テラーノベル
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夜は長かった。
薬が効いたのか、乃亜はやがて再び眠りについた。
詩乃はベッドの横に座り、その小さな手を握ったまま離れようとしない。
「……代わります」
背後から幸人の声がした。
「少し寝てください」
けれど詩乃は首を横へ振った。
「起きた時、一人だったら怖がると思うので」
幸人は何も言わなかった。
少し前までなら、その言葉さえ何かの演技なのではないかと疑っていたかもしれない。
けれど病院から帰ってきて以来、詩乃はほとんど乃亜のそばを離れていない。
誰かに見せるためではない。
褒められるためでもない。
乃亜が眠っている間でさえ、何度も熱を測り、汗を拭き、呼吸を確かめている。
「……どうして」
幸人の口から、ふいに言葉が零れた。
「どうしてそこまで、この子のそばにいるんです」
詩乃はすぐには答えなかった。
眠っている乃亜へ視線を落とす。
熱で赤くなった頬も、細い指も、まだ三歳とは思えないほど小さな身体も、見ているだけで胸が痛んだ。
「この子は……ずっと一人で、怖い思いをしてきたから」
やがて、詩乃は静かに答えた。
「子どもって、大人が思っているよりずっと我慢してしまうんです。自分が苦しいことさえ、うまく言葉にできなくて……助けてって言えない子もいるから」
その言葉に、幸人の目がわずかに伏せられた。
なぜか脳裏に浮かんだのは、幼い頃の自分だった。
寂しいとも、苦しいとも言えず、何も感じていないふりをしてやり過ごしていた日々。
口にしたところで何かが変わるとは思えず、誰にも気づかれないまま飲み込んだ感情。
――助けてと言えない子もいる。
詩乃の言葉が、自分の中の遠い記憶へ触れたような気がした。
幸人は小さく息を吐き、眠る乃亜へ視線を戻す。
自分は父親でありながら、この子がどれほど我慢していたのか、本当に分かっていただろうか。
そんな考えが一瞬だけ浮かんだが、幸人はそれ以上考えるのをやめた。
ただ、眠りながらも詩乃の手を離そうとしない乃亜の小さな指を、黙って見つめていた。
***
それからどれほど時間が経ったのだろう。
詩乃はベッドのそばに座ったまま、何度も重くなる瞼を擦っていた。
眠ってはいけない。
乃亜の熱を見ていなければ。
そう思っていても、張り詰めていた緊張が少しずつほどけていくにつれ、徹夜の疲労が一気に押し寄せてくる。
乃亜の額へ伸ばしかけた手が、途中で力を失った。
それでも小さな手だけは握ったまま、詩乃は椅子の背へ身体を預ける。
やがて規則正しい寝息が聞こえ始めた。
その様子を見ていた幸人は、静かに立ち上がった。
近くにあった毛布を手に取り、起こさないようそっと詩乃の肩へ掛ける。
詩乃は目を覚まさない。
伏せられた長い睫毛の下には疲労の色が濃く、乃亜の看病に一晩を費やしたことがありありと分かる。
それでも、その寝顔はどこか穏やかだった。
幸人はしばらく、その横顔を見つめていた。
昨夜、自分が問いかけた言葉が頭をよぎる。
『あなたは一体――何を企んでいるんですか』
今も、分からない。
なぜこれほど変わったのか。
何が彼女を変えたのか。
ただ少なくとも、目の前で眠っている女が、誰かに見せるために乃亜のそばへいるわけではないことだけは――少しずつ認めざるを得なくなっていた。
幸人は何も言わず、眠る二人からそっと視線を外した。
***
長かった夜が、ようやく明けようとしていた。
カーテンの隙間から青みを帯びた朝の光が差し込み、薄暗い寝室を静かに照らしている。
詩乃は昨夜とほとんど変わらない姿勢で眠っていた。
ベッドへ身を寄せ、乃亜の小さな手を包み込むように握ったまま。その手だけは、眠りに落ちても離さなかったらしい。
すぐそばでは、幸人も椅子に腰掛けていた。
結局、彼も一睡もしなかった。
やがて、乃亜の瞼がゆっくりと開く。
ぼんやりとした視界の中で最初に捉えたのは、自分の手を握ったまま眠っている詩乃だった。
乃亜の指先が、かすかに動く。
その小さな気配に、詩乃がはっと目を覚ました。
「乃亜?」
すぐに身を起こし、顔を覗き込む。
熱に潤んだ瞳が、まっすぐ詩乃を捉えていた。
「どうしたの? お水飲む?」
問いかけても、乃亜は答えない。
ただ、じっと詩乃の顔を見つめている。
そして、小さな唇がゆっくりと開いた。
「……ま」
詩乃の呼吸が止まった。
胸の奥を、何かが強く打つ。
「……乃亜?」
思わず身を乗り出す。
今のは聞き間違いだったのだろうか。
それとも――。
けれど乃亜はもう一度言葉を発することなく、重たそうに瞼を瞬かせた。
唇がかすかに動く。
何かを伝えようとしているように見えたものの、その続きが声になることはなかった。
やがて安心したように目を閉じ、再び静かな寝息を立て始める。
「乃亜……?」
返事はない。
眠ったのだと分かっても、詩乃はしばらく動けなかった。
――ま。
たった一音。
それだけなのに、胸の内側がじわじわと熱くなっていく。
もし、あの続きを言おうとしていたのなら。
そう思った瞬間、期待してしまう自分が怖くなった。
自分は乃亜の本当の母親ではない。
この子から見えているのは、果穂の顔だ。
それでも乃亜が呼ぼうとしたのが、今ここにいる自分だったのだとしたら――。
詩乃は何も言わず、小さな手を包み直した。
嬉しいのか、苦しいのか、自分でも分からない。
ただ、その手を離したくなかった。
その隣で、幸人もまた何も言わず、眠る乃亜と詩乃を見つめていた。
そして彼の耳にも、確かに残っていた。
乃亜が初めて口にした、その一音が。
コメント
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うわあ…このエピソード、本当に胸がぎゅってなりました。 詩乃が乃亜の手を離さずに看病し続ける姿がもう…。特に「助けてって言えない子もいるから」っていう言葉が、幸人の過去にも触れて、すごく深くて切なかったです。 最後の「……ま」の一音だけでここまで心揺さぶられるの、反則だよ…。期待してしまう自分が怖いって思う詩乃の気持ちも痛いほどわかるし、でもやっぱりその手を離したくないっていう想いに、ただただ泣きそうになりました。 都築さんの描く家族の再生、本当に美しいです🥀🖤
#恋愛
坂颯(さか はやて)
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