・:.。.・:.。.
大阪のオフィス街に沈む夕日を背に、ハマーバックスの入り口のドアがそっと開き、彼が現れた
まるで映画のワンシーンみたいに逆光の中で輝くシルエット、キョロキョと店内を見渡すその姿に、桜の心臓は一瞬跳ね上がった
スーツ姿の彼はいつ見ても完璧だった
やっぱりこうしてみると背が高い!いや、すごく高い!人ごみでも頭いっこ分抜けてる!
広い肩幅に引き締まった腰・・・ジャケットを小脇に抱え、真っ白なビジネスシャツに映えるdunhillのネクタイを片手で緩めながら、カウンターでコーヒーにシロップを入れている・・・
姿勢が良く、まるでモデルのように堂々としている、でもどこか無防備だ、周りの男性と見比べてみても、ジンの存在感は別格だった
店内にいるOL風の女性がチラチラと彼を盗み見ている、ほら、入口の彼女・・・目がハートになってるじゃない、ムッとした桜は心の中でつぶやいた
―ごめんね、OLさん、彼は私に用があるの――
ジンが桜に気付き、コーヒー片手に座っているテーブルに近づいてくる、ゆっくり、でも確実に、桜の胸は高鳴り、まるで鼓動がカフェのBGMを掻き消す勢いだった
ようやく口を半開きにして「推し」に見とれている自分に気づき、慌てて口を閉じて気を引き締めた
色白な桜にとって、緊張や照れはすぐ頬の紅潮となって現れる、どうしようもないこの体質、鏡がなくても今の自分がリンゴみたいに頬を染めているのはわかっていた
深呼吸してなんとか平静を装う、だってこれはビジネス、デートでもなんでもないのよ!それどころかもっと大事な彼の危機を救うためのプレゼンなんだから
ジンがテーブルの前に立ち、椅子を引いて背もたれにジャケットをかける
ネクタイをさらに緩めて軽く微笑んだ、その仕草に、桜の心がまた切なく揺れた、社長室以外で彼を見るのは初めてだ、なんて素敵なの!
「何飲んでるの?僕はアイスラテにした」
クス「私もです」
「そうか・・・資料を読ませてもらったよ・・・とても良く出来ているね」
ジンがタブレットを手に桜の作ったPDF資料をまたじっくりと読んでいる、低く響く彼の声に桜は背筋を伸ばした
「つまり・・・配偶者ビザを取得して『半年後に幸せな離婚』をするために、プラトニックな結婚ってことか、あくまで汚れるのは戸籍だけ、さらにどちらかがこれ以上はやっていけないと思った時のために・・・例えば恋人を作るとか・・・あらかじめ色々話し合いの余地を残しておく・・・取引きにしてはいい案だ」
桜は胸を張って頷いた、よし、第一関門クリアだわ、冷静に・・・ビジネスライクに、彼女はプレゼンを進める
「はい!社長がCEOとして日本でIT企業を運営している場合、今回のビザ更新ミス・・・期限切れや書類不備によるものでは、在留資格の継続が難しくなります、そこで私と国際結婚することによって『日本人配偶者』の在留資格を申請できます、このビザは労働ビザと異なり、就労制限がなく、日本での滞在が離婚しない限りは無期限で可能になります」
彼女は一気に説明して資料の該当ページを指差した、ジンの目が資料から桜に移る、真剣な眼差しに桜の心はまたドキリとした、それでも気を引き締めてなんとか言葉を続けた
「ただ・・・結婚の目的がビザ取得のためだと推測されると、入国管理局は偽装結婚を厳しく審査します。配偶者ビザが発行されるまで、審査官に執拗に調査されるそうです。でも、その審査期間中も社長は今と変わらず日本に滞在できますし、大株主への説得材料としても十分だと思います!」
桜の声は少し弾んでいた、ジンを助けたい、この会社を守りたい、そしてほんの少しだけ・・・彼の一番近い女性として傍にいたい・・・
そんな気持ちが彼女の言葉に熱を帯びさせた、彼はいかにもノリ気じゃないと顔をしかめているけど、しっかりと自分の話を聞いてくれる
ああ・・・そんな誠実な所も好き・・・
ジンは腕を組み、じっと桜を見つめて言った
「しかし、君は・・・確か27歳だったよね?年頃のお嬢さんが、そんな戸籍を汚すようなことをしてもいいのかい?恋人は?」
その質問に桜の心は一瞬緊張した、ジンの目が彼女の表情を注意深く探っている、まるでどんな答えが返ってくるか警戒しているみたいだ、桜の胸に抑えきれない思わず言いたくなる衝動が湧き上がった
―あなたの妻として、私以上の女はいない!―
そう叫びたい気持ちが喉まで込み上げてきた、しかしそんなの絶対言えない、桜はぐっと唇を噛んで冷静な口調を必死で保った
「恋人はいません・・・この年頃だからです」
彼女は小さく笑って肩をすくめた
「実家に帰るといつも見合い話を持ち出されてうんざりしてるんです、故郷の同級生もみんな結婚して子供がいますし・・・女性にとって年頃になっても結婚しないのは、思いがけない世間のプレッシャーなんです、そこで考えて見てください、一度結婚してダメになった女と、一度も結婚せずに一生を終える女なら、世間的にはバツイチの方がまともだと思われるものなんです」
「なるほど・・・」
彼はタブレットをスクロールしながら熱心に資料を読んでいる
「入局監理局では厳密な審査があると書いてるけど?」
桜は深呼吸して笑顔で答えた
「はい、社長!まずは入国管理局の審査に備えて、偽装・・・じゃなくて、完璧な『夫婦』を演じる準備を始めます!どんな質問をされるかネットで調べました、36ページにまとめました」
「どこ?」
「この項目です」
ジンが思わずかかんで桜が指さす書類を見ようと頭を下げた
―ちっ・・・近い―
彼のコロンの香りがハッキリわかる・・・サンダルウッドの自然な香り・・・それでいて少しスパイシーな要素も入っている・・・いつまでも嗅いでいたい香り・・・何だろう?パパの様に髭を剃った後に何か塗ったりしているのだろうか?パパのヤツはおじさん臭くて嫌だったけど・・・この香りはとっても良い匂い・・・雌を引き寄せる香りだ・・・
私みたいな・・・桜はジンに気づかれないように鼻から一杯息を吸った、桜の観察はまだまだ止まらない
この人はすっぴんなのにシミ一つない!韓国の男性は肌が綺麗だとは聞いていたけど改めて間近で見ると本当に綺麗だ
いったい何を食べたらこんなお肌になるの?キムチ?発酵食品は肌を綺麗にするとは言うけれど、彼は毎日キムチを食べるタイプなのだろうか?
お母さんも色白なのだろうか?
私はいつも生理前になると口の周りに吹き出してくるニキビに悩まされているというのに、なんて羨ましい・・・
熱心に資料を見ているジンがこちらを見ないのをいい事に、桜はマジマジと彼を間近で観察し続けた、眼福だ
ちょっと待って!リップを塗っていないのにどうしてこの人の唇はそんな綺麗な桜色なの?赤ちゃんみたいじゃないっ!
世界中の口紅を開発している人にこの人は謝るべきだわ!唇の血色が良くて御免なさいって!
良い男でごーめーんーなーさーーいー!
黙って観察しながら心の中では断崖絶壁に立って、ジンの好きなポイントを次々と大声で叫びたい気分だ
あの唇は温かいのだろうか?冷たいのだろうか?どれぐらい柔らかいのだろうか?ここから見ただけでも何だかフワフワで柔らかそうな気がする
キス・・・したら・・・どんな感じだろうか・・・ってバカ!やめなさい!桜!
桜は綺麗なジンの唇から意思の力を振り絞って視線を引きはがした
その時ジンが顔を上げた、桜はビクッと背筋をシャンっと伸ばした、彼と目が合うだけで胸が震えるほどの恍惚が込み上げてくるのだ
ジンはたしかに一重だが、目の幅がとても広くて大きい・・・瞳は真っ黒、それを縁取る睫がよく見ると短いけどびっしりとアイラインのように生えている、迫力のある三白眼の持ち主だわ
動物に例えるとライオン・・・・ううん、この人は黒豹だわ・・・しなやかでそれでいて雄々しいの・・・
「僕の失態の尻ぬぐいをこんな形で君にさせることにとても心を痛めている・・・でも・・・もしこれが本当に成功したら・・・」
彼の男らしさにうっとりして見つめていた桜はジンが何を言ってるのか最初の方は聞き取れなかった
「僕は君に一生の恩義を感じるよ」
「計画どおりにやれば絶対大丈夫です!」
「君はずいぶん計画性がある人なんだね」
「ハイ!それはもう!一生独身の人生を考えて介護施設に何歳で入るかもシュミレーション済みです!」
「僕も同じ所に入居しようかな」
思わず気負ってスラスラと口から出てしまった冗談に、軽くのってくれている、彼は堅物だと言われているけど決して冗談の効かないタイプではないと桜は確信した
素敵!もっとビジネス以外の砕けた彼を見て見たいわ
それから彼はまた黙りこんで資料をじっくり眺めている
もし断られたら・・・出しゃばった事をしてすいませんでしたと謝って海まで走ろうと思い悩んだ矢先・・・
そしてやっと彼が口を開いた
「率直に言わせてもらうよ、君自身がよく考えて、本当に君にもメリットがあると納得できるなら、僕は真剣にこの「偽装結婚」をお願いしたいと思っている」
「私は今まで通り、ここで暮らして、この会社でアプリ開発をしたいのです、アプリ開発は私の人生です」
「でもこの契約だけでは足りない、君の計画の『半年後に幸せな離婚』が成立した暁には、慰謝料として、報酬一千万、そして君はわが社のCTO(※最高技術責任者)の役職の地位を約束しよう」
「そっ!それは・・・貰い過ぎです!」
桜が目を見開いて言った
「そんなことはない、少ないぐらいだよ、もし今後なにか夫婦生活に不都合や君からの要望があったらその都度、取り決めは「要相談」と言う事でいいかな?こればっかりは僕もやってみないとわからない、僕からも何か君にお願いするかもしれないし・・・」
夫婦生活・・・?私からの要望・・・?
(どうか私を愛してください)なんて言えるわけがない、桜はそんな気持ちは脇に押しやってきわめてビジネスライクな返事をした
「承知しました、それで問題ないと思います」
ジンが胸ポケットからラバー素材の真っ黒なiPhone16を取り出した、スマホケースまでも彼らしい
「僕の連絡先を君のスマートフォンに入れさせてもらってもいいかな?ビジネス用じゃなくて、プライベート用の番号なんだけど」
「もちろん!どうぞ!」
桜は自分のちいかわのケースのiPhoneを取り出し、AirDropを素早く開いた、ジンがそれを共有すると二人のLINEに既読が付いた、桜はいたずらっぽく言った
「これで社長は私の連絡先ゲットですね」
フフッ「ああ・・・光栄だよ」
彼がにっこり笑った・・・笑うと目が線になった!
その糸目最高!
なんて可愛いの!もっと笑わせたくなる、くらっくらしそうな笑顔だ、両方の口角が上がって、無駄な肉のいっさい無い頬にえくぼが現れた
ああっ!たまらない!
桜の背筋に快感の震えが走った、彼の会社に入社してから2年・・・まさかこんな社外で二人で会って、間近で「推し」の彼の情報が次々と更新される
今夜はこれを肴にビールが進みそうだ
人生何があるかわからないものだ、二人の関係は地上と月ほどの距離があると思っていたのに、私は毎夜地上からあの輝く月を見上げるだけ・・・決して手が届かないと思っていたのに
ううん!これは慈善事業よ!困っている彼を純粋に助けたいだけ!決して下心なんてないわ!
・・・たぶん
そう思いながらも、今自分がどんな顔をしているかは想像したくなかった、瞳に星をいっぱいたたえて、うっとり彼に見とれているに違いない
桜は目の前に座っているジンを見つめた、腕組みをした彼は再びニコリともせず硬い表情でタブレットの企画書をじっと読んでいる
ああ・・彼のビジネスシャツのフィット具合が見事すぎて目が離せない、それから肩の広さも・・・シャツの袖を張り詰めさせる上腕二頭筋、決してそれを目立たせるデザインではないのに・・・
桜は思った、淡路島から都会の暮らしに憧れて出て来た、私の恋愛遍歴なんて高校時代に付き合った、元網本の同級生だけ・・・最も付き合うと言っても自転車を押しながら家までの帰り道におしゃべりするだけ、あの頃の自分達はあまりにも幼くて、乏しくて、小学生の恋愛、お粗末そのもの・・・
だったら・・・どうせ半年後には離婚するんだもの
偽りの結婚だとしても、この人の傍で思っいきり楽しんでもいいのでは?きっと偽装婚でもこの人の妻を演じるのは絶対に楽しいだろうし、これからもあの会社でアプリ開発をやって行きたい
「何度も言う様だが・・・もし今回の計画が少しでも君に苦痛を感じさせるようなものなら、辞めてもいいんだよ?」
優しい人・・・桜は首を振った、彼を安心させてあげたい、私は無害だと知って欲しい
「大丈夫です!私はこれからも社長の元でIPアプリ開発に人生を注ぎたいんです!そのためなら半年社長と結婚するぐらい何ともありません!絶対成功します!この計画通りにやればきっと半年後には笑って過ごせていますよ!」
ふぅ~・・・とジンは大きなため息をついてガタンッと立ち上がった
そして彼が左手首にハメている金と銀のロレックス・ディトナを見る、筋肉の浮き出た、焼けた肌の腕をチラリと見ただけで、桜は胃の辺りが「キュン」となった
彼が腕時計を見るという何の変哲もない仕草にこんなにときめくなんて、私はどこかおかしいのかもしれない
今度奈々に私のおかしいオタクポイントを聞いてもらわなきゃ、きっと奈々は笑い飛ばすに違いない
「わかった・・・それじゃ行こう!」
「行こうって?・・・どこにですか?」
ジンが椅子に掛けていたジャケットを肩にかける、そして覚悟を決めた様にじっと桜を見つめて言った
「婚約指輪を買いに」
・:.。.・:.。.
・:.。.・