼吸をしようとしただけ、と。
「どうやら呼吸を禁止した方が良さそうだね」
「死んでしまうのでそれは嫌です」
「それなら人の匂いを嗅ごうとせず、匂いを感じ取れるほど近づくのもやめて」
「分かりました。ユカリさん」とフロウは素直に答えはする。「ところで寝心地と昼食の味はどうでした?」
「どっちも最高だったよ。何だか久しぶりに満たされた気分」
「河原で眠って、焼いた兎の肉だけの食事より良いものを提供できて良かったです」
そう言ってフロウはくすくすと笑った。つられてユカリも笑う。
「別にお世辞じゃないよ」とユカリは念押しする。「それはそうと何か手伝えることはない? 一宿一飯の礼くらいするからね」
うーんと唸りながらフロウは考える。「そうは言っても僕は羊飼いでしかないですからね。この牧草地は危険な崖もないし、見晴らしもいいし、羊があまり遠くに行かないことを気遣うだけでいいので、一年の内で最も楽な季節なんですよ」
「そうなの?」とユカリは残念そうに言った。「何か仕事はないかな。今はなんだか働きたくて仕方がないんだよね」
「普段は何をされているんですか? つまりユカリさんの故郷では」
「狩人だよ」と自信たっぷりにユカリは言う。「あと魔法を少しばかり。いや、まあ、お手伝い程度のものなんだけど」
ユカリのその言葉にフロウは反応せず、羊の群れの方をじっと見つめている。ピックが草むらでごろごろと転がっている。草の倒れ方を見るにグリュエーがピックをからかっているらしい。
「どうかした? フロウ」
「いいえ」とフロウは首を振る。「僕の羊は狩らないでくださいね」と言ってにやりと笑う。
「弓も矢も無くて助かったね」とユカリも言ってにやりと笑う。
しばらくの沈黙の後、フロウが口を開く。「ユカリさんはいつ旅に出られますか?」と寂しげに言った。
「さっきも言ったけど恩返しはしたいんだよね」ユカリは腕を組み、悩ましげに呟く。「かといって恩返しができるまで何宿何飯するつもりだっていう話になってしまうし」
フロウも眉尻を下げてしまう。
「お礼ですか。僕は特に困っていることが無いので……」
「じゃあ魔法はどう?」とユカリは人差し指を立ててくるくると回す。
フロウは首を傾げる。「というと?」
「色々あるよ。例えば、朝の窓辺に幸福が舞い降りる呪文とか、穴熊の巣を見つける呪術とか」
「あの家は言うなれば借家ですし、穴熊は特に……すみません」
「いいの」と言ってユカリはフロウを制する。「私が悪かったんだから。魔法といっても狩りに使えるものしかほとんど覚えてないんだよ。義母さんは色々な魔法を使えたんだけど。そうだ。じゃあ、家畜を肥え太らせる呪術はどう?」
「羊飼いが知らないわけないのに」と笑いながらグリュエーが吹き抜けていったがユカリは無視する。
グリュエーが予想しただろう反応に反して、フロウは目を見開き、輝かせる。
「そんな魔法があるんですか? 最高じゃないですか!」
ユカリは思わず得意顔になっていた。「うん。継続的に使わないといけないけど、簡単だから覚えて使ってみて」
遥か昔に義母のジニに教わった呪術だが、ユカリはきちんと覚えていた。満月の日に採ってきた水を家畜にかけるだけのことだ。注意しなくてはならないのは川などの流れる水では効果が無く、湖やため池の水を使わなくてはならないことだろう。そしてジニが言うには決して人間に使ってはならないということだった。古今東西多くの羊飼いが馬鹿な悪戯をしたために酷い目に遭ったそうだ。
フロウに注意点も含めてきちんと教えたものの、これで恩返ししたものとして去るのはあまりにつれない事だ、とユカリは思いなおす。
そう言われたフロウもやはり困った顔をした。そこへまるで主人の困惑を察してきたかのようにピックが戻ってきた。少し離れすぎた羊を集めていたらしい。フロウはピックをまるで凱旋した英雄のように褒め称える。
「別に構わないのですけど、では今夜は豪勢な食事を作ってもらえませんか?」
ユカリもピックの下あごをくすぐる。
「豪勢な? 何かおめでたいことでもあるの?」
「羊毛を売ったばかりなので、そこそこの蓄えがあるんです」
「それは自分で大事に使いなよ」
「だからユカリさんを歓迎するのに使いたいんです。って言いながら料理を作ってもらうというのもおかしな話ですね。実のところ僕はこれといってまともな料理を作ったことが無いんです」
確かに麺麭と乾酪と干し肉は美味しかったけれど料理というよりも食材か、とユカリは心の中で呟いた。
料理も義母から多くを学んだし嫌いではないがユカリは特別得意にはなれなかった。どちらかといえば義父の方が正確な手順で間違いのない料理を作っていたことをユカリは思い出す。思考を振り払うようにユカリは答える。
「分かった。じゃあ好きな食べ物と予算を教えて。麓の村で買ってくるよ」
「肉が好きです。予算は好きなだけ使ってください」
好きなだけ使っていいわけがないことをお節介にならない範囲で説教し、予算を二人で相談した後、ユカリはいくらかのお金を貰って麓の村へと買出しに降りた。
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