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第三話 終末の少女
衛宮邸の門前に、死者が立っていた。
いや、死者と呼ぶには、あまりにも生きていた。
銀の髪。
赤い瞳。
白い肌。
雪を人の形にしたような少女。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
かつて、冬の森で笑っていた少女。
かつて、巨人の背に乗って戦場を駆けた少女。
かつて、衛宮士郎が救えなかった少女。
その少女が、五年の時間を越えて、そこに立っていた。
「また会えたね、お兄ちゃん」
声は変わらない。
少し甘くて、少し意地悪で、どこか寂しげで。
あの頃のまま。
だが、違う。
士郎の目は、その違和感を見逃さなかった。
イリヤの右手に刻まれた黒い紋様。
それは令呪ではない。
神紋。
神格契約者だけが持つ、神杯戦争の異常な刻印。
そして彼女の背後に立つ黒い影。
人型でありながら、人ではない。
サーヴァントでもない。
神霊とも違う。
そこにいるだけで、夜の輪郭が薄れていく。
庭木の葉が揺れを止めた。
虫の声が消えた。
風が止まった。
終わりが近づく時、世界は音を失う。
士郎は、そう思った。
「イリヤ……なのか」
ようやく出た声は、自分でも驚くほど掠れていた。
イリヤは小首を傾げる。
「ひどいなぁ。お兄ちゃん、妹の顔を忘れちゃったの?」
「忘れるわけ、ないだろ」
士郎は一歩踏み出しかけた。
その瞬間、セイバーが腕を伸ばし、彼を制した。
「シロウ、下がってください」
「セイバー」
「あれは、イリヤスフィールです。ですが、同時に違います」
アルトリアの声は硬い。
彼女は剣を構えていた。
その姿勢に迷いはない。
だが、士郎には分かった。
セイバーもまた、戸惑っている。
イリヤスフィール・フォン・アインツベルン。
彼女は敵であり、被害者であり、失われた子供だった。
それを剣で斬るという選択は、騎士王にとっても軽いものではない。
遠坂凛は息を呑んだまま、イリヤを見ていた。
「……本当に、イリヤなの?」
「リンまでそんな顔するんだ」
イリヤはくすりと笑った。
「もっと怒ると思ってた。『あんた、どうして生きてるのよ』って」
「言いたいわよ。今すぐ言いたい。でも」
凛の指先が震える。
宝石を握っている。
戦う準備はできている。
けれど、撃てない。
「でも、言ったら本当に認めることになるじゃない」
五年前の戦争は終わった。
そう信じていた。
救えなかったものを抱えたまま、それでも前へ進むしかなかった。
なのに神杯は、そんな彼らの傷口に手を入れ、まだ乾いていない痛みを引きずり出した。
アーチャーは無言だった。
赤い外套の弓兵は、誰よりも冷静にイリヤを観察している。
その目にあるのは警戒。
そして、ほんのわずかな後悔だった。
「衛宮士郎」
アーチャーが低く言う。
「感情で動くな」
「分かってる」
「分かっていない顔だ」
「分かってるって言ってるだろ!」
士郎の声が荒くなる。
その叫びに、イリヤの瞳がわずかに揺れた。
「……お兄ちゃん、怒ってる?」
士郎は息を止めた。
その問い方が、昔と同じだったからだ。
困ったように笑って。
自分が悪いことをしたと知っていて、それでも誰かに許してほしい子供のように。
「怒ってるわけじゃない」
「じゃあ、嬉しい?」
士郎は答えられなかった。
嬉しい。
その言葉は、あまりにも残酷だった。
再会できた。
確かに、会いたかった。
もう一度話したかった。
謝りたかった。
あの時救えなかったことを、ずっと心の奥に抱えていた。
だが今のイリヤは、神杯戦争の参加者としてここにいる。
終末神と契約し、黒い神紋を刻まれ、死んだはずの時間から引き戻されている。
この再会を喜んでしまえば、彼女の死を、彼女の苦しみを、神杯の冒涜を認めることになる。
だから士郎は、何も言えなかった。
イリヤは少しだけ寂しそうに笑う。
「そっか。お兄ちゃんは、やっぱり優しいね」
その背後の黒い影が、ゆっくりと動いた。
輪郭が定まらない。
人の形をしているはずなのに、見ていると目が滑る。
顔がある。
ない。
目がある。
ない。
黒い外套のようなものを纏っている。
けれど、それが布なのか闇なのか、誰にも分からない。
影が一歩、前へ出る。
その瞬間、衛宮邸の門が朽ちた。
轟音はない。
破壊もない。
ただ、門としての役割を終えたかのように、木材が静かに崩れた。
「っ……!」
凛が即座に結界を展開する。
赤い魔術障壁が士郎たちの前に張られた。
だが、その表面が白く濁っていく。
「何これ……魔力を削ってるんじゃない。術式の寿命を終わらせてる……!」
凛は歯を食いしばる。
魔術には構成がある。
起点があり、流れがあり、終点がある。
目の前の黒い影は、魔術を壊しているのではない。
終点を早めている。
生まれたものには終わりがある。
発動した術式には消滅がある。
その当たり前を、無理やり現在に引き寄せている。
「サーヴァリアント……クラス、終末神」
セイバーが呟く。
黒い影は何も言わない。
代わりに、イリヤが笑った。
「この子、あんまりお喋りじゃないの。でもすごく優しいんだよ」
「優しい?」
凛の声が震える。
「あれのどこが優しいっていうのよ」
「終わらせてくれるの」
イリヤは穏やかに言った。
「痛いことも、苦しいことも、寂しいことも、全部」
士郎の胸が軋んだ。
「イリヤ」
「お兄ちゃんはさ、まだ覚えてる?」
イリヤは門の残骸を踏み越え、庭へ入ってくる。
「バーサーカーのこと」
その名が出た瞬間、空気が変わった。
ヘラクレス。
十二の試練を背負った大英雄。
イリヤを守り続けた巨人。
士郎は忘れるはずがなかった。
「ああ。覚えてる」
「バーサーカーはね、最後まで私を守ってくれたよ」
イリヤの声は明るい。
明るいからこそ、痛かった。
「でも、私はバーサーカーを守れなかった。お兄ちゃんも、私を守れなかった」
「……」
「別に責めてないよ。本当だよ。だって、あれは仕方なかったんだもん」
彼女は微笑む。
「でもね、神杯は言ったの。『やり直したいか』って」
凛が息を呑む。
「神杯が、直接……?」
「うん。真っ暗なところで声がしたの。寒くもなくて、痛くもなくて、何もないところ。そこで、声がした」
イリヤは右手の神紋を見つめる。
「『お前の終わりは、本当にお前のものだったか』って」
士郎は拳を握る。
爪が掌に食い込む。
その問いは卑怯だ。
イリヤの人生は、最初から奪われていた。
聖杯の器として作られ、戦争のために育てられ、寿命も未来も削られていた。
そんな彼女に「本当に終わってよかったのか」と問いかけるなど、悪魔の囁きと同じだ。
いや、悪魔より質が悪い。
これは願いのふりをした罠だ。
「イリヤ。神杯はお前を助けたんじゃない。利用してるだけだ」
「知ってるよ」
即答だった。
士郎は言葉を失う。
イリヤは笑ったまま続ける。
「そんなの、知ってる。アインツベルンも、聖杯も、神杯も、みんな同じ。私を器として見る。私の中身なんて見てくれない」
「だったら、どうして」
「だって」
イリヤの笑顔が、少しだけ崩れた。
「もう一回、お兄ちゃんに会いたかったんだもん」
その一言で、士郎は動けなくなった。
責められた方が楽だった。
憎まれた方がまだ耐えられた。
でもイリヤは、会いたかったと言った。
そのために神杯の手を取ったのだと。
「……馬鹿だ」
士郎の声は震えていた。
「そんな理由で、こんな戦争に戻ってくるなよ」
「お兄ちゃんにだけは言われたくないなぁ」
イリヤは、少しだけ昔のように笑った。
「お兄ちゃんだって、誰かを助けるためなら地獄に戻ってくるでしょ?」
言い返せなかった。
まったくその通りだった。
だからこそ、痛い。
自分の在り方が、イリヤを責める資格を奪っている。
セイバーが一歩前へ出た。
「イリヤスフィール。貴女の望みは何ですか」
「望み?」
「神杯に至った時、何を願うつもりですか」
イリヤは瞬きをした。
そして、少し考えるように視線を上げる。
「うーん。そうだね」
彼女は黒い影を振り返る。
終末神は沈黙している。
「全部、終わらせたいかな」
凛の表情が凍る。
「全部って」
「聖杯戦争も、アインツベルンも、魔術師の願いも、英霊の後悔も、神様たちの退屈も。全部」
イリヤは静かに言う。
「みんな、もう疲れてるでしょ?」
その声に、魔力が乗った。
庭の草花が一斉にしおれる。
ただ枯れたのではない。
咲いていた時間を終えた。
葉が役割を終え、茎が役割を終え、根が役割を終える。
終末神の力が、衛宮邸の敷地へ染み出している。
セイバーが剣を構える。
「シロウ、下がってください。交渉は終わりです」
「待て、セイバー!」
「待てません」
アルトリアの声が、わずかに強くなる。
「今の彼女は、世界を終わらせる可能性を持っています」
「でも、イリヤなんだ!」
「だからこそです!」
セイバーの叫びが、夜を裂いた。
士郎は息を呑む。
騎士王の瞳には、怒りがあった。
士郎へではない。
イリヤへでもない。
こんな形で死者を呼び戻し、願いと傷を混ぜ合わせ、再会を戦争の燃料にする神杯への怒り。
「彼女を止めなければ、イリヤスフィールはもう一度利用されます。今度こそ、誰にも救われない形で」
士郎は何も言えなかった。
その通りだった。
イリヤを救いたいなら、イリヤと戦わなければならない。
その矛盾が、士郎の胸を引き裂く。
イリヤは嬉しそうに笑った。
「やっぱりセイバーは優しいね」
「貴女を斬りたくはありません」
「うん。知ってる」
イリヤが右手を上げる。
黒い神紋が淡く光った。
「でも、ごめんね」
終末神が動いた。
速くはない。
ただ、次の瞬間にはそこにいた。
セイバーの目前。
距離という概念が終わったかのように、黒い影が間合いを消した。
「っ!」
セイバーが剣を振るう。
不可視の剣が終末神の胴を捉えた。
だが、刃が止まる。
触れた瞬間、剣にまとわりついていた風王結界の外殻が剥がれ落ちた。
術式の終点を迎えたのだ。
不可視だった剣の一部が露わになる。
黄金の輝き。
星に鍛えられた聖剣の気配が、夜に漏れる。
凛が叫ぶ。
「セイバー、接触し続けちゃ駄目!」
アーチャーが即座に矢を放つ。
投影剣の矢が終末神へ突き刺さる寸前、空中で錆びた。
まだ当たっていない。
だが、矢としての寿命が終わらされた。
鉄は赤く朽ち、魔力は霧散し、矢は地面に落ちる前に塵になった。
「厄介どころではないな」
アーチャーの表情が険しくなる。
「遠距離攻撃も、成立時間を削られる」
凛が宝石を投げる。
青い宝石。
内部に蓄積された魔力が解放され、凍結の術式が広がる。
終末神の足元が凍った。
いや、凍ろうとした。
しかし氷は完成する前に白く砕けた。
凍結という現象の終わりだけが、先に来る。
「本当に最悪……!」
凛が歯噛みする。
終末神は攻撃してこない。
ただ歩いている。
それだけで、周囲のものが終わっていく。
庭石が風化し、結界が消え、魔術が崩れる。
生物に触れればどうなるか。
考えたくもなかった。
セイバーは距離を取る。
不可視の剣を構え直す。
だが、風王結界が完全に再構築されない。
終末神の周囲では、術式の維持が極端に難しい。
ならば、長期戦は不利。
「アーチャー!」
凛が叫ぶ。
「足止め!」
「承知した」
アーチャーの手に、黒白の双剣が現れる。
だが彼は斬りかからない。
双剣を投げた。
干将・莫耶は曲線を描き、終末神の左右から迫る。
終末神は止まらない。
双剣が触れる直前、刃が崩れ始める。
だが、その瞬間。
アーチャーは新たな双剣を手にしていた。
壊される前提。
終わらされる前提。
彼は投影を連続させ、終末神の周囲に剣の檻を作る。
一本が終わるなら、次を生む。
次が終わるなら、さらに次を生む。
終末という概念に対し、無限の贋作をぶつける。
士郎はその光景を見て、息を呑んだ。
自分の魔術の到達点。
壊れることを恐れず、壊れる速度より早く剣を生む戦い方。
アーチャーは終末神を倒しているわけではない。
だが、その歩みをわずかに遅らせていた。
「衛宮士郎!」
アーチャーが叫ぶ。
「見ているだけか!」
士郎の身体が震える。
見ているだけ。
その言葉が突き刺さる。
五年前も、そうだった。
救いたいと思った。
守りたいと思った。
でも、届かなかった。
イリヤは目の前にいる。
もう一度、失うのか。
もう一度、何もできないまま終わるのか。
「――投影、開始」
士郎の魔術回路が熱を帯びる。
右腕は痛む。
神器を受けた反動で、まだ痺れている。
それでも構わない。
骨子を想定。
構成を解析。
材質を複製。
経験を追従。
干将・莫耶。
士郎の両手に、黒白の双剣が現れる。
凛が振り返る。
「士郎、無茶しないで!」
「無茶じゃない」
士郎は前を見る。
イリヤを見る。
終末神を見る。
「イリヤを止める」
セイバーが叫ぶ。
「シロウ!」
「大丈夫だ、セイバー。俺は一人で突っ込まない」
士郎は双剣を構える。
「一緒に戦う」
その言葉に、セイバーの瞳が揺れた。
そして、彼女は頷く。
「はい」
士郎とセイバーが同時に踏み込む。
アーチャーが剣の雨で終末神の動きを縛る。
凛が補助術式を展開し、士郎の足元に魔力の足場を作る。
セイバーは正面。
士郎は側面。
終末神はセイバーへ手を伸ばす。
その腕に触れられれば、鎧の術式が終わる。
肉体に作用すれば、霊基そのものが危うい。
セイバーは触れさせない。
剣の腹で黒い腕を弾く。
だが接触した瞬間、剣にまとった風が剥がれる。
一瞬。
聖剣の光が露わになる。
終末神の影が、その光を見てわずかに揺れた。
「今だ!」
士郎が低く飛び込む。
狙うのは終末神ではない。
その足元。
アーチャーの剣と凛の術式でわずかに遅れている、黒い影の接地部分。
士郎は双剣を地面へ叩き込む。
干将・莫耶は即座に朽ち始める。
だが、完全に終わる前に、士郎は魔力を流し込んだ。
「壊れるなら、壊れろ」
剣が砕ける。
その破片が、終末神の影の中へ散った。
贋作の破片。
意味の薄い、偽物の剣。
終末神はそれを終わらせようとする。
その瞬間、アーチャーが笑った。
「なるほど。少しは考えたな」
砕けた破片が、一斉に再投影される。
影の内部で。
終末神の終わりの力が、破片という無数の対象に分散した。
ほんの一秒。
黒い影の動きが止まる。
その一秒を、騎士王は逃さない。
「はああああああっ!」
セイバーの剣が振り下ろされる。
不可視ではない。
風王結界が剥がれかけ、黄金の光が漏れた聖剣。
その一撃は、終末神の肩口を捉えた。
音はなかった。
ただ、黒い影が裂けた。
裂け目の奥に、星のない宇宙が見えた。
終末神が初めて後退する。
イリヤの表情が変わった。
「……すごい」
驚きと、少しの嬉しさ。
「やっぱりお兄ちゃんたちは強いね」
凛が叫ぶ。
「イリヤ、もうやめなさい! 今ならまだ――」
「まだ?」
イリヤが首を傾げる。
「まだ、何?」
その問いに、凛は言葉を詰まらせた。
まだ戻れる。
そう言いたかった。
だが、本当に戻れるのか。
死んだはずのイリヤが、神杯によって呼び戻された。
終末神と契約し、黒い神紋を刻まれた。
その魂がどこまで本来の彼女なのか。
この身体がどこまで現実なのか。
神杯戦争が終わればどうなるのか。
何も分からない。
だから凛は、嘘を言えなかった。
イリヤは寂しそうに微笑む。
「リンは優しいね。嘘をつかないから」
士郎は前に出る。
「イリヤ。俺はお前を助ける」
「うん」
イリヤは頷いた。
「お兄ちゃんなら、そう言うと思った」
「だから、神杯に願うな。そんなものに頼るな。俺たちが方法を探す」
「方法って?」
「それは……」
「ないよ」
イリヤの声は、優しかった。
優しいから、残酷だった。
「お兄ちゃんはいつもそう。助けるって言ってくれる。でも、どうやって助けるかは後で考える」
士郎の胸に、刃が刺さる。
「それでも、お兄ちゃんは本当に助けようとしてくれる。だから好きだったよ」
「イリヤ」
「でもね」
イリヤの右手の神紋が、さらに黒く輝いた。
「今回は、私も選ぶの」
終末神の裂けた肩が、静かに閉じていく。
再生ではない。
傷という状態が終わった。
だから、元に戻る。
「私はもう、誰かの器で終わりたくない。聖杯の器でも、神杯の駒でもなく、自分で終わりを選びたい」
イリヤは笑う。
「だから、お兄ちゃん」
黒い影が、彼女の背後で広がる。
夜よりも濃い闇が翼のように開いた。
「私を助けたいなら、私に勝って」
終末神の足元から、黒い円が広がる。
庭が消える。
衛宮邸が遠ざかる。
世界が、静かに塗り替えられていく。
凛が叫ぶ。
「固有結界じゃない! 神域展開、来る!」
アーチャーが士郎の前に立つ。
「下がれ。これはまずい」
しかし士郎は下がらなかった。
下がれなかった。
目の前にイリヤがいる。
助けを求めているわけではない。
許しを求めているわけでもない。
戦えと言っている。
自分を一人の敵として、一人の人間として見ろと言っている。
それは、あまりにも苦しい願いだった。
「神域展開」
イリヤが静かに告げる。
「終末庭園・ラグナレム」
世界が終わった。
少なくとも、衛宮邸の庭だけは。
次の瞬間、士郎たちは荒野に立っていた。
空は灰色。
太陽は黒く欠けている。
地平線には倒れた塔が並び、遠くで巨大な鐘が鳴っている。
花はない。
風もない。
ただ、終わりを待つ世界だけが広がっていた。
その中央に、イリヤが立っている。
白い少女は、終末の荒野でひどく美しかった。
背後には黒い神。
その手には、いつの間にか一本の杖が握られている。
杖というには長く、槍というには刃がない。
先端には黒い輪が浮かび、その輪の内側で星が消えては生まれ、また消えていた。
神器。
終わりを告げるための神具。
凛が青ざめる。
「神器開帳……!」
アーチャーが舌打ちする。
「初戦から切るか」
「違うわ」
セイバーが静かに言う。
「あれは完全開帳ではありません。まだ、名を伏せている」
イリヤは杖を撫でる。
「この子の神器はね、全部を終わらせるわけじゃないの」
黒い輪が回る。
「終わるべきものだけを、終わらせるんだって」
士郎は双剣を握る。
「そんな都合のいい終わりがあるか」
「うん。ないよ」
イリヤは笑った。
「だから、間違えるの」
黒い輪が光った。
瞬間、士郎の右手の投影剣が消えた。
破壊ではない。
解除でもない。
投影という行為そのものが、最初から終わっていたことにされた。
「っ……!」
続いて、凛の宝石板が砕ける。
アーチャーの投影剣が半数消える。
セイバーの風王結界が完全に剥がれ落ちる。
黄金の聖剣が、終末の荒野に姿を現した。
イリヤはそれを見て、目を細める。
「きれい」
その言葉は、子供のように純粋だった。
セイバーは聖剣を構える。
「イリヤスフィール。貴女の終わりが貴女自身のものだと言うなら、私たちはそれを否定します」
「どうして?」
「人は、自分の終わりを選ぶためだけに生きているのではありません」
セイバーの声が、荒野に響く。
「誰かと出会い、間違い、傷つき、それでも続いていくために生きている。終わりは尊い。ですが、終わりだけを救いにしてはいけない」
イリヤは黙って聞いていた。
その赤い瞳が、少しだけ揺れる。
「王様みたいなこと言うんだね」
「王でしたから」
「そっか」
イリヤは微笑む。
「じゃあ、王様。私を止めてみて」
終末神が杖を掲げる。
黒い輪が回転し、荒野の空に巨大な円環が浮かぶ。
その内側に、無数の終わりが見えた。
燃え尽きる星。
崩れる城。
閉じられる本。
折れる剣。
眠る子供。
消える名前。
士郎は、その中に一瞬、自分自身を見た。
剣の丘に立ち尽くす未来。
擦り切れた正義。
誰にも救われない背中。
アーチャーの未来。
自分の終着点。
「見るな、衛宮士郎!」
アーチャーが叫ぶ。
だが遅かった。
士郎の膝が揺れる。
終末神の神域は、物理的に殺すだけではない。
相手の終着点を見せる。
お前の道はここに終わる。
お前の願いはここで朽ちる。
お前の理想は、最後には誰も救わない。
そう告げる。
士郎は歯を食いしばった。
吐き気がする。
胸が痛い。
でも、目を逸らさなかった。
「……知ってる」
士郎は呟く。
「そんな未来があることくらい、知ってる」
アーチャーがこちらを見る。
士郎は震える足で立ち上がる。
「それでも、今ここでイリヤを見捨てる理由にはならない」
その言葉に、アーチャーの表情が歪んだ。
怒りでも、呆れでもない。
かつての自分が、まだ折れていないことへの痛み。
セイバーが聖剣を構える。
凛が最後の宝石を握る。
アーチャーが弓を引く。
士郎が双剣を再投影する。
四人は、終末の荒野で並び立った。
イリヤはそれを見て、ほんの少し泣きそうな顔をした。
「いいなぁ」
小さな声だった。
「そうやって並んでくれる人がいるの、いいなぁ」
士郎の胸が締め付けられる。
イリヤは笑顔に戻る。
「でも、私にもいるよ」
彼女は終末神を見上げる。
「この子は、私の終わりを一緒に持ってくれる」
終末神が、初めて口を開いた。
声は、鐘の音に似ていた。
「契約者の願いを確認。終末庭園、第二層へ移行」
凛が叫ぶ。
「まずい、出力が上がる!」
黒い円環から、無数の光が降る。
光というには暗く、雨というには重い。
触れたものの終わりを早める終末の雨。
セイバーが聖剣を掲げる。
「全員、私の後ろへ!」
士郎たちが動く。
セイバーの聖剣から、黄金の光が溢れた。
星の息吹。
人類の祈り。
終末に抗う、選定の剣。
終わりの雨と、星の聖剣が衝突する。
荒野が白く染まった。
その光の中で、士郎はイリヤの声を聞いた。
「ねえ、お兄ちゃん」
声は近い。
でも姿は見えない。
「もし私が勝ったら、今度こそ一緒にいてくれる?」
士郎は叫んだ。
「勝たなくても一緒にいる!」
光の向こうで、イリヤが息を呑む気配がした。
「だから戻ってこい、イリヤ! 神杯なんかに願うな! 終わりなんかに救われるな!」
士郎は叫び続ける。
「俺が助ける! 今度こそ、絶対に!」
沈黙。
そして。
「……ずるいなぁ」
イリヤの声が、震えた。
「そんなこと言われたら、信じたくなっちゃうじゃない」
終末の雨が弱まる。
凛が目を見開く。
「出力が落ちた……?」
アーチャーが鋭く言う。
「契約者の精神が揺らいだ。今なら押し返せる」
セイバーが頷く。
「シロウ!」
「ああ!」
士郎は走る。
聖剣の光が終末の雨を裂く。
アーチャーの矢が黒い円環を撃つ。
凛の宝石が神域の構造点を砕く。
士郎はその隙間を抜け、イリヤへ向かう。
終末神が彼の前に立ちはだかる。
士郎は双剣を構えた。
勝てる相手ではない。
分かっている。
だが、今必要なのは勝つことではない。
一歩でも前に進むこと。
「どけ!」
士郎は双剣を振るう。
終末神の腕が迫る。
触れれば終わる。
その直前、黒い影の腕を黄金の光が弾いた。
セイバー。
「行ってください、シロウ!」
士郎は走る。
イリヤまで、あと三歩。
二歩。
一歩。
手を伸ばす。
イリヤもまた、手を伸ばしかけた。
その瞬間。
空の黒い杯が鳴った。
神域の外から、神杯の鼓動が割り込む。
イリヤの神紋が強制的に輝いた。
「っ、あ……!」
イリヤの顔が苦痛に歪む。
終末神の影が膨れ上がり、士郎を弾き飛ばした。
「士郎!」
凛の声。
セイバーが士郎を受け止める。
イリヤは胸を押さえ、荒い息をついていた。
黒い神紋が、彼女の腕を侵食するように広がっている。
「神杯が……干渉してる……」
凛の声が震える。
「契約者が離反しかけたから、強制補正を……!」
イリヤは涙を浮かべながら笑った。
「ごめんね、お兄ちゃん」
「イリヤ!」
「今日は、ここまでみたい」
終末神が杖を振る。
神域が崩れ始めた。
荒野が剥がれ、衛宮邸の庭が戻ってくる。
「待て!」
士郎が叫ぶ。
イリヤは消えゆく黒い影の中で、いつものように微笑んだ。
「次に会う時までに、ちゃんと考えてきてね」
「何をだよ!」
「私を助ける方法」
士郎は息を呑む。
イリヤは泣き笑いのまま言った。
「『助ける』って言葉だけじゃ、もう届かないよ。お兄ちゃん」
黒い影が閉じる。
イリヤと終末神の姿が消えた。
衛宮邸に、夜の静けさが戻る。
庭は荒れていた。
結界は半壊。
草花は枯れ、門は崩れ、空気には終わりの匂いが残っている。
士郎はその場に膝をついた。
届かなかった。
また、手が届かなかった。
だが、今度は違う。
彼女は完全には消えていない。
彼女は問いを残した。
助ける方法を考えてこい、と。
それは拒絶ではない。
たぶん、最後の期待だった。
「士郎」
凛がそっと声をかける。
士郎は俯いたまま言う。
「凛。調べてくれ」
「何を?」
「神杯から契約者を切り離す方法」
凛は黙った。
簡単に言える話ではない。
相手は神杯。
聖杯を超えた異常儀式。
神格契約を解除する方法など、現代魔術の常識には存在しない。
それでも、凛は頷いた。
「分かった。やるわ」
アーチャーが呆れたように息を吐く。
「また不可能に挑むのか」
「悪いかよ」
「いいや」
アーチャーは空を見上げた。
黒い杯が、まだ冬木の上空に浮かんでいる。
「実にお前らしい」
その声には、ほんの少しだけ優しさがあった。
セイバーは士郎の隣に膝をついた。
「シロウ。私も共に考えます」
「ああ」
「今度こそ、彼女を一人にしないために」
士郎は頷いた。
その時、遠くで轟音が響いた。
地響き。
夜空を揺らす咆哮。
凛が宝石板を見て、顔を強張らせる。
「郊外で大規模戦闘反応。狂化霊基……ヘラクレス級。それに、神格反応が一つ接近してる」
「バーサーカーか」
士郎が立ち上がる。
その名を聞いただけで、イリヤの笑顔が脳裏をよぎった。
彼女を守った巨人。
そして今、この神杯戦争に再び現れているかもしれない大英雄。
だが凛の声は、さらに重かった。
「待って。もう一つ反応がある」
「何だ?」
「サーヴァント反応。剣士クラス。移動速度が異常」
次の瞬間、衛宮邸の外壁の上に、一人の男が立っていた。
金の髪。
軽薄そうな笑み。
だが、その手に握られた剣からは、太陽のような王気が溢れている。
リチャード一世。
獅子心王。
彼は士郎たちを見下ろし、明るく笑った。
「やあ、諸君。実に派手な夜だな!」
セイバーが剣を構える。
アーチャーが弓を引く。
凛が宝石を握る。
士郎は息を整えた。
リチャードは楽しそうに片手を上げる。
「安心してくれ。今夜は敵として来たわけじゃない」
「なら何の用だ」
士郎が問う。
獅子心王は笑みを消した。
その瞳に、王としての鋭さが宿る。
「郊外で、狂戦士が神と戦っている」
その一言で、空気が凍る。
「ヘラクレスか?」
アーチャーが問う。
「おそらくな。だが問題はそこではない」
リチャードは冬木の郊外を指差す。
「あの巨人は、誰かを守っている」
士郎の心臓が跳ねた。
リチャードは続ける。
「白い少女の名を叫びながら、神に挑んでいる」
誰も言葉を発しなかった。
夜の向こうで、再び咆哮が響く。
それは怒りではない。
守るための叫びだった。
イリヤが戻った。
終末神と契約して。
ならば。
彼女を守るために存在した大英雄もまた、神杯によって呼び戻されているのか。
士郎は拳を握る。
行かなければならない。
今度こそ。
「凛」
「分かってる」
凛は立ち上がる。
「でも、士郎。今度は考えなしに突っ込まないで」
「ああ」
士郎は頷いた。
「助ける方法を考える。戦いながらでも」
アーチャーが呆れたように笑う。
「救いようがないな」
「救うんだよ」
士郎は即答した。
セイバーが静かに隣に立つ。
リチャード一世はその様子を見て、満足そうに笑った。
「いいね。実にいい。神も英雄も、願いも呪いも、全部まとめて斬り拓くつもりか」
士郎は空を見上げた。
黒い神杯が、冬木の夜に浮かんでいる。
あれがすべての元凶だ。
イリヤを呼び戻し、終末神と契約させ、死者の願いを戦争に変えた器。
ならば。
「神杯を壊す」
士郎は言った。
凛が目を見開く。
セイバーが静かに息を呑む。
アーチャーは、まるで分かっていたかのように目を伏せる。
リチャードは愉快そうに笑った。
「それでこそだ」
遠くで、ヘラクレスの咆哮が響く。
終末の少女。
守護の巨人。
神杯の呪い。
そして、再び剣を取った者たち。
神杯戦争、第三夜。
この夜から、衛宮士郎の戦いは変わる。
神に勝つためではない。
英雄に並ぶためでもない。
たった一人の少女を、今度こそ終わりから連れ戻すために。
彼は、黒い杯へ剣を向けた。
コメント
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**はる。だわ!** 第3話、めっちゃアツかった……! イリヤの再会シーンから心臓掴まれたわ。「また会えたね、お兄ちゃん」ってあの口調のままなのに、右手に刻まれた黒い神紋がもうね……。 終末神の能力、「壊す」じゃなくて「終わらせる」っていう概念攻撃が新鮮で、しかもイリヤ自身が「終わりを選びたい」って言うのが胸に刺さる。 セイバーの「終わりだけを救いにしてはいけない」って台詞、めちゃくちゃ好き。 最後のヘラクレスの咆哮とリチャード登場でさらに熱量上がったし、士郎が「神杯を壊す」って宣言したシーン、鳥肌立ったわ。 続きマジで待ってる🔥